謎パーク

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♪古墳大国「群馬」をゆく・・・珍しく車でまわりました――Part1

2018-08-01 18:01:17 | 日記

 群馬県の古名は上毛野(かみつけの(ぬ))。墳丘長210メートルの太田天神山古墳をはじめ平野部の各地に100メートルを越える大型古墳がいくつも造られ、全県域の調査によって8,423基の古墳の存在が明らかとなり、全体では1万基以上が造られたといわれています。墳丘長200メートル以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、上毛野のみといわれるくらい上毛野(群馬県)は東日本最大の古墳大国なんです。

 徒歩でまわるにはあまりにも効率がわるいので、今回はかみさん運転の車におすがりしました。1泊2日の行程で、巡ったコースは次のとおりです。

1日目(10/10(月))

高崎I.C →22.観音塚古墳(群馬県高崎市八幡町)→21.保渡田古墳群(群馬県高崎市保渡田町)→20.蛇穴山古墳(群馬県前橋市総社町)→19.宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町)→18.天川二子山古墳(群馬県前橋市文京町)→17.前橋八幡山古墳(群馬県前橋市朝倉町)→12.藪塚温泉(泊)

2日目(10/11(火))

藪塚温泉 →12.西山古墳(群馬県太田市藪塚町)→10.女体山古墳(群馬県太田市内ケ島町)→11.塚廻り古墳群第4号古墳(群馬県太田市龍舞町)→9.太田天神山古墳(群馬県太田市内ケ島町)→8.朝子塚古墳(群馬県太田市牛沢町)→15.大室公園・大室古墳群(群馬県前橋市西大室町)→2.伊勢塚古墳(群馬県藤岡市上落合)→1.七輿山古墳(群馬県藤岡市上落合)→3.山ノ上古墳(群馬県高崎市山名町)→4.浅間山古墳(群馬県高崎市倉賀野町)→5.大鶴巻古墳(群馬県高崎市倉賀野町)→藤岡I.C

 上記コース中の各古墳に付せられた番号は、以下の地図中の番号と対応します(でも、実際にはその番号順には回っていません)。

 上記コースと以下の地図はともに『群馬の観光情報:群馬県観光物産国際協会』サイトさまの「観光モデルコース」というページから引用・拝借させていただきました(とはいってもこのサイトは今はなく、「ググっとぐんま」というサイトに衣がえしていて、引用・拝借させていただいたページも消滅しています)。

★観音塚古墳(群馬県高崎市八幡町 地図中22番

 浅間連山の山並みを眺めながら一路観音塚古墳をめざします。

 じゃーん、着きました。


 向こうに見える石垣の上に墳丘らしきものが見えます。古墳好きが胸をときめかせる瞬間です。石垣を登ってみます。

 6世紀末~7世紀前半の築造と推定される前方後円墳です。左側が前方部、右側が後円部だと思われます。右下の白い看板の右手奥が石室開口部です。

 中に入ってみる。

 ここが突きあたり。玄室です。

 天井をパチリ。

 すげえでっかい天井石。さらにどアップ。

 うーむ、でかい。何10トンもの重さを抱えたでかさだ。タタミ6畳よりも広く、重さは約60トンだという。奈良県の明日香村にある蘇我馬子の墳墓といわれる石舞台古墳と比べられ、群馬の石舞台などと呼ばれているそう(以下のイラストも含め、高崎市のサイトより引用)

 こちらは羨道の天井石。

 その天井石を支える石壁(左)

 同右。

 なんか石の祭典みたいになっちまった。わたくし、こう見えても巨石願望、廃墟願望なんちゅう持病をかかえたジジイなの。古墳はまさにその2つの願望を満たしてくれる得がたいモニュメントであって、かのエジプトの大ピラミッドだって巨石まみれの大古墳なんだぁのココロ。

 近くに観音塚考古資料館があるので行ってみる。古墳から出土したさまざまな副葬品を展示していた。ここで小生が撮ったピンボケ写真をお見せするより、こちらの「高崎市」のサイトをご覧になってくださいまし。

