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♪ 南北朝末期、毛利氏中興の祖が東京・八王子にいた?!(Part 2)

2022-03-29 18:26:45 | 日記

Part 1からの続きです。

拙の説の結論

 さてそろそろ拙の説の結論を述べてゆきます。元春が武蔵国の横山荘に所在する片倉城を拠点として、出羽長井氏の戦後処理に乗り出したのではないかということは前述しました。伊達氏の出羽長井荘への侵攻は1380年に始まり、1385年には出羽長井氏は滅亡しています。この間に元春は東下して片倉城に居を構えたのでしょう(片倉城が当時どんな按配だったか。廃城状態だったのか、それとも城主のいる現役の城だったのかは問わないことにします)。
 彼は単に隠居所を求めて単身(たった一人という意味ではありません)東下したまでで、領土的野心はこれっぽっちも無いことを明らかにしたはずです。西国毛利氏の元当主が、横山荘の全体をたばねるような強力な首長がまだ存在しないこんな田舎にやってきたということで、地元では大騒ぎしたはずです。そして地元の土豪はこぞって歓迎の意を評したと思われます。南北朝時代の有力プレーヤーとして活躍した毛利元春の武名はつとに知られていたでしょうし、そんな武将の覚えめでたければ自身の箔づけにはなるし、羽振りもよくなります。権威に弱いのは今も昔も変わりません。そして元春は、もう一つの東下目的を明らかにします。それは出羽長井氏の落ち武者をこの地に引きとるということです。
 この横山荘に長井氏を代々名乗る一族がいたのかどうかは不明です。前述の横山荘における長井氏の史料例にもあるように、広園寺の(長井)道広と高乗寺の長井大膳太夫高乗および太田道灌状にある長井大膳太夫広房以外はあまり信を置けるものではありません。そして広園寺と高乗寺の長井氏は師親(元春)あるいは道広であると思われるし、太田道灌状は、師親や道広の時代から100年も後(1480年)に提出されたものです。
 やがて出羽長井氏の残党が続々と横山荘に落ちのびてきます。もし長井氏の一族がいれば彼らを保護したかもしれませんが、もしいなければ、残党の彼らがそこに居ついて長井氏を名乗ることに対しては、相当な抵抗が地元の土豪らにはあったのではないか。
 横山荘が遠い昔に大江氏に与えられたといっても、同荘に大江氏の誰か(たとえば出羽長井氏の誰か)が本格的に国入りして領経営に着手し、それが代々受け継がれていったという痕跡はなく、伝えられているのは後の横山党による領支配だけで、その横山党も滅亡していて、その後の横山荘の全体をたばねるような強力な首長も不在ということで、横山荘が大江氏領というのはとっくの昔に忘れ去られており、そうでなくとも有名無実と化していて、長井姓を名乗る一族もいなかったと思います。前述の横山荘での長井氏の伝承で信頼に足るものは、広園寺と高乗寺と太田道灌状にまつわるものであり、広園寺と高乗寺については師親と道広に関するものだし、太田道灌状に至ってはそれよりさらに100年後に書かれたものです。
 そういう事情のある中で、落ち武者の彼らを今さら長井氏の一族としてこの地に土着させるのはやばい、いつか力をつけて自分らの所領を侵食してくるのではないかという危惧が地元にはあったと思います。だから長井氏を名乗ることなく半士半農的なかたちでひっそり世過ぎをしてほしいと願ったのでしょう。

広園寺創建

 元春はそんな残党の彼らを片倉城に引きとります。そんな残党の彼らはおそらく、城を出て上記に示すような生業に身を染めていったと思われます。その彼らの中に道広がはたしていたかどうかは問わないことにします。戦死していたかもしれないし、生きていたかもしれません。前述したように横山荘での道広像がなかなか描けず、それにかまけているととんでもない袋小路におちいってしまうので、道広の生死は不問ということにしておきます。
 出羽長井氏の敗北が決定的になった1385年頃、広園寺創建の話が持ち上がったのではないでしょうか。元春は出羽長井氏の菩提寺として広園寺創建をこころざしたろうと思いますが、だからといって寺の開基として長井氏を立てれば地元から反発をくらうでしょう。
 そこで元春は、自身が開基になることを決意します。毛利氏を名乗るわけにもいかないので、毛利氏、長井氏の総本家である大江姓を称することとし、名前も改名前の師親としたのです。つまり大江師親。そして開基の戒名にはしっかり道広の二字を入れて広園寺殿大海道広大禅定門としました。
 さて、寺院の開基者は檀越として寺の敷地・建物を寄進します。敷地については、新編武蔵風土記稿に「足利満兼(実際の施主は氏満)が三百町歩の地を寄進した」とあるので、この土地を当てたのでしょう。また、建設・維持関連の費用は元春が本国(安芸国)から必要なだけ引き出すことができたでしょう。道広が仮に生きていたとしても、落ち武者ですからそうした費用を捻出することはできなかったはずです。峻翁令山和尚行録に、広園寺の檀越は長井道広としてありますが、これは、本来は広園寺が長井氏の菩提寺であり、それを檀越として体現しうるのは道広をおいてほかにはないということを、身内の者に対しては語っていたということではないのか。あるいはまた、上記の満兼(氏満)が三百町歩の土地を寄進したという件は、先に氏満が出羽長井荘での伊達氏侵攻にあたって、道広救援の呼びかけを近隣に対して行ったけれどその甲斐もなく長井氏が滅びたことに対する贖罪の意識の表れだったかもしれません。だからこの土地の寄進は、実質的には道広が檀越として行ったことに等しいということを言いたかったのかもしれません。
 
長井大膳大夫高乗って誰だ

 ここで高乗寺について一言しておきます。寺の説明板および武蔵風土記によると、同寺の開基は長井大膳大夫高乗とされています。ここではおおっぴらに長井氏の開基をうたっています。そして、長井氏なのだから大膳大夫高乗は道広であろうというのが通説のようです。
 でも、なぜ大膳大夫なんだ、なぜ高乗なんだ、どうして長井掃部頭道広ではないんだ、という疑問が湧いてきます。やはりここには、道広につながる長井氏の役職・名前は出せないという圧力が効いているのではないでしょうか。
 そういうおそれのある中で、同寺は1394年に峻翁令山が広園寺に次いで開創した寺であり、広園寺からはかなり離れた位置にあるので、そろそろ長井氏を開基にしても抵抗は少ないであろうと考え、あたりさわりのない架空名として、昔、長井氏(たとえば長井広秀)が中央で名乗っていた大膳大夫という役職名と、尊氏(高氏)由来の高という字をつけた高乗なる名前として開基にしたのではないでしょうか。実際の開基は元春でしょう。
  
 さて、横山荘の地元での元春人気はかなりのもので、寺社の開創就任依頼なども相当数あったと思われます。そして元春のもうひとつのミッション・・・長井氏、というかその仮体としての大江氏の存続にも意をくだきます。仮に道広が生きていたとしたら道広の子を、また没していたなら自身がとった養子を長井氏の仮体としての大江姓を名乗らせて、その係累を絶やさぬこと。
 元春=師親は、新編武蔵風土記稿によれば1402年7月29日に没したとされます。生誕日は1323年ですから、79歳頃に横山荘で波乱の生涯を閉じたことになります。なにしろ、曾爺さんの時親が84、5歳まで生きたのですから、時親の薫陶を最も受けた元春にしてみればまずまずの天命だったでしょう。

長井氏は戦国時代まで存続

 元春がつないだ大江氏(長井氏)の命脈は、1400年代に入ってから史実に現れてきます。あの広園寺の梵鐘の文明三年の銘文に「応仁二年 大旦那大江朝臣広房」とあります。つまり、応仁二(1468)年には大江広房という人物が存在して鐘を寄進したということです。前年の1467年に応仁の乱が勃発して戦国時代の幕が開きますが、まさに戦国時代の劈頭に長井(大江)氏がいたことがわかります。広園寺にゆかりのある人物ですから、ほぼ確実に落ち武者長井氏の子孫でしょう。片倉城を根城にして大江氏を名乗り、ひとかどの豪族(武将)に成長していたと思われます。
 この長井広房という人物は、前述の太田道灌状にあるように、1480年頃には扇谷上杉持朝の娘を妻としていました。つまり広房は扇谷上杉氏に属していたわけです。同状には長井大膳太夫広房としてありますが、これは高乗寺の開基長井大膳太夫高乗からの流れでそう称したものでしょう。
 扇谷上杉氏というのは、代々、鎌倉公方を補佐する関東管領の職にあった山内上杉氏の分家で、鎌倉の扇谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)に居住したことからその家名が起こりました。一方、本家である山内上杉氏は鎌倉の山ノ内に居館を置いていたためその名があります。
 関東は15世紀中頃には、関東管領、鎌倉公方、それに室町幕府をも巻き込んだ三つ巴の激しい内紛・内乱状態にあり、次第しだいに関東での政治上の実権は、上杉氏の手に握られるようになってゆきました。そうした中で、扇谷上杉氏に太田道灌という傑物が登場します。彼の働きで扇谷上杉氏は本家をしのぐほどの勢威を示すようになり、本家山内上杉氏との間に緊張関係が芽生えます。
 ところが、扇谷上杉氏の当主上杉定正とこの道灌との主従関係は決して良好なものではありませんでした。特に道灌は「自分の活躍が正当に評価されていない」との不満をあちこちの手紙に書き残していて、先の道灌状もその一つなのです。挙句の果て、定正は道灌を暗殺してしまいます。
 太田道灌の本拠、江戸城は定正に奪われてしまいます。道灌亡きあとの太田家は、扇谷上杉氏を離れて山内上杉家を頼ることとなります。このことで扇谷・上杉両家の間にあった緊張関係はいやがうえにも高まり、やがてその対立は戦乱へと発展してゆくことになります(長享の乱 1487-1505年)。
 停戦協定や和睦もあったようですが、戦いは長引き、伊豆の北条早雲の扇谷上杉氏への援軍などもあった1504年9月の武蔵国立河原(たちがわら 現東京都立川市)の戦いにおいて、扇谷上杉氏は勝利を治めます。しかしながら翌10月、山内上杉氏は越後上杉氏からの援軍を得て扇谷上杉氏を追い払い、再び立河原付近を制圧、12月には「椚田城(後述)」を攻め落してしまいます。
 このように、両上杉氏が内輪もめの内乱にうつつを抜かしている間に、さらに力をつけた新興勢力、あの早雲を祖とする後北条氏が台頭してきて両上杉氏はついに排斥され、関東を支配されるに至るのです。そして扇谷上杉氏は滅び、山内上杉氏は越後上杉氏を頼って越後に逃れ、上杉氏惣家の家督と管領職とを越後上杉氏の当主長尾景虎に譲り、上杉氏を継いだ長尾家は上杉家となって、景虎も後に名を上杉政虎、輝虎と改め、さらに謙信と改めましたが、謙信というのは実名ではなく法名です。


上杉謙信像(上杉神社蔵)

 上の山内上杉氏に滅ぼされた扇谷上杉氏の「椚田城」というのは初沢城ともいい、現在の東京都八王子市初沢町(旧上椚田村)にあった山城で、長井氏にまつわる伝承をもっています。山のふもとにはあの高乗寺があります。

初沢城遠景

高乗寺

 同戦いで、椚田城の守将だった長井広直(古文書では大江姓)が一族二十数名と共に討死しているそうです。この広直は先の広房の子供なのでしょうか。また、この時、長井八郎なる武将が捕虜となっています。長井八郎と長井広直との関係は不明です。
 この消息を最後に横山荘での長井氏の伝承は途絶えます。毛利氏中興の祖「毛利元春」の足跡と「横山荘の長井氏」を追ってきたこの長い旅路もここらで幕を閉じることにします。

 

☆古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

☆アステカ帝国の興亡と帝国末裔の民が新国家「アストラン」を樹立し、435年後にオリンピックを招致・開催するまでにいたる物語⇒アステカ物語

☆宇宙の謎・地球の謎の迷路をへ巡る謎パーク別館⇒<Sui族館>☆

 

 


♪ 南北朝末期、毛利氏中興の祖が東京・八王子にいた?!(Part 1)

2020-10-09 09:51:18 | 日記

  南北朝時代末期、安芸国(広島県)を本拠とした毛利元就で知られる毛利氏(安芸毛利氏)の中興の祖とされる人物が、武蔵国横山荘(東京都八王子市とその近隣)に転住していたというお話です。この人物の名前は大江師親(おおえの もろちか)。一般には毛利元春として知られています。
 東京都八王子市の、JR中央線西八王子駅からほぼ南側の閑静な一角に南北朝末期創建の古刹「広園寺(こうおんじ)」があります。そしてこれの南東部の湯殿川に沿った丘陵地に片倉城があります。

