謎パーク

いろいろな謎を考える。宇宙とか地球とかに関する謎や中南米謎の古代文明だとか。それとあっちこちの白昼の徘徊夜話だとか。

♪西八王子周辺のお散歩

2016-06-24 13:07:20 | 日記

 今日(2016/3/18)は、自分の地元である西八王子周辺をぶらついてみる。まず甲州街道を突っ切って南浅川へ出、五月橋を渡る。対岸は長房町。あとひと月もすれば河岸の桜がまぶしいくらいだ。

  北へ向かうと龍泉寺の案内板が出ていたのでそれに従いずんずんゆく。やがて着く(着くのは当たり前だとお思いでしょうが、小生のようなド方向音痴にはそれだけでも大いなる悦びなの)。

 このお寺も北条氏照さんがからんでます。なんでもお寺を創始(創建)することを開創(開山)、お寺の創始にあたり経済的な援助を与えることを開基というそうで、このお寺の開基はまさにその氏照さんなんです。氏照さんが開創・開基にからんでいる寺社は八王子中にうんとあります。八王子城のマスコットキャラクターに選ばれているのもむべなるかな(もっともなことであるなあ)。いっそのこと八王子市そのもののマスキャラにしてしまえばいいのに。

   氏照くん

 とはいっても、このキャラがいいというわけじゃないけれど。あまりにも安直に即座につくりすぎたオヤジキャラっていう安っぽさがただよいますなぁ。単なる氏照のマンガ版であって、キャラクターとしての氏照への踏み込みがなってないとゆうか、氏照くんというキャラクターとはなりきっていないというはがゆさがありますなぁ。どなたか創り直されてみては・・・。

 さて、龍泉寺巡りにカムバックして、わお、いきなりのご本尊。

 阿弥陀如来座像で、ど派手なイメージだが、なに仏像の多くは元々はこんな金ピカなのが普通で、奈良の大仏さんなんかも造立当時はそうだった。それが時を経るにしたがい金ピカがはげて今のようなった。東南アジアやインドなどの仏教、ヒンズー教の神々の多くは金色ないしは極彩色で飾り立てられているのが普通だ。

 この像の作者は鎌倉時代の仏師康慶と伝えられている。江戸時代には大本山芝増上寺の所持するところとなっていたが、 かなりいたみが激しかったのか修復されて今の姿に生まれ変わった。当寺が火災に遭って本尊が焼失してしまったとき、当寺が大善寺の末寺であった縁から大善寺第二十二世純譽上人が施主となって働きかけ、増上寺からこの阿弥陀様を勧請して当寺の本尊としたという。

  この寺には弘法大師作と伝えられる聖観世音菩薩像も安置されている。ぽっくり観音と呼ばれて宗派に関わりなく親しまれ、寺もぽっくり寺と呼ばれた。同様に呼ばれる寺はほかにもけっこうあるそうだ。

 永く病気で苦しめられることなく、死ぬときにはぽっくり往生したいという願望を一身に背負った観音様。ご苦労様です。ただこの仏様、秘仏扱いなので写真には撮れなかった。

 さて、この寺からほど近いところにある吉祥院へ向かう。

  モダーンな本堂がお出迎え。

 参拝絵図。では、この絵図にしたがってこのお寺をへ巡っていこう。

 まず弘法大師様から。多摩八十八ケ所霊場の第六十七番だそう。左背後に吉祥天が見える。

 次は吉祥天、禅賦子童子、毘沙門天、百観音霊場巡拝御砂踏(ひゃくかんのんれいじょうおすなふみ)のそろい踏み。百観音霊場巡拝御砂踏の上に立ち(土足厳禁)、御本尊を拝めば日本百観音巡礼の功徳が得られるんだそうだ。

