謎パーク

いろいろな謎を考える。宇宙とか地球とかに関する謎や中南米謎の古代文明だとか。それとあっちこちの白昼の徘徊夜話だとか。

♪八王子の川口町とその周辺がなかなか面白い

2018-01-07 12:18:57 | 日記

 去年(2017年)の2月ごろ八王子の北浅川渓谷(渓谷ってほどのもんじゃないけど)のヘマ・レポートをアップしましたが、この渓谷は上壱分方町というところにあります。

  この町の南側には弐分方町があり、風変わりな町名だなと前から気になっていました。ネットで調べると、この両町があった地域は鎌倉期から戦国期にかけては由比本郷と呼ばれ、1313年に領主が死ぬとせがれ二人がお定まりの遺領争いを演じ、一方が遺領の3分の2、もう一方が3分の1を相続したそう。そこで前者の所領を弐分方、後者の所領を壱分方と称したのがその始まりだといいます。このあたりの一帯には遠く平安時代、由比牧という国営の牧場があったそう。

 この由比(由井)という地名ですが、現在の八王子市には由井町というのは存在しません。由井村というのは明治時代まで存続していましたが、この村は由比牧があったエリアとはまったく無関係の地域(小比企村、片倉村、宇津貫村、北野村、打越村、西長沼村)が合併してできた村です。

 由井村の一部である小比企村というのは現在の小比企町なのですが、おもしろいことにgoogleで「由井企町」と検索すると以下のように結果が出てきます。

 たぶん、由井と小比企がひっからまってありもしない町名として登録されてしまったのでしょう。町名というより駐車場の名前とされているようです。

 ただ由井を冠した名前の小中学校は八王子に存在して、由井第一小学校は打越町、由井第二小学校は片倉町、由井第三小学校は小比企町(以上3校は明治時代創立)、そして由井中学校は片倉町にあり、各町はみな旧由井村にありました。また、八王子市役所の出先機関である由井事務所というのが片倉町にあります。

 さて、本題の川口町についてですが、この町は上壱分方町の北を流れる北浅川の対岸に広がっています。去年の11月7日と11月29日の2回に分けて訪れました。以下が11月7日に歩いたコースです。

 一悦庵瞽女宿跡→八王子市最古の馬頭観音→桜株の首無し地蔵→浅川稲荷神社→川口中学入口→川口兵庫介館跡→調井神明神社

 はは、初めて行ったのでこれくらいしか行けませんでした( ;∀;)。

 一悦庵瞽女宿跡というのは、戦後22、3年頃まで、川口に実際にいた三味線を弾きながら歌をうたい門付けをして歩く瞽女(ごぜ)さんたちのための専用宿舎跡です。

  以下の写真の右端にあるのが瞽女さんの墓。そばに「川口瞽女 イト タカ 墓」と読める板が立っています。 

  ちょっと切ない・・・。

 次に訪れたのが八王子市最古の馬頭観音というふれ込みの石像。

 なんか”最古”という感じがしません。なんでも元禄四年(1691年)の作だそうで、八王子市内に現存する最古の馬頭観音だということです。わたし個人としては、八王子にはもっと古い馬頭観音がごろごろあると思います。

 次は桜株の首無し地蔵。

 三体の地蔵さんに首がありません。このあたりは首切り場という処刑場があったと伝えられている心霊スポットらしいです。

 以下は地蔵さんの近くに店開きしているタコ焼き屋さん。

 店主いわく、心霊スポットを当て込んで商売しているそう。乞う商売繁盛。

 しばらく歩いて浅川稲荷神社へ。

 児童公園内にある神社。浅川神社を名のるお宮は八王子に3つほどあるみたいで、この神社はその一つ。他は裏高尾にある浅川神社、もう一つはJR高尾駅の南のこんぴら山頂に鎮座する浅川金比羅神社で、オーストラリア人女性の神主さんがいたことで知られています。