広園寺

 広園寺は南に面して、総門・山門・仏殿が南北一直線上にあり、中間東方に鐘楼があります。背後には石垣をもって一段高く本堂・庫裏・開山堂が東西に接続しています。江戸時代後期の建築物(総門・山門・仏殿・鐘楼が都有形文化財)を含む禅宗寺院様式の伽藍配置が良く残っています(東京都教育委員会)。南北一直線上の左右には木立がうっそうとしげり、全体として鎌倉時代にタイムスリップしたかのような森厳な思いにかられます。

片倉城

 片倉城は湯殿川と兵衛川に挟まれた小高い丘を利用して造つくられた中世の城跡です。中世の城は、大阪城や姫路城などの現在よく知られている城と違って、中心部分の本丸や二の丸をとり囲む堀や土塁などを自然の地形を利用して造ります。石はほとんど使わず、土を盛ったり掘ったり削ったりして築造します。片倉城の遺構はコンパクトにまとまっており、またふもとには彫刻が展示されていて、長崎の平和祈念像で有名な北村西望氏の彫刻や西望賞を受賞した作品たちが遊歩道に沿って配置されています。

伝承では広園寺の開基および片倉城の在城者は大江師親

 広園寺の縁起や新編武蔵風土記稿によれば、広園寺の開基は大江備中守師親であるとされ、また片倉城の在城者は、新編武蔵風土記稿によれば「應永の頃大江備中守師親在城せり」とあり、また武蔵名勝図会によると、「大江氏が片倉に居城したころ、時々広園寺に参詣し、大門先に馬立場があったといわれている」とあります。また、「大江師親は毛利氏の祖であり、片倉在城は不審」としています(「片倉在城は不審」については後述)。


新編武蔵風土記稿

 
武蔵名勝図会

しかし「大江師親にあらず、長井道広が広園寺の開基である」が通説

 以上の言い伝え史料に基づく説に対して、現今においては「大江師親にあらず、長井道広が広園寺の開基である」とする説が有力です。大正から昭和にかけて多摩地区の郷土史研究に大きな足跡を残した天野佐一郎氏が最初に唱えたらしいです。
 しかし、拙(拙者(拙(つたない)者)の拙で、これからは自分のことを拙と呼ばせていただきます。江戸時代の能天気な若旦那がよくこの語を使っていたようです)は大江師親説をとりたいと思います。前述の武蔵名勝図会の一節に「大江師親は毛利氏の租であり、片倉在城は不審」とあるように、確かに大江師親は毛利氏の礎を築いた人物であり、師親というのは改名前の名前であって、29歳以降は元春を名乗り、安芸国の吉田荘(よしだのしょう 現広島県安芸高田市)を本拠としていました。安芸国にいるはずの人物が武蔵国横山荘(現東京都八王子市とその近隣)の一隅にある広園寺を開基し、片倉城に在城していたなんてオカシイだろうというわけです。師親説の最大の弱点です。
 ま、これに切り込む前に、長井道広説についての弱点・問題点をみていきましょう。

長井道広説の弱点・問題点

1.長井氏の系図上には存在しない人物である
 長井姓を名乗っていますが、長井氏の系図には道広という人物は存在しません。道広のフルネームとして知られているのは長井掃部頭(かもんのかみ)入道道広で、入道道広とあることから道広は法名(ほうみょう)であることがわかりますが、実名は不詳ということなのでますます訳がわからなくなります。
 そもそも長井氏というのは、公家出身でありながら鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の腹心として、守護・地頭制の導入など幕府の草創期に活躍した大江広元を祖とする大江氏の惣領家一族です。
 

大江広元像

 広元の死後、大江氏の惣領家となった次男の時広は、自らが地頭職を有する出羽国長井荘(置賜郡)の領名をとって長井氏を立て、家祖となりました。この時広の子孫の系統が長井氏(大江姓長井氏)です。出羽国に領土をもっていたため出羽長井氏と呼ばれます。そして、広元の四男の毛利季光(すえみつ)を家祖とする系統が毛利氏で、季光の四男経光の四男時親が相続した安芸国(広島県)に領土を有していたのが安芸毛利氏であり、その安芸毛利氏の結束を確固たるものとして安芸毛利氏繁栄の礎を築いたとされるのが毛利元春(改名前の名前は師親)であり、その元春(師親)が武蔵国横山荘の一隅にある広園寺を開基し、片倉城に在城していたなんてオカシイだろう~ということは前述しました。武蔵国横山荘で伝えられる師親は大江姓になっていますが、毛利氏の元春も本姓は大江氏ですから、この大江姓で改名前の名を名乗れば大江師親となります。

2.道広の実在を示す史料がほとんどない
 数少ない道広関連の史料を以下に挙げます。
(1)喜連川判鑑
 関東公方とその後身の古河公方および下野国喜連川藩主喜連川家の系図を記したものです。これの中に「永和四(1378)年 長井掃部頭入道道広 評定衆頭人に補し」とあるそうです。評定衆頭人とは、評定衆から選ばれる引付頭人(所領訴訟の判決を審査するメンバーのリーダー)のことでしょう。


喜連川判鑑 みよしき

(2)伊達正統世次考
 伊達氏代々の事蹟を記したものです。以下は伊達正統世次考の康暦2(1380)年における道広に触れている部分です。

伊達正統世次考(巻1の38コマ目)

 これの左ページを現代文に訳すと、「公(伊達宗遠)、父(行宗)の志を継ぎて、忠を南朝に致し、近郡及近国を伐る。長井掃部頭入道道廣(広)を攻めて、其の地出羽国置民(玉)郡長井荘を取って之に入る。時に鎌倉管領持氏近国の諸将に命じて曰(いわ)く、道廣(広)の本領羽州長井荘以下の所々は、嚮(さき)に京都の命にによりて伊達の悪党を退けられる。然るに彼の輩重ねて違乱に及ぶと聞く。早く道廣(広)に合力して其の知行を全(まっとう)しからしめよ」となります。
 これによると、父の志を継いで南朝(反幕府)方についた伊達宗遠は、長井掃部頭入道道広を攻めて、其の地出羽国置玉郡長井荘を攻略したとあります。さらに続けて、鎌倉管領(関東管領)足利持氏が近国の諸将に「先に伊達氏が羽州の長井荘を攻めた際、京都の命にによって退けられたはずなのに、再び侵略してきた。早く道広に合力してその知行をまっとうさせよ」と命じたとあります(持氏が命じたとあるが、彼は1380年当時にはまだ誕生していない。父満兼も当時はまだ幼なかったので、その父鎌倉公方足利氏満の間違いであろう)。
 おー、道広さんが出てきました。出羽長井氏の領地を知行していたのでしょう。それが南朝方の伊達氏によって奪われたということです。伊達正統世次考のこの記事は1380年の出来事を綴ったもので、この後も伊達氏の長井荘侵攻は続き、1385年には出羽長井氏は滅亡しています。

(3)峻翁令山和尚行録(しゅんのうれいざんおしょう あんろく)
 広園寺開山の峻翁令山和尚の言行を記したものです。これの康応2(1390)年2月の記事として「令山が武州横山に赴いて広園禅院を建立、檀越(だんおつ)長井道広重ねて礼を致し深く志を和尚に通ずる。同寺の建立にあたっては近郷の住民信徒らが相競って協力した」という意味の記述があります。つまり、道広が檀越(施主)として令山和尚と志を通じたとしているわけです。伊達正統世次考では、1380年に羽州長井荘にいて伊達氏に敗れたはずの道広が、ここでは1390年に武蔵国横山荘にいて、檀越として広園寺の建立にたずさわっているということです。

広園寺開山忌での開山様(峻翁令山)境内一巡

4)鎌倉大草紙
 南北朝末期~室町時代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物です。これに、道広が引付頭人に就任した年の20年後に、同じ長井姓で名前に道の字が付くある人物が引付頭人に補せられています。「応永5(1398)年、足利氏満が42歳で逝去。この年満兼(氏満の嫡男)の鎌倉公方就任にあたり、長井掃部助入道道法が引付頭人に補せられた」という記事です。この本の異本には「長井掃部助入道道供」ともあるそうです。道法(供)とは道広、もしくはその子?!


鎌倉大草紙

道広にあらず、師親なり!

 さて、ここからは、武蔵国横山荘の広園寺の開基および片倉城の在城者が大江師親であるという拙の説( ;∀;)を披露してゆきたいと思います。
 伊達正統世次考にいうように、道広が出羽長井氏の領地を知行していたのなら、そして彼が長井氏の一族であるのなら長井氏の系図には当然載っているはず。ただ、道広という法名しか知られていないので、もしかしたら実名として系図上に載っているかもしれないという可能性はあります。ですが、14世紀末に生存したであろう系図上の人物に武蔵国横山荘で広園寺を開くような足跡を残したと推認できそうな者はいそうにありません。いちばんいいのは、系図上の長井氏の面々の法名がわかることなんですが、ネット上で調べた限りでは、候補になりそうな人物についての法名は一部しかわかりませんでした。たとえば長井時広:斎阿、同時秀:西規、同宗秀:道雄・・・。


長井氏系図

 広園寺の大江師親開基を伝える新編武蔵風土記稿によれば、師親の戒名(法名)は広園寺殿大海道広大禅定門といいます。広園寺が臨済宗なのでその戒名の成り立ちは院号・道号・法名(戒名)・位号の順とされています。広園寺殿が院号、大海は道号、道広は法名、大禅定門は位号ということになります。つまり師親の法名は道広ということです。とゆうことは師親=道広! 
 先に挙げた喜連川判鑑、伊達正統世次考等の道広について触れている史料の存在、それに峻翁令山和尚行録における「広園寺建立にあたっては長井道広が檀越(施主)として令山和尚と志を通じた」という記事、そして上述したように広園寺開基の法名が道広であるということ、そしてなにより武蔵名勝図会の「大江師親は毛利氏の租であり、片倉在城は不審」という記事が決定打となって、広園寺の開基は師親に非ず道広なりという説が出たのでしょう。

道広開基説への反論

 さて、ここからが道広開基説への反論です。というか師親開基説の売り込みです。
 まず、広園寺の開基および片倉城在城者、さらにまた周辺の寺社群の開基・創建者として大江師親が伝承されているのに、道広の開基・創建を伝える寺社や城の史料はほぼ無い、というのはどう説明するのか、という大問題があります。
 道広が開基したことを記すほぼ唯一と思われる説明板が、片倉城鎮守の神を祀った住吉神社の境内に通ずる階段下にあります。以下がそれで、同神社の由緒を記しています。

住吉神社の由緒書き(2022/2/11撮影)

 この説明の出どころは今ひとつはっきりしないのですが、それらしい資料はあります。「川幡一郎著 片倉物語」という片倉町在住の方の著作です。この本の住吉神社に触れた部分を引用します。 まず1つ目は、この神社の旧棟札に

応安五年七月十六日
棟札  住吉大明神
城主 備中守師親

 と記されているということです(ただし棟札の実在は確認されていない)。2つ目は、慶安2年(1649年)六月寺社奉行に提出の書(片倉川幡宗党所有文書)中の神社の境内や建物の大きさに触れた部分に

城主長井大膳大夫勧請

という1行があるということです。
 神社の棟札から、神社落成の日付「応安五年(1372年)七月十六日」だけをとり、また慶安2年(1649年)六月寺社奉行に提出の書より、神社を勧請したのは「城主長井大膳大夫」ということで、これに「道広」をくっつけることにより(まさにいいとこ取りです)先の説明板の由緒書きができたのかもしれません。しかし、道広は大膳大夫ではなく先述したように掃部頭です。それから、気になるのは棟札と寺社奉行に提出の書とが同時代のものではなく、両者の間に277年もの隔たりがあることです。
 神社の棟札にある施主名は(片倉)城主 備中守師親であり、寺社奉行に提出の書では「城主長井大膳大夫勧請」とされているので、備中守師親と長井大膳大夫とは同一人であり、さらに師親=道広を前提とすれば説明板の由緒書きができあがることになります。
 さて、この説明板にはまだ変なところがあります。まず冒頭の「鎌倉管領~」の部分。喜連川判鑑にあるごとく道広が評定衆頭人(引付頭人)に就任したことは伝えられていても、鎌倉(関東)管領になったという事実はありません。次に道広の名乗り。長井大善大夫道広としてあります。長井氏はその祖大江広元以来、大膳大夫の役職に就く者は存在しますが、大善大夫というのはいません。それに上述したように道広の役職名は掃部頭(かもんのかみ)であって、大善大夫ではありません。
 こういう説明板を信じることができますか? ちなみに、東京都神社名鑑による片倉住吉神社の由緒によれば、「室町時代初期の山城であるが、時の城主毛利備中守師親公が、摂津国住吉神社を勧請され城の鬼門除けとして建立した」とあります。また、新編武蔵風土記稿による片倉住吉神社の由緒によれば、「語り傳に當社は古へ大江備中守師親在城せしころの守護神なり」とあります。
 長井道広という姓名を名乗る人物の伝承は、前述の広園寺にまつわる峻翁令山和尚行録に「檀越長井道広重ねて礼を致し深く志を和尚に通ずる」とあるのと、伊達正統世次考の中で触れられている記述以外ほとんどありません。この住吉神社の説明板はその稀有な例なのですが、とてもまっとうな史料とはいえません。
 どうしてこのような不思議な説明板がまかり通っているのでしょう。神社の由緒書きをそのまま写したのでしょうか(それなら神社の由緒書きに罪があります)。ほとんど個人的な思い込みでわりあい最近に書かれたもののような気がします。

