謎パーク

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♪なぜか群馬県、なぜか倉賀野、そしていにしえの奥津城(古墳など)たち――Part1

2018-07-27 14:09:31 | 日記

 小生の母方の故郷なるものは群馬県高崎市の倉賀野っていうちっちゃな町です。どこでもそうであるように、この倉賀野にも探せばそこそこ面白いところがあります。

 で、まずファーストインプレッションをよくすべく、倉賀野町から北東へちょっと行った綿貫町というところにある観音山古墳ってゆうところから。

 若草を全身にまとった、いい雰囲気の前方後円墳だと思いませんか。墳丘全長は97mです。

 さて、このお墓の紹介ですが、群馬県のホームページ内の「史跡観音山古墳へのご案内」というページに「見学の手引き(児童用)」PDF:298KB)という児童向けの手引きがあります。もちろん先生用のもあるのですが、こちらのお子様向けのほうがずっと楽しく印象にも残ります。ざっと引用してみます。

 『今から約1400年以上前に造られたもので、現在の高崎市を中心とした地域を支配した人のお墓と考えられています。

 石室に使われている石ですが、天井の石は、ここから南西の方向に10kmほど離れたところにある高崎市吉井町の牛伏(うしぶせ)砂岩という種類の巨石(一番大きい石の重さは25トン)を6つ使っています。

 石を切り出した後、どのようにこの巨石を運んだのか考えてみてください。舟を使い、そりで引き上げたと思われますが、それにしても大変な作業だったと思います。壁石は榛名山の火山岩を使用しています。

 石室は、入口部分の狭い通路(羨道)と奥の幅広い遺体を置く場所である玄室があります。石室の全長が約12.5m、玄室の長さが約8.2m、幅約3.8m、高さ2.3mで、群馬県内の玄室では最大の大きさです。

 この石室が発見された時、調査をした人たちの興奮はすごいものでした。それというのも、古墳の石室はたいてい既に掘られていて、中に納められていたはずの物は盗まれている場合がほとんどなのです。ところが、幸運にもこの古墳の石室は、崩れてしまっていたために、墓泥棒が掘り出すことができず、当時お墓の主のために納められていた品々がそっくりそのまま出てきたのです。このようなことは、全国的にも大変めずらしいことなのです。

 石室内にあった遺物は生前お墓の主が使用したと思われる刀やかぶとなどの他、主を乗せた馬を飾り立てた馬具などが出ています。どれも、金や銀を多く使って豪華な仕上がりになっています。』

 なんかこむずかしい漢字が少ないし、文意も明瞭で、墓が未盗掘であったのが判明した際の興奮のありさまなんかも生き生きと語られています。

 石室(墓室)への入り口です。

 Sorry!カメラブレ。石室内部です。見てほしいのは天井石。以下も天井石。

 あたしゃこういうデカイものが大好き。こんなにも重くてでかい石を積み上げる古代人の狂気にも似たパッションにあこがれる。

 巨大石天井といえば、エジプトの大ピラミッドの「王の間」の天井部分に使われている巨石が有名だが、こちらは約60トンあるという。

 巨石のオーパーツ(場違いな加工物)としてはレバノンのバールベック遺跡の巨大切り石が世界一といわれている。「ジュピター神殿の巨大土台石」と、同神殿から南西に約1キロの場所にある「建築物には使われていない超巨大切り石」だ。

 これはジュピター神殿の遺構。この神殿は約2000年ほど前、古代ローマ人の手によって建てられた。1本が直径2.2メートル、高さは優に20メートルを越える壮大な石柱が54本も林立して巨大な神殿の屋根を支えていたというが、今では6本しか残っていない。上の写真の右奥にそびえる6本の石柱がそれ。

 写真で注目してほしいのは神殿の土台部分。ひときわ巨大な切り石が3つ横たわっているが、それらがトリリトン(驚異の3石)と呼ばれる「ジュピター神殿の巨大土台石」だ。それらは1個あたり長さが約18メートル、高さと幅は約4メートル、重さは650トン~970トンあるという。

