謎パーク

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♪古墳大国「群馬」をゆく & おまけ――Part3

2018-08-09 08:52:18 | 日記

 Part2からの続きです。

★大鶴巻古墳(地図中5番)

 浅間山古墳から500mばかりのところにある前方後円墳で、こちらはかなり整備されています。4世紀末から5世紀初頭頃の築造というから、浅間山古墳と同時期です。全長123mで、埋葬施設は浅間山古墳と同様竪穴式と推定されています。

 夕方の薄暗いコンディションでの撮影。

  以上で、今回の群馬古墳巡りは終了です。

  これで終わっちゃうのも何なんで、「おまけ」編として神奈川県(相模国)海老名市の「秋葉山古墳群」の探訪、それにもしページに余裕があれば海老名市の「相模国分寺跡」とか相模原市の「勝坂縄文遺跡」へも行っちゃおうかな?!

  で、まず秋葉山古墳群から

★秋葉山古墳群

 この古墳群は、前方後円墳が3基、前方後方墳が1基、方墳が1基、それと墳形が不明な未調査墳墓1基の計6基からなります。どれも小規模でありながら東日本最古級の古墳群というのがキャッチフレーズです。

 墳長60mを越える古墳で東日本最古級というと、静岡県沼津市の高尾山古墳(62m)とか長野県松本市の弘法山古墳(66m)などが有名ですが、前者が3世紀中ごろ、後者が3世紀末頃の築造とされています。

 秋葉山古墳群の中で最も古いとされている第3号墳は3世紀後半頃の築造ですが、残念ながら墳丘長は、破損している前方部を推定長で補っても51m。60mにはちょっと足りません(秋葉山古墳群の中で最大の墳丘長は第1号墳の59m)。

 ま、これらの古墳たちが最古を競ってはいますが、しかし、それも、あまり意味がないと言えばいえます。だって、3世紀に造られたする古墳はあちこちに散在するらしいし、それを話題にするたびに卑弥呼様が引き合いに出されたりするパターンはもう鼻についています。

 で、まあそれは置いておいて、この秋葉山古墳なんですけれども、どの墳墓も土がもっこりして草木が生えてるってだけで、どのもっこりが第何号墳だなんていうのもあんまり意味がないような気がして・・・。で、どれが何号墳かは言わずにおきます(単に時間がたっちゃったせいで、どの写真が何号墳か見分けがつかなくなっちゃってるだけ(-_-;))。

 まあ、こういう案内板があることはあるんですが。

 こうしたアスファルト道が墳丘をとり巻いています。

 人物の背後の土盛りが第3号墳です。この墳墓だけは墳墓入口の正面にあるせいで今でもなんとか見分けがつきます。

 3号墳のてっぺんには、コンクリート製の社があります。

 これからは、何号墳かは置いておいてどんどん載せていきますね。

 下は、さっきの第3号墳のてっぺんにあったコンクリート製の社(ほんとに社なんだろか)です。

 下は5号墳。標識があるのでわかります。

 さて、そろそろ古墳とはおさらばして海老名市の「相模国分寺跡」へとワープしちゃいましょう。

★相模国分寺跡

 中央の小高いテラス状のところがその上に七重塔を載せていたという基壇跡です。もっと寄ってみます。

 この上に高さ65mもあったという七重塔が建てられていたそう。ほぼ20階建相当の七重塔を、必死をこいて幻視しようとしたのですが・・・小生の乏しい想像力ではイマイチでした。

 下は相模国分寺の復元模型。

 下は海老名駅前に建てられた七重塔(海老名市のシンボルタワー)。

 実物の1/3に縮小してあるとのこと。

 奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇が発した「国分寺建立の詔(みことのり)」によって、各国に国分僧寺と国分尼寺が一つずつ置かれました。単に国分寺という場合は国分僧寺のことを指し、はるか後世、その寺が礎石だけしか残っていないような野っぱらに変わり果ててしまった跡に対しては国分寺跡などと名づけます。

 後世、国分寺の跡に後継の国分寺が建立される場合はいいのですが、ややこしいのは、国分寺の跡とは別の場所に後継寺院が建てられる場合があることです。そして、その寺院も当然のように国分寺を名のります。つまり、跡が付くか付かないかの違いはありますが、表面上、国分寺が二つあることになってしまいます。

 ここ神奈川県(相模国)の場合も、相模国分寺跡の近傍にやはり相模国分寺があります。東光山医王院国分寺といういかめしい名前です。

 さて、もう一つややこしいのが、単に国分寺と言った場合、国分寺跡のほうを指すのか、それとも後継寺院のほうを指すのかという問題です。

 ま、国分寺と言えば、なかば観光スポット化している国分寺跡のほうを指すのでしょうが、御朱印集めなどなさっている方々にとっては、後継寺院のほうを指すことにしてもらったほうがありがたいのでは。

 さて、国分寺跡から通りをへだてた向かいに「海老名市温故館」という海老名市立郷土資料館があります。

 

