三田市議会議員 肥後淳三のウェルビーイング(幸せ)日記

幸せな出来事、その日の思いをブログにしたためます。        皆さんと一緒に幸せを追求しましょう!

両親の誕生日の景色

2021年02月25日 | 趣味その他
2月18日、父と母がそれぞれ91歳と90歳を迎えました。
2月20日(土)に両親をお祝いするために兄弟4名、配偶者、孫、ひ孫ら総勢12名が忙しい中集まってきました。
母は、外出ができないため母宅に父親が車椅子に乗り連れられてきました。
それぞれ参加した方からのコメントを始め、両親が子育てしている時代の思い出話に花が咲きました。
昨年の今頃は、父が危篤状態となり、そして昨年末には、母が病床に伏しましたが、今は、両親とも何とか意思疎通が図れる状況にまでなっています。
兄弟姉妹のローテーションで母の面倒を今でも診ていますが、母のまなざしが日一日と優しくなってきていて、ある意味悟ってきているとさえ思えてなりません。

父と母との物語・・・・。
父は、堤防など港湾を建設する土木会社に勤めており、母が住む奄美大島の名音という村落で出会いました。
私もその村で生まれましたが、その後与論島、指宿市、坊津町(南さつま市)へ現場が移転その都度、兄弟姉妹も転校を繰り返しましたが、会社が立ち行かなくなってきたことをきっかけに母方の兄弟姉妹が住む尼崎市に引っ越してきました。
尼崎市に引っ越してきたのが、私が小学生5年(昭和43年)の夏休みでしたが、今でも鹿児島駅から大阪駅への列車の旅を覚えています。確か最初はSLでその後ディーゼル機関車がけん引していたと記憶しています。
昭和40年代の日本が高度経済成長の波に乗っている時代の話ですが、我が家は「貧乏家族」の名がついても良いくらいでした。
父も母も懸命に働き、子供たちを育ててくれました。その背中を見て私たちは育ちました。
PTAの参観日には、父の姿を見たことはありません。子育ては母の役、その母も内職に追われている姿を目の当たりにしていました。
父は昔から思いっきり焼酎をあおっては、飲んだくれていましたが、仕事は至って超真面目でした。
そのような家庭環境で育てられた結果、「自分のことは自分で考えなさい」が生き方のベースになったようです。
両親も残りあとわずかな人生となってきました。私たち子供らから出てきた言葉は、やはり「感謝」しかありません。
一日、一日と今日以上に良くなることはないように感じます。
せめて、母宅で寄り添う時は、昔ばなしに花を咲かせ、笑い声が絶えない様にしたいと思います。

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