謎パーク

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♪古墳大国「群馬」をゆく・・・珍しく車でまわりました――Part2

2018-08-07 17:09:01 | 日記

Part 1からの続きです。まず女体山古墳から。

★女体山古墳(地図中10番)

 なんともなまめかしい名前の古墳です。隣接する男体山古墳(太田天神山古墳の別名)とのペアリングでこういう名前に。

 帆立貝形の古墳で、墳丘の全長は106mあるらしいのですが、なんともメリハリのない写真です。以下は上空からのお写真と俯瞰図です。

 上の2点とも太田市のホームページより引用

 まん丸・こんもりなご近所の林って感じですね。俯瞰図を見ると、なるほど東日本最大の太田天神山古墳と隣接し、お互いにほぼ同一時期(5世紀中頃)に同一方向を向いて築造されています。このことから、両古墳には密接なつながりがあると推測されています。

 太田天神山古墳がこんなに近いのだからそっちへ先に行くべきなのでしょうが、なぜかちょっと離れた塚廻り古墳群第4号古墳ってとこへ先に行っちまいました。

★塚廻り古墳群第4号古墳(地図中11番)

 水田地帯を探し回って、人にもたずね、やっと見つけました。昭和52年に偶然発見されたという帆立貝形古墳群の1つ。今回の古墳探訪で水田の中にある古墳というのはこれだけです。

 あたりはこんな田園風景。

 やっと見つかった!

 埴輪殿とご対面。

 なおも寄ります。

 6世紀前半の築造という、長さ22.5mの小さな古墳です。ここまでくるとかわいらしい。子供が見たら喜ぶんじゃなかろうか。

 帆立貝形古墳は、埋葬施設である円形部と、そこから突き出た造り出しを特徴とする墳墓です。前方後円墳の前方部が小さくなり造り出しへと姿を変えたものといってよいでしょうか。

 さて、次は東日本最大の太田天神山古墳です。

★太田天神山古墳(地図中9番)

 全長210mの前方後円墳、5世紀前半~中期の築造。200mを越す東日本唯一の古墳で、別名男体山古墳。小生のような日頃せこい墳丘しか見られない輩にとっては、これはまさにアウト・オブ・スケールでまさか古墳とは思わず、うっかり通り過ぎてしまいそうです。

 荒らされまくっており、出土品としては埴輪類や土師(はじ)器類がかろうじて見つかったという程度です。

 埋葬施設は竪穴式(墳丘のてっぺんから穴を掘って埋葬施設を設ける)が推定されています(未調査)。竪穴式は古墳時代の初めから中頃までに多く見られ、それ以後は横穴式(墳丘の横っ腹に穴を掘って埋葬施設を設ける)のものが主流になっていきました。今回の古墳巡りでは、竪穴式古墳と横穴式古墳の比率はほぼトントンでした。もっとも未調査のものも多く、特に竪穴式のものは推定が多いという特徴があります。

 上はおなじみ「くびれ」部。左側に見えるちっちゃな建物は神社です。

 これが神社。おんや、地には花が・・・

 ってことで、次は朝子塚古墳に向かいます。

★朝子塚古墳(地図中8番)

 太田市の古墳探訪の掉尾をかざるのは朝子塚古墳です。全長123.5mの前方後円墳で、群馬県の古墳出現期後期である4世紀末~5世紀初頭頃の築造。

 ろくな写真が撮れなかったのでお借りした写真をお見せします。

 埼群古墳館より引用

 ちゃんと手間ひまかけて撮った写真を見るとなかなか立派な墳丘です。

 恥ずかしながらあたしが撮った写真は・・・

 古墳なんていうでっかいものの直近を撮ってるんだから、まさに「群盲、象をなでる」状態ですな。うんと距離をおいて撮れればいいんですが、たぶん位置がわるくてカメラをひけなかったんでしょう。下の航空写真でいうと、左斜め上へ向かう車道上でうろうろしてたんじゃないでしょうか。ちょっと先へ行って左へ折れればいいポイントがありそうなのにね。でも、下の写真がいつ撮られたかにもよりますね。そうとう昔に撮られたもので、いまじゃ、古墳のまわりは家だらけだったりして(お前、現地に行ったんだろう、それくらい覚えてないのか・・・(-_-;))