 この手の建物にしては手作り感ただよういい雰囲気のたたずまいです。入ってみます。定番の展示品はスキップして

 これは先ほど訪れた秋葉山古墳群の上空から見たレプリカです。手前左端から第4号墳(前方後方墳)、第5号墳(方墳)、第3号墳(前方後円墳)、第2号墳(前方後円墳)、第1号墳(前方後円墳)です。墳形不明な第6号墳は、第1号墳の右手奥にあります。

 これは、秋葉山古墳群第2号墳出土の水銀朱の付着した片口鉢。

 上の勾玉、管玉、小玉の発見については面白い話があります。

 それは、これらがほぼむき出しのまま発見されたということです。通常ならエッチラオッチラ掘って掘って掘じくって、かき分けかき分けしたうえ、よっぽどのツキに恵まれた時にだけしかお目にかかれない逸品です。それがむき出しのままで・・・よくぞ無事で、と思わずうなってしまいます。

 右下2枚の右側の写真が発見時の状況です。むき出しです。これでは出土ではなく拾得です。こんなこともあるってことですかねぇ。ちなみに左側の写真は鉄鏃(ぞく:いわゆる矢尻)で、これもむき出しだったんでしょうか。

 さて、次は相模原市の勝坂縄文遺跡へ参ります。

★勝坂縄文遺跡

 縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡ということです。この遺跡と、すでにご紹介した「秋葉山古墳群」「相模国分寺跡」をへ巡るのに相模線と相鉄線を利用したのですが、相鉄線を運営する事業主は相模鉄道株式会社で、相模線のそれはJR。なんかまごついてしまいました。だって相模鉄道株式会社が運営する路線だから相模線というのが普通なんじゃないでしょうか。

 ま、それはいいとして、この勝坂縄文遺跡では、下のような野っぱらに点在する縄文時代の竪穴式住居跡や、竪穴式住居のレプリカなどがあなたをお待ちしています。

 

 下は、ぽつぽつと2棟ばかり建っている竪穴式住居のレプリカ。

 もう1棟は小高いところに建っています。

 中の様子も撮ったんですが、暗くてちゃんとした写真になりませんでした。下は天井の明りとりのあたりを撮った、唯一、”まとも”と思われる写真です。

 下は、勝坂縄文遺跡が位置する相模原台地の原植生を現代に伝えるシラカシやタブノキなどを中心とする照葉樹林(左側)。

 林中に分け入ります。

 ただしこれは、天然林を伐採したあとに、自然の回復力で二次的に成立 した林(二次林)だそうです。

 この遺跡からは多くの土器や打製石斧が発掘されており、そのなかでも、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などの特徴を持つ土器は勝坂式土器と命名されています。下は、遺跡の管理棟内に陳列されていた勝坂式土器たち。

 はい、これで終了です。家路につきます。途中でチューハイかっくらっていきます。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

アステカ帝国の興亡と帝国末裔の民が新国家「アストラン」を樹立し、435年後にオリンピックを招致・開催するまでにいたる物語⇒アステカ物語

宇宙の謎・地球の謎の迷路をへ巡る謎パーク別館⇒<Sui族館


♪古墳大国「群馬」をゆく・・・珍しく車でまわりました――Part2

2018-08-07 17:09:01 | 日記

Part 1からの続きです。まず女体山古墳から。

★女体山古墳(地図中10番)

 なんともなまめかしい名前の古墳です。隣接する男体山古墳(太田天神山古墳の別名)とのペアリングでこういう名前に。

 帆立貝形の古墳で、墳丘の全長は106mあるらしいのですが、なんともメリハリのない写真です。以下は上空からのお写真と俯瞰図です。

 上の2点とも太田市のホームページより引用

 まん丸・こんもりなご近所の林って感じですね。俯瞰図を見ると、なるほど東日本最大の太田天神山古墳と隣接し、お互いにほぼ同一時期(5世紀中頃)に同一方向を向いて築造されています。このことから、両古墳には密接なつながりがあると推測されています。

 太田天神山古墳がこんなに近いのだからそっちへ先に行くべきなのでしょうが、なぜかちょっと離れた塚廻り古墳群第4号古墳ってとこへ先に行っちまいました。

★塚廻り古墳群第4号古墳(地図中11番)

 水田地帯を探し回って、人にもたずね、やっと見つけました。昭和52年に偶然発見されたという帆立貝形古墳群の1つ。今回の古墳探訪で水田の中にある古墳というのはこれだけです。

 あたりはこんな田園風景。

 やっと見つかった!