足利氏満さんが・・・

 鎌倉(関東)管領という言葉が上に出てきたので、この管領にからんだ誤記の例を以下に挙げてみます。
 前述の伊達正統世次考に、鎌倉管領持氏が近国の諸将に、伊達氏に攻略された道広を助けよと命じたというくだりがありましたが、この鎌倉管領も正確には関東管領でしょうし(もっとも当時としては鎌倉管領といったほうが通りがよかったのかも)、関東管領としてもその後の持氏が誤っています。持氏はその当時はまだ誕生していず、父満兼も当時はまだ幼なかったから、その父足利氏満の間違いであろうことは先に述べましたが、氏満は鎌倉公方(あるいは鎌倉御所ないしは鎌倉殿)であって関東管領ではありません(もっとも氏満の父基氏までは彼ら足利氏が関東管領と呼ばれ、基氏の死後に足利氏は公方を名乗り、関東管領には上杉氏が代々就任したともいいます。よって地方ではまだ足利氏を管領と呼ぶ風習が残っていたかもしれません)。
 もうひとつは新編武蔵風土記稿にあるもので、広園寺の開創にあたって、関東管領足利満兼が大壇越となって三百町歩の土地を寄進した、という記述です。ここには関東管領足利満兼とありますが(実際の関東管領は上杉憲方ですが、まあ足利氏を管領と呼んじゃうのは先ほどの地方における誤習であるとして)、足利満兼は当時まだ12~3歳ぐらいですから、正しくは満兼の父氏満でしょう(あるいは氏満が満兼名義で寄進したとか)。
 また、先ほどの住吉神社境内の説明板の記述にしても、1372年に鎌倉管領である道広が勧請したとしてありますが、これは、鎌倉管領≠道広なのでもちろん間違いなのだけれど、1372年当時の鎌倉府のボスも氏満です。
 さて、管領にからんだ誤記の例をいくつか挙げてきたけれど、そのすべてが鎌倉公方足利氏満の代なのです。これは偶然でしょうか?


足利氏満像

 Wikipediaによると、氏満は関東の親幕府派や南朝方の武家などを攻撃して自己の権力拡大に結び付ける路線をとり、新田氏や小山氏、小田氏、田村庄司氏などを次々と討伐していったといい、特に小山氏の乱においては北関東有数の名門武家であった同氏を徹底的に滅ぼして、関東管領上杉氏や関東の有力武家たちに対する牽制とした、とあります。下野(しもつけ)の豪族である小山氏は、氏満の制止を振り切って内乱を引き起こした罪を問われたのです。氏満は1392年には将軍義満の命で陸奥や出羽の統治も任されました。それに先立つ1380年には、前記「伊達正統世次考」に記されているがごとく、出羽国で伊達氏に攻めつけられている道広への救援を近国の諸将に向けて命じています。それにも関わらず最終的には出羽長井氏は伊達氏に滅ぼされてしまいます。
 このように関東や陸奥、出羽あたりを力づくで支配しようとした氏満に対しては、当該地域から相当反発をくらい、かつ恐れられていたと思われます。こうした氏満への反発・恐れの感情が氏満の名を表へ出すのをはばからせ、氏満の子や孫の名で代用させたのではないか・・・

やっと毛利元春の登場

 ちょっと寄り道してしまいました。本題に戻りましょう。道広開基説の最大の根拠は武蔵名勝図会にある「大江師親は毛利氏の租であり、片倉在城は不審」という記事です。つまり師親にアリバイが成立しえないという点です。師親開基説は誤伝だというわけです。
 しかし拙は、安芸にいたはずの元春は、武蔵国横山荘にもいて、大江師親を名乗っていたということを証してゆきたいと思います。
 まず元春についてみてゆきたいと思いますが、その前に毛利氏について少し言及させてください。


毛利氏・長井氏家紋
(大江氏の一族は「一文字に三つ星」を用いる家が多いそうです)

 毛利氏は、大江広元の四男で父の所領のうち相模国毛利荘(現神奈川県厚木市および愛甲郡周辺)を相続して毛利氏を立てた毛利季光の子孫の家系です。宝治合戦(1247年。鎌倉幕府の内乱)の際、季光は反幕府方の三浦氏に味方して敗れ、子息広光、親光、泰光らとともに戦死し、鎌倉の館と相模国毛利荘を失いました。この時、幕府の重鎮として評定衆の座にあった長井泰秀(広元の孫。宝治合戦では幕府側の北条氏に味方し長井氏の地位を確立。あの大江氏惣領家の当主)が季光の四男、経光(つねみつ 泰秀の従弟)を保護し、経光の本拠越後国佐橋荘(さはしのしょう 現新潟県柏崎市)および武功によって季光が得ていた安芸国吉田荘の両地頭職の安堵(公認)をはかりました。この泰秀の懸命の奔走によって毛利氏惣領家は本拠を相模から越後の佐橋荘に移し、経光の流れが生き残りました。この毛利氏と長井氏との深い縁(えにし)が、後の師親開基説の重要な伏線となるので覚えておいてください。

 
鎌倉の大江広元の墓


同毛利季光の墓

 元春の話に戻ります。彼は毛利氏6代目の当主です。1323年に毛利親衡(ちかひら)の嫡男として誕生。1335年、13歳で元服、曽祖父時親(ときちか)の意向で足利尊氏の側近、高師直(こうのもろなお)の弟、高師泰(こうの もろやす)の麾下となり、師泰から一字を与えられて師親を名乗ります。
 一方、師親の父である親衡は、1333年、後醍醐天皇が隠岐国から脱出して討幕の兵を募った際にはこれに応じて馳せ参じています。楠木正成らの活躍もあって倒幕は成り、鎌倉幕府は滅びて後醍醐天皇親政による建武政権(1333~1336年)が誕生します(建武の新政)。


 伝足利尊氏像(浄土寺蔵)


高師泰(英雄百首(歌川貞秀画))


天子摂関御影より後醍醐天皇像

師親の曾爺さん「時親」が面白い

 師親が元春へと改名するのは1351年ですが、その年号になるまでは師親と呼んでいきます。上述したように師親の曾祖父が時親ですが、この人物がとても興味深いので、その話をまずさせてください。
 時親の生年は不詳です。毛利氏の血統を後世に伝えた毛利経光の四男として、その経光が本拠としていた越後国佐橋荘で生まれました(よって毛利氏本家の所領は佐橋荘です)。時親は、成年に達すると鎌倉に出て北条執権に近づき、やがて実力が認められると六波羅評定衆に任じられて京都で活動、河内(大阪)に邸宅を与えられました。この河内の頃、時親は、あの楠木正成の軍学兵法の師であったという伝承が残っています。六波羅評定衆には、出羽長井氏の分家(毛利経光を保護して毛利氏のルーツを守った泰秀の弟の家系)からも数人が選任されています。
 時親は、経光より安芸国吉田庄と越後国佐橋庄南条(みなみのじょう)の2か所を譲られました。また越後国佐橋庄北条(きたのじょう)は嫡男基親に与えられました。
 さて、建武の新政に先立つ倒幕運動盛んなる頃、時親は六波羅評定衆であったにも関わらず合戦には参加せず、また新政が成った後には建武政権からも距離をおいたため、1334年、鎌倉幕府の与党とみなされ一時領土を没収されました。この、時親由来のどっちつかずの戦術は毛利氏延命の基本戦略としてこの後定着してゆくことになります(同じような生き残りをはかる氏族は他にもいました)。時親の子であり師親の祖父貞親にもこの頃(1334年)、越後国で不穏な動きを見せたという風聞があったことを毛利元春自筆事書案が伝えています。貞親が、皇族だとされる正体不明の阿曽(阿蘇)宮と組んで建武政権に対し謀叛を企てたとの伝聞(デマ)があったということで勅勘をこうむり、貞親は大江氏一門の惣領長井挙冬(たかふゆ)の許に預けられたというのです。長井挙冬は、かつて毛利経光を援けて毛利氏存続に尽力した長井泰秀の5代目なのですが、この局面でも毛利氏を庇護する姿勢は変わっていません。貞親は、この伝聞を残したことと後年南朝方についたということを除けば本当に目立たない人物で、1351年、ひっそりと没しています。
 時親はしばらく新政の成り行きを見守っていたのでしょう。すると、1335年、建武政権に対する謀反が関東で勃発します。北条高時の遺児時行(ときゆき)が鎌倉幕府再興を目指して建武政権に挑んだ中先代の乱です。
 同年、この乱は20日あまりで足利尊氏に鎮圧されます。毛利時親はさっそく足利氏にすり寄り、自身の曾孫と共に足利氏与党の立場を鮮明にして、前述したように高師泰の麾下となり、師泰から一字をもらって曾孫に師親を名乗らせて曾孫を元服させます。


逃げ上手 北条時行カード

 さて、翌年(1336年)に足利尊氏はいろいろ紆余曲折はあったものの、いよいよ天下取りに邁進してゆきます。後醍醐天皇を吉野へ追い持明院統の光明天皇を立てて(北朝)室町幕府を開きます。後醍醐天皇はそれに対抗して吉野で朝廷を開きます(南朝)。南北朝時代(1336~1392年)の開幕です。室町期の開始から56年間という、昭和(62年間)より短い時代です。織田・豊臣(織豊(しょくほう))時代=安土桃山時代(約30年間)よりは長いですが・・・。

父と祖父が敵(南朝)方に

 さて、南北朝時代は動乱に次ぐ動乱の時代です。毛利氏もその渦に巻き込まれて、なんと師親とその曾祖父時親は北朝方へ、また師親の父親衡(後醍醐天皇シンパ)と祖父貞親(出家はしていても現役だった)は南朝方について互いに相争うようになってしまいます。時親および師親は北朝側についたわけですが、実は、時親と師親以外の一族のすべてが南朝派だったようなのです。師親のほうは時親の意向で北朝側についたのであって、いわばどっちつかずの立場であったと思われるので、一族中で時親一人が北朝方だったと思われます。これは、一族全員が南朝方であっては毛利氏の存続が危ぶまれる、だから安芸毛利氏嫡流の自分だけは北朝側に立たねばならぬという両にらみ戦術です(もしかしたら一族との合意の上でそうしたのかもしれませんが)。この時期の毛利氏には、北朝方とも南朝方ともなりうる素因が内包されていたということです。
 1335年、尊氏が、先に述べた中先代の乱鎮圧に立ち上がった時のこと、安芸国でも安芸国守護、武田信武が尊氏党として挙兵。師泰から一字を与えられて元服したばかりの師親もこれに加わりました。
 で、尊氏が中先代の乱を鎮めたあとのことになりますが、畿内では北朝方(尊氏方)と南朝方(後醍醐天皇方)との抗争が繰り広げられ、師親の父(親衡)と祖父(貞親)は南朝方に、また師親は時親の代理として北朝方につきました。

時親と師親は安芸国吉田荘に移住

 北朝を擁した尊氏方優勢のまま和睦の結ばれた1336年、時親と師親は安芸国吉田荘に下向します。そして時親は、貞親と親衡の北朝方への帰順を取り成すとともに、その二人を安芸国に下向させることで、安芸における毛利氏の勢力維持をはかりました(Wikipedia)。
 上で下向という言葉を使いましたが、この言葉には、本家の所領(故地)から転住するという意味合いもあります。つまり、貞親、親衡が南朝方についた責めを負うべく一族が故地「越後国佐橋荘」を捨て別領「安芸国吉田荘」に移住したということです。そのおかげか、1334年に建武政権により没収されていた安芸国吉田荘の地頭職を回復させていたようです。それに、越後国よりも安芸国のほうが京都に近いし、瀬戸内海に面して水運・水軍にも利ありという地政学上の理由もあったのでしょう。
 さて、1337年には時親が「孫の親衡に吉田荘地頭職を譲り、親衡の死後はその嫡子師親に与えられる」とする譲り状を残します。
 ただ、それ以降(いつ頃なのかは不明ですが)、親衡が実際には嫡子以外の子にも譲渡するとしたらしく、時親からすべてを譲られたと主張する師親との間に対立が生じました。その主張の正しさを証すべく、師親は時親が残した所領に関する文書を探したのですが焼失してしまったため、その紛失状の発給を(室町)幕府に申請するにあたって、長井時春、貞頼、広房の3人が証人となって請文を幕府に向けて提出した・・・という記述が毛利元春自筆事書案にあります。この証人の人たちは先の長井氏系図にも載っています。ここでも、何かの折には長井氏に頼る毛利氏の姿が見えます。
 1341年、時親は没します。父より越後国佐橋荘南条、安芸国吉田荘の地頭職を譲り受けたのが1270年ですので、それから数えても71歳。地頭の職を継いだのが元服後だとすると、13、4歳を加えて、84、5歳。もっと高齢の可能性だってあります。当時としてはすこぶる高齢です。ましてや、まれにみる動乱と権謀術数のさなかを生き切った稀代の曲者(くせもの)。そして彼は、戦国時代に中国路の覇者となる安芸毛利氏の祖とされています。

