謎パーク

いろいろな謎を考える。宇宙とか地球とかに関する謎や中南米謎の古代文明だとか。それとあっちこちの白昼の徘徊夜話だとか。

♪ 神社大衰退時代、五社二寺巡りなんてどう?

2020-09-14 11:22:41 | 日記

 近年、神社に元気がありません。小神社のほとんどは無人、ポツンと訪れる人もなく、しょんぼりたたずんでいます。どの神社もそれなりに由緒があって、氏子もそこそこいて、かつてはお詣りする人もあったのでしょう。

(上の神社は御嶽神社といって、縄文時代の遺跡・遺構がある椚田遺跡公園の裏手の窪地にひっそりたたずんでいます。「ここであそんでいる人」なんて見たことないし、最近の子供はほとんど外では遊ばないようなので、この看板を見るとなんかここへは来るなと言われてるみたい。「土足厳禁」とでかでかアピールしていたりして、なんか「なんでも厳禁しょぼくれ神社」といった風情。ま、お詣りする人なんてどうせ来ないし、そんならこっちから「ここへは来るな」とひらきなおったって感じ!?)

 小生のごく近所に2つの神社(大室神社、高宰神社)、そして少し足をのばした東浅川に1社(十二社神社)、さらに南浅川べり近くに1社( 三軒在家稲荷神社)、帰る途上の甲州街道へ抜ける途中に1社(稲荷森神社)、計5社の神社があり、それに加えてお寺も2つ(真覚寺、興福寺)、合わせて五社二寺が鎮座しています。だいたい、あちこちの神社仏閣を目にしてもほとんどが寺で、神社はすごく少ない。だから二社五寺はあっても、五社二寺というのはまれです。で、その実態はどんなもんか訪ねてみることにしました。上の写真のような了見の狭い寺社はないのでどうぞ御安心を。

 これは蛙合戦で知られた真覚寺というお寺の裏口のほとりにこじんまりと鎮座している大室神社(御室山おむろさま)。最近リニューアルされて、雑草まじりのむき出しであった地べたもタイルで覆われて、ずいぶん小ぎれいになった。このあと訪れる高宰神社の祭神の配偶神とも伝えられている。かつては小室権現社と呼ばれていたらしい。小室がいつの間にか大室になったというわけ。

 神社右脇の坂道を上ってゆくと真覚寺裏手の墓地に出る。

 けっこう古そうな江戸時代頃らしいお地蔵さん集合や、落ち葉を載せた石像があったりする。

 奥は真覚寺本堂、手前は蛙(かわず)合戦場となった心字池。現在は蛙のかの字もないただの池。でっかい鯉がたまにピチャリとはねる音がするだけ。

 でも、たまにはこんな鳥もやってくる。

下はこの池の水源となった湧水口に設けられた手水場。

 蛙合戦とは、産卵のために池に集まった雌蛙を求め、たくさんの雄蛙が争う様子を表したもので、江戸時代には甲州街道の名所とされていたという。太平洋戦争前でも、万を数えるほどのヒキガエルがいたといわれている。

 これが本堂。創建は文暦元年(1234年)、鎌倉時代の中期。この寺には奈良時代の白鳳期にさかのぼるといわれる仏像が伝えられており、現在は八王子市の郷土資料館に展示されている。

 

