Part 1からの続きです。
◆拙の説の結論
さてそろそろ拙の説の結論を述べてゆきます。元春が武蔵国の横山荘に所在する片倉城を拠点として、出羽長井氏の戦後処理に乗り出したのではないかということは前述しました。伊達氏の出羽長井荘への侵攻は1380年に始まり、1385年には出羽長井氏は滅亡しています。この間に元春は東下して片倉城に居を構えたのでしょう(片倉城が当時どんな按配だったか。廃城状態だったのか、それとも城主のいる現役の城だったのかは問わないことにします)。
彼は単に隠居所を求めて単身(たった一人という意味ではありません)東下したまでで、領土的野心はこれっぽっちも無いことを明らかにしたはずです。西国毛利氏の元当主が、横山荘の全体をたばねるような強力な首長がまだ存在しないこんな田舎にやってきたということで、地元では大騒ぎしたはずです。そして地元の土豪はこぞって歓迎の意を評したと思われます。南北朝時代の有力プレーヤーとして活躍した毛利元春の武名はつとに知られていたでしょうし、そんな武将の覚えめでたければ自身の箔づけにはなるし、羽振りもよくなります。権威に弱いのは今も昔も変わりません。そして元春は、もう一つの東下目的を明らかにします。それは出羽長井氏の落ち武者をこの地に引きとるということです。
この横山荘に長井氏を代々名乗る一族がいたのかどうかは不明です。前述の横山荘における長井氏の史料例にもあるように、広園寺の(長井)道広と高乗寺の長井大膳太夫高乗および太田道灌状にある長井大膳太夫広房以外はあまり信を置けるものではありません。そして広園寺と高乗寺の長井氏は師親(元春)あるいは道広であると思われるし、太田道灌状は、師親や道広の時代から100年も後(1480年)に提出されたものです。
やがて出羽長井氏の残党が続々と横山荘に落ちのびてきます。もし長井氏の一族がいれば彼らを保護したかもしれませんが、もしいなければ、残党の彼らがそこに居ついて長井氏を名乗ることに対しては、相当な抵抗が地元の土豪らにはあったのではないか。
横山荘が遠い昔に大江氏に与えられたといっても、同荘に大江氏の誰か(たとえば出羽長井氏の誰か)が本格的に国入りして領経営に着手し、それが代々受け継がれていったという痕跡はなく、伝えられているのは後の横山党による領支配だけで、その横山党も滅亡していて、その後の横山荘の全体をたばねるような強力な首長も不在ということで、横山荘が大江氏領というのはとっくの昔に忘れ去られており、そうでなくとも有名無実と化していて、長井姓を名乗る一族もいなかったと思います。前述の横山荘での長井氏の伝承で信頼に足るものは、広園寺と高乗寺と太田道灌状にまつわるものであり、広園寺と高乗寺については師親と道広に関するものだし、太田道灌状に至ってはそれよりさらに100年後に書かれたものです。
そういう事情のある中で、落ち武者の彼らを今さら長井氏の一族としてこの地に土着させるのはやばい、いつか力をつけて自分らの所領を侵食してくるのではないかという危惧が地元にはあったと思います。だから長井氏を名乗ることなく半士半農的なかたちでひっそり世過ぎをしてほしいと願ったのでしょう。
◆広園寺創建
元春はそんな残党の彼らを片倉城に引きとります。そんな残党の彼らはおそらく、城を出て上記に示すような生業に身を染めていったと思われます。その彼らの中に道広がはたしていたかどうかは問わないことにします。戦死していたかもしれないし、生きていたかもしれません。前述したように横山荘での道広像がなかなか描けず、それにかまけているととんでもない袋小路におちいってしまうので、道広の生死は不問ということにしておきます。
出羽長井氏の敗北が決定的になった1385年頃、広園寺創建の話が持ち上がったのではないでしょうか。元春は出羽長井氏の菩提寺として広園寺創建をこころざしたろうと思いますが、だからといって寺の開基として長井氏を立てれば地元から反発をくらうでしょう。