 さらに驚くべきは、神殿の上部構造は確かに2000年前の古代ローマ人の手になるものだが、それを支える土台部分は、はるか以前のフェニキア人が建造したものがそのまま流用されたとみられている点だ。それほどの強固で巨大な土台を必要とするフェニキアの神殿とは(なにしろ、3000年以上も前にアルファベットを創出し、海上交易によって地中海世界を制覇し、さらにはまた、地中海沿岸各地にカルタゴをはじめとする植民都市を建造しまくったあのフェニキア人が本拠とした地に建てられた神殿なのであるから)、古代ローマ人のジュピター神殿にも勝るとも劣らないさぞかし壮大な代物であったはずだ。

 中米の古代マヤのエル・ミラドール遺跡などでもそうだが、その遺跡の近年の発掘によって、マヤ文明の草創期が従来考えられていたよりも1000年近くも前にさかのぼり、それほどまでにしぶとく長期にわたってマヤ文明が存続・発展してきていたというビッグサプライズが明らかとなり、さらにはまた、南米での古代アンデスの遺跡の最近の発見でもほぼ似たような結果が出ている。文明という花は、むしろ、いにしえにさかのぼるほど絢爛と咲きほこっていたように思える。

 トリリトンと並ぶバールベックのもう1つのオーパーツは「建築物には使われていない超巨大切り石」だ。

 半ば土に埋もれているこの切り石の大きさは、長さが約21.5メートル、高さ4.2メートル、幅4.8メートル、重さはなんと2000トンもあるという。ただこの巨石が存在している場所は石切り場であって、もともと自然にあった巨石を加工しただけもののようで、移動は行われなかったようなのだ。おそらくそのあまりの大きさゆえに断念され、そのまま放置されたのであろう。

 一方、トリリトンの場合は、南西に700メートルほど離れた石切り場から切り出されて神殿まで運ばれたと考えられている。

 世界最大のクレーン運搬装置の吊り上げ可能な重さの限度は、NASAがロケットの移動に使用しているもので700トンしかないという。現代の技術を用いれば、超大型の重クレーンにキャタピラを装備して巨石の一部を持ち上げ、そのままひきずって運んで行く方法も考えられる。しかし、道を固く平坦にするなどの恐ろしく手間のかかる道路整備が必要だ。ところが、それなのに、バールベック遺跡と石切り場との間には土木工事の跡は一切発見されていないという?????

 あれ、何の話してたんだっけ、あっ、群馬県の倉賀野の話題ね。倉賀野の東方にある観音山古墳のお話ね。ここの天井巨石は25トンってことだから、エジプトの大ピラミッドのそれのほぼ5分の2ね。それに、大ピラミッドのそれは切り石で表面は平坦に加工されているけど、観音山古墳(いや、日本の古墳すべて)のそれは自然石のまんまだしね***

 なんかボルテージ落っこちてきたみたいだけど? はははっ、で、でい丈夫でい。倉賀野って町とその周辺の古墳たちをこれからちんまり経めぐるだっちゃ。

 はて、小生のたむろするところは八王子なのだが、倉賀野まで何に乗っていったのかしら。なにしろ2年前のことなので忘れちまった。八高線なる電車が八王子~倉賀野間を運行しているから、これで行ったのかなぁ。なにしろこの電車は単線で、東京ー埼玉ー群馬県間を走るのだが、埼玉の高麗川駅から群馬の倉賀野駅間は電化されていず、埼玉で唯一電化されていないローカル線としてごく一部の鉄ちゃん様間では名高い。電化区間は通勤時間帯をのぞいてほぼ30分に1本、非電化区間では1時間に1本という超過疎ダイヤ。

 んでも、もっと速い電車に乗って行こうとすれば何だかんだちょこまか乗り換えなければならないから、やっぱ八高線で行ったのかなぁ。八高線だって時刻表どおりに出発すれば、他の電車で行くのとほぼ変わらない時間で行けるってことが、いまネットで調べたらわかった。うん決まり、やっぱ八高線で行ったんだ!

 2時間半ほどの乗車で倉賀野に着いた(はずだ)。なにはまず、倉賀野周辺の古墳について語ってゆこうと思うが、その前に群馬県が東日本随一の古墳大国だということを述べておきたい。以下はデジタル毎日(新聞)の2017年4月18日の記事。

 『群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告がまとまった。県内の古墳の総数は1万3249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。』

 あ、それから、群馬が埴輪王国と呼ばれ、日本における埴輪研究のメッカだということは知ってました?