 地蔵さん越しに見る鐘つき堂。この鐘つき堂の後ろの小道を左のほうへ行ったところに鳥居がある。

 高宰(たかさい)神社という。以下が社殿。

一見、地味な社(やしろ)だが、けっこう胸おどる言い伝えをもっている。いわゆる南朝伝説で、以下が神社入り口に掲示してある高宰神社の由来記だ。

◆ 高宰神社由来記

 八王子市散田町五丁目三六番に鎮座する高宰神社は、日本史南北朝期の終り頃、京より高貴な御方が故あって、かたく氏名をかくし(恐らく南朝の公家と思われる)現在の御所水の地に居住したことから始まります。逝去後、由井地区の杉山峠に埋葬され、後山田村広園寺境内の一角に一祠を建立し、小蔵主(おくらぬし)明神と号し、鎮座したのが当社の起源であり今より約六百年以前のことであります。
その後、何故か散田地区の古明神と言う処(現在のめじろ台4丁目)に移り、降って正保慶安の頃、更に真覚寺境内に移しそこで高宰神社と命名し、現在にいたったものであります。
当社は、霊験あらたかで、八王子が誇る千人同心部門の神として深く崇敬され、千人町、散田町、並木町、山田町、めじろ台等の守護神であります。
高宰神社のご祭神は、按察使(あぜち)大納言、藤原信房卿と言われておりますが、一説には、高倉宰相某とも言い、また明治元年神仏分離の達しがあり、明細帳作成当時書出したものには、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)としてあるが詳かではなく、現在では、藤原信房卿の説が最有力で、この説に定着しているようであります。
現在、神社登記簿には、神社は単に高宰の神となっております。
高宰とは、高貴な方の高(たか)と、宰(さい)は、宰相とか言われる大臣クラスのことと思われ、尊貴両者を取り入れ、高宰神社の社ができたものと思料されます。
高宰の神が在世中の地を、御所水の地と言い、清水の湧き出していた処から「御所水の神」と言われたのは、当時朝廷以外には御所の名は使用されなかったこと等思い合わせると、余程高貴な方を思わせるものがあります。

(昭和六十一年八月総代記す)

 南朝の高貴な方をお祀りした神社ということらしい。その方が住んだ御所水というのは台町にある藤森公園のあたりといわれ、そこには足利勢(北朝)にとことんはむかったことで知られる南朝の雄、下野(しもつけ)の小山氏一族にまつわる興味深い伝承などもあるので、これについては後日、本ブログにアップしたい。

 さて神社の右手に眼をやると、

 田の神らしい。石像は崩れて何だかよくわからないが、かつて(2011年頃)は

Choi-boke 爺ちゃんより転載

こんなだったらしい。南九州以外では珍しい石像らしいが、9年の歳月という鑿は情け容赦もない。2011年当時でさえ、おそらく造仏時から数えて何十年も経っていただろうにお顔はしっかり残っていたというのに、現今ではわずか9年あまりでこの変わりようだ。

 一見さびれた神社だが、夏祭りなどではこのあたりでは屈指の盛況を見せる。さすが千人町、散田町、並木町、山田町、めじろ台等の氏神である。

 以下は拝殿奥の覆い殿(本殿)にほどこされた彫刻。

 かつては極彩色だったらしいが、今はだいぶ色がはげちまった。

 高宰神社を抜けて、保育園脇の小道をゆくと、あら珍しや赤ポストが鎮座していた。

  ポストを過ぎて小道をたどってゆくと、前方にこんなものがあった。

 なんかさびしいねぇ。かつてはそれなりに由緒をもった祠として自立していたであろうに、今ではこんな有様だ。宅地の片隅にかろうじて間借りしてるって案配だ。

 次の目的地である十二社神社に向かう途中、郵便局があった。

 右端の一見、なんの変哲もない木にご注目。以下は木の手前に立てられた説明板。

 「郵便局の木」というやつらしく、その葉っぱがインドにおいて手紙や文書を書くのに用いられたとある。で、その葉っぱを一枚失敬して実際に文字を書いてみた(字が下手に見えるのは葉っぱのせいではなく、字を書いたやつの責任ざんす♪)。

 暇人じゃのぅ。

 さて次の目的地は十二社神社だ。天神七代地神五代、計十二柱の神々を祀る神社だ。こんもりとした丘の頂に鎮座している。創建は三百五十年前だという。

 右下に見えるのが頂に通ずる石段。下は石段の右手に並ぶ石仏たち。

 真ん中に置かれた頭の欠けたかわいらしいお地蔵さん(?)。これも2016年頃には以下のようにちゃんと頭があった。

 ”たった四年で吹き飛ぶこうべかな” (^_-)-☆

 石段の参道を登る。けっこうきつい。

  やっと頂へ。神社が見える。

 社殿の両脇にある灯篭のともし火(もちろん電球)は昼間でも灯っている。夜見たらさぞかし幻想的だろう。そう言えば、この神社には「十二社御燈明(おとうみょう)祭」というのがあって、毎年5月3日に開催されるそうだ。境内までの参道(石段)の両脇に何本ものろうそくが立てられ、日暮れとともにいっせいに火が灯される。今度行ってみねば!