 埴輪殿とご対面。

 なおも寄ります。

 6世紀前半の築造という、長さ22.5mの小さな古墳です。ここまでくるとかわいらしい。子供が見たら喜ぶんじゃなかろうか。

 帆立貝形古墳は、埋葬施設である円形部と、そこから突き出た造り出しを特徴とする墳墓です。前方後円墳の前方部が小さくなり造り出しへと姿を変えたものといってよいでしょうか。

 さて、次は東日本最大の太田天神山古墳です。

★太田天神山古墳(地図中9番)

 全長210mの前方後円墳、5世紀前半~中期の築造。200mを越す東日本唯一の古墳で、別名男体山古墳。小生のような日頃せこい墳丘しか見られない輩にとっては、これはまさにアウト・オブ・スケールでまさか古墳とは思わず、うっかり通り過ぎてしまいそうです。

 荒らされまくっており、出土品としては埴輪類や土師(はじ)器類がかろうじて見つかったという程度です。

 埋葬施設は竪穴式(墳丘のてっぺんから穴を掘って埋葬施設を設ける)が推定されています(未調査)。竪穴式は古墳時代の初めから中頃までに多く見られ、それ以後は横穴式(墳丘の横っ腹に穴を掘って埋葬施設を設ける)のものが主流になっていきました。今回の古墳巡りでは、竪穴式古墳と横穴式古墳の比率はほぼトントンでした。もっとも未調査のものも多く、特に竪穴式のものは推定が多いという特徴があります。

 上はおなじみ「くびれ」部。左側に見えるちっちゃな建物は神社です。

 これが神社。おんや、地には花が・・・

 ってことで、次は朝子塚古墳に向かいます。

★朝子塚古墳(地図中8番)

 太田市の古墳探訪の掉尾をかざるのは朝子塚古墳です。全長123.5mの前方後円墳で、群馬県の古墳出現期後期である4世紀末~5世紀初頭頃の築造。

 ろくな写真が撮れなかったのでお借りした写真をお見せします。

 埼群古墳館より引用

 ちゃんと手間ひまかけて撮った写真を見るとなかなか立派な墳丘です。

 恥ずかしながらあたしが撮った写真は・・・

 古墳なんていうでっかいものの直近を撮ってるんだから、まさに「群盲、象をなでる」状態ですな。うんと距離をおいて撮れればいいんですが、たぶん位置がわるくてカメラをひけなかったんでしょう。下の航空写真でいうと、左斜め上へ向かう車道上でうろうろしてたんじゃないでしょうか。ちょっと先へ行って左へ折れればいいポイントがありそうなのにね。でも、下の写真がいつ撮られたかにもよりますね。そうとう昔に撮られたもので、いまじゃ、古墳のまわりは家だらけだったりして(お前、現地に行ったんだろう、それくらい覚えてないのか・・・(-_-;))

 太田市のホームページから引用

 次へ向かいます

 ★大室古墳群(地図中15番)

 この古墳群は大室公園内にあります。 

  埼玉県の埼(さき)玉古墳群には及びませんが、ここも大小の古墳群と中心にあるごく小さな湖(はは、沼です)と豊かな緑からなる歴史公園です。wikipediaによると、「日本の古墳のなかでも早い時期から学術的な調査が行われたことで有名である。1878年(明治11年)には豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の陵墓候補地に挙げられていた前二子古墳の発掘調査が行われ、石室より発見された数多くの遺物は、当時の世間の注目を集めた」ということで、全国から見学者が殺到し、その数5179名に及んだということです。当時の人々の歴史に対する関心はすごいと思います。豊城入彦命の陵墓というだけでそんなにも大勢の見学者が集まるんだから。

 豊城入彦命については、本ブログの「なぜか群馬県、なぜか倉賀野、そしていにしえの奥津城(古墳など)たち――Part1」の倉賀野神社のところでも触れました。同神社の由来書きに「豊城入彦命が東国平定のために関東への下向途上、今の倉賀野神社境内にあたる場所にて斎場を設け、松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀した」としてあったのです。

 重ねて豊城入彦命の子孫である上毛野氏(かみつけののうじ)が東国で最大とされる太田天神山古墳(5世紀前半~中頃)を築造し、さらに、太田天神山古墳が造られる以前には東国最大の前方後円墳であった倉賀野町浅間山古墳(4世紀末~5世紀初頭頃)も上毛野氏によって築かれたのではないかという妄説も述べてしまいました。

 で、大室古墳群の前二子古墳が豊城入彦命の陵墓なのかどうかということについては、現在では何の根拠もない妄説としてしりぞけられています。ああ、妄説よ、妄説よ、なんじのしかばねを乗り越え、性懲りもなくどれだけの数の妄説が新たに産声をあげていることか。

 妄言はこれくらいにして、古墳の写真といきたいところですが、なぜか猫ちゃんが。

 なんか古代エジプトの猫(下)みたいな雰囲気。

 まだほかにも。

 この猫ちゃんたちはいったいなんざんしょう。にゃんとも不思議な古墳猫ちゃんたちでありました。

 大室古墳群には前二子古墳、中二子古墳、後(うしろ)二子古墳、小二子古墳などがあり、すべて前方後円墳です。

・前二子古墳

 豊城入彦命の陵墓になりそこねた前二子古墳です。全長94m、6世紀初頭の築造です。

・中二子古墳

 全長111m、6世紀前半の築造。大室古墳群の中では最大です。墳丘の平坦面や中堤には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。