今日は南(朝)、明日は北(朝)

 さて、いろいろ紆余曲折はあったものの、吉田荘地頭職は結局、曾孫の師親が引き継ぎます。1350年、南朝シンパの親衡は師親とたもとを分かって、石見国の南朝方勢力と呼応して吉田荘で挙兵します。しかし、北朝方の安芸守護である武田氏信に鎮圧されてしまいます。親衡はこの時、その所領を没収されてしまうのですが、師親が高師泰にかけ合ってその没収を撤回させています。さすが毛利氏です。
 この1350年は、観応の擾乱と呼ばれる足利政権(室町幕府)内の仲間割れがもとの戦乱が開始された年です。尊氏の弟で幕府の実権を握る足利直義(ただよし)の派閥と、将軍尊氏+幕府執事高師直(高師泰の兄)の派閥が争いました。1350年のある戦いにおいて、高師直に敗れて出家・隠棲したはずの直義がなんと南朝方に寝返り、南朝方勢力を味方へ引き入れます。さらに、尊氏の実子ながら認知されずに直義に育てられた足利直冬(ただふゆ)とも共闘して、1351年に尊氏軍を破ります。尊氏は直義に降伏し、高師直、師泰のほうは出家を余儀なくされます。そして高兄弟は帰路のさなか、直義派の上杉能憲(よしのり)に襲撃されて一族もろとも滅亡します。


神護寺三像の一つ、伝源頼朝像、足利直義像とも

 
従来足利尊氏像とされてきたが、高師直とする説も


足利直冬像(英雄百首(歌川貞秀画))

 毛利氏の話に戻ります。観応の擾乱の結果として南朝方の勢威が増大するなか、毛利親衡は、高師泰の死で尊氏方の後ろ盾を失ってしまった嫡子元春を庇護します(師親は1351年、元春と改名。よってこれからは元春と呼びます)。南朝方が有利と見た元春は、毛利氏お得意の南北両にらみ戦術に出て、以後は親衡と共闘するようになります。
 前述したように、1350年、吉田荘で挙兵した親衡は、武田軍によって鎮圧されましたが、1352年になってもその前半は武田軍有利の戦況が続きます。しかし11月に親衡軍は、南朝方や足利直冬方勢力の援軍を得て井原河原の合戦では大勝し、武田勢を敗走させます。
 この1352年という年は、観応の擾乱が一応の決着をみた年です。前年に、尊氏軍を破って政界に復帰した直義ですが、幕府のトップは依然尊氏のままで、直義の味方をした者らへの恩賞が不十分だったり、直義派の人々が襲われたり、尊氏が直義と南朝との関係を引き裂いたりと、直義一人にご難が降りかかって彼は孤立してしまい、挙句、京都を脱出して直義派の固める北陸に、その後は上杉憲顕を頼って関東へと走ります。そして、南朝との和議をとりまとめて後顧のうれいをはらって進軍してきた尊氏軍と相まみえ、翌年、その戦いに敗れた末、服毒死させられて、観応の擾乱はひとまず終息します(合掌)。
 さて、こうしたさなか、上述したように、親衡は井原河原の合戦で大勝しますが、この1352年以降の親衡、元春の行跡がいろいろ調べてもイマイチはっきりしません。ただこの頃は、観応の擾乱で直義と共闘していた直冬が、亡くなった直義に替わる新たな大将として反幕府側勢力の盟主と目されるようになっており、同時に南朝との講和(直冬は尊氏と対立する前は幕府側にいて南朝側をいじめていました)も成立させています。そして中国地方を拠点として活発に活動していました。上記の井原河原の合戦でも親衡に援軍を送っています。また、周防、長門、石見を本拠とする大内氏も南朝側であったため、親衡・元春父子は比較的平穏に日々を過ごしていたのかもしれません。
 直冬は、大内弘世ら南朝派勢力の援助を受けて上洛を開始し、1355年、京都から尊氏を追って一時的に入京を果たします。
 それからは尊氏軍との激戦が度重なります。その激動のさなかの1363年、南朝方の重鎮、大内弘世が幕府方に転じてしまいます。やがて直冬の活動は下火となり、1366年の書状を最後に、歴史の表舞台から去ってしまいます。
 この1366年、毛利親衡は、北朝(幕府)方に寝返ったうえ安芸国にも勢力を伸ばしてきた大内弘世との戦いに敗れ、降伏しています。そして同年9月、元春は室町幕府将軍・足利義詮(よしあきら。足利尊氏は1358年に病死)からの招聘を受けます。翌年、義詮が重ねて元春を招きます。幕府側による南朝方勢力の切り崩しでしょうか。元春、本領安堵(保証)の約束をちゃっかり取り付けたのを機にほどなく幕府に下ったようです。まさに、今日は南、明日は北です。


神護寺三像より伝藤原光能像、足利義詮像とする説も

奮戦の末、一線をしりぞく

 元春は1371年、南朝方勢力制圧のため幕府より九州探題として派遣された今川了俊(貞世)に随従して九州に出征します。7年にわたり南朝方勢力と先頭に立って奮戦し、のちに了俊からその戦功を賞賛されています。
 この九州出征中、理由は判然としませんが大内弘世がいきなり幕府と敵対してしまいます(了俊を支援して九州に出征した弘世でしたが、了俊と意見が合わず帰国してしまったことがあります)。そして1374年7月、大内弘世と結んだ親衡らが、元春不在の本領を襲撃します。留守を守る元春の子の広房、広内らが苦戦を強いられながらも防戦を果たしましたが、1376年、またもや攻め入ってきました。が、これを知った幕府の首脳陣によって弘世が強く咎められたためやむなく撤兵したので、窮地を免れることができました。これらの功績により、九州から帰国した元春には、伝来の所領に加え、新たに支配下に置いた所領を追認されました。なお、この戦闘中の1375年に親衡が没しています。この結果、元春が文字通り安芸毛利氏の頂点に立ったのです。1378年には、将軍義満から吉田荘地頭職を安堵(追認)されています。
 世の中は南北両朝とも度重なる闘争に疲れ果て、和平への動きが活発化してきています。南北朝時代もそろそろ終焉が近い雰囲気がたれ込める中、1379年に元春は一族や庶家に宛てて、まるで自己の寂滅を予知しているかのような用意周到な置文をしたためて、一族間の和を崩さずに相互に守るべきことを説きました。
 1381年には、弟や子息らへの所領の分割譲渡を行い、嫡男広房を安芸毛利氏の惣領家、その他の実子の多くを庶家として独立させました。そして、これらの庶家の面々が内訌と協力を繰り返しながら、後に中国路の覇者となる戦国大名としての毛利惣領家を支える一門家臣となってゆきます。つまり、元春の曾祖父時親が安芸毛利氏の祖とするなら、元春は祖父・父が南朝方につく中で、一人北朝方として子や孫までも巻き込みながら身命を賭して(子の広房と孫の光房は反幕府勢力との戦闘でともに戦死)幕府に忠誠を尽くして、安芸毛利氏の将来にわたる繁栄の基を築いた中興の祖といえるわけです。元春はかつて南北両にらみの末、南朝方から幕府側につきました。いわば主替えをしたわけ。でもこの主替えは、後世に自身の名誉を傷つける危惧もあるなかで、命がけの選択だったのです。あの真田幸村(真田信繁)も、徳川方から豊臣方に主替えをして大坂夏の陣に出陣し、後世に残る奮戦・激闘を繰り広げたあげく、あと一歩のところまで徳川家康を追い込んだ末、討死しています。


毛利家の略系図
【家系図】中国地方の大大名・毛利元就の祖先は鎌倉幕府ナンバー2の政所別当だった!より転載(庶家として元房から厚母(あつも)氏、元淵から小山氏、広内から麻原氏、広世から福原氏、忠広から中馬氏が独立)

 1380年頃、元春は隠居して元阿という法名を名乗ります。まだ59歳。良いにつけ悪いにつけ達者な時親爺さん(享年:84、5歳?)の薫陶を受けて育ってきた元春にとって、59歳なんて壮年にちょっとばかり毛の生えた初老にすぎず、老け込む歳ではなかったでしょう。

いくらなんでも没年不詳とは?

 さて、元春の長い物語も終わりに近づいてきたみたいですが、実はここからが「武蔵国横山荘の広園寺の開基および片倉城の在城者が大江師親である」という拙の説の肝となるところです。
 その中でも最も強調しておきたいのは、元春の没年が不詳である、ということです。以下は毛利氏歴代当主(時親以降は安芸毛利氏)の生没年一覧です。

毛利 季光(1202年-1247年)
毛利 経光(生没年不詳)
毛利 時親(生年不詳-1341年。元春の曾祖父)
毛利 元春 (1323年-没年不詳)
毛利 広房 (1347年-1385年 元春の子(討死))
毛利 光房 (1386年-1436年 元春の孫(陣没))
毛利 煕元 (生年不詳-1464年)
毛利 豊元 (1444年-1476年)
毛利 弘元 (1468年-1506年)
毛利 興元 (1492年-1516年)
毛利 幸松丸 (1515年-1523年)
毛利 元就 (1497年-1571年)
(以下、現代に到る歴代当主のうちで没年不詳はなし)

 上記毛利氏歴代当主の中で没年不詳というのは2人しかいません。1人は安芸毛利氏へと血統を繋いだ毛利経光であり、あとの1人は毛利元春です。安芸毛利氏だけに限れば元春のみが没年不詳です。経光の活動については詳しいことは知られていず、没年どころか生年もわかっていません。彼の生涯は親からもらった越後国佐橋荘北条でひっそり閉じています。ちなみに、元春の祖父と父の生没年は、毛利貞親が生年不詳-1351年、毛利親衡が生年不詳-1375年です。
 一方元春については、本稿でるる述べてきたようにかなりのことが知られており、また元春自身が書き残した用意周到な置文(遺書)や毛利元春自筆事書案などもあり、安芸毛利氏の中興の祖ともされているのですから、その当人の没年がわからないというのは異常です。まさにかき消えてしまったかのようです。

毛利氏あるのは長井氏のおかげ

 さて、ここでしばらく登場の機会がなかった長井道広の動向に目を向けてみましょう。元春が一族や庶家に宛てて置文をしたためた1379年から、身内への分割譲渡を行った1381年の間の1380年(元春が隠居した年)は、道広が南朝方伊達宗遠に攻められてその領地出羽国置民(玉)郡長井荘を奪われた年です(伊達正統世次考)。この出羽長井氏の一大事に当たって道広はどうしたのか?
 毛利氏というのは大江氏の分家ですが、これまで何かにつけて大江氏惣領家長井氏の援助を必要としてきました。まず、毛利氏の祖である季光が戦死したあとに、季光の四男経光を保護して、経光の本拠である越後国佐橋荘および安芸国吉田荘の両地頭職の安堵をはかるべく懸命に奔走したのは長井泰秀でした。これによって、毛利氏は本拠を相模から越後の佐橋荘に移し、その当主の経光の子の時親が、安芸国吉田荘に拠って安芸毛利氏の祖となることができたのです。
 また元春の祖父である貞親が建武政権に対し謀叛を企てたとの伝聞(デマ)があったということで勅勘をこうむった際、その身柄を預かったのは長井挙冬(高冬)でした。
 そして元春と父親(親衡)との間で所領争いが生じた際には、曾祖父(時親)の所領に関する必要文書が焼失してしまったためその紛失状の発給を(室町)幕府に申請する際に、長井氏の時春、貞頼、広房の3人が証人となることによって請文を幕府に向けて提出することができたなんてこともありました。

男「元春」、長井氏救済に立つ!