はちなびより転載。

 下は神社の右手にそびえるご神木。奥に稲荷神社の幟(のぼり)が見える。

 これが稲荷社。 

 以下は十二社神社の由緒書き。

 この由緒書きの裏面に、この神社の奥殿についてのちょっとばかし胸をうつ由来が記されている。以下がそれ。

 東京陸軍幼年学校は、昭和十九年三月都内新宿区戸山台より八王子に移転した。校地は当十二社の北方長房地区東西に延びる稜線上約十万坪に及んだ。第四十六期生から第四十九期生までがこの校に学んだ。陸軍幼年学校は中学一年又は二年終了の志願者の中から約八百七十名が選抜され、陸軍士官学校入校に先立ち三年間、将校生徒を教育する学校にて日夜文武の修養につとめた。
 昭和二十年八月二日未明、八王子空襲により校舎全焼。それに続き終戦、学校は解散、焼失を免れた雄健神社は御神体を奉遷したが社殿は夏草の中に残され夢の跡となった。戦後五十年になろうとする平成元年、東京陸軍幼年学校関係者が空襲による戦没者慰霊祭を長房町東照寺において毎年営んでおることを耳にされた当十二社総代は、わざわざ東照寺に足を運ばれて雄健神社の社殿が当十二社の奥殿として奉祀されていることを報ぜられた。
 私どもはその奇縁に感じ入り、今日までのご奉斎に感謝し、社前の縁起を記録する板碑の修復につき微力を呈したいとお願いしたところご聴許を得たので、裏面を藉りていさゝか由来を誌す。

    平成五年春  東京陸軍幼年学校 第四十六、七、八、九期生

 空襲で神社も東京陸軍幼年学校も焼けたが、幼年学校敷地内に祀られていた雄健神社は幸いにも焼け残った。その神社の社殿を十二社神社の奥殿に移築したという事実を知った幼年学校卒業生の一同が、その奇縁に感じ入ってこの由来を書き記したということだろう。

 拝殿越しにとらえた奥殿の扉。この扉の奥に移築された雄健神社の社(やしろ)が鎮座する。

 どこの神社も似たようなものだろうが、普段はこんな人っこ一人いないさびれた景色。だが、先ほどの「十二社御燈明(おとうみょう)祭」の当日には

はちなびより転載。

 こんな賑わいになる。

 帰りぎわ、長い参道(石段)を降りる途中、参道の右側の斜面に苔むした石段があるのに気づいた。

 ためしに上ってみると、こんな石碑があった。

 おお、つい先ほど訪れた南朝伝説ゆかりの高宰神社ではないか! 境内社ということなのだろうか。同じ境内社の稲荷社は丘の頂上にでんと建っているのに、この神社は丘の斜面に埋もれている(石碑自体は平成二年五月に再建とある)。高宰を名乗るおそらく日本で一社しかないであろうこの神社と、十二社神社とはどんなつながりがあるのか知りたいものだが、十二社神社関係者にでも聞かないとわからないだろう。残念・・・。

 さて、十二社神社の長い参道(石段)を降りて、次に向かうはすぐ近くにある興福寺。

 葉が覆いかぶさるように立っている木はしだれ桜。春には絢爛と咲きほこる。

 寺の入り口から背後を振り返ってみる。

 先ほど下ってきた十二社神社が鎮座する丘が見える。

 寺に入ると、お地蔵さんたちのお出迎え。

 寺の山門。奥に本堂が見える。

 八王子の代官や千人同心として活躍した設楽氏の祖とされる設楽能久(よしひさ)の屋敷の勝手口にあった門を移築したものだという。横に切ったクスノキを柱にしてあることから「横木の門」と呼ばれ、関東ではひとつしか見られないという。江戸開府前の草創期からあった門で400年以上の星霜を経ており、八王子の建造物の中でも一二を争う古さである。そのような門があるくらいだから、この寺は千人同心とのつながりが深く、八王子千人隊同心(千人同心)の合同墓も建立されている。

 これが本堂。 

 境内にある仏足石。

 仏足石とは、釈迦の足跡を石に刻んだものとして信仰の対象としたものだそうで、足跡がうすく刻まれているのがわかる。その下に以下のような文字が刻まれている。

 この此(こ)岸 苦難にあえぐ ひとあまた 皆すくわんと 釈迦は彼岸で 手をさしのべし 釈迦は彼岸で

                               原想

 原想としてあるが、人名なのかそうでないのかを寺で確認すればよかった(^_-)-☆。

 池の右側に墓地への入り口。すぐそばに水車が回っている。以下は池の鯉。

 どこの池へ行っても鯉は貪欲だ。

 池の水源の湧き水。

 傾斜地に建てられた墓地へ入り、一番てっぺんに上ってパチリ。彼方中央に大岳山のシルエットが見える。

 てっぺんから下る途中、本堂を俯瞰。

 帰り際、住職さまのお家の塀の隙間から見えた猫。

 もうお気づきと思いますが、これ、作り物です。 

 お寺の入り口脇にあるトイレに寄ったら、

 緊急脱出ボタンがあった!