 太田市のホームページから引用

 次へ向かいます

 ★大室古墳群(地図中15番)

 この古墳群は大室公園内にあります。 

  埼玉県の埼(さき)玉古墳群には及びませんが、ここも大小の古墳群と中心にあるごく小さな湖(はは、沼です)と豊かな緑からなる歴史公園です。wikipediaによると、「日本の古墳のなかでも早い時期から学術的な調査が行われたことで有名である。1878年(明治11年)には豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の陵墓候補地に挙げられていた前二子古墳の発掘調査が行われ、石室より発見された数多くの遺物は、当時の世間の注目を集めた」ということで、全国から見学者が殺到し、その数5179名に及んだということです。当時の人々の歴史に対する関心はすごいと思います。豊城入彦命の陵墓というだけでそんなにも大勢の見学者が集まるんだから。

 豊城入彦命については、本ブログの「なぜか群馬県、なぜか倉賀野、そしていにしえの奥津城(古墳など)たち――Part1」の倉賀野神社のところでも触れました。同神社の由来書きに「豊城入彦命が東国平定のために関東への下向途上、今の倉賀野神社境内にあたる場所にて斎場を設け、松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀した」としてあったのです。

 重ねて豊城入彦命の子孫である上毛野氏(かみつけののうじ)が東国で最大とされる太田天神山古墳(5世紀前半~中頃)を築造し、さらに、太田天神山古墳が造られる以前には東国最大の前方後円墳であった倉賀野町浅間山古墳(4世紀末~5世紀初頭頃)も上毛野氏によって築かれたのではないかという妄説も述べてしまいました。

 で、大室古墳群の前二子古墳が豊城入彦命の陵墓なのかどうかということについては、現在では何の根拠もない妄説としてしりぞけられています。ああ、妄説よ、妄説よ、なんじのしかばねを乗り越え、性懲りもなくどれだけの数の妄説が新たに産声をあげていることか。

 妄言はこれくらいにして、古墳の写真といきたいところですが、なぜか猫ちゃんが。

 なんか古代エジプトの猫(下)みたいな雰囲気。

 まだほかにも。

 この猫ちゃんたちはいったいなんざんしょう。にゃんとも不思議な古墳猫ちゃんたちでありました。

 大室古墳群には前二子古墳、中二子古墳、後(うしろ)二子古墳、小二子古墳などがあり、すべて前方後円墳です。

・前二子古墳

 豊城入彦命の陵墓になりそこねた前二子古墳です。全長94m、6世紀初頭の築造です。

・中二子古墳

 全長111m、6世紀前半の築造。大室古墳群の中では最大です。墳丘の平坦面や中堤には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。

 以上2つの古墳はほぼ同方向に並んでいましたが、後二子古墳と小二子古墳はそれらからは少し離れたところにあります。そこへ向かう途中、

またもや猫ちゃんが。

 公園のほぼ中央に位置する五料沼です。この公園は猫といい、でっかいクモといい、そして人物埴輪といい、妙に生き物の気配が濃厚なところです。

・後二子古墳

 全長85m、6世紀後半の築造。石室から発見された3本の歯から、被葬者は熟年の女性であることが判明したそうです。

 石室には何もありません。

・小二子古墳

 全長38m、6世紀後半の築造。埴輪の雰囲気がいいですね。

 後円部の背後からパチリ。

 ここらで大室古墳群には別れをつげ、次の群馬県藤岡市の伊勢塚古墳に向かいます。

 ★伊勢塚古墳(地図中2番)