 この浅川稲荷神社の由来はわかりませんが、境内に「調井(ととのい)の生き石」という大きな石が置かれています。

 言い伝えによると、歳をとるごとに大きくなるそうでその名も生き石と呼ばれ、川口、元八王子あたりに多くの信者があったそうな(日本昔ばなし番外編)。

 川口中学入口の信号へとささやかにワープして、信号近くの小高い丘上にある「川口兵庫介館跡」というのに行ってみる。

 やけに立派な石碑が立っている。川口氏というのは室町時代の川口の地頭で、兵庫介の時代に最も栄えたといわれる。兵庫介は地元長楽寺の薬師如来像や上川町円福寺の大般若経など貴重な文化財を残しており、山村(失礼)にしては珍しく古い寺院が多いのもうなずける。

  この石碑の立つ丘は「調井(ととのい)台」というらしい。なんでも、豊臣軍が八王子城攻撃の時に、ここで甲冑を着用した(調えた)という。また一説には、豊臣勢が八王子城を攻略するにあたり、上杉隊の武将と城内に詳しい平井某とが調略をした場所なのだという。

 調井台の小道を南へ進み、途中から山林を分け入って下ると調井神明神社という社が鎮座している。住宅に埋もれて、ひっそりかんと音がしそうなほどにひっそりしている。

 

  お社。

 小生はこうしたひっそり・こっそり感ただよう風情をこよなく愛する者です。

 さて、ここから20日ほど経った1月29日の散策コースに入ります。予定としては

 延寿院→浅間塚→「子抱き土偶」(宮田遺跡)→第六天王→龍生寺→熊野神社→弁天池→勝軍地蔵→長楽寺→滝ノ沢の庚申塔と念仏地蔵→稲荷社→倶利迦羅不動→野辺の石仏集積コーナー→上ノ原縄文遺跡→釜の沢石仏群→八雲神社・熊野神社→三光院→森下の石仏<馬頭観世音・庚申塔>→幻境の碑

 などという盛沢山なメニューをネットを参照してでっちあげましたが、どうせすべては回れないでせう。

 さて、調井台の細い小道を南へ進むどこまでも(ってほどのもんじゃないけど)。すると延寿院というお寺に着く。

  当初、小石川白山指ヶ谷町(かつて文京区に存在した旧町名)に蓮華寺の塔中として創立され、その後荒廃期を経て昭和42年都市計画により現在地へ移転。下は本尊の大黒尊天の像。

 元禄年間の作だそう。

 延寿院の裏手の雑木林中の小道

をひたすら進むと踏み跡程度の伐採尾根に出る。ここからの景色の風情がなかなかよい。

 そうでもないか。ただ、何もない雑木林を抜けていきなりこういう風景に出くわすとけっこう感動するものなのよ。写真ではその風情がちょっと伝わらないかも。尾根道をなおもたどって左方を見ると

奥にカーブして延びる道がある。そこを入っていくと

こんな風な塚がある。浅間塚と呼ばれているがどうやら古墳らしい。昔はもっとでかかったのだろう。

 石棺の一部らしきものが露出している。

 人知れず埋もれる古代の息吹にうっとり。

 ・・・ほれっ、さっさとゆかんかい、次だ次。尾根道をなおもゆく。

 

 このあたりから北に下ったところに宮田遺跡ってのがあって、「子抱き土偶」という逸品が発掘されたという。

  

 実物は国立歴史民俗博物館の展示ブースに鎮座している。子供を扱った土偶としてはかなり有名なものらしい。

 宮田遺跡なる発掘跡へ行っても、畑とか住宅なんかに占領されているに決まっているから行かないことにする。

 えっと次の目的地は第六天王。これです。

 はは、石碑(石の祠)だけが路傍に無造作に置いてあるだけ。第六天王というのは織田信長もそれを自称していた天界の魔王で、仏敵とされています。信長は比叡山延暦寺焼き討ち、一向一揆殲滅、石山本願寺攻略など、仏教の武闘派を目のかたきにしていたから、自ら仏敵たる第六天魔王を名のったのでしょう。第六天を名のる神社(第六天神社、第六天魔王神社、第六天宮、第六天社など)というのは東日本にしかなく、西日本には皆無だといいます。これは信長の天下を簒奪した豊臣秀吉が信長の奉ずる第六天の神威を恐れ、自らが拠点としていた西日本の第六天神社をことごとく廃社にしたためらしい。

 なぜ仏敵とされた魔王を人々はうやまったのか。丁重に祀り上げて、その絶大な魔力をもって身辺にふりかかる災厄をふりはらってほしいという魂胆でもあったのか。今でも、この第六天王なる神は謎のままに祀られているようだ。