 さて、興福寺を出て、おっきなマンションを

 通り過ぎて、中央線の線路を陸橋で渡って降りたところに陵南会館跡地がある。

 ここには、中央本線の皇室専用のための仮駅「東浅川仮停車場」があった。もともとは、大正天皇のお墓である多摩御陵(多摩陵)での同天皇の葬儀(大喪の儀 1927(昭和2)年2月8日)のために用いられ、その後は必要に応じて開設されたという。
 1960(昭和35)年の駅廃止後は八王子市の所有となり、「陵南会館」という集会施設として使われたが、1990(平成2)年10月に過激派による爆弾テロ(八王子市陵南会館爆破事件)により焼失した。

 Wikipediaに東浅川仮停車場(東浅川駅)の写真があった(上)。さらにWikipediaによると、かつて新宿御苑仮停車場(これも大正天皇の大喪の儀 (1927(昭和2)年2月7日)に用いられた)の駅舎であった現高尾駅(旧浅川駅)の社寺風デザインの北口駅舎が、同駅の橋上駅舎化工事に伴って、当陵南会館跡地内に移築保存される予定となっているという。以下は現高尾駅。

 さて、大喪の儀ゆかりの綾南会館跡地をあとにして甲州街道に向かう通りが通称ケヤキ並木だ。

 この通りも多摩御陵への参道として設けられたもので、記念として植えられた160本のケヤキが大木となって通行人を迎えてくれる。ちなみに、甲州街道の追分から高尾駅までの4.2km、約760本にわたるイチョウ並木も同御陵が出来たのを記念して植えられた。

 ケヤキ並木を抜け、甲州街道を渡ると南浅川にかかる南浅川橋に出る。この橋も多摩御陵ができることになって、急いで架けられた。最初は木製だったが、昭和11(1936)年には鉄筋コンクリートに造り替えられた。

 多摩御陵の造営に先だって、国は多摩御陵をも含む広い一帯を陵墓に定めて武蔵陵墓地と命名し、そこに大正天皇以降の天皇・皇后歴代の陵(大正天皇以外の陵にも多摩陵(多摩御陵)に相当する陵名がつけられている。たとえば昭和天皇陵は武藏野陵とか)を置くことにしたということ、さらに、後で紹介する多摩御陵参拝列車(御陵線)なども開設されたりしたということ等も合わせ、大正天皇の大喪の儀というものが、八王子にとってはとても大きな一つのエポックネーキングな出来事だったといえる。正しくは「武蔵陵墓地」と呼ぶんだろうが、多摩御陵と言っちゃう人の多いのもうなずける。

 多摩御陵つながりの最後の証(あかし)っていうのがこれ。八王子市台町にある富士森公園内にある浅間神社だ。

 この神社の拝殿というのが、大正天皇の大喪の折り、多摩御陵に建てられた式典用の建物(大正殿)を移築したものだという。

(^_-)-☆

 さて、南浅川橋を渡り切って右側の橋のたもとを見ると、あまり目立たない階段入り口がある。

 

 南浅川へ降りる階段である。恥ずかしながら八王子に住んで40年余年、この階段のあるのを知らなんだ・・・。階段を降りると、南浅川左岸べりの道路に出る。

  川にはまあ、定番の鴨がいる。

 カラスもいる。というより、最近はカラスのほうが圧倒的に多い。

 カラスの行水場!?