 埴輪で国宝に指定されているのは武装男子立像たった1つで、それは群馬県太田市飯塚町から出土した。東京国立博物館にある。

 武装男子立像

 国宝・国指定文化財の埴輪42件のうち19件(45%)が群馬県から出土している。

 さて、倉賀野のことだが、この町は主に高崎市を流れる利根川水系の一級河川である烏川の北岸一帯に位置している。倉賀野の烏川流域には数百の古墳がひしめいているが、その大部分は消滅してしまった。以下は、烏川流域の東端部分の古墳分布図である。

東国の古代史より引用

 上図中、赤丸の部分はすべて削平されて、残っているのは黒丸の部分だけだという。この古墳群の西側の烏川流域一帯に分布する古墳群を倉賀野古墳群と呼んでいるらしいが、西側だけなどといわず、倉賀野町の烏川流域全体の古墳群を倉賀野古墳群と呼べばいいと思うのだが。

 で、倉賀野古墳群についてである。大小300基以上の古墳がひしめいていたそうだが、今では墳丘と見分けのつく遺構というのは、浅間山古墳、大鶴巻古墳、小鶴巻古墳の3基ほどだけらしい。倉賀野古墳群を含む烏川流域全体の古墳群がかほどまでに原型をとどめてないのは

①江戸時代に入って中山道(旧中山道、以下同)が整備され、倉賀野宿には本陣が一つ、脇本陣が二つ置かれたこと。

②さらに、日光例幣使街道(徳川家康の没後、日光東照宮に幣帛『へいはく:神道の祭祀において神に奉げる、神饌〈しんせん―酒食〉以外のものの総称』を奉献するための勅使〈日光例幣使〉が通った道路)の起点となり、さらには中山道との分岐点(追分)にもなるなどして陸路の要衝として重きをなしたこと

③さらにはまた、南を流れる烏川には下総国 行徳河岸に直結する倉賀野河岸(かし)が整備され、水運の基地としても重きをなしたこと

など、地域の開発・発展が進んだせいだろう。なにしろ水陸交通の要衝として、天保年間には高崎宿の15軒を凌ぐ32軒(文化・文政年間の最盛期には71軒)もの旅籠が並んだというから、宿の発展にともなう開発の進捗によって破壊された遺構もさぞかし多かったことだろう。下の浮世絵は、江戸時代の倉賀野河岸の一風景。船は浅い川でも進める高瀬舟が使用され、寛政12年(1800)の記録では小船や艀(はしけ)から大きな江戸廻り船まで約119艘が就航したという。

 それでは以下に、倉賀野古墳群を含む倉賀野町の烏川流域全体の古墳群の中から、墳丘と見分けのつく主要遺構4基を紹介する。

・浅間山古墳

 埼群古墳館より引用

 倉賀野古墳群の盟主であるだけでなく、Wikipediaによれば、その規模は「群馬県内では太田天神山古墳(東日本では最大)に次ぐ第2位、ひいては関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の前方後円墳で、4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される」とある。

 下の写真は2016年10月の撮影だが、草木がぼうぼうで残念ながらほぼ未整備状態。墳丘の全体像すらつかめないくらい荒廃している。上の写真はかなり以前のまだ開発にはそれほど侵されていない頃、しかも冬場に撮られたものであろう。古墳の撮影には大体において冬がよい、ということをやっと知った駄目五郎であった。

・大鶴巻古墳

 浅間山古墳から500mばかりのところにある前方後円墳で、こちらはかなり整備されている。4世紀末から5世紀初頭頃の築造というから、浅間山古墳とほぼ同時期である。

・小鶴巻古墳

 日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)より引用

 大鶴巻古墳のすぐ近くにあり、同古墳と同時期に築造されたらしい。墓地や耕地に浸食されて、草木がぼうぼうのほぼ未整備状態。

・長賀寺山古墳

 

 倉賀野古墳群には属さない倉賀野町東側にある古墳で、そこそこの規模を有しているらしいが、荒れ放題のまま放置されている。

 こうしてみると、倉賀野町とその周辺でまっとうなフォルムを維持している墳丘というのは、冒頭に挙げた観音山古墳(綿貫古墳群の1つ)と倉賀野古墳群中の大鶴巻古墳だけみたい。観音山古墳を有する綿貫古墳群というのは、倉賀野町の北東にある綿貫町に所在する遺構群で、観音山古墳および普賢寺裏古墳、不動山古墳、岩鼻二子山古墳などがある。以下に普賢寺裏古墳、不動山古墳、岩鼻二子山古墳の3遺構について述べる。

