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●守護●守護代●若狭国●越前国●島津氏都の繋がり?●斯波宗家●武生(たけふ)

2012年08月01日 21時17分37秒 | 色んな情報
●守護●守護代●若狭国●越前国●島津氏都の繋がり?●斯波宗家●武生(たけふ)
★室町幕府(むろまちばくふ)http://p.tl/vEDS
鎌倉幕府が滅亡した後に成立した建武政権から離反した足利尊氏が、京都に本拠を置いて創始した武家政権。
「室町幕府」という呼称は3代将軍足利義満が北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した将軍の御所である「花の御所」こと室町殿がその由来となっている。
★守護(しゅご)http://p.tl/ZqM4
日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が鎌倉殿へ守護・地頭の設置を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。
将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。
鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。
制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。
★守護代(しゅごだい)http://p.tl/sdxJ
鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。
★山城国 (やましろのくに)http://p.tl/kt9C
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に位置する。
別称は城州(じょうしゅう)が一般的だが、稀に山州(さんしゅう)、さらに唐の首都長安の所在に由来する雍州(ようしゅう)の呼称もある。領域は現在の京都府南部にあたる。
『延喜式』での格は上国。
「やましろ」は、古くは山代と書き、7世紀に山背国という表記で国が建てられた。
延暦13年11月8日(794年12月4日)の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から山城国に改称した。これが「城(ジョウ、き)」という字を「しろ」と読む原因となった(詳細は城を参照)。
平城京時代の木簡を見る限り、山代国、山背国と表記は並存しているようである。
★四堺(しさかい)http://p.tl/wjrd
平安京のある山城国の四維にあたる大枝・山崎・逢坂・和邇の4つの地点の事。
外部からの穢れが平安京へ侵入する進路と考えられていた。
平安時代中期以後に神道や陰陽道によって穢れの意識が強くなると、穢れを外部へ放逐するために四角四堺祭を執り行ったり、(山崎には宿が置かれていたと言われている)や障害者(神道の国津罪に該当する)をこの外側に隔離して住まわせたりした。また、盗賊など平安京を追われた犯罪者や鬼などの妖怪変化の住まう地として人々に恐れられたりもした。
★堺祭(さかいのまつり)http://p.tl/m6wf
古代・中世日本の王都・国郡の堺(境)で行われた祭。
★蝉丸(せみまる、生没年不詳)http://p.tl/Q2Ed
平安時代前期の歌人、音楽家。古くは「せみまろ」とも読む。
・蝉丸 - 逢坂に住む盲人とも乞食とも言われている。
旧暦5月24日およびグレゴリオ暦の6月24日(月遅れ)が「蝉丸忌」とされている。
『小倉百人一首』にその歌が収録されていることで知られているが、その人物像は不詳。
★3 コクジン豆知識 4 大和国守護職 http://p.tl/dki1
★若狭国(わかさのくに)http://p.tl/-ckR
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。
別称は若州(じゃくしゅう)。
領域は現在の福井県南部(嶺南地域)から敦賀市を除いた部分にあたる。
『延喜式』での格は中国、近国。
★越前国(えちぜんのくに)http://p.tl/4EEE
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
北陸道に位置する。別称は越中国・越後国とあわせて、または単独で越州(えつしゅう)。