 その何かにつけて力添えをしてくれていた大江氏惣領家長井氏(出羽長井氏)が今まさに滅びんとする時、元春は素知らぬ顔を押し通すことなんてできるでしょうか? 今の毛利氏があるのも、長井氏のおかげと言ってもいいくらいなのです。道広からの救援要請もあったに違いありません。
 でも、南北朝動乱の世の中も落ち着きつつある中、また安芸国の繁栄への基礎固めも終えた今、毛利氏当主の自分が、表立って遠き出羽の地に出陣することにどんな意味があるでしょうか? 幕府の意向だってあるなかで、あまりに無謀すぎます。
 そこで元春は、隠居の身軽さ・自由さをフルに生かして出羽長井氏の戦後処理に乗り出したのではないか。戦(いくさ)に敗れた道広軍の残党を引き取り、長井氏の存続を出来うる限り図ってゆこうということです。そこで目をつけたのが、鎌倉の御代から恩賞として大江氏に与えられていた武蔵国横山荘(横山荘は中世における荘園で、有力武士団である武蔵七党のうち横山党が治める本拠でしたが、鎌倉時代の1213年、同党が和田義盛に組みしたために滅亡して、横山荘は大江広元に与えられました)に存在する片倉城です。
 当時の武蔵国というのは、その東部は大河が何本も流れ込み、デルタといえば聞こえがいいですが、泥田のような土地ばかりのド田舎であり、西部も全体をたばねるような強力な首長がまだ存在しない、武蔵野と呼ばれる原野や牧(まき)と呼ばれる馬の放牧場が点在する中での土豪および有力農民による分散化された領地経営に基づく、開発のまだ十分に及びきっていない地域でした。
 ただここでネックとなるのが、道広なのです。横山荘での道広像がなかなか描けません。前述したように長井道広という姓名を名乗る人物の伝承は、出羽国長井荘での伊達正統世次考における記述、および広園寺の峻翁令山和尚行録での言及を除いてまずありません。
 だいたい長井氏そのものの伝承も、中央(鎌倉・京都)を除けば、出羽国長井荘および武蔵国横山荘においてはほんのわずかしか見当たりません。
 
数少ない長井氏の伝承

 その数少ない横山荘およびその近辺での史料の例をあげてみます。
1.真覚寺縁起(真覚寺:東京都八王子市散田町にある蛙合戦で知られる古刹)
 1356~61年に「長井大膳太夫広乗」およびその一族が、片倉城(八王子市片倉町)、府中(府中市)、柚木永林寺(八王子市下柚木)、相州小松(神奈川県相模原市緑区)を支配していたという伝承を載せています。
2.小松城(宝泉寺城)(神奈川県相模原にある城跡)
 城下に所在する宝泉寺の過去帳の付記には「大檀那永井大膳太夫何某相伝、永井氏而当郷之城主之由」とみえることから、寺の大檀那は当郷之城主永井大膳太夫何某、つまり小松城主永井大膳太夫何某ということになり、宝泉寺が永井(長井)氏が開基になっていた可能性があります。
 日本城郭大系および現地解説板によると小松城主の名前を永井大膳大夫広秀としており、解説板によると東京都八王子市の片倉城の出城であったと記されています。
3.高乗寺(東京都八王子市初沢町深部にある寺院)
 寺の説明板によると高乗寺は応永元(1394)年、法光圓融禅師峻翁令山大和尚により開山され、開創にあたって当時の片倉城主の長井大膳大夫高乗公が深く係わっており、寺名もここに由来するとされています。
 新編武蔵風土記稿によると同寺の開創は広園寺と同じく峻翁令山。開基は長井大膳大夫高乗、1402年7月29日に没、戒名は高乗寺殿大海道廣大禅定門。戒名から院号(高乗寺殿)を除くと大海道廣大禅定門で、これは風土記稿記載の広園寺の開基(大江師親)の戒名のそれと同じで、没年もまったく同じ。こうなると、長井大膳大夫高乗=大江師親としたくなります。また、長井大膳大夫、つまり長井姓であることから長井道広とする説もあります。とすると、大江師親とするにせよ長井道広にするにせよ、両者は没年と戒名を同じにするということになります。
4.住吉神社(片倉城鎮守のための社)
 この神社の由緒書きに「鎌倉管領片倉城主、長井大善大夫道広が1372年に城の鎮守の神として摂津国住吉大社を勧請した」とあります。この由緒書きについては前述してあるようにその根拠がまったく不明です。
5.太田道灌状
 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰・太田道灌が、山内上杉氏の家臣・高瀬民部少輔に提出した享徳の乱における自分自身の活躍ぶりについて39か条にわたって書き記したもので、師親や道広の時代から100年後(1480年)に提出されたこの書状の第33段に長井殿のことが書かれています。ここに登場する長井氏については、その原注に「長井大膳太夫広房、扇谷婿」とあることから、長井広房の妻は扇谷上杉持朝の娘だとわかります。この広房は、広園寺の梵鐘銘文にある「応仁二(1468)年 大旦那大江朝臣広房」とある人物と年代的に同一人物だと目されます(後述)。


 太田道灌像(大慈寺所蔵) 

 上の史料例での長井氏はみな大膳大夫を称しています。大膳大夫という官職はもともと、長井氏や毛利氏をはじめとする武家の始祖である大江広元に当てられていたものです。長井氏では、上の小松城の長井氏でも触れられている広秀という人物が名乗っていたことが知られています。
 横山荘での道広がその役職名である掃部頭を名乗っている例というのはないと思っていましたが、ただ唯一と思われる史料があるそうで、それは広園寺の開山、峻翁令山の師である抜隊得勝(ばっすい とくしょう)の語録に「広園寺および高乗寺の開山、大海道廣大禅定門については大江酒掃大海道廣」とあるそうで、この広園寺および高乗寺の開山の戒名「大海道廣大禅定門」というのは、新編武蔵風土記稿にいう広園寺の開基(大江師親)のそれとまったく同じで、その法名に道廣(広)とあることから師親=道広!となることは前述しました。つまり、広園寺と高乗寺の開基は師親であり、道広かもしれないということです。
 また「大海道廣大禅定門については大江酒掃大海道廣」とありますが、これは「酒掃(かもん)」とは官職にいう「掃部」の唐名だから、道広は掃部頭(助)を称したはずであり、また、大江姓としているので道広は大江氏一門の人物であろうということです。
 長井道広と名指しでもってその行状を記している史料もあって、それは前述の広園寺の峻翁令山和尚行録に「檀越長井道広重ねて礼を致し深く志を和尚に通ずる」とあるものです。これによると、広園寺の檀越は道広その人ということになります。

師親の伝承ならいっぱいある

 一方、大江師親の伝承ならいっぱいあります。
1.新編武蔵風土記稿の広園寺の縁起
「開基は大江備中守師親(後元春)八幡の霊夢を蒙りて草創せり、この人は大江廣元七代の孫にて陸奥守親茂(初名、後に親衡)の子なり、貞治年中将軍義詮に属して軍忠あり、又父親茂をよび弟匡時直衡等宮方となりしときも、師親獨将軍家にしたがひて忠節ありしかば、其功によりてかの家安堵せしと云、本郡片倉の城主にして應永九(1402)年七月廿九日卒す」
 とあります。ほぼこれまでに拙がるる述べてきたとおりのことが超簡潔に記されています。
 また武蔵名勝図会によれば、「大江氏が片倉に居城したころ、時々広園寺に参詣し、大門先に馬立場があったといわれている」とされています。また「大江師親は毛利氏の祖であり、片倉在城は不審」とあります。


広園寺 新編武蔵風土記稿

 大江師親開基と伝わる寺社は広園寺の他にも
2.高尾山麓氷川神社
 応永年間(1394-1428)に片倉城主、毛利備中守師親が武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請。古くは下椚田(くぬぎだ)村大牧(現椚田町)にあったと伝えられる。


 高尾山麓氷川神社

3.東浅川熊野神社(カシとケヤキの相生の木のある神社)
 片倉城主毛利備中守師親が応安年間(1368-1375)に創建。


東浅川熊野神社 

4.片倉住吉神社
 東京都神社名鑑の片倉住吉神社の由緒によると、片倉城主毛利備中守師親公が、摂津国住吉神社を勧請され城の鬼門除けとして建立。


片倉住吉神社 

5.来光寺(廃寺。片倉城南側)
 片倉住吉神社の別当として建てられた。新編武蔵風土記稿による開基は大江備中守師親。

 広園寺を入れて5つの寺社が師親勧請あるいは開基と伝わります。
 以上の師親伝承の豊富さを見ても明らかなように、道広のそれとは比ぶべくもありません。

ここでブログの上限文字数に達しそうになってしまいました。続きはPart 2とします。次回は「拙の説の結論( ;∀;)」を述べます。

 

☆古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

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♪ 神社大衰退時代、五社二寺巡りなんてどう?

2020-09-14 11:22:41 | 日記

 近年、神社に元気がありません。小神社のほとんどは無人、ポツンと訪れる人もなく、しょんぼりたたずんでいます。どの神社もそれなりに由緒があって、氏子もそこそこいて、かつてはお詣りする人もあったのでしょう。

(上の神社は御嶽神社といって、縄文時代の遺跡・遺構がある椚田遺跡公園の裏手の窪地にひっそりたたずんでいます。「ここであそんでいる人」なんて見たことないし、最近の子供はほとんど外では遊ばないようなので、この看板を見るとなんかここへは来るなと言われてるみたい。「土足厳禁」とでかでかアピールしていたりして、なんか「なんでも厳禁しょぼくれ神社」といった風情。ま、お詣りする人なんてどうせ来ないし、そんならこっちから「ここへは来るな」とひらきなおったって感じ!?)

 小生のごく近所に2つの神社(大室神社、高宰神社)、そして少し足をのばした東浅川に1社(十二社神社)、さらに南浅川べり近くに1社( 三軒在家稲荷神社)、帰る途上の甲州街道へ抜ける途中に1社(稲荷森神社)、計5社の神社があり、それに加えてお寺も2つ(真覚寺、興福寺)、合わせて五社二寺が鎮座しています。だいたい、あちこちの神社仏閣を目にしてもほとんどが寺で、神社はすごく少ない。だから二社五寺はあっても、五社二寺というのはまれです。で、その実態はどんなもんか訪ねてみることにしました。上の写真のような了見の狭い寺社はないのでどうぞ御安心を。

 これは蛙合戦で知られた真覚寺というお寺の裏口のほとりにこじんまりと鎮座している大室神社(御室山おむろさま)。最近リニューアルされて、雑草まじりのむき出しであった地べたもタイルで覆われて、ずいぶん小ぎれいになった。このあと訪れる高宰神社の祭神の配偶神とも伝えられている。かつては小室権現社と呼ばれていたらしい。小室がいつの間にか大室になったというわけ。

 神社右脇の坂道を上ってゆくと真覚寺裏手の墓地に出る。

 けっこう古そうな江戸時代頃らしいお地蔵さん集合や、落ち葉を載せた石像があったりする。

 奥は真覚寺本堂、手前は蛙(かわず)合戦場となった心字池。現在は蛙のかの字もないただの池。でっかい鯉がたまにピチャリとはねる音がするだけ。

 でも、たまにはこんな鳥もやってくる。

下はこの池の水源となった湧水口に設けられた手水場。

 蛙合戦とは、産卵のために池に集まった雌蛙を求め、たくさんの雄蛙が争う様子を表したもので、江戸時代には甲州街道の名所とされていたという。太平洋戦争前でも、万を数えるほどのヒキガエルがいたといわれている。

 これが本堂。創建は文暦元年(1234年)、鎌倉時代の中期。この寺には奈良時代の白鳳期にさかのぼるといわれる仏像が伝えられており、現在は八王子市の郷土資料館に展示されている。

 

 地蔵さん越しに見る鐘つき堂。この鐘つき堂の後ろの小道を左のほうへ行ったところに鳥居がある。

 高宰(たかさい)神社という。以下が社殿。

一見、地味な社(やしろ)だが、けっこう胸おどる言い伝えをもっている。いわゆる南朝伝説で、以下が神社入り口に掲示してある高宰神社の由来記だ。

◆ 高宰神社由来記

 八王子市散田町五丁目三六番に鎮座する高宰神社は、日本史南北朝期の終り頃、京より高貴な御方が故あって、かたく氏名をかくし(恐らく南朝の公家と思われる)現在の御所水の地に居住したことから始まります。逝去後、由井地区の杉山峠に埋葬され、後山田村広園寺境内の一角に一祠を建立し、小蔵主(おくらぬし)明神と号し、鎮座したのが当社の起源であり今より約六百年以前のことであります。
その後、何故か散田地区の古明神と言う処(現在のめじろ台4丁目)に移り、降って正保慶安の頃、更に真覚寺境内に移しそこで高宰神社と命名し、現在にいたったものであります。
当社は、霊験あらたかで、八王子が誇る千人同心部門の神として深く崇敬され、千人町、散田町、並木町、山田町、めじろ台等の守護神であります。
高宰神社のご祭神は、按察使(あぜち)大納言、藤原信房卿と言われておりますが、一説には、高倉宰相某とも言い、また明治元年神仏分離の達しがあり、明細帳作成当時書出したものには、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)としてあるが詳かではなく、現在では、藤原信房卿の説が最有力で、この説に定着しているようであります。
現在、神社登記簿には、神社は単に高宰の神となっております。
高宰とは、高貴な方の高(たか)と、宰(さい)は、宰相とか言われる大臣クラスのことと思われ、尊貴両者を取り入れ、高宰神社の社ができたものと思料されます。
高宰の神が在世中の地を、御所水の地と言い、清水の湧き出していた処から「御所水の神」と言われたのは、当時朝廷以外には御所の名は使用されなかったこと等思い合わせると、余程高貴な方を思わせるものがあります。