・普賢寺裏古墳

 文字どおり普賢寺というお寺の裏手にある。

 墓地の向こうが墳丘っぽい。

 寺の裏手に回ってみる。

 
 草木がぼうぼうだ。この”草木がぼうぼうが丘”のぐるりをまわってみよう。おんや、季節がら紫陽花などが。
 

 ふむコスモスだ。

 こりゃ何だんべ(稀代の花オンチ)。

 おいおい、花見に来たんじゃねぇぞ。なおも懲りず、これなんか結構いいんじゃね。

 なんか雰囲気のあるマウンドが。 


 前方後円墳の後円部かも。さっきの”草木がぼうぼうが丘”は前方部かな。
 表へ戻ると寺の境内には円墳らしきものが。その墳頂の石碑・石像たち。
 
 
 そのほか境内にはこんなものが。
 
 
・不動山古墳

 ご多分にもれずこれも”草木がぼうぼうが丘”。ここだけの話、倉賀野とその周辺の草木がぼうぼうが丘と、イングランド・ヨークシャーの嵐が丘とはこのたび姉妹丘の契りを交わしたそうですぜ。

 
 左端にちょこっと見えているのは上州綿貫不動尊の看板。社殿は墳頂に鎮座している。その社殿の裏手に船形石棺が置かれていた。
 
 
・岩鼻二子山古墳

 草木がぼうぼうでも残っているだけまだまし、今では跡形もなく消滅してしまった古墳・・・それがこの岩鼻二子山古墳だ。岩鼻というのは、綿貫町の南、倉賀野町の東に接する町で、江戸時代には岩鼻代官所が置かれ、上野国(こうずけのくに:古代の上毛野国(かみつけののくに))8郡にわたる5万8700石あまりを管理した。維新直前の慶応元年(1865年)には関東郡代所に昇格し、上州全域50万石を取り締った。慶応4年=明治元年(1868年)に関東郡代木村甲斐守は罷免され、代官所は高崎藩によって接収、同じ年(明治元年)に岩鼻県庁となった。つまり岩鼻県なるものが出現したのだ。旧郡代所管轄下にあった旧幕府領の一部と、上野国、武蔵国内の旧旗本領の一部とを管轄するために設置された。県とはいっても、廃藩置県の以前に旧幕府と旧旗本領に対してつけられた急ごしらえの領名で、県名の先どりといっていいだろう。明治4年(1871年)には高崎県に改称、しかし、高崎藩8万石と前橋藩15万石との威信をかけた対立があって、県名改称通達後わずか3日にして群馬県へと変更された・・・とまあ、こんなところにも明治新政府のゴタゴタぶりの歴史がきざまれているんですなぁ。

 岩鼻二子山古墳の貴重な写真を見つけたのでご紹介する。

  七福神の案内人より引用 

 撮影時期は不明ということだ。現在の日本原子力研究所高崎研究所の敷地内にあったが、昭和10年頃岩鼻火薬製造所の施設整備に伴い消滅した。前方後円墳で、全長が115mあったというから、綿貫古墳群中最大規模である。後円部から出土した船形石棺は、東京国立博物館に収蔵されているという。

 倉賀野にはもうひとつ、7世紀末頃に造られたユニークな円墳がある。安楽寺古墳という。中山道に沿った安楽寺というお寺の裏手にある。

 寺の奥にそれらしいものが。

   墳頂は竹林。

  この古墳は、石棺式石室という珍しい形態で、凝灰岩の切石が使用されている。石室内の壁には鎌倉時代作と推定される7体の仏像が彫られており、寺の本尊とされ、12年に1度だけ開帳される秘仏とされている。

 本堂と石室内の本殿とを結ぶ連結部分と思われる家屋が墳丘の右手に見えている。

 この寺の境内にはいくつか興味深いものがある。まず、「異形板碑(いけいいたひ)」。板碑とは、板状の石材を使用した卒塔婆の一種だ。

 