★保渡田古墳群(群馬県高崎市保渡田町 地図中21番)

 次の古墳は、ドラマチックな復元ぶりで知られる保渡田古墳群です。

 車窓に群馬のランドマーク浅間連山を眺めながら一路、保渡田古墳群をめざします。

 ジャーン、着きました。二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳からなる古墳群で、5世紀後半~6世紀前半の築造とされています。

 これは八幡塚古墳。過剰とも思える復元ぶりです。

 墳丘全体に葺石が敷き詰められています。この葺石についてちょっと調べてみたのですが、なにか奥歯にもののはさまったような記述が多く、イマイチはっきりしません。あの奈良県の箸墓からも葺石が見つかったそう。古くて大きい前方後円墳は、おおむね葺石で覆われていたと勝手に解釈しています。

 墳頂。後円部から前方部へのスロープ。

 葺石で覆われた丸いマウンド(中島)の設けられているところが内堀。通路(内堤)をはさんだ向こう側に外堀があります。

 以下は中島の説明板。

 中島は古墳の長径方向の左右に2個ずつあります。造り出しといって、前方後円墳のくびれ部から半円形もしくは方形に張り出した壇状の施設をもつものがありますが、本古墳の中島は墳丘からは切り離されて島のように独立しています。これは全国にも例のない保渡田古墳群独特の地方的特徴だそうです。

 後円部の頂きになにやら地下に降りる階段があり、降りてみると、この古墳に埋蔵されていた本物の舟形石棺(長さ2.8m、幅1.2m)がありました。

 古墳の外の内堀の内堤に54体ほどの埴輪群が置かれていました。

 こちらはコスモスに囲まれた二子山古墳。

 八幡塚古墳よりほんのちょっとこちらのほうが大きいようです。

 階段を登り墳頂へ。

 向こうに八幡塚古墳が見えます。

 これは古墳のくびれ部です。右手に中島が見えます。

 次は、高崎市を離れて前橋市総社町にある蛇穴山古墳に向かいます。

★蛇穴山古墳(群馬県前橋市総社町 地図中20番)

 蛇穴山古墳は、総社古墳群の一角を占める方墳で7世紀末の築造です。7世紀の総社町の一帯は、総社古墳群や上野国(こうずけのくに)の国府・国分寺・国分尼寺があり、上野国の中心地でした。また、7世紀後半に創建された全国でも珍しい白鳳時代の豪壮・華麗な寺院跡である「山王廃寺跡」もあります。この廃寺跡からは「放光寺」「放光」という文字を刻んだ瓦が発見され、この寺が往時は放光寺と呼ばれており、このあと訪れる高崎市の「山上(やまのうえ)碑」に記録されている「放光寺」であったこともわかりました。

 総社古墳群は県内で唯一、前方後円墳のあと県内古墳の最終末期に方墳が3基つづいた古墳群です。その3基の方墳とは、古い順に愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳です。前置きが長くなってしまいましたが、さっそく蛇穴山古墳を紹介しましょう。古代総社町の最盛期ならではの精巧な造りが見ものですよ。

  駐車場の向こうにうずくまっているのが蛇穴山古墳です。墳丘を登って

 奥にある石段を降りて墳丘の裏側へ。

  推定復元図がお出迎えです。

 あたりには葺石が散乱しています。

 と、いきなり玄室入口とご対面(この古墳には羨道(小生はいままでこれを「せんどう」と読んでいたが、「えんどう」とも読むことをいま知った)がありません)。この玄室入口の造りを見ても、非常に精巧にできていることがわかります。

 下は玄室内部。

 奥壁、左右側壁、天井のそれぞれが長さ3m以上の1個の巨石です。

 巨石がぴったり組み合わさった精巧な造りです。これらの巨石は高崎市の観音塚古墳や観音山古墳よりは小ぶりですが、あちらがほぼ産地から切り出したままの巨石であるのに比べ、こちらの石は匠が腕をふるって加工してあるのがわかります。下は玄室入口側の石積み。右方が開口部です。