 そしてたまにはこんな白い鳥もいる。

 シロサギだろう。

 川べりの道を数分行ったところから左へ折れ、さらに数分行ったところを右折してほどなくこんな階段が左手奥に出現する。

 鳥居が見える。なぜか、鳥居を見ると胸が躍る。謎だ・・・。石段を上りつめると、

 こんなかわいらしい神社が出現。以下は5月頃に訪れた時のもの。

 黄色い花にうずもれたちっちゃな神社。デジタル写真ではこんなもんだけど、実際に見た時の鮮やかさというのはとても伝えきれない。デジタルってのは黄色や赤の発色がイマイチよね(オレのカメラだけの問題かもしれないけど)。でもネ、ほどなくしてこれらの花は雑草ということで刈られてしまったの。雑草だろうと何だろうと、きれいなものはきれいなんだという理屈は通らないのかしら。そういえば5月頃には、下のような花もよく見かける。

 左側の花はナガミヒナゲシという花でこれも雑草らしい。右側のかわいい黄色の花も雑草。ナガミヒナゲシはどこでも咲いて繁殖力も物凄いので、これも刈られる運命にある。わたしゃこの花がすごく好きなんだけどねェ。

 そういえば、このアザミも雑草扱いよねェ。春にこいつらがいないと、とてもさびしいと思うよ。

 脇道へそれてしまった。

 この神社は三軒在家稲荷神社という。変わった名前だ。二軒在家、三軒在家、四軒在家とかいう地名は各地にあるらしいが、三軒在家を名乗る神社というのはここだけのようである。地名としては各地にあるが、神社の名前としてはここだけというのには何か意味があるのだろうか。在家というのは、仏教において、出家せずに、家庭にあって世俗・在俗の生活を営みながら仏道に帰依する者のこととある。これを、仏教うんぬんは省いて、家庭にあって世俗・在俗の生活を営みながら「武士道」に精進する者のこと、と別解釈としてとらえたらどうか。

 千人同心も幕臣でありながら、武士としての役目を勤める時以外は、八王子周辺の村に居住して農耕などを営み、年貢も納めていたという。いわば半農半士という身分で、上で述べた在家というものの別解釈とマッチするところがないであろうか。半農半士の侍たちが農耕神である稲荷を祀ったのがこの神社の起こりであると・・・。

 では、三軒在家の三軒とは何だろう。三軒長屋、三軒茶屋、向こう三軒両隣・・・あるいは単に一軒、二軒、三軒の三軒か?

 小生は三軒長屋の三軒ではないかと考えます。江戸時代における下町の一軒当たり九尺二間(三坪)の極小住宅などではなく、落語の三軒長屋に出てくる総二階の大きな長屋です。落語の三軒長屋においては、長屋の一方の端に住むのは血気盛んな若い衆がよく出入りする鳶(とび)職人の頭、真ん中に住むのは金持ちのご隠居が囲っているお妾(めかけ)、もう一方の端には剣術指南の先生が住んでいます。一方には若い衆が何かと大勢押しかけてわいわいとやる鳶の頭の住まい、もう一方には門弟を抱えた剣術指南の道場、そして真ん中には使用人もいて相当贅をこらしているに相違ない妾宅(しょうたく)。三軒とも相当広い間取りであることは確かでしょう。庭もあった。

 そういう広い三軒長屋に住んでいた半農半士の侍たちが、互いの結束を誓い祀ったものが三軒在家神社となり、それがやがて近隣の者らにとっての守り神ともなっていった・・・。

 農耕神だけに水道完備。

 この神社の創建は不明で、昭和九年に改築されており、その際、付近にあった天満自在天神と御岳社を合祀した。その後もよく手入れされているようで、とても小ぎれいなたたずまいである。周囲の住宅に埋もれて建っているせいか、かなり見つけずらい。

 かわいらしい鳥居を抜けて左方へ向かうと

 このような草地を抜ける踏み跡があるので、これを進み、突き当りを左へ抜けると長房団地の側面に出る。団地内には船田古墳という円墳の遺跡がある。今は埋め戻されて、ただのコンクリートの丸い区画になっている。

 中央に長方形のやや色の異なる区画があるが、ここに河原石を積んで石室を設け、遺体を葬ったのだという。以下は古墳の説明板。

 古墳をあとに団地を抜け、階段を下りて南浅川へ出ることにする。途中で、昔の京王電鉄が走らせていた多摩御陵参拝列車(御陵線)の橋脚が残っているのを見ることができる。

 通り過ぎて振り返ると

 つまり御陵線は高架上を走っていた。列車はこのあと南浅川を越え、甲州街道を越え、さらに中央線を越えて着地する。相当長い高架で、これと同じような橋脚が他にもいくつかあったはずだが、今では姿を消している。甲州街道をまたぐ高架上には武蔵横山駅という駅舎があった。また同街道には、武蔵中央電気鉄道線という路面電車も走っていた。