 第六天を名のる神社は八王子にもある。以下は片倉町の第六天宮。

 社は階段の上にあります。屋根がちょこっと見えている。ちっちゃな神社がたいていそうであるようにこの社も物置に毛のはえたような造りです。

 下は元八王子町にある第六天魔王神社。階段上に三角屋根の社があります。

  藤の花に似た白い花が印象的でした。小生は重篤な花の名音痴なので花の名前が言えません。第六天神社は犬目町にもありますが、こちらは大六天神社と名のっています。そのほかにもいくつかありますが、多くは末社として祀られているようです。また都内にあるものは、おおむね八王子のものより立派です。

 川口町巡りに戻って、次の目的地は龍生寺(りゅうしょうじ)です。ま、普通の禅寺です。

 次は熊野神社。

 龍生寺のお隣です。

 熊野神社はどこへ行ってもあります。ちなみに日本で最も多い神社は八幡様だそう。以下は日本の多い神社ベストテン。熊野神社は第5位です。

 第1位 八幡信仰 7817社. 第2位 伊勢信仰 4451社. 第3位 天神信仰 3953社. 第4位 稲荷信仰 2924社. 第5位 熊野信仰 2693社. 第6位 諏訪信仰 2616社. 第7位 祇園信仰 2299社. 第8位 白山信仰 1893社. 第9位 日吉信仰 1724社. 第10位 春日信仰 1072社

 龍生寺の前には弁天池があります。

 池中の島(中の島)に弁天様が祀られています。このあたりは十二社(じゅうにそう)と呼ばれる古い集落ですが、新宿区西新宿の四丁目近辺の旧地名・通称地名がやはり十二社でした。十二社池という池があり(もちろん今はない)、かつては隣接する十二社大滝とともに江戸の景勝地となっていたそう。近辺は色町でもありました。

歌川広重の「名所江戸百景」の角筈熊野十二社。十二社池が描かれている。(wikipediaより)。

 往古、ガキの頃、それがし、新宿に住まいしておった。十二社方面にもよく行った。熊野神社なんかもあったりしてな。十二社池もあったが、色里のすさんだ、さびれてくすぶり果てた淫靡な気配の投げやりな残り香みたいなものがただよって、ガキやジャリが気楽に入り込んでゆけるような雰囲気じゃなかったのを覚えている。

 川口町に戻って、お次は弁天池すぐ近くの勝軍地蔵。これです。

 これに念ずれば、戦いに勝ち、宿業・飢饉などを免れるといわれている地蔵さんで、近くは出征兵士の無事帰還を祈ったそう。この他に火防(ひぶせ)の仏として、災難除けの信仰や、痛みを伴う病気にご利益があるという。

 長楽寺へ向かいます。川口兵庫介の残した鎌倉期の薬師如来像で知られる寺です。いかにも里山のお寺って感じ。

 薬師如来像は住職の許しを得ないと拝観できないらしいのですが、その住職はほとんどここにいないのです(-""-)。いちおう写真だけでもネットから拝借して。

 では、いよいよ本日のハイライトである滝ノ沢に向かいます。途中の風景。

 なんか神仏関連の石造物の破片が捨てられているところがありました。

 滝ノ沢に入りました。まず庚申塔と念仏地蔵です。

 どちらも江戸時代中期のものです。花が供えられています(^^)。ネット情報によると左側の庚申塔には、いちばん上に月と太陽と雲、その下に青面金剛という手が6本ある神様、神様に踏みつけられた交合している猿、さらにその下に見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が彫り込んであるそう。塔に刻まれた文字には、女たちの手によって建立されたことが記されているらしい。

 ああ、ダメな俺。上のような念入りな観察ってのは面倒でまったくできない。めくら同然。それでもこりずにこういうもんが好きなんだから、どうなってるんだろ。

 気をとりなおして、さらに進むと左手にお稲荷さんが見えてきました。

 さて、これから山中に分け入ります。

 なおも登ります。かなり急です。

  ハーハー、つ着きましたぜ、おぜうさん。これが本日の目玉なのだ!