 次はすぐ近くの宝塔山古墳へ。

★宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町 地図中19番)

 こちらは蛇穴山古墳より大きく、一辺約60m、高さ12mの大型方墳です。堀を含めると一辺96mに達するそうです。

 3段構造なんですね。説明板の左方にある石段を登ります。

 階段を登る途中にもう1つ説明板が。

 左端にあるやつがそう。背後の石垣は葺石なんでしょうか。散乱していた葺石を集めて石垣に組んだとか?

 これが説明板。秋本氏の歴代墓地であるらしい(秋本氏は約30年間この地を治め、善政を施した・・・とあります)。この墳丘は古代の首長の墓であり、近世の領主の墓地でもあるんですね。

  秋本氏歴代墓地は墳頂にありました。

  蛇穴山古墳と同様、こちらも石室は墳丘の裏側にありました。

 石室入り口前になにかの蓋のような平べったい石がありますが、こりゃ何でしょう。

 石室内部です。羨道の奥の玄室に家型石棺がぼんやり写っているんですが・・・。

 もうちょっと寄ってみます。

 どうやら石棺が見えました。天井石には大きな一枚石を使っていますが、

左右の側壁は大小の石を積み上げているようです。蛇穴山古墳は1枚石でした。(ピンボケ御免)

 石棺ごしに奥壁を写しています。どうやら奥壁も一枚石のようです。

 古墳を出ると、すぐ近くに秋本氏の菩提寺である光巌寺(こうがんじ)があります。

 下は本堂。

 秋本家の廟所。

 白壁が美しい。

 近くに鎮座していた御霊神社。

 なんか小さな土盛りの上に建っていて、この土盛りを紅葉山といっているそうで、この小さな山(土盛り)も古墳であるらしい。

 次の古墳は天川(あまがわ)二子山古墳です。

★天川二子山古墳(群馬県前橋市文京町 地図中18番)

 全長104mの前方後円墳で、6世紀中頃の築造。前橋二子(ふたご)山古墳とも呼ばれます。二子山を名のる古墳の主なものは全国に7つほどあって、そのうち4つが関東にあり、3つが群馬県です(もう1つは埼(さき)玉古墳群中の1基)。群馬県の3つのうち1つは保渡田古墳群中の1基として先に紹介済みです。

 木々の向こうに前方後円墳らしいフォルムを見せて横たわっているのが天川二子山古墳です。

 くびれ部に上る階段。

 おなじみ「くびれ部」の官能的なスロープ。

 葺石です。

 ま、こんなところで天川二子山古墳をあとにし、次の前橋八幡山古墳に向かいます。

★前橋八幡山古墳(群馬県前橋市朝倉町 地図中17番)

 全長130mの全国的に数少ない前方”後方”墳です。4世紀後半頃の築造とされ、前方後方墳としては東日本最大、全国でも有数の規模を有するそうです。ちなみに国内最大の前方後方墳は天理市の西山古墳で、全長180mだそうです。これもやはり4世紀後半頃の築造です。

 wikipediaより引用

 前方後円墳も前方後方墳も、前方部と後円(方)部の境目にくびれがあります。埋葬施設は後円(方)部に設けられました。つまり、埋葬施設のあるほうが後ろです(ま、何事にも例外はつきもので、古墳によっては前方部のほうに埋葬施設があることもあるようですが)。

 ところで、前方後円墳という用語は、江戸時代の学者・蒲生君平が「山陵志」という書物の中で使ったのが最初だそうで、円形の部分が牛車(ぎっしゃ)の屋根、方形の部分が轅(ながえ:牛車の前に2本つき出した牛と車をつなぐ棒)のようであるとして、「前方後円」という言葉で表したそうです。それ以後、とりあえず方形の部分が前、円形の部分が後ろということになりました。