   全部で3つあるのだが(古いもので鎌倉時代の建立)、あとは省略。

 次いで「えな捨て場」なるものがある。

 隠居の思いつ記より引用。

 説明板があったのでこれをアップして手抜きしようと思ったのだが、引用先の説明がよいのでそれを転載する。

 『「えな」とは「胞衣」と書き、産後の「胎盤」のことです。
昔は、お産婆さんが油紙にくるんで、その家の人が寺の墓地に持って行って捨てていたといいます。
安楽寺古墳の西側斜面、お地蔵様の左に、今でもその穴が残っています。

その後ろに、昭和四十年(1965)建立の「胞衣之碑」があります。
この年は巳年で、第百二回目の「穴薬師」ご開帳を記念して建てられたようです。』

 もうひとつ「鼠供養塔」というのがあった。墓地の一角に建っている。

 説明板があったので、それをアップして手抜きしようと思ったのだが、先の引用先の説明がとてもよいので少し長いがそれを引用させてもらう。

 『古墳の北側、ちょっと高くなった所に不動明王の石像と並んで建っています。
写真ではちょっとわかりにくいですが、「鼠」の文字が刻まれています。

一説には、倉賀野脇本陣の主須賀庄兵衛が、自宅の蔵の鼠を供養するために建てたと言われています。
また、安楽寺の奥様のお話によると、倉賀野河岸の米蔵を解体する時に、沢山の鼠を殺したので、その供養のために蔵主が建てたのだそうです。

実は、この話には後日談があります。
その解体した米蔵の部材を使って、安楽寺の庫裡を建てたというのです。
安楽寺は、お寺さんには珍しく信徒はいるものの、檀家というのを持たない祈祷寺です。
今でこそ、信徒さんの勧めで裏にわずかな墓地を持っていますが、昔は貧乏寺だったのだと奥様は仰います。
それを知っていた大工さんが、解体した米蔵の部材を使って、寺の庫裡を建て直してくれたのだそうです。』

  よき時代のきれいなおはなし。

 こんだは神社だ。倉賀野宿のほぼ中ほど、中山道沿いに参道入口がある倉賀野神社。

 かつての倉賀野宿の繁栄のあとを今に残す由緒ある神社だ。社伝によると、第十代崇神天皇の四十八年九月十九日、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が、今の倉賀野神社境内にあたる場所にて斎場を設け、松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀したのが当社の起源だという。

 日本書紀および古事記によると、豊城入彦命は崇神天皇の皇子で、東国平定のために関東へ下向したとされる。上でいう神社の起源エピソードとは、皇子の東国平定の征旅途上における出来事を言っているのではないか。そして、その豊城入彦命の子孫である上毛野君(かみつけののきみ)と下毛野君(しもつけののきみ)が、それぞれ後の上毛野国(群馬県)と下毛野国(栃木県)を征服して支配下においた。そして上毛野氏(かみつけののうじ)は、東国で最大とされる太田天神山古墳を築造したとされ、その絶大な権力を内外に知らしめたとされる。

 先に紹介した倉賀野古墳群の盟主たる浅間山古墳(4世紀末~5世紀初頭頃)は、太田天神山古墳(5世紀前半~中頃)が造られる以前には東国最大の前方後円墳であり、天神山古墳が築造される以前に上毛野氏によって築かれたとする説がある。その説にしたがうと、上毛野氏はここ倉賀野一帯を地盤としていた時期があったということになる。

 豊城入彦命の子孫である上毛野氏と倉賀野との因縁、そして、倉賀野神社に伝わる豊城入彦命にまつわる社伝。これらを勘案すると、もしかすると、古代にはここ倉賀野が上毛野国の中心だったのでは・・・という不遜な妄想にかられてしまう今日この頃なのであった。

 ちなみに、倉賀野神社の前記社伝中で「松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀した」とされている亀形の石は、本殿に大切に奉安されているというが、残念ながら開帳はしていないという。その代替品らしきものが、神社の外、道を隔てたところにある。亀に見えるかな?