 道路沿いにこんな標識があったので、古墳は近いかな思ったりして。

 たぶん、そうだったのだろう、向こうのほうにこんもりした塚状のフォルムが。

 着きました。

 この古墳は珍しい八角形古墳で、6世紀前半の築造とされています。

 石室の石積みに特徴があるみたいでよ

 

 天井石を見ると

 

 うーん、でかい。ここの天井石はなんか天然のままの巨石のようだけど。他の古墳の天井石の多くが巨大な切り石で表面が平坦であったのに比べ、この古墳では天井石よりも側壁のほうに独特のこだわりをもって――細長い石を小口に積んで、部分的には大きな石を配するなど装飾性に富んだ造りとなって――築造されています。

 このような側壁重視の古墳であっても、天井石だけは巨石を使うという日本の古墳独特の風習はここでも踏襲されています。何かこの風習には、宗教上の理由あるいは何らかの権力の誇示みたいな”いわれ”でもあるのでしょうか?

 さてお次は、伊勢塚古墳からほど近い七輿山古墳へ。

★七輿山古墳(地図中1番)

 「ななこしやまこふん」と呼ぶそうです。こちらも藤岡市にある古墳です。

 なかなか立派なたたずまいです。全長145m、6世紀前半に築造された前方後円墳です。6世紀代の古墳としては東日本最大級だそうです。

 墳丘のたもとに小さな石像群が。


 首が落ちてるものが多いですね。

 墳丘に登りながら、妙にわくわくしながらくびれ部をおがみます。

  またかようなものが・・・

 やはり首がない。首なし好き古墳ってか。

 葺石が散乱してます。

 古墳の埋葬施設は未調査ということですが、地中レーダー探査の結果、大規模な横穴式石室の存在が推定されているそうです。

 では、次の高崎市にある山ノ上古墳に向かいます。

★山ノ上古墳(地図中3番)

 この古墳は、高崎市の南吉井町と接する山村部(山名町字山神谷)にあります。山名町から吉井町一帯はかつては多胡(ご)郡と呼ばれていました。この多胡郡は、はるか昔の奈良時代に設置されたことが碑文からわかっています。その碑文とは多胡碑と呼ばれるもので、上野三碑(こうずけさんぴ:群馬県に存在する古代(7~8世紀)の石碑。山上碑「やまのうえひ」(681年)、多胡碑「たごひ」(711年頃)、金井沢碑「かないざわひ」(726年)の三碑をさす)のうちの一碑です。

 日本国内に現存する古代(7~11世紀)の石碑は18例しかなく、その内の3例が近接して残っていることが特筆に値するということです。これら上野三碑が、2017年、世界記憶遺産に登録されたことは記憶に新しいですね。そして三碑のうちの山上碑は、これから訪れる山ノ上古墳にあります。

 このあたりの丘陵中腹にあるということです。

 なるほど山の上にあるようです。山ノ上古墳というだけのことはあります。

 エッチラ、オッチラ登ってやっと着きました。

 標石の背後にある覆い屋の中に山上碑があります。

 これです。中が暗いのと撮影の腕が悪いのとでただの石塔にしか見えません。

 石碑にはこんな古代文字が刻まれています。

 白地に記された文字がそうです。上野三碑:山上碑及び古墳 | 高崎市によると読み方は

辛巳歳集月(しんし(かのとみ)のとしじゅうがつ)三日に記す

佐野三家(さののみやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫の黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川臣(にっかわのおみ)の児の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫の大児臣(おおごのおみ)に娶(とつ)ぎて生める児の長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定むる文也。 放光寺(ほうこうじ)僧

 となるそうで、文意をあっさりわかりやすく言うと

 辛巳年(天武天皇十年=西暦六八一年)十月三日に記す

佐野屯倉(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。この黒売刀自の子である放光寺の僧長利(ちょうり)が母の為に記し定めた文である。

となります。長利が母を葬った際の墓誌です。日本最古級の墓誌です。文中の屯倉(みやけ)とは、各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点です。また僧長利が勤めた放光寺とは、この群馬古墳巡りのPart1でご紹介した前橋市総社町の蛇穴山古墳のところで触れた「山王廃寺」のことであると推定されています。