 その後、調査・研究が進み、円形部分は死者を葬った埋葬施設であること、方形部分はもともと円形部分に行くための通路だったところで、後に古墳の祭壇にあたる場所となった、という説が有力となりました。この説によれば、蒲生君平が方形の部分を前、円形の部分を後ろとしたのは正しかったことになる・・・というわけです。

 以上、古墳に詳しい方にとってはまさに「釈迦に説法」の御託でした。

 さて、前方後方墳というのは弥生時代の方形周溝墓の発展形とされ、当初は前方後方墳のみだったがやがて前方後円墳が登場し、しばらく共存時代が続いたあと後方墳は姿を消したといわれています。その出現期は古墳時代の初期に集中しており、前方後円墳に対して小規模なものが多く、また、東日本の出現期古墳の多くは前方後方墳だということもわかってきました。前橋八幡山古墳、そして群馬県のもう1つの前方後方墳である高崎市の元島名将軍塚古墳はともに、4世紀後半頃の築造とされ、ちょうどこの頃が群馬県における古墳出現期なのであり、前方後円墳に先立って前方後方墳が盛んに造られた時期なのでしょう(今ではほとんど残っていませんが)。つまり、前橋八幡山古墳、元島名将軍塚古墳、そして前橋天神山古墳(こちらは例外的に前方後円墳。後円部のみがかろうじて残存。4世紀中葉頃の築造)といったところが、群馬県における最古級古墳だといえるでしょう。

 写真がただの1点のわりに、能書きばかりが多くなってしまいました(-_-;)。

 5時も過ぎ、今日はここまでにして宿泊地である太田市藪塚温泉に向かいます。

★西山古墳(群馬県太田市藪塚町 地図中12番)

 太田市藪塚町にある藪塚温泉で一泊。きのう、ちょっと見かけた「西山古墳入口」という標識が気になったのでそっちへ向かうと、

 なんかこんな案配のところに出ました。奥に鳥居も見えるし、なにやら絵看板もある。

 まず、絵看板

 なにかの歌碑であるらしい。

 あの子は たあれ たれでしょね なんなつめの花の下 お人形さんとあそんでる かわいいみよちゃんじゃないでしょか

 昭和のおん時、戦前から戦後にかけて童謡なるものがおおいに人口に膾炙(かいしゃ)した時期があった。昭和の20年代から30年代頃が花盛りで、童謡少女歌手などは、今でいうアイドルとして大層もてはやされたもんじゃ。「歌のおばさん」なる年増の歌手もおって、おおいに気を吐いていておったぞ。上の歌碑はそんな童謡(わらべ歌)の一つでの、戦前の歌じゃ。作詞者の細川雄太郎という人が、ここ藪塚でその歌をつくったということで歌碑が建てられたということじゃ。歌詞にはあの子は「たあれ」となっておるがな、これは発表時は「だあれ」であったものを、作曲者の海沼 實という人から濁音は汚いとたしなめられ、濁点をはずしたということじゃ。

 歌碑のすぐ近くに神社があります。

 凛としたよいたたずまいだと思うのですが。大山祇(つみ)神社だそうです。

 いったん道路に出て、西山古墳の標識のところに行き

 山中に(ってほどじゃないけど)に分け入ります。

 ひたすら(ってほどのもんじゃないけど)林中を上っていくと、じゃーん、ありました。

 ここは今回のコースには入っていない予定外の古墳で、何の予備知識もないところだったので、見つけたときの「ヤッホー」感がなかなかのもんだったのです。

 石室入口。中へ入ってみます。

 補強がしてありますね。玄室には何もありません。

 天井はコンクリートで覆われています。天井石はどんな様子だったのでしょうか。

 側壁。以下は出口。

 全体像が見えないので、はっきりわかりませんが、全長34mの前方後円墳だそうです。

ここでブログの文字数制限(30000字)にひっかかってしまいました。続きはPart2へ・・・。

 

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