 以上2つの古墳はほぼ同方向に並んでいましたが、後二子古墳と小二子古墳はそれらからは少し離れたところにあります。そこへ向かう途中、

またもや猫ちゃんが。

 公園のほぼ中央に位置する五料沼です。この公園は猫といい、でっかいクモといい、そして人物埴輪といい、妙に生き物の気配が濃厚なところです。

・後二子古墳

 全長85m、6世紀後半の築造。石室から発見された3本の歯から、被葬者は熟年の女性であることが判明したそうです。

 石室には何もありません。

・小二子古墳

 全長38m、6世紀後半の築造。埴輪の雰囲気がいいですね。

 後円部の背後からパチリ。

 ここらで大室古墳群には別れをつげ、次の群馬県藤岡市の伊勢塚古墳に向かいます。

 ★伊勢塚古墳(地図中2番)

 道路沿いにこんな標識があったので、古墳は近いかな思ったりして。

 たぶん、そうだったのだろう、向こうのほうにこんもりした塚状のフォルムが。

 着きました。

 この古墳は珍しい八角形古墳で、6世紀前半の築造とされています。

 石室の石積みに特徴があるみたいでよ

 

 天井石を見ると

 

 うーん、でかい。ここの天井石はなんか天然のままの巨石のようだけど。他の古墳の天井石の多くが巨大な切り石で表面が平坦であったのに比べ、この古墳では天井石よりも側壁のほうに独特のこだわりをもって――細長い石を小口に積んで、部分的には大きな石を配するなど装飾性に富んだ造りとなって――築造されています。

 このような側壁重視の古墳であっても、天井石だけは巨石を使うという日本の古墳独特の風習はここでも踏襲されています。何かこの風習には、宗教上の理由あるいは何らかの権力の誇示みたいな”いわれ”でもあるのでしょうか?

 さてお次は、伊勢塚古墳からほど近い七輿山古墳へ。

★七輿山古墳(地図中1番)

 「ななこしやまこふん」と呼ぶそうです。こちらも藤岡市にある古墳です。

 なかなか立派なたたずまいです。全長145m、6世紀前半に築造された前方後円墳です。6世紀代の古墳としては東日本最大級だそうです。

 墳丘のたもとに小さな石像群が。


 首が落ちてるものが多いですね。

 墳丘に登りながら、妙にわくわくしながらくびれ部をおがみます。

  またかようなものが・・・

 やはり首がない。首なし好き古墳ってか。

 葺石が散乱してます。

 古墳の埋葬施設は未調査ということですが、地中レーダー探査の結果、大規模な横穴式石室の存在が推定されているそうです。

 では、次の高崎市にある山ノ上古墳に向かいます。

★山ノ上古墳(地図中3番)

 この古墳は、高崎市の南吉井町と接する山村部(山名町字山神谷)にあります。山名町から吉井町一帯はかつては多胡(ご)郡と呼ばれていました。この多胡郡は、はるか昔の奈良時代に設置されたことが碑文からわかっています。その碑文とは多胡碑と呼ばれるもので、上野三碑(こうずけさんぴ:群馬県に存在する古代(7~8世紀)の石碑。山上碑「やまのうえひ」(681年)、多胡碑「たごひ」(711年頃)、金井沢碑「かないざわひ」(726年)の三碑をさす)のうちの一碑です。

 日本国内に現存する古代(7~11世紀)の石碑は18例しかなく、その内の3例が近接して残っていることが特筆に値するということです。これら上野三碑が、2017年、世界記憶遺産に登録されたことは記憶に新しいですね。そして三碑のうちの山上碑は、これから訪れる山ノ上古墳にあります。

 このあたりの丘陵中腹にあるということです。

 なるほど山の上にあるようです。山ノ上古墳というだけのことはあります。

 エッチラ、オッチラ登ってやっと着きました。

 標石の背後にある覆い屋の中に山上碑があります。

 これです。中が暗いのと撮影の腕が悪いのとでただの石塔にしか見えません。

 石碑にはこんな古代文字が刻まれています。

 白地に記された文字がそうです。上野三碑:山上碑及び古墳 | 高崎市によると読み方は

辛巳歳集月(しんし(かのとみ)のとしじゅうがつ)三日に記す

佐野三家(さののみやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫の黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川臣(にっかわのおみ)の児の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫の大児臣(おおごのおみ)に娶(とつ)ぎて生める児の長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定むる文也。 放光寺(ほうこうじ)僧

 となるそうで、文意をあっさりわかりやすく言うと

 辛巳年(天武天皇十年=西暦六八一年)十月三日に記す

佐野屯倉(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。この黒売刀自の子である放光寺の僧長利(ちょうり)が母の為に記し定めた文である。

となります。長利が母を葬った際の墓誌です。日本最古級の墓誌です。文中の屯倉(みやけ)とは、各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点です。また僧長利が勤めた放光寺とは、この群馬古墳巡りのPart1でご紹介した前橋市総社町の蛇穴山古墳のところで触れた「山王廃寺」のことであると推定されています。