 写真の上三分の一あたり、そのほぼ真ん中あたりに奇っ怪な石像があるのがわかりますか。こちらはそのどアップ。

 こんな山中に、な、何ざんしょう、こりゃまたいったい。もっとずっとよいお写真を、こちら倶利伽羅不動尊の像と碑から拝借しました。これです。

 上記写真拝借先リンクからの情報によると、この像は倶利伽羅不動尊といい、大きいほうが明治29年(1896伝聞)、小さいほうが安永 5年(1776伝聞)作ということです。湧水のあるところに祀られているらしい。そういえば、この像が安置されているところは沢沿いの傾斜地です。水神として祀られているのでしょう。

 山中でひっそり恐ろし気にあたりを睥睨している孤独な不動尊・・・いいなぁ。

  山を降りてしばらくゆくと野辺の石仏集積コーナーみたいなのがありました。金網で囲ってある。

  花がたむけられています。このあたりの人々は信心深いのでしょう。

 次の目的地は上ノ原縄文遺跡。金精稲荷という小さな祠の脇をのぼってゆくと広い台地に出ますが、ここから縄文期の敷石住居址やおびただしい数の石器・土器などが出土したのだといいます。

 今はただの畑。

 釜の沢の石仏群へと向かいますが、以下はその途中の風景。

 彼方に大岳山の特徴あるシルエットが浮かぶ。

 釜の沢石仏群といっても、石仏群ってほどのもんじゃない。先の石仏集積コーナーに毛の生えた程度のもの。道祖神・庚申塔・石塔・念仏供養塔などが並んでいる。

 森下のバス停へと向かう途中、八雲神社というお宮があったので寄ってみる。ところでこのあたりはもう、川口町ではなく隣接する上川町だ。

 ご覧のように低い鳥居の脇にひょろ高い木が立っている。この神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭神とするお宮で、スサノオが新婚の妻を厳重に護るための宮殿を作ったときの歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲にちなむ神社だという。総本社は京都の八坂神社。ただし熊野神社とも合祀されていて、鳥居の扁額にも両神社の名前がある。

 古そうな石仏たち。

  そして紅葉。

 さて、八王子で八雲神社といえば、ほとんどの人が元横山町の八幡八雲神社を思い浮かべるのではないか。八王子創始の神として、八王子草創の地主神である八幡神社、そして八王子の地名起源の神である八雲神社とを合祀した豪勢な神社だ。八雲神社の祭神「素盞鳴尊(スサノオノミコト)」は牛頭天王と同一視され、その牛頭天王は八王子城の守り神として八王子神社(八王子権現)に祀られた。

 八幡八雲神社の由緒書きによると、八王子城落城の時、城兵は牛頭天王の神体を奉戴し、川口村黒沢の地に密かに逃れ、北条氏残党の氏神として崇敬していたという。ところが大洪水のため神体は流失し、ついに八王子新町(元横山町の東側)の北なる板谷ヶ淵に漂着。新町の百姓五兵衛という者がこれを発見し、後に八雲神社として八幡神社の社内に遷座したという。

 上で言う「川口村黒沢の地に密かに逃れた牛頭天王の神体」を祀ったのが八雲神社Aであるとすると、この神社が小生が訪れた上川町の八雲神社Bなのであろうか。黒沢は今は川口町に隣接する上川町に属しているが、この黒沢と八雲神社Bとは昔は川口村に含まれていたかもしれず、八雲神社Bがまさに黒沢の八雲神社Aのことなのだとしてもそう的外れではない気がする。ところが肝心の地元では、八雲神社にまつわるその手の伝承はないらしい。

 さらに不可解なのは、八雲神社Bと合祀されている熊野神社はかつては黒沢にあり、八雲神社Bへ遷座したあとは廃社となって今もその社跡が残っているということだ。この熊野神社とのかかり合いというのも何か気になるところである。

  さて少し先、坂を上がったところに三光院というお寺があったので行ってみる。

 

 晩秋の色に染まっています。

 ってことで今回のお散歩はジ・エンド。バス停に向かいます。バス停のすぐ近くに古い馬頭観世音と庚申塔があって森下の石仏と呼ばれているそう。

 森下には北村透谷ゆかりの幻境の碑というものがあるらしいのですが今回はスルーしました。

 

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