 さて、妄想にかられるのはこれくらいにして、肝心の倉賀野神社をご紹介せねば・・・。まずは本殿。

 こうした建築様式を流れ造りというらしい。正面側の屋根を長く伸ばして優美な曲線を与え、それを支える柱が1間(柱が2本)であれば一間社流れ造り、3間(柱が4本)であれば三間社流れ造りというんだと。

 本殿の側面のフォルムもなかなかいける。総ケヤキ造りで本殿正面および側面には、種々の動物の見事な彫刻がほどこされている。豪商らの寄進の多さを無言で物語ると言われている。

 以下は社殿前に建つ常夜灯。

 倉賀野宿の旅籠「三國屋」の「つね」という飯盛女(女郎)が寄進したものだという。また、以下に示すように飯盛女たちが寄進したという石玉垣も残っている。

 隠居の思いつ記より引用

 金沢屋内 ?? ひろ きん と読める。

 倉賀野宿は飯盛女(遊女)でもっていたと言ってもいいかもしれない。事実、中山道の五貫堀にかかる太鼓橋は板の橋で、たびたびの大水で押し流されてしまっていたのが、飯盛女たちの寄進した石造のアーチ橋に架け替えられてからはそんな災害はなくなったという。倉賀野女の心意気がひしひしと伝わってくるじゃありませんか。

 倉賀野という町をちょこっと散歩してみよう。以下は、倉賀野小学校の外塀にかかっていた「ご近所名所図会」。

  まずはじめに、日光例幣使街道と中山道との分岐点(倉賀野追分)、および、そこに建てられた閻魔堂(江戸時代に阿弥陀堂として造られたものらしいが、今は建て替えられている)と常夜灯に行ってみる。

 常夜灯(写真左)の背後に閻魔堂、手前の道が日光例幣使街道で奥の道が中山道。勅使は京都から中山道を下って(写真手前方向が京都方面)ここ倉賀野追分まで来て、例弊使街道を通って日光へと向かう。

 由来によれば、常夜灯は、文化11年(1814年)、例幣使街道五料宿(倉賀野から車で20分弱の例幣使街道「玉村宿」に置かれた唯一の関所「五料関所」に接する形で形成された小さな宿場町)の旅籠 高砂屋文之助が若い頃の放蕩の罪滅しに建てたものだそうで、建立費用の寄付者として相撲の雷電や柏戸、歌舞伎の松本幸四郎や市川団十郎などの名前も刻まれているという。

 司馬遼太郎のエッセイ集「司馬遼太郎が考えたこと6」に日光例幣使について触れたところがあり、それによると、例幣使は家康を神格化した東照大権現に天皇家の使者を参拝させることによって将軍家の威光を庶民に知らしめる意味があり、公家達も当時旅行の自由もなく生活に窮迫していたので交代で行くことを競った。旅費も荷物の運賃も無料というのをあてこんで、にわか家来の商売人を引き連れて京都の品々を江戸で売らせてピンはねをしたり、宿場々々で金をせびったりして金品を稼いだという。一方庶民のほうも、公家の残飯や残り湯をいただいて薬としてありがたがったり・・・。

 日光例幣使は正保4年(1647年)に第1回の派遣があって以来、慶応3年(1867年)の最後の派遣まで、221年間(!)1度の中止もなく継続されたという。

 これは道しるべ。左:日光道(例幣使街道)、右:江戸道(中山道)。中山道というのは、「京都発江戸へ下る」発想ですべての案内標識ができているそうだ。この倉賀野追分でも、京都方向から江戸へ向かう通行人の目に入るように「左 日光道、右 江戸道」の道しるべ、および常夜灯、阿弥陀堂が建てられている。でも江戸方向から来た人には、右へ振り向かないと目視することができない。まごまごすると見過ごしてしまいそうだ。

 お次は、かつて倉賀野の南を流れる烏川に設けられていた河川舟運(かせんしゅううん)の拠点「倉賀野河岸」の跡をご紹介。

 南八幡の案内人より引用

 烏川を西から東方向に撮影とある。奥に見える橋は共栄橋。橋の左下の河川敷に倉賀野河岸があったようだ。

  Tigerdreamの上州まったり紀行より引用

  跡地に建てられた碑。引用先ブログによれば、倉賀野河岸は戦国時代(1561年)に開設され、江戸時代には上信越地方と江戸との水陸交通の中継地として、利根川水系の河岸の中では最大の規模を誇っていたとある。

 Part2へ続く。

 

*** 観音山古墳の天井巨石の様子がもっとよくわかる写真です。

 埼群古墳館より引用

 この天井石は自然石ということですが、天然のままの手つかずの石とは異なり、産地からかなりの精度でもって切り出された切り石です(日本の古墳では、これら両タイプの自然石が使われています)。

 群馬県の安中寄りにある八幡観音塚古墳の天井石の重さは、最大で大ピラミッドのそれにも劣らない約60トンだそうです。

 

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