 この文章は、文頭から素直に読み下せる立派な日本語です。もしこれと同じ文意を中国語で書き記したとしたら、日本人にはまるでチンプンカンプンでしょう。端的にいうと、日本人が「我は肉を食す(我 肉 食)」というところを、中国人は「我 吃 肉」といいます。主語+動詞+目的語という構文です(この構文だけでいえば英語と同じ)。この調子で日本語を中国語に置き換えられたら随分きついでしょう。

 つまりこの山上碑の碑文というのは、文字としては大陸から渡ってきた漢字を使ってはいるけれども、古代の日本人様が日本語の流儀にのっとり日本人にもわかるように、つまり、日本語の本来の語順で漢字を並べつらねて書き記した日本最古ともいえる日本語文章遺産なのです。古代の文章遺産としては、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文(471年)が有名ですが、あの文章の構文はまだ中国風に主語+動詞+目的語となっています。また、山上碑に先立つこと13年の日本最古の墓誌といわれる「船氏王後墓誌(ふなしおうごのぼし)」(668年)の構文も同様です。

 もちろん、当時の日本人で日本語の語順で文章を書くことができたのは相当な知識人であったはずで、それが都を遠く離れた上毛野国(かみつけののくに)の一僧侶にまで及んでいたということは、当時の日本語文字文化の広がり方が相当早かったことを物語っています。

 では古墳へ参ります。デジカメの電池が切れたりしてまともな写真が撮れなかったので、またまたお写真をお借りしました。謝 謝!

 関東の古墳&史跡探訪より引用

 直径15mの円墳です。その建立時期は山上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものと考えられています。山上碑の建立時期(=黒売刀自の埋葬時期)が7世紀後半(681年)なので、黒売刀自の父の墓ということで、数十年さかのぼって墓の建立時期は7世紀中葉にしているようです。

 

 上はスマホで撮った写真。

 かなり大きい石を精巧に組み上げてあります。

 玄室奥壁に安置された馬頭観音。

 上の写真2点とも関東の古墳&史跡探訪より引用

 馬頭観音については説明板がありました。

 ずいぶん詠嘆調な説明文ですね。

 では帰路につくことにします。

 途中で見かけた神社。

 こんなのもありました。

 山村の廃屋。

 コスモスがきれいに咲いていました。

 はい、次へ行きましょう。群馬県は高崎市倉賀野町にある浅間山古墳です。

★浅間山古墳(地図中4番)

 この古墳はとても荒れ果てています。wikipediaによれば

 群馬県内では太田天神山古墳(太田市)に次ぐ第2位、ひいては関東地方では太田天神山古墳、船塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳である。4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される

とあります。規模(全長171.5m)も古さも第一等の前方後円墳なのに、その場を訪れて現物を前にしても、古さは別としてその規模やフォルムはすぐにはうかがい知ることはできません。それほど荒廃していて、ちょっと見には野っぱらのこんもり風景にしか見えません(-_-;)。もしかしたら、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫である上毛野氏(かみつけののうじ)が太田天神山古墳築造以前に築いた古墳であるかもしれないのに・・・。

 もっと寄ってみます。

 もっと引いて撮らなければいけないのでしょうが、それに適したポイントがなかなか見つからない。5時過ぎていて、薄暗くなってきていたのでどこか余裕がなかったのでしょう。

 ああ、腰が定まらない。とてもいい写真が撮れる案配じゃありません。そこで、この古墳の全体像をうかがえる写真をお借りしました。

 埼群古墳館より引用

 この写真は「関東甲信百名墳」と名が入っているところから、絵ハガキか印刷物からとった写真と思われ、しかも撮影時期は冬場らしい。しかも相当以前に撮ったものでしょう。今は、こんなにきれいな全体象をとらえることはむずかしいのではないか。

 高崎市のホームページより引用

 Part3へ続きます。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

アステカ帝国の興亡と帝国末裔の民が新国家「アストラン」を樹立し、435年後にオリンピックを招致・開催するまでにいたる物語⇒アステカ物語

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♪古墳大国「群馬」をゆく・・・珍しく車でまわりました――Part1

2018-08-01 18:01:17 | 日記

 群馬県の古名は上毛野(かみつけの(ぬ))。墳丘長210メートルの太田天神山古墳をはじめ平野部の各地に100メートルを越える大型古墳がいくつも造られ、全県域の調査によって8,423基の古墳の存在が明らかとなり、全体では1万基以上が造られたといわれています。墳丘長200メートル以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、上毛野のみといわれるくらい上毛野(群馬県)は東日本最大の古墳大国なんです。

 徒歩でまわるにはあまりにも効率がわるいので、今回はかみさん運転の車におすがりしました。1泊2日の行程で、巡ったコースは次のとおりです。

1日目(10/10(月))

高崎I.C →22.観音塚古墳(群馬県高崎市八幡町)→21.保渡田古墳群(群馬県高崎市保渡田町)→20.蛇穴山古墳(群馬県前橋市総社町)→19.宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町)→18.天川二子山古墳(群馬県前橋市文京町)→17.前橋八幡山古墳(群馬県前橋市朝倉町)→12.藪塚温泉(泊)