(昭和六十一年八月総代記す)

 南朝の高貴な方をお祀りした神社ということらしい。その方が住んだ御所水というのは台町にある藤森公園のあたりといわれ、そこには足利勢(北朝)にとことんはむかったことで知られる南朝の雄、下野(しもつけ)の小山氏一族にまつわる興味深い伝承などもあるので、これについては後日、本ブログにアップしたい。

 さて神社の右手に眼をやると、

 田の神らしい。石像は崩れて何だかよくわからないが、かつて(2011年頃)は

Choi-boke 爺ちゃんより転載

こんなだったらしい。南九州以外では珍しい石像らしいが、9年の歳月という鑿は情け容赦もない。2011年当時でさえ、おそらく造仏時から数えて何十年も経っていただろうにお顔はしっかり残っていたというのに、現今ではわずか9年あまりでこの変わりようだ。

 一見さびれた神社だが、夏祭りなどではこのあたりでは屈指の盛況を見せる。さすが千人町、散田町、並木町、山田町、めじろ台等の氏神である。

 以下は拝殿奥の覆い殿(本殿)にほどこされた彫刻。

 かつては極彩色だったらしいが、今はだいぶ色がはげちまった。

 高宰神社を抜けて、保育園脇の小道をゆくと、あら珍しや赤ポストが鎮座していた。

  ポストを過ぎて小道をたどってゆくと、前方にこんなものがあった。

 なんかさびしいねぇ。かつてはそれなりに由緒をもった祠として自立していたであろうに、今ではこんな有様だ。宅地の片隅にかろうじて間借りしてるって案配だ。

 次の目的地である十二社神社に向かう途中、郵便局があった。

 右端の一見、なんの変哲もない木にご注目。以下は木の手前に立てられた説明板。

 「郵便局の木」というやつらしく、その葉っぱがインドにおいて手紙や文書を書くのに用いられたとある。で、その葉っぱを一枚失敬して実際に文字を書いてみた(字が下手に見えるのは葉っぱのせいではなく、字を書いたやつの責任ざんす♪)。

 暇人じゃのぅ。

 さて次の目的地は十二社神社だ。天神七代地神五代、計十二柱の神々を祀る神社だ。こんもりとした丘の頂に鎮座している。創建は三百五十年前だという。

 右下に見えるのが頂に通ずる石段。下は石段の右手に並ぶ石仏たち。

 真ん中に置かれた頭の欠けたかわいらしいお地蔵さん(?)。これも2016年頃には以下のようにちゃんと頭があった。

 ”たった四年で吹き飛ぶこうべかな” (^_-)-☆

 石段の参道を登る。けっこうきつい。

  やっと頂へ。神社が見える。

 社殿の両脇にある灯篭のともし火(もちろん電球)は昼間でも灯っている。夜見たらさぞかし幻想的だろう。そう言えば、この神社には「十二社御燈明(おとうみょう)祭」というのがあって、毎年5月3日に開催されるそうだ。境内までの参道(石段)の両脇に何本ものろうそくが立てられ、日暮れとともにいっせいに火が灯される。今度行ってみねば!

はちなびより転載。

 下は神社の右手にそびえるご神木。奥に稲荷神社の幟(のぼり)が見える。

 これが稲荷社。 

 以下は十二社神社の由緒書き。

 この由緒書きの裏面に、この神社の奥殿についてのちょっとばかし胸をうつ由来が記されている。以下がそれ。

 東京陸軍幼年学校は、昭和十九年三月都内新宿区戸山台より八王子に移転した。校地は当十二社の北方長房地区東西に延びる稜線上約十万坪に及んだ。第四十六期生から第四十九期生までがこの校に学んだ。陸軍幼年学校は中学一年又は二年終了の志願者の中から約八百七十名が選抜され、陸軍士官学校入校に先立ち三年間、将校生徒を教育する学校にて日夜文武の修養につとめた。
 昭和二十年八月二日未明、八王子空襲により校舎全焼。それに続き終戦、学校は解散、焼失を免れた雄健神社は御神体を奉遷したが社殿は夏草の中に残され夢の跡となった。戦後五十年になろうとする平成元年、東京陸軍幼年学校関係者が空襲による戦没者慰霊祭を長房町東照寺において毎年営んでおることを耳にされた当十二社総代は、わざわざ東照寺に足を運ばれて雄健神社の社殿が当十二社の奥殿として奉祀されていることを報ぜられた。
 私どもはその奇縁に感じ入り、今日までのご奉斎に感謝し、社前の縁起を記録する板碑の修復につき微力を呈したいとお願いしたところご聴許を得たので、裏面を藉りていさゝか由来を誌す。

    平成五年春  東京陸軍幼年学校 第四十六、七、八、九期生

 空襲で神社も東京陸軍幼年学校も焼けたが、幼年学校敷地内に祀られていた雄健神社は幸いにも焼け残った。その神社の社殿を十二社神社の奥殿に移築したという事実を知った幼年学校卒業生の一同が、その奇縁に感じ入ってこの由来を書き記したということだろう。

 拝殿越しにとらえた奥殿の扉。この扉の奥に移築された雄健神社の社(やしろ)が鎮座する。

 どこの神社も似たようなものだろうが、普段はこんな人っこ一人いないさびれた景色。だが、先ほどの「十二社御燈明(おとうみょう)祭」の当日には

はちなびより転載。

 こんな賑わいになる。

 帰りぎわ、長い参道(石段)を降りる途中、参道の右側の斜面に苔むした石段があるのに気づいた。

 ためしに上ってみると、こんな石碑があった。

 おお、つい先ほど訪れた南朝伝説ゆかりの高宰神社ではないか! 境内社ということなのだろうか。同じ境内社の稲荷社は丘の頂上にでんと建っているのに、この神社は丘の斜面に埋もれている(石碑自体は平成二年五月に再建とある)。高宰を名乗るおそらく日本で一社しかないであろうこの神社と、十二社神社とはどんなつながりがあるのか知りたいものだが、十二社神社関係者にでも聞かないとわからないだろう。残念・・・。

 さて、十二社神社の長い参道(石段)を降りて、次に向かうはすぐ近くにある興福寺。

 葉が覆いかぶさるように立っている木はしだれ桜。春には絢爛と咲きほこる。

 寺の入り口から背後を振り返ってみる。

 先ほど下ってきた十二社神社が鎮座する丘が見える。

 寺に入ると、お地蔵さんたちのお出迎え。

 寺の山門。奥に本堂が見える。

 八王子の代官や千人同心として活躍した設楽氏の祖とされる設楽能久(よしひさ)の屋敷の勝手口にあった門を移築したものだという。横に切ったクスノキを柱にしてあることから「横木の門」と呼ばれ、関東ではひとつしか見られないという。江戸開府前の草創期からあった門で400年以上の星霜を経ており、八王子の建造物の中でも一二を争う古さである。そのような門があるくらいだから、この寺は千人同心とのつながりが深く、八王子千人隊同心(千人同心)の合同墓も建立されている。

 これが本堂。 

 境内にある仏足石。

 仏足石とは、釈迦の足跡を石に刻んだものとして信仰の対象としたものだそうで、足跡がうすく刻まれているのがわかる。その下に以下のような文字が刻まれている。

 この此(こ)岸 苦難にあえぐ ひとあまた 皆すくわんと 釈迦は彼岸で 手をさしのべし 釈迦は彼岸で

                               原想

 原想としてあるが、人名なのかそうでないのかを寺で確認すればよかった(^_-)-☆。

 池の右側に墓地への入り口。すぐそばに水車が回っている。以下は池の鯉。

 どこの池へ行っても鯉は貪欲だ。

 池の水源の湧き水。

 傾斜地に建てられた墓地へ入り、一番てっぺんに上ってパチリ。彼方中央に大岳山のシルエットが見える。

 てっぺんから下る途中、本堂を俯瞰。

 帰り際、住職さまのお家の塀の隙間から見えた猫。

 もうお気づきと思いますが、これ、作り物です。 

 お寺の入り口脇にあるトイレに寄ったら、

 緊急脱出ボタンがあった!

 さて、興福寺を出て、おっきなマンションを

 通り過ぎて、中央線の線路を陸橋で渡って降りたところに陵南会館跡地がある。

 ここには、中央本線の皇室専用のための仮駅「東浅川仮停車場」があった。もともとは、大正天皇のお墓である多摩御陵(多摩陵)での同天皇の葬儀(大喪の儀 1927(昭和2)年2月8日)のために用いられ、その後は必要に応じて開設されたという。
 1960(昭和35)年の駅廃止後は八王子市の所有となり、「陵南会館」という集会施設として使われたが、1990(平成2)年10月に過激派による爆弾テロ(八王子市陵南会館爆破事件)により焼失した。

 Wikipediaに東浅川仮停車場(東浅川駅)の写真があった(上)。さらにWikipediaによると、かつて新宿御苑仮停車場(これも大正天皇の大喪の儀 (1927(昭和2)年2月7日)に用いられた)の駅舎であった現高尾駅(旧浅川駅)の社寺風デザインの北口駅舎が、同駅の橋上駅舎化工事に伴って、当陵南会館跡地内に移築保存される予定となっているという。以下は現高尾駅。

 さて、大喪の儀ゆかりの綾南会館跡地をあとにして甲州街道に向かう通りが通称ケヤキ並木だ。

 この通りも多摩御陵への参道として設けられたもので、記念として植えられた160本のケヤキが大木となって通行人を迎えてくれる。ちなみに、甲州街道の追分から高尾駅までの4.2km、約760本にわたるイチョウ並木も同御陵が出来たのを記念して植えられた。

 ケヤキ並木を抜け、甲州街道を渡ると南浅川にかかる南浅川橋に出る。この橋も多摩御陵ができることになって、急いで架けられた。最初は木製だったが、昭和11(1936)年には鉄筋コンクリートに造り替えられた。

 多摩御陵の造営に先だって、国は多摩御陵をも含む広い一帯を陵墓に定めて武蔵陵墓地と命名し、そこに大正天皇以降の天皇・皇后歴代の陵(大正天皇以外の陵にも多摩陵(多摩御陵)に相当する陵名がつけられている。たとえば昭和天皇陵は武藏野陵とか)を置くことにしたということ、さらに、後で紹介する多摩御陵参拝列車(御陵線)なども開設されたりしたということ等も合わせ、大正天皇の大喪の儀というものが、八王子にとってはとても大きな一つのエポックネーキングな出来事だったといえる。正しくは「武蔵陵墓地」と呼ぶんだろうが、多摩御陵と言っちゃう人の多いのもうなずける。

 多摩御陵つながりの最後の証(あかし)っていうのがこれ。八王子市台町にある富士森公園内にある浅間神社だ。

 この神社の拝殿というのが、大正天皇の大喪の折り、多摩御陵に建てられた式典用の建物(大正殿)を移築したものだという。

(^_-)-☆

 さて、南浅川橋を渡り切って右側の橋のたもとを見ると、あまり目立たない階段入り口がある。

 

 南浅川へ降りる階段である。恥ずかしながら八王子に住んで40年余年、この階段のあるのを知らなんだ・・・。階段を降りると、南浅川左岸べりの道路に出る。

  川にはまあ、定番の鴨がいる。

 カラスもいる。というより、最近はカラスのほうが圧倒的に多い。

 カラスの行水場!?