 御陵線は、多摩御陵への一般参拝客輸送のために、昭和6(1931)年から昭和20(1945)年まで北野駅から多摩御陵前駅間(北野―片倉―山田―武蔵横山―多摩御陵前)で営業されていた。多摩御陵前駅は、先に紹介した中央本線の皇室専用のための仮駅「東浅川仮停車場(東浅川駅)」の南東に位置し、東浅川仮停車場から多摩御陵へと通ずる長い参道を一気に省いて多摩御陵のすぐ間近に設けられた。以下のリンクは昭和11年頃の「八王子景勝図絵」である。

八王子景勝図絵 (八王子市郷土資料館所蔵)

 上図の右端に多摩御陵があり、そのやや左下に(多摩)御陵前駅、そしてそのすぐ上に南浅川にかかる南浅川橋がある。御陵前駅を起点として北西に延びてゆく路線が御陵線で、この路線を先へたどってゆくと南浅川そして甲州街道および中央線をまたぐ橋脚上を通ってゆくのがわかる。中央線をまたぐ橋脚のすぐ右に東浅川駅がある(どういうわけか、甲州街道をまたぐ橋脚上にあるはずの武蔵横山駅がない)。それから図のやや中央寄りに黄色地に大正殿と示されている建物があるが、これが前述した「富士森公園内浅間神社の拝殿」として多摩御陵から移築された式典用の建物「大正殿」である。

 御陵線ができるまでは、一般参拝客輸送のための多摩御陵への鉄道はなかった。一番近くの駅でも、中央線では浅川駅(現在の高尾駅)か八王子駅、京王電鉄では東八王子駅(後に200m北野寄りに移転して現在の京王八王子駅となった)だった。御陵線はしかし、他の鉄道会社との 争いや戦争などの影響により、昭和20(1945)年に廃止されてしまい、御陵前駅も八王子空 襲の時に焼けてしまった。時は下って昭和42(1967)年、京王は北野-山田間の線路を再利用して高尾山へと続く京王高尾線へと生まれ変わらせた。

 御陵線の橋脚を過ぎると間もなく前方に南浅川べりが見えてくる。

 左角になんかツル草まみれの廃屋がある。以下はそのアップ。

 下は、南浅川べり側からみた廃屋の正面。

 ・・・工務店だったらしい。下は南浅川にかかる横山橋。この橋を渡ってしばらく行くと甲州街道に出、それを越えるとすぐ中央線にぶちあたる。

 橋の右奥に見えるドーム屋根の手前下に保育園があり、それに隣接して稲荷森(いなもり)神社がある。五社巡り最後の社(やしろ)だ。

 神社の右手が保育園になっていて、その園庭と神社の境内とが渾然一体となり、それでも保育園は、境内を侵さないよう精一杯気を配っているのがわかる。社殿は、赤い大きなものと白いやや小ぶりのものとが並んでいるが、大きいほうが稲荷神社、小さいほうが浅間神社だ。

 この浅間神社は、元は神社脇の甲州街道へ出て高尾方面へ数分行ったところにある八王子市役所・横山事務所の敷地内に設けられた塚上に祀られていたのだが、甲州街道の拡張と事務所の改築のためにここへ強制移住させられた。そして、神社のご神木だけが今でも横山事務所の敷地内にひっそりとり残されている(後で知ったのだが、上の稲荷森神社内の稲荷神社も浅間神社同様、別の地から移されたようだ)。

 上がそのご神木だ。オオツクバネガシ(大衝羽根樫)というカシの一種で、植物学者のレジェンド牧野富太郎博士が高尾山で初めて発見した種であるそうだ。分布域が狭く、珍しい種類だそうで、八王子市の天然記念物に指定されている。日本各地の市でも同様の指定を受けているようだ。その珍しい大木が、かつてここに鎮座していた神社のご神木として崇(あが)められ、今もなお200年以上もの樹齢を重ねつつ健在なのである。

 これが説明板だが、植物事典(図鑑)の学術的説明文みたいだ。シロウトが読んでもさっぱりぴんとこない。さすがお役所仕事というべきか。ってことで、五社二寺巡りはこれにて終了です。

 

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