2日目(10/11(火))

藪塚温泉 →12.西山古墳(群馬県太田市藪塚町)→10.女体山古墳(群馬県太田市内ケ島町)→11.塚廻り古墳群第4号古墳(群馬県太田市龍舞町)→9.太田天神山古墳(群馬県太田市内ケ島町)→8.朝子塚古墳(群馬県太田市牛沢町)→15.大室公園・大室古墳群(群馬県前橋市西大室町)→2.伊勢塚古墳(群馬県藤岡市上落合)→1.七輿山古墳(群馬県藤岡市上落合)→3.山ノ上古墳(群馬県高崎市山名町)→4.浅間山古墳(群馬県高崎市倉賀野町)→5.大鶴巻古墳(群馬県高崎市倉賀野町)→藤岡I.C

 上記コース中の各古墳に付せられた番号は、以下の地図中の番号と対応します(でも、実際にはその番号順には回っていません)。

 上記コースと以下の地図はともに『群馬の観光情報:群馬県観光物産国際協会』サイトさまの「観光モデルコース」というページから引用・拝借させていただきました(とはいってもこのサイトは今はなく、「ググっとぐんま」というサイトに衣がえしていて、引用・拝借させていただいたページも消滅しています)。

★観音塚古墳(群馬県高崎市八幡町 地図中22番

 浅間連山の山並みを眺めながら一路観音塚古墳をめざします。

 じゃーん、着きました。


 向こうに見える石垣の上に墳丘らしきものが見えます。古墳好きが胸をときめかせる瞬間です。石垣を登ってみます。

 6世紀末~7世紀前半の築造と推定される前方後円墳です。左側が前方部、右側が後円部だと思われます。右下の白い看板の右手奥が石室開口部です。

 中に入ってみる。

 ここが突きあたり。玄室です。

 天井をパチリ。

 すげえでっかい天井石。さらにどアップ。

 うーむ、でかい。何10トンもの重さを抱えたでかさだ。タタミ6畳よりも広く、重さは約60トンだという。奈良県の明日香村にある蘇我馬子の墳墓といわれる石舞台古墳と比べられ、群馬の石舞台などと呼ばれているそう(以下のイラストも含め、高崎市のサイトより引用)

 こちらは羨道の天井石。

 その天井石を支える石壁(左)

 同右。

 なんか石の祭典みたいになっちまった。わたくし、こう見えても巨石願望、廃墟願望なんちゅう持病をかかえたジジイなの。古墳はまさにその2つの願望を満たしてくれる得がたいモニュメントであって、かのエジプトの大ピラミッドだって巨石まみれの大古墳なんだぁのココロ。

 近くに観音塚考古資料館があるので行ってみる。古墳から出土したさまざまな副葬品を展示していた。ここで小生が撮ったピンボケ写真をお見せするより、こちらの「高崎市」のサイトをご覧になってくださいまし。

★保渡田古墳群(群馬県高崎市保渡田町 地図中21番)

 次の古墳は、ドラマチックな復元ぶりで知られる保渡田古墳群です。

 車窓に群馬のランドマーク浅間連山を眺めながら一路、保渡田古墳群をめざします。

 ジャーン、着きました。二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳からなる古墳群で、5世紀後半~6世紀前半の築造とされています。

 これは八幡塚古墳。過剰とも思える復元ぶりです。

 墳丘全体に葺石が敷き詰められています。この葺石についてちょっと調べてみたのですが、なにか奥歯にもののはさまったような記述が多く、イマイチはっきりしません。あの奈良県の箸墓からも葺石が見つかったそう。古くて大きい前方後円墳は、おおむね葺石で覆われていたと勝手に解釈しています。

 墳頂。後円部から前方部へのスロープ。

 葺石で覆われた丸いマウンド(中島)の設けられているところが内堀。通路(内堤)をはさんだ向こう側に外堀があります。

 以下は中島の説明板。

 中島は古墳の長径方向の左右に2個ずつあります。造り出しといって、前方後円墳のくびれ部から半円形もしくは方形に張り出した壇状の施設をもつものがありますが、本古墳の中島は墳丘からは切り離されて島のように独立しています。これは全国にも例のない保渡田古墳群独特の地方的特徴だそうです。

 後円部の頂きになにやら地下に降りる階段があり、降りてみると、この古墳に埋蔵されていた本物の舟形石棺(長さ2.8m、幅1.2m)がありました。

 古墳の外の内堀の内堤に54体ほどの埴輪群が置かれていました。

 こちらはコスモスに囲まれた二子山古墳。

 八幡塚古墳よりほんのちょっとこちらのほうが大きいようです。

 階段を登り墳頂へ。

 向こうに八幡塚古墳が見えます。

 これは古墳のくびれ部です。右手に中島が見えます。

 次は、高崎市を離れて前橋市総社町にある蛇穴山古墳に向かいます。

★蛇穴山古墳(群馬県前橋市総社町 地図中20番)