 そしてたまにはこんな白い鳥もいる。

 シロサギだろう。

 川べりの道を数分行ったところから左へ折れ、さらに数分行ったところを右折してほどなくこんな階段が左手奥に出現する。

 鳥居が見える。なぜか、鳥居を見ると胸が躍る。謎だ・・・。石段を上りつめると、

 こんなかわいらしい神社が出現。以下は5月頃に訪れた時のもの。

 黄色い花にうずもれたちっちゃな神社。デジタル写真ではこんなもんだけど、実際に見た時の鮮やかさというのはとても伝えきれない。デジタルってのは黄色や赤の発色がイマイチよね(オレのカメラだけの問題かもしれないけど)。でもネ、ほどなくしてこれらの花は雑草ということで刈られてしまったの。雑草だろうと何だろうと、きれいなものはきれいなんだという理屈は通らないのかしら。そういえば5月頃には、下のような花もよく見かける。

 左側の花はナガミヒナゲシという花でこれも雑草らしい。右側のかわいい黄色の花も雑草。ナガミヒナゲシはどこでも咲いて繁殖力も物凄いので、これも刈られる運命にある。わたしゃこの花がすごく好きなんだけどねェ。

 そういえば、このアザミも雑草扱いよねェ。春にこいつらがいないと、とてもさびしいと思うよ。

 脇道へそれてしまった。

 この神社は三軒在家稲荷神社という。変わった名前だ。二軒在家、三軒在家、四軒在家とかいう地名は各地にあるらしいが、三軒在家を名乗る神社というのはここだけのようである。地名としては各地にあるが、神社の名前としてはここだけというのには何か意味があるのだろうか。在家というのは、仏教において、出家せずに、家庭にあって世俗・在俗の生活を営みながら仏道に帰依する者のこととある。これを、仏教うんぬんは省いて、家庭にあって世俗・在俗の生活を営みながら「武士道」に精進する者のこと、と別解釈としてとらえたらどうか。

 千人同心も幕臣でありながら、武士としての役目を勤める時以外は、八王子周辺の村に居住して農耕などを営み、年貢も納めていたという。いわば半農半士という身分で、上で述べた在家というものの別解釈とマッチするところがないであろうか。半農半士の侍たちが農耕神である稲荷を祀ったのがこの神社の起こりであると・・・。

 では、三軒在家の三軒とは何だろう。三軒長屋、三軒茶屋、向こう三軒両隣・・・あるいは単に一軒、二軒、三軒の三軒か?

 小生は三軒長屋の三軒ではないかと考えます。江戸時代における下町の一軒当たり九尺二間(三坪)の極小住宅などではなく、落語の三軒長屋に出てくる総二階の大きな長屋です。落語の三軒長屋においては、長屋の一方の端に住むのは血気盛んな若い衆がよく出入りする鳶(とび)職人の頭、真ん中に住むのは金持ちのご隠居が囲っているお妾(めかけ)、もう一方の端には剣術指南の先生が住んでいます。一方には若い衆が何かと大勢押しかけてわいわいとやる鳶の頭の住まい、もう一方には門弟を抱えた剣術指南の道場、そして真ん中には使用人もいて相当贅をこらしているに相違ない妾宅(しょうたく)。三軒とも相当広い間取りであることは確かでしょう。庭もあった。

 そういう広い三軒長屋に住んでいた半農半士の侍たちが、互いの結束を誓い祀ったものが三軒在家神社となり、それがやがて近隣の者らにとっての守り神ともなっていった・・・。

 農耕神だけに水道完備。

 この神社の創建は不明で、昭和九年に改築されており、その際、付近にあった天満自在天神と御岳社を合祀した。その後もよく手入れされているようで、とても小ぎれいなたたずまいである。周囲の住宅に埋もれて建っているせいか、かなり見つけずらい。

 かわいらしい鳥居を抜けて左方へ向かうと

 このような草地を抜ける踏み跡があるので、これを進み、突き当りを左へ抜けると長房団地の側面に出る。団地内には船田古墳という円墳の遺跡がある。今は埋め戻されて、ただのコンクリートの丸い区画になっている。

 中央に長方形のやや色の異なる区画があるが、ここに河原石を積んで石室を設け、遺体を葬ったのだという。以下は古墳の説明板。

 古墳をあとに団地を抜け、階段を下りて南浅川へ出ることにする。途中で、昔の京王電鉄が走らせていた多摩御陵参拝列車(御陵線)の橋脚が残っているのを見ることができる。

 通り過ぎて振り返ると

 つまり御陵線は高架上を走っていた。列車はこのあと南浅川を越え、甲州街道を越え、さらに中央線を越えて着地する。相当長い高架で、これと同じような橋脚が他にもいくつかあったはずだが、今では姿を消している。甲州街道をまたぐ高架上には武蔵横山駅という駅舎があった。また同街道には、武蔵中央電気鉄道線という路面電車も走っていた。

 御陵線は、多摩御陵への一般参拝客輸送のために、昭和6(1931)年から昭和20(1945)年まで北野駅から多摩御陵前駅間(北野―片倉―山田―武蔵横山―多摩御陵前)で営業されていた。多摩御陵前駅は、先に紹介した中央本線の皇室専用のための仮駅「東浅川仮停車場(東浅川駅)」の南東に位置し、東浅川仮停車場から多摩御陵へと通ずる長い参道を一気に省いて多摩御陵のすぐ間近に設けられた。以下のリンクは昭和11年頃の「八王子景勝図絵」である。

八王子景勝図絵 (八王子市郷土資料館所蔵)

 上図の右端に多摩御陵があり、そのやや左下に(多摩)御陵前駅、そしてそのすぐ上に南浅川にかかる南浅川橋がある。御陵前駅を起点として北西に延びてゆく路線が御陵線で、この路線を先へたどってゆくと南浅川そして甲州街道および中央線をまたぐ橋脚上を通ってゆくのがわかる。中央線をまたぐ橋脚のすぐ右に東浅川駅がある(どういうわけか、甲州街道をまたぐ橋脚上にあるはずの武蔵横山駅がない)。それから図のやや中央寄りに黄色地に大正殿と示されている建物があるが、これが前述した「富士森公園内浅間神社の拝殿」として多摩御陵から移築された式典用の建物「大正殿」である。

 御陵線ができるまでは、一般参拝客輸送のための多摩御陵への鉄道はなかった。一番近くの駅でも、中央線では浅川駅(現在の高尾駅)か八王子駅、京王電鉄では東八王子駅(後に200m北野寄りに移転して現在の京王八王子駅となった)だった。御陵線はしかし、他の鉄道会社との 争いや戦争などの影響により、昭和20(1945)年に廃止されてしまい、御陵前駅も八王子空 襲の時に焼けてしまった。時は下って昭和42(1967)年、京王は北野-山田間の線路を再利用して高尾山へと続く京王高尾線へと生まれ変わらせた。

 御陵線の橋脚を過ぎると間もなく前方に南浅川べりが見えてくる。

 左角になんかツル草まみれの廃屋がある。以下はそのアップ。

 下は、南浅川べり側からみた廃屋の正面。

 ・・・工務店だったらしい。下は南浅川にかかる横山橋。この橋を渡ってしばらく行くと甲州街道に出、それを越えるとすぐ中央線にぶちあたる。

 橋の右奥に見えるドーム屋根の手前下に保育園があり、それに隣接して稲荷森(いなもり)神社がある。五社巡り最後の社(やしろ)だ。

 神社の右手が保育園になっていて、その園庭と神社の境内とが渾然一体となり、それでも保育園は、境内を侵さないよう精一杯気を配っているのがわかる。社殿は、赤い大きなものと白いやや小ぶりのものとが並んでいるが、大きいほうが稲荷神社、小さいほうが浅間神社だ。

 この浅間神社は、元は神社脇の甲州街道へ出て高尾方面へ数分行ったところにある八王子市役所・横山事務所の敷地内に設けられた塚上に祀られていたのだが、甲州街道の拡張と事務所の改築のためにここへ強制移住させられた。そして、神社のご神木だけが今でも横山事務所の敷地内にひっそりとり残されている(後で知ったのだが、上の稲荷森神社内の稲荷神社も浅間神社同様、別の地から移されたようだ)。

 上がそのご神木だ。オオツクバネガシ(大衝羽根樫)というカシの一種で、植物学者のレジェンド牧野富太郎博士が高尾山で初めて発見した種であるそうだ。分布域が狭く、珍しい種類だそうで、八王子市の天然記念物に指定されている。日本各地の市でも同様の指定を受けているようだ。その珍しい大木が、かつてここに鎮座していた神社のご神木として崇(あが)められ、今もなお200年以上もの樹齢を重ねつつ健在なのである。

 これが説明板だが、植物事典(図鑑)の学術的説明文みたいだ。シロウトが読んでもさっぱりぴんとこない。さすがお役所仕事というべきか。ってことで、五社二寺巡りはこれにて終了です。

 

☆古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

☆アステカ帝国の興亡と帝国末裔の民が新国家「アストラン」を樹立し、435年後にオリンピックを招致・開催するまでにいたる物語⇒アステカ物語

☆宇宙の謎・地球の謎の迷路をへ巡る謎パーク別館⇒<Sui族館>☆


♪ 鎌倉古道ってものにチョット触れてみた

2018-12-20 15:30:09 | 日記

 1日おきに2~3時間ほど近所を徘徊していますが、隣の隣町の小比企というところから八王子みなみ野を経て相原七国(ななくに)峠を越える道・・・鎌倉古道なるものに触れてみました。

 小生の自宅から小比企までは15分ほどです。ここには磯沼ミルクファームなる牛の牧場もどきとか、総鉄筋コンクリート製五重塔を擁する雲龍寺とか、拝殿の海老虹梁(えびこうりょう)の彫刻が秀逸な社(小比企稲荷)とかがあります。小比企稲荷は由井第三小学校の隣にある小生の好きな小社で、以下がその写真。

 この神社の拝殿の一部である海老虹梁という聞きなれぬ名称はネットで検索して知ったもので、以下の引用図をご照覧あれ。

 浜床のすぐ上の引き出し線で示されている部分がそれです。拝殿正面の左右に1つずつあります。以下は左側海老虹梁の側面写真。

 右端の顔(木鼻(きばな)というらしい)は獅子ですが、胴体はどう見ても蛇身です。獅子と蛇(龍)との異種同体(キメラ)。海老虹梁(胴体部分)をこのように精緻に彫り込んであるものはとっても珍しく、ふつうはもっと簡略化したもの、ないしは無彫刻のものが大部分です。

 以下は木鼻。

 以下は拝殿右側のもう一方の海老虹梁の側面。

 うむ、ほんとに珍しい。そして見事です。

 これは海老虹梁(胴体部分)を下から撮ったもの。このほかにも、拝殿の正面、側面部にも素晴らしい彫刻があります。

 両木鼻にはさまれた拝殿正面の竜の彫刻。

 以下はこの神社の略史。

 略史の中で気になるのは「此の宮の建築に当たった棟梁は、飛騨内匠(ひだのたくみ)と称し、其の後日光東照宮の工事に当たったと伝えられる」というくだりです。飛騨内匠といえば、真っ先に思い浮かべるのは左甚五郎。そして、その飛騨内匠と称した棟梁は、其の後日光東照宮の工事に当たったとあるので、日光東照宮の眠り猫を彫った甚五郎とますますかぶってきます。

 また、「今日見る社殿や彫刻は、文政十一年(一八二一)頃より計画され、弘化4年(一八四七)に完成したとある」とあるように、海老虹梁の問題の彫刻は一八四七年に完成したのでしょう。Wikipediaによれば、「甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代 - 江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである」とあります。この神社の建築に当たった棟梁というのも、そうした意味合いでの左甚五郎であったといってもさしつかえはないのではないかと、一人妄想をもてあそぶ筆者であった・・・。東京のこんな片隅に、こんなサプライズが埋まっています。

 さて、この神社のすぐかたわらに湯殿川という小さな川が流れています。

  この川沿いを上流方向にしばらく行くと大橋という橋のたもとに着く。実は、京王高尾線山田駅方面からこの橋を経由して先へ延びてゆく道は都道506号線で、これから向かう相原七国峠へと通じる鎌倉古道の一部をなしているらしい。その古道は、この先で506号線から左へ分かれて七国峠へと向かう。

 古道をたどるべく大橋を渡って南へ延びる506号線を直進する。程なく沿道右に合気道の看板が現れる。道の反対側に左折する小道があるので、

506号線に別れを告げてそこを入り、狭い切り通しのような坂道を上る。

 切り通しの右側面に、こんなむき出しの点景が。

 坂道を上りきる と、すべての障害物が払われて台地上に広がる小比企の畑風景が展開する。その中を畑道となっ た古道が南へ延びてゆく。

 道の左側。

 右側。右奥の山塊は高尾山。

 左奥に富士山。右奥に高尾山。

 畑道を終点近くまで進むと右側に延びてゆく小道が現れる。

 これがその小道。小道をたどってゆくと、おー、総鉄筋コンクリート製の愛すべき雲龍寺の五重塔が見える。

 道なりに進んでゆくと右手奥にお堂らしきものが見えてくる。

 これは垰山観音堂という。

 建物は比較的新しい。下は堂の右手にある祠内のお地蔵さん。

 このお地蔵さんは、かたわらの手書きの由緒書きによると、元はここより南のみなみ野の栃谷戸公園の西側辺りにあったが、みなみ野 の開発に伴い峠山観音の境内に移転した、とある。

 第何世かのご住職のお墓? 下は庚申塔。

 宝暦十二年(1762年)とある。

 もと来た道を引き返して古道の畑道に戻り、ひきつづき南へ向かう。坂を上がってゆくと東西に走る新しくて広い車道に出る。右手には農産物直売所、左手にはコンビニ『ミニストップ』がある。 車道の向こうは八王子みなみ野で、近年大規模にニュ-タウン化しつつあるところだ。 車道を横切り、みなみ野を突っ切って延びるメイン道路に入る。左の高台にはみなみ野中学校があり、道はやがてなだらかな坂となる。左手には住宅街、右手のくぼ地には造成地が広がり家が建っている。いま歩んでいるこの広い道というのは、今や見る影もない鎌倉古道のなれの果てというわけなのだろう。