 この文章は、文頭から素直に読み下せる立派な日本語です。もしこれと同じ文意を中国語で書き記したとしたら、日本人にはまるでチンプンカンプンでしょう。端的にいうと、日本人が「我は肉を食す(我 肉 食)」というところを、中国人は「我 吃 肉」といいます。主語+動詞+目的語という構文です(この構文だけでいえば英語と同じ)。この調子で日本語を中国語に置き換えられたら随分きついでしょう。

 つまりこの山上碑の碑文というのは、文字としては大陸から渡ってきた漢字を使ってはいるけれども、古代の日本人様が日本語の流儀にのっとり日本人にもわかるように、つまり、日本語の本来の語順で漢字を並べつらねて書き記した日本最古ともいえる日本語文章遺産なのです。古代の文章遺産としては、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文(471年)が有名ですが、あの文章の構文はまだ中国風に主語+動詞+目的語となっています。また、山上碑に先立つこと13年の日本最古の墓誌といわれる「船氏王後墓誌(ふなしおうごのぼし)」(668年)の構文も同様です。

 もちろん、当時の日本人で日本語の語順で文章を書くことができたのは相当な知識人であったはずで、それが都を遠く離れた上毛野国(かみつけののくに)の一僧侶にまで及んでいたということは、当時の日本語文字文化の広がり方が相当早かったことを物語っています。

 では古墳へ参ります。デジカメの電池が切れたりしてまともな写真が撮れなかったので、またまたお写真をお借りしました。謝 謝!

 関東の古墳&史跡探訪より引用

 直径15mの円墳です。その建立時期は山上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものと考えられています。山上碑の建立時期(=黒売刀自の埋葬時期)が7世紀後半(681年)なので、黒売刀自の父の墓ということで、数十年さかのぼって墓の建立時期は7世紀中葉にしているようです。

 

 上はスマホで撮った写真。

 かなり大きい石を精巧に組み上げてあります。

 玄室奥壁に安置された馬頭観音。

 上の写真2点とも関東の古墳&史跡探訪より引用

 馬頭観音については説明板がありました。

 ずいぶん詠嘆調な説明文ですね。

 では帰路につくことにします。

 途中で見かけた神社。

 こんなのもありました。

 山村の廃屋。

 コスモスがきれいに咲いていました。

 はい、次へ行きましょう。群馬県は高崎市倉賀野町にある浅間山古墳です。

★浅間山古墳(地図中4番)

 この古墳はとても荒れ果てています。wikipediaによれば

 群馬県内では太田天神山古墳(太田市)に次ぐ第2位、ひいては関東地方では太田天神山古墳、船塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳である。4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される

とあります。規模(全長171.5m)も古さも第一等の前方後円墳なのに、その場を訪れて現物を前にしても、古さは別としてその規模やフォルムはすぐにはうかがい知ることはできません。それほど荒廃していて、ちょっと見には野っぱらのこんもり風景にしか見えません(-_-;)。もしかしたら、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫である上毛野氏(かみつけののうじ)が太田天神山古墳築造以前に築いた古墳であるかもしれないのに・・・。

 もっと寄ってみます。

 もっと引いて撮らなければいけないのでしょうが、それに適したポイントがなかなか見つからない。5時過ぎていて、薄暗くなってきていたのでどこか余裕がなかったのでしょう。

 ああ、腰が定まらない。とてもいい写真が撮れる案配じゃありません。そこで、この古墳の全体像をうかがえる写真をお借りしました。

 埼群古墳館より引用

 この写真は「関東甲信百名墳」と名が入っているところから、絵ハガキか印刷物からとった写真と思われ、しかも撮影時期は冬場らしい。しかも相当以前に撮ったものでしょう。今は、こんなにきれいな全体象をとらえることはむずかしいのではないか。

 高崎市のホームページより引用

 Part3へ続きます。

 

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