謎パーク

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♪古墳大国「群馬」をゆく & おまけ――Part3

2018-08-09 08:52:18 | 日記

 Part2からの続きです。

★大鶴巻古墳(地図中5番)

 浅間山古墳から500mばかりのところにある前方後円墳で、こちらはかなり整備されています。4世紀末から5世紀初頭頃の築造というから、浅間山古墳と同時期です。全長123mで、埋葬施設は浅間山古墳と同様竪穴式と推定されています。

 夕方の薄暗いコンディションでの撮影。

  以上で、今回の群馬古墳巡りは終了です。

  これで終わっちゃうのも何なんで、「おまけ」編として神奈川県(相模国)海老名市の「秋葉山古墳群」の探訪、それにもしページに余裕があれば海老名市の「相模国分寺跡」とか相模原市の「勝坂縄文遺跡」へも行っちゃおうかな?!

  で、まず秋葉山古墳群から

★秋葉山古墳群

 この古墳群は、前方後円墳が3基、前方後方墳が1基、方墳が1基、それと墳形が不明な未調査墳墓1基の計6基からなります。どれも小規模でありながら東日本最古級の古墳群というのがキャッチフレーズです。

 墳長60mを越える古墳で東日本最古級というと、静岡県沼津市の高尾山古墳(62m)とか長野県松本市の弘法山古墳(66m)などが有名ですが、前者が3世紀中ごろ、後者が3世紀末頃の築造とされています。

 秋葉山古墳群の中で最も古いとされている第3号墳は3世紀後半頃の築造ですが、残念ながら墳丘長は、破損している前方部を推定長で補っても51m。60mにはちょっと足りません(秋葉山古墳群の中で最大の墳丘長は第1号墳の59m)。

 ま、これらの古墳たちが最古を競ってはいますが、しかし、それも、あまり意味がないと言えばいえます。だって、3世紀に造られたする古墳はあちこちに散在するらしいし、それを話題にするたびに卑弥呼様が引き合いに出されたりするパターンはもう鼻についています。

 で、まあそれは置いておいて、この秋葉山古墳なんですけれども、どの墳墓も土がもっこりして草木が生えてるってだけで、どのもっこりが第何号墳だなんていうのもあんまり意味がないような気がして・・・。で、どれが何号墳かは言わずにおきます(単に時間がたっちゃったせいで、どの写真が何号墳か見分けがつかなくなっちゃってるだけ(-_-;))。

 まあ、こういう案内板があることはあるんですが。

 こうしたアスファルト道が墳丘をとり巻いています。

 人物の背後の土盛りが第3号墳です。この墳墓だけは墳墓入口の正面にあるせいで今でもなんとか見分けがつきます。

 3号墳のてっぺんには、コンクリート製の社があります。

 これからは、何号墳かは置いておいてどんどん載せていきますね。

 下は、さっきの第3号墳のてっぺんにあったコンクリート製の社(ほんとに社なんだろか)です。

 下は5号墳。標識があるのでわかります。

 さて、そろそろ古墳とはおさらばして海老名市の「相模国分寺跡」へとワープしちゃいましょう。

★相模国分寺跡

 中央の小高いテラス状のところがその上に七重塔を載せていたという基壇跡です。もっと寄ってみます。

 この上に高さ65mもあったという七重塔が建てられていたそう。ほぼ20階建相当の七重塔を、必死をこいて幻視しようとしたのですが・・・小生の乏しい想像力ではイマイチでした。

 下は相模国分寺の復元模型。

 下は海老名駅前に建てられた七重塔(海老名市のシンボルタワー)。

 実物の1/3に縮小してあるとのこと。

 奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇が発した「国分寺建立の詔(みことのり)」によって、各国に国分僧寺と国分尼寺が一つずつ置かれました。単に国分寺という場合は国分僧寺のことを指し、はるか後世、その寺が礎石だけしか残っていないような野っぱらに変わり果ててしまった跡に対しては国分寺跡などと名づけます。