 しばらく歩いて、傾斜面を利 用した栃谷戸公園、日野自動車21世紀センターを右手に見てさらに行くと、傾斜面後方に神社らしき建物が。

 さっそく戻って行ってみる。

 神社の側面。遠目ではちょっといけてる感じ。春日神社という。

 正面。

 ちょっとケバい感じ。貼り紙がしてあった。

 なんか、新しいわりには忘れ去られた社って感じ。

 神社をあとにして相原七国峠へ向かう。右手前方奥に巨大なタンク状のものが2棟建っているのが見えるが、ちらっとなので見過ごすかもしれない。東京都水道局の大船給水塔だ。やがて四差路の交差点に出る。これを右折して大船給水塔に向かうのだが、この道筋が鎌倉古道なのかどうかはわからない。けれど方角的には合っているはずで七国峠に向かっていることは確か。道の左手奥に目印の塔があるはずなのでそっちの方へ進む。やがて高台の上にそびえる給水塔が見えてくる。

 塔へ上る舗装された坂道を上りつめると給水所の入口に着く。

 右手奥に分け入るけもの道のようなところに進入する。

 うむ、巨大な塔が背後を圧迫する。それにめげずさらに進むと、道は樹林中に分け入る。

  しばらく行くと、あっけなく七国峠へ出てしまった。

 標識板下部の説明書き。

 どうも峠ってふうじゃないけど・・・。その昔は見晴らしが良かったのかしらん。左へ行くと大日堂へ行くとあるのでそのまま進む。

 うむ、これは確かに古道のようだ。やがて、出羽三山供養塔に着く。

 上の標識板地図のY字路の分かれ目のところにはその供養塔が。

 出羽三山といっているが、実際には中央にでっかく「湯殿山供養塔」とあってその左に羽黒山、右に月山と併記してある。つまり供養するご本尊は湯殿山であって、その守り神は大日如来。事実、供養塔右側の道の先には大日堂があるという。

 冒頭で小比企稲荷をご紹介したが、その社を出たところに湯殿川が流れていた。この川は北野街道とほぼ並行していて(というより北野街道が湯殿川と並行していて)、その水源は八王子市館町にある拓大国際キャンパス内にあるらしい。

 900年代、八王子あたりを支配していた横山党という武士集団の党首が朝廷の奥州征伐で苦戦した際に、 奥州の出羽三山の一つである湯殿山にお参りし、山伏の応援を得て敵の大将の首をとることができた。 以降、党首は湯殿山を信仰し、その守りの本尊である大日如来像を大日堂に安置した。その堂のかたわらには湧水の池があり、そこから流れ出る川を湯殿川と 呼ぶようになったという。 その大日堂のあった場所が、現在の拓大国際キャンパス内の奥だと言われている。

 で、なんとその大日如来が、八王子市館町の龍見寺の大日堂に現存している。拓大から湯殿川をいくらか下った先にあるお寺だが、いろいろの事情でその地へ移されたのであろう。

 これは大日如来を祀った大日堂。1381年(永徳年間)に大日如来を奉じて建立し、1849年(嘉永2年)に再建したものという。

  これが当の大日如来。銘があれば国宝にしてもふさわしいと言われたものだという。秘仏扱いなので普段は拝観できないが、毎年秋に実施される「東京文化財ウィーク」の会期中に限って観ることができる。

 ってことで、七国峠の出羽三山供養塔から大日堂へと向かうことにする。

 古道らしい雰囲気がよいですなぁ。

 杉木立の中を進む。やがて大日堂入口に到着。

 小さい看板なので見落としやすい(実は筆者も見落としてわざわざ引き返してきた)。脇の階段を上ってゆくらしい。けっこう急な上りだ。

 振り返ると

 やっと頂へ。

 祠がある。

 これが大日如来。

 この由来書を見ると、この大日如来は往時、七国峠中腹にある覚王院に安置されていたのを、一村一宮のお達しにより御嶽神社に移され、やがて流行病感染阻止の願いを込めて当時の若い衆の手により峠の頂上に祀られたとある。

 この看板を見ると、いかにもここが七国峠のように見えるが、もちろん本物はさっきの標識のあるところだ。

 さて、古道をさらに進むには、さっきの急な階段を下って古道へ戻らねばならないが、ここで恒例のチョンボをしでかす。

 この「鎌倉古道」という標識がいけない。ここは大日如来の由来書にもあったように七国峠の山の頂上である。広い意味では古道の一部をなしているのかもしれないが、古道そのものではい。ってのは後知恵で、この時はほいほい標識が指す左手方向の道を下ってしまった。着いた先は東京家政学院前の車道。本当は大日堂階段下の古道をたどって相原方面に出るはずだったのに。

 ・・・ってことで今回もトホホな結果となってしまった。八王子駅へと向かうバスに乗り、トコトコ家路につくことになってしまったわけなのであった。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

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♪古墳大国「群馬」をゆく & おまけ――Part3

2018-08-09 08:52:18 | 日記

 Part2からの続きです。

★大鶴巻古墳(地図中5番)

 浅間山古墳から500mばかりのところにある前方後円墳で、こちらはかなり整備されています。4世紀末から5世紀初頭頃の築造というから、浅間山古墳と同時期です。全長123mで、埋葬施設は浅間山古墳と同様竪穴式と推定されています。

 夕方の薄暗いコンディションでの撮影。

  以上で、今回の群馬古墳巡りは終了です。

  これで終わっちゃうのも何なんで、「おまけ」編として神奈川県(相模国)海老名市の「秋葉山古墳群」の探訪、それにもしページに余裕があれば海老名市の「相模国分寺跡」とか相模原市の「勝坂縄文遺跡」へも行っちゃおうかな?!

  で、まず秋葉山古墳群から

★秋葉山古墳群

 この古墳群は、前方後円墳が3基、前方後方墳が1基、方墳が1基、それと墳形が不明な未調査墳墓1基の計6基からなります。どれも小規模でありながら東日本最古級の古墳群というのがキャッチフレーズです。

 墳長60mを越える古墳で東日本最古級というと、静岡県沼津市の高尾山古墳(62m)とか長野県松本市の弘法山古墳(66m)などが有名ですが、前者が3世紀中ごろ、後者が3世紀末頃の築造とされています。

 秋葉山古墳群の中で最も古いとされている第3号墳は3世紀後半頃の築造ですが、残念ながら墳丘長は、破損している前方部を推定長で補っても51m。60mにはちょっと足りません(秋葉山古墳群の中で最大の墳丘長は第1号墳の59m)。

 ま、これらの古墳たちが最古を競ってはいますが、しかし、それも、あまり意味がないと言えばいえます。だって、3世紀に造られたする古墳はあちこちに散在するらしいし、それを話題にするたびに卑弥呼様が引き合いに出されたりするパターンはもう鼻についています。

 で、まあそれは置いておいて、この秋葉山古墳なんですけれども、どの墳墓も土がもっこりして草木が生えてるってだけで、どのもっこりが第何号墳だなんていうのもあんまり意味がないような気がして・・・。で、どれが何号墳かは言わずにおきます(単に時間がたっちゃったせいで、どの写真が何号墳か見分けがつかなくなっちゃってるだけ(-_-;))。

 まあ、こういう案内板があることはあるんですが。

 こうしたアスファルト道が墳丘をとり巻いています。

 人物の背後の土盛りが第3号墳です。この墳墓だけは墳墓入口の正面にあるせいで今でもなんとか見分けがつきます。

 3号墳のてっぺんには、コンクリート製の社があります。

 これからは、何号墳かは置いておいてどんどん載せていきますね。

 下は、さっきの第3号墳のてっぺんにあったコンクリート製の社(ほんとに社なんだろか)です。

 下は5号墳。標識があるのでわかります。

 さて、そろそろ古墳とはおさらばして海老名市の「相模国分寺跡」へとワープしちゃいましょう。

★相模国分寺跡

 中央の小高いテラス状のところがその上に七重塔を載せていたという基壇跡です。もっと寄ってみます。

 この上に高さ65mもあったという七重塔が建てられていたそう。ほぼ20階建相当の七重塔を、必死をこいて幻視しようとしたのですが・・・小生の乏しい想像力ではイマイチでした。

 下は相模国分寺の復元模型。

 下は海老名駅前に建てられた七重塔(海老名市のシンボルタワー)。

 実物の1/3に縮小してあるとのこと。

 奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇が発した「国分寺建立の詔(みことのり)」によって、各国に国分僧寺と国分尼寺が一つずつ置かれました。単に国分寺という場合は国分僧寺のことを指し、はるか後世、その寺が礎石だけしか残っていないような野っぱらに変わり果ててしまった跡に対しては国分寺跡などと名づけます。

 後世、国分寺の跡に後継の国分寺が建立される場合はいいのですが、ややこしいのは、国分寺の跡とは別の場所に後継寺院が建てられる場合があることです。そして、その寺院も当然のように国分寺を名のります。つまり、跡が付くか付かないかの違いはありますが、表面上、国分寺が二つあることになってしまいます。

 ここ神奈川県(相模国)の場合も、相模国分寺跡の近傍にやはり相模国分寺があります。東光山医王院国分寺といういかめしい名前です。

 さて、もう一つややこしいのが、単に国分寺と言った場合、国分寺跡のほうを指すのか、それとも後継寺院のほうを指すのかという問題です。

 ま、国分寺と言えば、なかば観光スポット化している国分寺跡のほうを指すのでしょうが、御朱印集めなどなさっている方々にとっては、後継寺院のほうを指すことにしてもらったほうがありがたいのでは。

 さて、国分寺跡から通りをへだてた向かいに「海老名市温故館」という海老名市立郷土資料館があります。

 

 この手の建物にしては手作り感ただよういい雰囲気のたたずまいです。入ってみます。定番の展示品はスキップして

 これは先ほど訪れた秋葉山古墳群の上空から見たレプリカです。手前左端から第4号墳(前方後方墳)、第5号墳(方墳)、第3号墳(前方後円墳)、第2号墳(前方後円墳)、第1号墳(前方後円墳)です。墳形不明な第6号墳は、第1号墳の右手奥にあります。

 これは、秋葉山古墳群第2号墳出土の水銀朱の付着した片口鉢。

 上の勾玉、管玉、小玉の発見については面白い話があります。

 それは、これらがほぼむき出しのまま発見されたということです。通常ならエッチラオッチラ掘って掘って掘じくって、かき分けかき分けしたうえ、よっぽどのツキに恵まれた時にだけしかお目にかかれない逸品です。それがむき出しのままで・・・よくぞ無事で、と思わずうなってしまいます。

 右下2枚の右側の写真が発見時の状況です。むき出しです。これでは出土ではなく拾得です。こんなこともあるってことですかねぇ。ちなみに左側の写真は鉄鏃(ぞく:いわゆる矢尻)で、これもむき出しだったんでしょうか。

 さて、次は相模原市の勝坂縄文遺跡へ参ります。

★勝坂縄文遺跡

 縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡ということです。この遺跡と、すでにご紹介した「秋葉山古墳群」「相模国分寺跡」をへ巡るのに相模線と相鉄線を利用したのですが、相鉄線を運営する事業主は相模鉄道株式会社で、相模線のそれはJR。なんかまごついてしまいました。だって相模鉄道株式会社が運営する路線だから相模線というのが普通なんじゃないでしょうか。

 ま、それはいいとして、この勝坂縄文遺跡では、下のような野っぱらに点在する縄文時代の竪穴式住居跡や、竪穴式住居のレプリカなどがあなたをお待ちしています。

 

 下は、ぽつぽつと2棟ばかり建っている竪穴式住居のレプリカ。

 もう1棟は小高いところに建っています。

 中の様子も撮ったんですが、暗くてちゃんとした写真になりませんでした。下は天井の明りとりのあたりを撮った、唯一、”まとも”と思われる写真です。

 下は、勝坂縄文遺跡が位置する相模原台地の原植生を現代に伝えるシラカシやタブノキなどを中心とする照葉樹林(左側)。

 林中に分け入ります。

 ただしこれは、天然林を伐採したあとに、自然の回復力で二次的に成立 した林(二次林)だそうです。

 この遺跡からは多くの土器や打製石斧が発掘されており、そのなかでも、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などの特徴を持つ土器は勝坂式土器と命名されています。下は、遺跡の管理棟内に陳列されていた勝坂式土器たち。

 はい、これで終了です。家路につきます。途中でチューハイかっくらっていきます。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

アステカ帝国の興亡と帝国末裔の民が新国家「アストラン」を樹立し、435年後にオリンピックを招致・開催するまでにいたる物語⇒アステカ物語

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