 蛇穴山古墳は、総社古墳群の一角を占める方墳で7世紀末の築造です。7世紀の総社町の一帯は、総社古墳群や上野国(こうずけのくに)の国府・国分寺・国分尼寺があり、上野国の中心地でした。また、7世紀後半に創建された全国でも珍しい白鳳時代の豪壮・華麗な寺院跡である「山王廃寺跡」もあります。この廃寺跡からは「放光寺」「放光」という文字を刻んだ瓦が発見され、この寺が往時は放光寺と呼ばれており、このあと訪れる高崎市の「山上(やまのうえ)碑」に記録されている「放光寺」であったこともわかりました。

 総社古墳群は県内で唯一、前方後円墳のあと県内古墳の最終末期に方墳が3基つづいた古墳群です。その3基の方墳とは、古い順に愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳です。前置きが長くなってしまいましたが、さっそく蛇穴山古墳を紹介しましょう。古代総社町の最盛期ならではの精巧な造りが見ものですよ。

  駐車場の向こうにうずくまっているのが蛇穴山古墳です。墳丘を登って

 奥にある石段を降りて墳丘の裏側へ。

  推定復元図がお出迎えです。

 あたりには葺石が散乱しています。

 と、いきなり玄室入口とご対面(この古墳には羨道(小生はいままでこれを「せんどう」と読んでいたが、「えんどう」とも読むことをいま知った)がありません)。この玄室入口の造りを見ても、非常に精巧にできていることがわかります。

 下は玄室内部。

 奥壁、左右側壁、天井のそれぞれが長さ3m以上の1個の巨石です。

 巨石がぴったり組み合わさった精巧な造りです。これらの巨石は高崎市の観音塚古墳や観音山古墳よりは小ぶりですが、あちらがほぼ産地から切り出したままの巨石であるのに比べ、こちらの石は匠が腕をふるって加工してあるのがわかります。下は玄室入口側の石積み。右方が開口部です。

 次はすぐ近くの宝塔山古墳へ。

★宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町 地図中19番)

 こちらは蛇穴山古墳より大きく、一辺約60m、高さ12mの大型方墳です。堀を含めると一辺96mに達するそうです。

 3段構造なんですね。説明板の左方にある石段を登ります。

 階段を登る途中にもう1つ説明板が。

 左端にあるやつがそう。背後の石垣は葺石なんでしょうか。散乱していた葺石を集めて石垣に組んだとか?

 これが説明板。秋本氏の歴代墓地であるらしい(秋本氏は約30年間この地を治め、善政を施した・・・とあります)。この墳丘は古代の首長の墓であり、近世の領主の墓地でもあるんですね。

  秋本氏歴代墓地は墳頂にありました。

  蛇穴山古墳と同様、こちらも石室は墳丘の裏側にありました。

 石室入り口前になにかの蓋のような平べったい石がありますが、こりゃ何でしょう。

 石室内部です。羨道の奥の玄室に家型石棺がぼんやり写っているんですが・・・。

 もうちょっと寄ってみます。

 どうやら石棺が見えました。天井石には大きな一枚石を使っていますが、

左右の側壁は大小の石を積み上げているようです。蛇穴山古墳は1枚石でした。(ピンボケ御免)

 石棺ごしに奥壁を写しています。どうやら奥壁も一枚石のようです。

 古墳を出ると、すぐ近くに秋本氏の菩提寺である光巌寺(こうがんじ)があります。

 下は本堂。

 秋本家の廟所。

 白壁が美しい。

 近くに鎮座していた御霊神社。

 なんか小さな土盛りの上に建っていて、この土盛りを紅葉山といっているそうで、この小さな山(土盛り)も古墳であるらしい。

 次の古墳は天川(あまがわ)二子山古墳です。

★天川二子山古墳(群馬県前橋市文京町 地図中18番)

 全長104mの前方後円墳で、6世紀中頃の築造。前橋二子(ふたご)山古墳とも呼ばれます。二子山を名のる古墳の主なものは全国に7つほどあって、そのうち4つが関東にあり、3つが群馬県です(もう1つは埼(さき)玉古墳群中の1基)。群馬県の3つのうち1つは保渡田古墳群中の1基として先に紹介済みです。

 木々の向こうに前方後円墳らしいフォルムを見せて横たわっているのが天川二子山古墳です。

 くびれ部に上る階段。

 おなじみ「くびれ部」の官能的なスロープ。

 葺石です。

 ま、こんなところで天川二子山古墳をあとにし、次の前橋八幡山古墳に向かいます。

★前橋八幡山古墳(群馬県前橋市朝倉町 地図中17番)