そこで元春は、自身が開基になることを決意します。毛利氏を名乗るわけにもいかないので、毛利氏、長井氏の総本家である大江姓を称することとし、名前も改名前の師親としたのです。つまり大江師親。そして開基の戒名にはしっかり道広の二字を入れて広園寺殿大海道広大禅定門としました。
さて、寺院の開基者は檀越として寺の敷地・建物を寄進します。敷地については、新編武蔵風土記稿に「足利満兼(実際の施主は氏満)が三百町歩の地を寄進した」とあるので、この土地を当てたのでしょう。また、建設・維持関連の費用は元春が本国(安芸国)から必要なだけ引き出すことができたでしょう。道広が仮に生きていたとしても、落ち武者ですからそうした費用を捻出することはできなかったはずです。峻翁令山和尚行録に、広園寺の檀越は長井道広としてありますが、これは、本来は広園寺が長井氏の菩提寺であり、それを檀越として体現しうるのは道広をおいてほかにはないということを、身内の者に対しては語っていたということではないのか。あるいはまた、上記の満兼(氏満)が三百町歩の土地を寄進したという件は、先に氏満が出羽長井荘での伊達氏侵攻にあたって、道広救援の呼びかけを近隣に対して行ったけれどその甲斐もなく長井氏が滅びたことに対する贖罪の意識の表れだったかもしれません。だからこの土地の寄進は、実質的には道広が檀越として行ったことに等しいということを言いたかったのかもしれません。
◆長井大膳大夫高乗って誰だ
ここで高乗寺について一言しておきます。寺の説明板および武蔵風土記によると、同寺の開基は長井大膳大夫高乗とされています。ここではおおっぴらに長井氏の開基をうたっています。そして、長井氏なのだから大膳大夫高乗は道広であろうというのが通説のようです。
でも、なぜ大膳大夫なんだ、なぜ高乗なんだ、どうして長井掃部頭道広ではないんだ、という疑問が湧いてきます。やはりここには、道広につながる長井氏の役職・名前は出せないという圧力が効いているのではないでしょうか。
そういうおそれのある中で、同寺は1394年に峻翁令山が広園寺に次いで開創した寺であり、広園寺からはかなり離れた位置にあるので、そろそろ長井氏を開基にしても抵抗は少ないであろうと考え、あたりさわりのない架空名として、昔、長井氏(たとえば長井広秀)が中央で名乗っていた大膳大夫という役職名と、尊氏(高氏)由来の高という字をつけた高乗なる名前として開基にしたのではないでしょうか。実際の開基は元春でしょう。
さて、横山荘の地元での元春人気はかなりのもので、寺社の開創就任依頼なども相当数あったと思われます。そして元春のもうひとつのミッション・・・長井氏、というかその仮体としての大江氏の存続にも意をくだきます。仮に道広が生きていたとしたら道広の子を、また没していたなら自身がとった養子を長井氏の仮体としての大江姓を名乗らせて、その係累を絶やさぬこと。
元春=師親は、新編武蔵風土記稿によれば1402年7月29日に没したとされます。生誕日は1323年ですから、79歳頃に横山荘で波乱の生涯を閉じたことになります。なにしろ、曾爺さんの時親が84、5歳まで生きたのですから、時親の薫陶を最も受けた元春にしてみればまずまずの天命だったでしょう。
◆長井氏は戦国時代まで存続
元春がつないだ大江氏(長井氏)の命脈は、1400年代に入ってから史実に現れてきます。あの広園寺の梵鐘の文明三年の銘文に「応仁二年 大旦那大江朝臣広房」とあります。つまり、応仁二(1468)年には大江広房という人物が存在して鐘を寄進したということです。前年の1467年に応仁の乱が勃発して戦国時代の幕が開きますが、まさに戦国時代の劈頭に長井(大江)氏がいたことがわかります。広園寺にゆかりのある人物ですから、ほぼ確実に落ち武者長井氏の子孫でしょう。片倉城を根城にして大江氏を名乗り、ひとかどの豪族(武将)に成長していたと思われます。