領域は現在の福井県嶺北地方(岐阜県郡上市白鳥町石徹白地区を含む)及び敦賀市にあたるが、創設時には石川県全域をも含んだ。『延喜式』での格は国力で大国、距離で中国。
★安芸武田氏●清和源氏武田氏流 甲斐源氏の一族 http://p.tl/qaGY
★若狭武田氏 (清和源氏武田氏流) http://p.tl/jj-6
★府中小笠原氏(清和源氏義光流)甲斐国中巨摩郡小笠原村 http://p.tl/fvjC
★守護町勝瑞とは http://p.tl/kzk9
★畠山義統特集 http://p.tl/91CT
★冨樫氏はなぜ加賀守護を3度も奪われたか  http://p.tl/Vtch
★守護大名の「在京」と「在国」の意味するもの  http://p.tl/PHyh
★島津 忠久(しまづ ただひさ)http://p.tl/_9Qx
平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式には惟宗忠久という。
出自・生年については諸説ある。
承久3年(1221年)の承久の乱後は信濃国太田荘地頭職と越前国守護職を獲得した。
★武藤 舜秀(むとう きよひで)http://p.tl/Li0O
(生年未詳 - 天正7年7月3日(1579年7月26日))
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信長の家臣として仕えた。通称は宗左衛門、宗右衛門、惣右衛門、弥平兵衛。子に康秀。
1574年(天正2年)、越前国守護代である桂田長俊が越前一向一揆によって殺害される と、一向一揆に備えるため、舜秀は羽柴秀吉・丹羽長秀らとともに、敦賀郡へ出陣した。 一向一揆軍が勢いに乗って、木ノ芽峠を越えて南下しないための措置だった。
★金ヶ崎の戦い (南北朝時代) http://p.tl/dlzN
南北朝時代の1336年(延元元年/建武3年)から翌1337年(延元2年/建武4年)にかけて、越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる南朝方の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる北朝方の軍勢との間で行われた戦いである。
義貞の入城直後、越前国守護斯波高経が率いる北朝方は金ヶ崎城を包囲した。
★図説 福井県史 http://p.tl/fbBg 資料所蔵者・提供者・協力者一覧 http://p.tl/YJGH
★戦国時代に朝倉氏が越前国守護になっている経緯は? http://p.tl/QJa3
★なぜ、朝倉考景は越前国の守護になれたのですか? http://p.tl/_UU1
★日本辞典 朝倉(越前)http://p.tl/giEA
★『越前国守護』に関連する質問・疑問一覧 http://p.tl/4AoG
★越前・杣山城(そまやまじょう)http://p.tl/0m1g
★室町時代 北陸・東近畿の室町幕府守護大名 http://p.tl/i1tG
★斯波義廉【しば・よしかど】朝日日本歴史人物事典の解説.
生年: 生没年不詳
室町時代の武将。渋川義鏡の子。治部大輔,左兵衛佐。斯波宗家の義敏が重臣甲斐常治らとの対立により将軍足利義政の怒りを買って失脚し,その子松王丸もまもなく廃されたあと,寛正2(1461)年同じ足利一門の渋川氏から後嗣として迎えられ,越前(福井県)・尾張(愛知県)・遠江(静岡県)3カ国の守護職を継いだ。この背景には常治亡きあと斯波氏家臣中最高の地位に上ってきた朝倉氏の意向があったと考えられる。同6年義敏の実父持種や義政の寵臣伊勢貞親の運動で義敏が許され翌年7月家督についたが,家臣の多くは義廉を支持し,同年9月義廉の舅山名宗全らが貞親を追放したので再び当主につき,応仁1(1467)年には管領に就任した。義敏が宗全と対立する細川勝元に支援を求めたことでこの家督争いは応仁の乱の一因をなしたが,重臣や将軍側近勢力の思惑に翻弄されたもので,斯波氏の権威を決定的に失墜させることになった。応仁の乱で宗全方の西軍に属した義廉は,同2年管領を罷免され,東軍の義敏討伐を名目に閏10月越前に下った朝倉孝景が東軍に寝返って,文明3(1471)年越前国守護代職を認められたことで苦境に立たされた。その後朝倉氏が義廉方にとどまった甲斐・二宮両氏らを討って同7年ほぼ越前を制圧すると,同年義廉は京都から尾張に下った。ここで守護代織田敏広に奉じられて義敏方の織田敏定と戦うなどの活動も見られるが,やがて動静は窺えなくなる。<参考文献>鈴木良一『応仁の乱』
(河村昭一)
★斯波義廉【しば・よしかど】世界大百科事典 第2版の解説.