 子安地蔵。後ろに控えしは身代わり地蔵。

 子育て地蔵尊。

 稲荷堂への石段。

 こちらは鐘楼、誰でも自由につけるぞ。

 十五仏の仏様。

 高尾山飯綱(いずな)大権現。鳥居越しに高尾山を見ることができる。

 呆無(ぼけなし)観音二十三夜堂。だけど、この周辺にはボケとは無縁の年少者でも楽しめるオブジェがあちこちにころがっている。トトロコレクションだ。

 呆無観音二十三夜堂から見た高尾山飯綱大権現。そう、この寺院は眺望がとてもよいのだ。

  これが飯綱大権現の鳥居の彼方の眺望。右端にあるのが高尾山。

 上と同じ眺望をお墓越しに撮ったもの。

 のびやかな眺めを満喫できる墓地への入り口には護国観音が。

 墓地からの眺望。

 八王子市のランドマーク、サザンスカイタワーも見える。

 下の写真に見られる背後の木々と右端の建物がなければ、360度の眺望が開けるのかもしれない。

 帰りがけに見かけた本堂前の花祭り。こんなこと言っちゃあ不謹慎かもしれないけれど、いろんな意味でちょいと楽しいお寺だった。

 

 浅川に戻って川沿い近くにある神社をいくつか訪ねてみよう。五月橋まで戻ってそれを渡り、ちょっと上流へ行ったところには三社神社と、そのさらに上手(かみて)へ行った並木町には稲荷森神社がある。今日は三社神社に行ってみる。この神社は住宅街に埋もれてひっそりと建つ。

 三社神社なので三柱の神が祀られているのだろうが由緒は不明。社殿の中をのぞくとお狐さんも三体いた。

 社殿越しに浅川の堤防をのぞむ。

 次は下流方向に向かい千人町にある宗格院へ行ってみる。

 このお寺はまさに八王子千人同心べったり由来の寺です。まず寺の開基(創立援助者)が千人同心の千人頭(100人の同心を束ねる頭。古代ローマの100人隊長みたいなもの)であった山本忠房、開山(開山式をやった僧侶)は忠房の弟の价州良天という坊さん。境内には千人隊事蹟碑(下写真)やら、北海道へ渡って北方警護と開拓に尽くした千人頭(河西佑助)の顕彰碑やらがある。また寺の北側には千人同心拝領の馬場もあった。

 あと、大久保長安が浅川の治水のために現在の並木町から元本郷町にかけて築いた町囲いの堤防(石見土手)の残骸があるというが、本堂の敷地内にあるとかで見ることができなかった。

 これは咳地蔵。宗格院の開基である山本忠房の娘「せき」の供養のため、三百八十年前につくられたという。この「おせき」さんはたいへんな酒好きで、お酒を供えると「咳の病」が治るのだそうだ。地蔵さんの手前に女人らしい像と酒が供えられているから、この女人像が「おせき」さんなのだろう。あ、そうそう肝心の本堂の写真がまだだった。

 さて、次のターゲットは隣町の日吉町にある日吉八王子神社だが、あらあら、もう着いちまったわい。まず、同神社の入り口の鳥居の写真から。

 これは本堂。

 もとは日吉山王社と呼ばれ、大津・坂本にある山王総本宮日吉大社が本社。940年の創建というから相当古い。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に八王子城は陥落するが、そのとき篭城に加わっていた法印島之坊俊盛という山伏が、1595年に八王子権現(明神とも。八王子城のあった深沢山にもともと鎮座していた社)をこの神社に勧請。以来、山王八王子権現と呼ばれ、代々山伏の子孫が宮司をつとめた。明治維新の神仏分離令により現在の社名に変わったんだという。

  これは拝殿の奥の本殿の内部。神社ではこのようにご神体が隠されているので、仏殿のようにご本尊が金堂に安置されていてご本尊を直接拝み見るようなことはできない。

 下はこの神社ならではの「あゆ塚」。

  なんでも江戸時代に、浅川で獲れた鮎を将軍家に献上していたそうで、年々歳々その鮎の長さは4寸(12cm)以上、2525匹にも及んだそうで、その鮎の霊をなぐさめるため、昭和32年(1957)に建立されたんだとか。昔は浅川でどっさり鮎が獲れたんだなぁ。手前の石の天水桶(?)には堂々、後北条氏の三つ鱗の家紋が。