 全長130mの全国的に数少ない前方”後方”墳です。4世紀後半頃の築造とされ、前方後方墳としては東日本最大、全国でも有数の規模を有するそうです。ちなみに国内最大の前方後方墳は天理市の西山古墳で、全長180mだそうです。これもやはり4世紀後半頃の築造です。

 wikipediaより引用

 前方後円墳も前方後方墳も、前方部と後円(方)部の境目にくびれがあります。埋葬施設は後円(方)部に設けられました。つまり、埋葬施設のあるほうが後ろです(ま、何事にも例外はつきもので、古墳によっては前方部のほうに埋葬施設があることもあるようですが)。

 ところで、前方後円墳という用語は、江戸時代の学者・蒲生君平が「山陵志」という書物の中で使ったのが最初だそうで、円形の部分が牛車(ぎっしゃ)の屋根、方形の部分が轅(ながえ:牛車の前に2本つき出した牛と車をつなぐ棒)のようであるとして、「前方後円」という言葉で表したそうです。それ以後、とりあえず方形の部分が前、円形の部分が後ろということになりました。

 その後、調査・研究が進み、円形部分は死者を葬った埋葬施設であること、方形部分はもともと円形部分に行くための通路だったところで、後に古墳の祭壇にあたる場所となった、という説が有力となりました。この説によれば、蒲生君平が方形の部分を前、円形の部分を後ろとしたのは正しかったことになる・・・というわけです。

 以上、古墳に詳しい方にとってはまさに「釈迦に説法」の御託でした。

 さて、前方後方墳というのは弥生時代の方形周溝墓の発展形とされ、当初は前方後方墳のみだったがやがて前方後円墳が登場し、しばらく共存時代が続いたあと後方墳は姿を消したといわれています。その出現期は古墳時代の初期に集中しており、前方後円墳に対して小規模なものが多く、また、東日本の出現期古墳の多くは前方後方墳だということもわかってきました。前橋八幡山古墳、そして群馬県のもう1つの前方後方墳である高崎市の元島名将軍塚古墳はともに、4世紀後半頃の築造とされ、ちょうどこの頃が群馬県における古墳出現期なのであり、前方後円墳に先立って前方後方墳が盛んに造られた時期なのでしょう(今ではほとんど残っていませんが)。つまり、前橋八幡山古墳、元島名将軍塚古墳、そして前橋天神山古墳(こちらは例外的に前方後円墳。後円部のみがかろうじて残存。4世紀中葉頃の築造)といったところが、群馬県における最古級古墳だといえるでしょう。

 写真がただの1点のわりに、能書きばかりが多くなってしまいました(-_-;)。

 5時も過ぎ、今日はここまでにして宿泊地である太田市藪塚温泉に向かいます。

★西山古墳(群馬県太田市藪塚町 地図中12番)

 太田市藪塚町にある藪塚温泉で一泊。きのう、ちょっと見かけた「西山古墳入口」という標識が気になったのでそっちへ向かうと、

 なんかこんな案配のところに出ました。奥に鳥居も見えるし、なにやら絵看板もある。

 まず、絵看板

 なにかの歌碑であるらしい。

 あの子は たあれ たれでしょね なんなつめの花の下 お人形さんとあそんでる かわいいみよちゃんじゃないでしょか

 昭和のおん時、戦前から戦後にかけて童謡なるものがおおいに人口に膾炙(かいしゃ)した時期があった。昭和の20年代から30年代頃が花盛りで、童謡少女歌手などは、今でいうアイドルとして大層もてはやされたもんじゃ。「歌のおばさん」なる年増の歌手もおって、おおいに気を吐いていておったぞ。上の歌碑はそんな童謡(わらべ歌)の一つでの、戦前の歌じゃ。作詞者の細川雄太郎という人が、ここ藪塚でその歌をつくったということで歌碑が建てられたということじゃ。歌詞にはあの子は「たあれ」となっておるがな、これは発表時は「だあれ」であったものを、作曲者の海沼 實という人から濁音は汚いとたしなめられ、濁点をはずしたということじゃ。

 歌碑のすぐ近くに神社があります。

 凛としたよいたたずまいだと思うのですが。大山祇(つみ)神社だそうです。

 いったん道路に出て、西山古墳の標識のところに行き

 山中に(ってほどじゃないけど)に分け入ります。

 ひたすら(ってほどのもんじゃないけど)林中を上っていくと、じゃーん、ありました。

 ここは今回のコースには入っていない予定外の古墳で、何の予備知識もないところだったので、見つけたときの「ヤッホー」感がなかなかのもんだったのです。

 石室入口。中へ入ってみます。

 補強がしてありますね。玄室には何もありません。

 天井はコンクリートで覆われています。天井石はどんな様子だったのでしょうか。

 側壁。以下は出口。

 全体像が見えないので、はっきりわかりませんが、全長34mの前方後円墳だそうです。

ここでブログの文字数制限(30000字)にひっかかってしまいました。続きはPart2へ・・・。

 

古代の砂漠に花一輪。女だてらに勇猛果敢、でっかい帝国おっ建てた。その花の名はパルミラ女王ゼノビア。だけど、ここに登場するゼノビアさんは、えっちょっと、とたじろうじゃうかもしんない女王さま・・・なの。⇒パルミラ幻想

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