 後世、国分寺の跡に後継の国分寺が建立される場合はいいのですが、ややこしいのは、国分寺の跡とは別の場所に後継寺院が建てられる場合があることです。そして、その寺院も当然のように国分寺を名のります。つまり、跡が付くか付かないかの違いはありますが、表面上、国分寺が二つあることになってしまいます。

 ここ神奈川県(相模国)の場合も、相模国分寺跡の近傍にやはり相模国分寺があります。東光山医王院国分寺といういかめしい名前です。

 さて、もう一つややこしいのが、単に国分寺と言った場合、国分寺跡のほうを指すのか、それとも後継寺院のほうを指すのかという問題です。

 ま、国分寺と言えば、なかば観光スポット化している国分寺跡のほうを指すのでしょうが、御朱印集めなどなさっている方々にとっては、後継寺院のほうを指すことにしてもらったほうがありがたいのでは。

 さて、国分寺跡から通りをへだてた向かいに「海老名市温故館」という海老名市立郷土資料館があります。

 

 この手の建物にしては手作り感ただよういい雰囲気のたたずまいです。入ってみます。定番の展示品はスキップして

 これは先ほど訪れた秋葉山古墳群の上空から見たレプリカです。手前左端から第4号墳(前方後方墳)、第5号墳(方墳)、第3号墳(前方後円墳)、第2号墳(前方後円墳)、第1号墳(前方後円墳)です。墳形不明な第6号墳は、第1号墳の右手奥にあります。

 これは、秋葉山古墳群第2号墳出土の水銀朱の付着した片口鉢。

 上の勾玉、管玉、小玉の発見については面白い話があります。

 それは、これらがほぼむき出しのまま発見されたということです。通常ならエッチラオッチラ掘って掘って掘じくって、かき分けかき分けしたうえ、よっぽどのツキに恵まれた時にだけしかお目にかかれない逸品です。それがむき出しのままで・・・よくぞ無事で、と思わずうなってしまいます。

 右下2枚の右側の写真が発見時の状況です。むき出しです。これでは出土ではなく拾得です。こんなこともあるってことですかねぇ。ちなみに左側の写真は鉄鏃(ぞく:いわゆる矢尻)で、これもむき出しだったんでしょうか。

 さて、次は相模原市の勝坂縄文遺跡へ参ります。

★勝坂縄文遺跡

 縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡ということです。この遺跡と、すでにご紹介した「秋葉山古墳群」「相模国分寺跡」をへ巡るのに相模線と相鉄線を利用したのですが、相鉄線を運営する事業主は相模鉄道株式会社で、相模線のそれはJR。なんかまごついてしまいました。だって相模鉄道株式会社が運営する路線だから相模線というのが普通なんじゃないでしょうか。

 ま、それはいいとして、この勝坂縄文遺跡では、下のような野っぱらに点在する縄文時代の竪穴式住居跡や、竪穴式住居のレプリカなどがあなたをお待ちしています。

 

 下は、ぽつぽつと2棟ばかり建っている竪穴式住居のレプリカ。

 もう1棟は小高いところに建っています。

 中の様子も撮ったんですが、暗くてちゃんとした写真になりませんでした。下は天井の明りとりのあたりを撮った、唯一、”まとも”と思われる写真です。

 下は、勝坂縄文遺跡が位置する相模原台地の原植生を現代に伝えるシラカシやタブノキなどを中心とする照葉樹林(左側)。

 林中に分け入ります。

 ただしこれは、天然林を伐採したあとに、自然の回復力で二次的に成立 した林(二次林)だそうです。

 この遺跡からは多くの土器や打製石斧が発掘されており、そのなかでも、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などの特徴を持つ土器は勝坂式土器と命名されています。下は、遺跡の管理棟内に陳列されていた勝坂式土器たち。

 はい、これで終了です。家路につきます。途中でチューハイかっくらっていきます。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

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