 さてここから甲州街道八王子追分は近いので、そこへ出てみる。甲州街道から陣馬街道が分かれる分岐点だ。ここには追分道標とか千人同心屋敷跡なんてのがある。

 これは追分道標。文化八年(1811)、江戸の足袋職人清八が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てたもので、ここ八王子それから新宿、高尾山麓小名路の三ヶ所にあるという。空襲のときに、四つに折れて一部が行方不明になってしまったものを新しく補って復元したものだという。

 

 これは千人同心の屋敷跡の記念碑と千人同心の説明板。うん、やはり屋敷は本街道の要衝に当たるところに設けられていたんだ。

 さて次はアニメ寺として一部では知られている甲州街道沿いの了法寺へ行ってみる。

 境内に入ってすぐの右側に下のような看板が。

 こんな自販機も。

 まあ、ユニークな趣向だとは思うけど、お寺っていうしばりがあって、~ランドといわれるほどまでには徹底しきれないつらさが痛い。

  これは本堂。まあ、ちょっとつらいところはあるけれど、常識をひっくり返すような本寺院のチャレンジ精神には1票入れたい。

 次は甲州街道の反対側にある興岳寺に行ってみる。

  街道沿いの住宅街にひっそりとたたずむ小さなお寺だ。

 正門から間近に本堂が見える。下は本堂内の写真。緊張のためぶざまにぶれている。

 おいおい、こんな写真載せるなよ、んだってもう出しちゃったんだもん、ね、許してくりゃれ。

 このお寺の売りは石坂弥次右衛門って人のお墓があるってこと。

 もうわかると思うけど、左側の人物がご当人。この面魂(つらだましい)はハンパない。幕末のサムライ。

 「黙らっしゃい! 弾がなければ戦にならぬ」

 徳川家康をまつる日光に籠もる旧幕府軍と板垣退助率いる新政府軍が、戦うかどうかという場面で、弾薬もないなか戦も辞さずという旧幕軍内において、日光勤番八王子千人隊(1866年八王子千人同心から改名)千人頭、石坂弥次右衛門義礼(よしかた)が一喝するところだ。弥次右衛門は大鳥圭介らに諮(はか)って無血開城を決断、旧幕軍は日光を去り、日光は戦火を免れる。だが帰郷後、不戦による降参の責めを負って石坂は切腹。60歳の生涯を閉じる。この時の介錯人はなんと、79歳になる彼の父親だった。

 石坂弥次右衛にはもう一つ「血梅(ちばい)」というほんわかするエピソードがある。

日野市観光協会より転載

 血のように赤いから血梅?。この梅の木は、多摩モノレールの「甲州街道駅」から徒歩14分のところにあるお蕎麦屋「日野宿 ちばい」の庭にある。なんでもこの木は、もともと石坂弥次右衛門の屋敷にあったもので、あの近藤勇が日野宿在住の千人同心・井上松五郎の案内で石坂家を訪れた際、この血梅を見て心打たれ、絶賛したのだという。そこで弥次右衛門は、接ぎ木か取り木の方法で近藤に贈るという約束を交わしたのだが、その後、二人とも悲しい死を遂げてしまい、約束は果たされずじまいとなってしまった。

 石坂家の血梅はその後、昭和20年の八王子空襲で焼け焦げながらも生き残り、接穂によって増やされていた。その一枝を、郷土史家で日野と新選組についても博識をお持ちだった店主のお父上が譲り受け、庭で育てたのだという。弥次右衛門は今でも、新選組ゆかりの日野宿で毎年芽吹いている・・・。

 弥次右衛門の墓。墓前に置かれた線香をあげる台には「日光市」の文字。日光を戦火から救ったことへの感謝の意をこめて日光市から贈られたものだ。かように弥次右衛門は、命をかけて日光を守った救世主として今では大いに顕彰されている・・・はずだが、あれっ、花も線香もあがってねぇじゃねえか。

 さて、番外編として我が西八王子駅近くにましますかの八王子高校の写真を・・・。あの早実、東海大菅生といった強豪に競り勝ってみごと八王子初の甲子園出場を勝ちとった学校です。おめでとう!

 ってことで、今回のお散歩はこれまで。

 

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