この長井広房という人物は、前述の太田道灌状にあるように、1480年頃には扇谷上杉持朝の娘を妻としていました。つまり広房は扇谷上杉氏に属していたわけです。同状には長井大膳太夫広房としてありますが、これは高乗寺の開基長井大膳太夫高乗からの流れでそう称したものでしょう。
扇谷上杉氏というのは、代々、鎌倉公方を補佐する関東管領の職にあった山内上杉氏の分家で、鎌倉の扇谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)に居住したことからその家名が起こりました。一方、本家である山内上杉氏は鎌倉の山ノ内に居館を置いていたためその名があります。
関東は15世紀中頃には、関東管領、鎌倉公方、それに室町幕府をも巻き込んだ三つ巴の激しい内紛・内乱状態にあり、次第しだいに関東での政治上の実権は、上杉氏の手に握られるようになってゆきました。そうした中で、扇谷上杉氏に太田道灌という傑物が登場します。彼の働きで扇谷上杉氏は本家をしのぐほどの勢威を示すようになり、本家山内上杉氏との間に緊張関係が芽生えます。
ところが、扇谷上杉氏の当主上杉定正とこの道灌との主従関係は決して良好なものではありませんでした。特に道灌は「自分の活躍が正当に評価されていない」との不満をあちこちの手紙に書き残していて、先の道灌状もその一つなのです。挙句の果て、定正は道灌を暗殺してしまいます。
太田道灌の本拠、江戸城は定正に奪われてしまいます。道灌亡きあとの太田家は、扇谷上杉氏を離れて山内上杉家を頼ることとなります。このことで扇谷・上杉両家の間にあった緊張関係はいやがうえにも高まり、やがてその対立は戦乱へと発展してゆくことになります(長享の乱 1487-1505年)。
停戦協定や和睦もあったようですが、戦いは長引き、伊豆の北条早雲の扇谷上杉氏への援軍などもあった1504年9月の武蔵国立河原(たちがわら 現東京都立川市)の戦いにおいて、扇谷上杉氏は勝利を治めます。しかしながら翌10月、山内上杉氏は越後上杉氏からの援軍を得て扇谷上杉氏を追い払い、再び立河原付近を制圧、12月には「椚田城(後述)」を攻め落してしまいます。
このように、両上杉氏が内輪もめの内乱にうつつを抜かしている間に、さらに力をつけた新興勢力、あの早雲を祖とする後北条氏が台頭してきて両上杉氏はついに排斥され、関東を支配されるに至るのです。そして扇谷上杉氏は滅び、山内上杉氏は越後上杉氏を頼って越後に逃れ、上杉氏惣家の家督と管領職とを越後上杉氏の当主長尾景虎に譲り、上杉氏を継いだ長尾家は上杉家となって、景虎も後に名を上杉政虎、輝虎と改め、さらに謙信と改めましたが、謙信というのは実名ではなく法名です。
上杉謙信像(上杉神社蔵)
上の山内上杉氏に滅ぼされた扇谷上杉氏の「椚田城」というのは初沢城ともいい、現在の東京都八王子市初沢町(旧上椚田村)にあった山城で、長井氏にまつわる伝承をもっています。山のふもとにはあの高乗寺があります。
初沢城遠景
高乗寺
同戦いで、椚田城の守将だった長井広直(古文書では大江姓)が一族二十数名と共に討死しているそうです。この広直は先の広房の子供なのでしょうか。また、この時、長井八郎なる武将が捕虜となっています。長井八郎と長井広直との関係は不明です。
この消息を最後に横山荘での長井氏の伝承は途絶えます。毛利氏中興の祖「毛利元春」の足跡と「横山荘の長井氏」を追ってきたこの長い旅路もここらで幕を閉じることにします。
☆古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想☆
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