室町中期の武将。生没年未詳。渋川義鏡の子で別名義寛。1452年(享徳1)越前・尾張・遠江3ヵ国守護であった斯波義健の没後に家督を継いだ義敏が,甲斐,朝倉,織田氏らの重臣の支持を失い,60年(寛正1)大内氏を頼って周防に逃れた。翌年に斯波家の家督を継ぎ,3ヵ国守護職となった。義敏が大内氏の力を背景に一時家督を回復すると,義廉はただちに義父山名持豊を頼んで再び家督についた。この家督争いが応仁・文明の乱の一因となった。・・・
▼斯波義廉について記述のある項目
 斯波氏【しばうじ】 応仁・文明の乱【おうにんぶんめいのらん】 尾張国【おわりのくに】
★斯波義廉【しば・よしかど】デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
?-? 室町時代の武将。
渋川義鏡(よしかね)の子。寛正(かんしょう)2年(1461)将軍足利義政(よしまさ)の命により斯波家をつぎ,越前(えちぜん)・尾張(おわり)・遠江(とおとうみ)の守護となる。山名持豊の推挙で文正(ぶんしょう)2年管領(かんれい)につく。家督をめぐり斯波義敏(よしとし)と対立,応仁の乱の一因となる。
★斯波義廉【しば・よしかど】デジタル大辞泉の解説.
室町中期の武将。室町幕府の管領。斯波氏を継いで、越前・尾張・遠江(とおとうみ)の守護職となった。のち、義敏と家督を争い、応仁の乱の一因を作った。生没年未詳。
★斯波義廉【しば・よしかど】大辞林 第三版の解説.
室町・戦国時代の武将。斯波義敏のあと斯波家を継ぐが,義敏と家督争いを続け応仁の乱の一因となる。生没年未詳。
★府中城(越前国)越前市 http://p.tl/qx11 旧武生市府中1丁目
城の起源は文明の頃越前国守護朝倉氏の府中奉行所の構築に創まると云われ天正 年間前田利家が城濠を修築拡張した。
★山内一豊公の像 高知城 http://p.tl/eIID
以後、一豊は母とともに流浪の末に何人かの主君に仕えたのち、織田信長の家臣であった秀吉に仕え、信長の越前(えちぜん=現・福井県嶺北地方及び敦賀市)朝倉氏(あさくらし=越前国を拠点とした豪族で、後に発展して戦国大名となる。越前国守護である斯波氏((しばし)の守護代(しゅごだい)を務めたが、のちに朝倉氏自体が守護に任命された)攻めでは秀吉の配下として武功をあげ400石の領地を与えられた。
★日本史決断列伝 富樫政親 http://p.tl/dADI 朝倉孝景 http://p.tl/sMKd
★朝倉氏(あさくらし)は、越前国を拠点とした豪族 http://p.tl/hwvL
★島津氏(しまづし)は、日本の氏族。http://p.tl/KS1H
越前、信濃、駿河、若狭、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、江州島津氏と呼ばれている。
忠久の嫡子島津忠時は承久の乱で幕府方の武将として相当の武功を挙げ、若狭守護職と各地の地頭職を得た。また乱の際に使用した太刀は「綱切」と号されて、源氏の白旗、忠久の大鎧と共に島津氏の当主が所用すべき重宝として相伝することとなった(『西藩野史』)。乱後、忠久は越前国守護職に補せられている。1227年(安貞元年)、忠久の死去に伴い忠時が2代目を継ぎ、所職を相続したが、越前国守護職はほどなくして後藤氏に交替している。
★島津 忠綱(しまづ ただつな)http://p.tl/zfcj
承久3年(1221年)、父忠久が越前国守護職に補任されたとき、17歳で守護代となり、同国生部(現福井市)に居住したと伝える。現在福井市生部町内に「越前島津屋敷跡」があり、平成22年(2010年)には同町会の要望によって当地に石碑が建立された。
★越前市の歴史 http://p.tl/p57r
 
★武生市(たけふし)は、福井県中部にあった市。http://p.tl/9zAB
「越前市」という新市名については、隣接する自治体に元来より存在する越前町、越前市以前に設立された南越前町と紛らわしく、旧武生市民・旧今立町民および隣接自治体住民の反発を買っている。
越前の国の国府が置かれていた事で知られ、かつては「府中」と呼ばれた。
「武生」の由来については、「生」が植物群落を意味することから、竹やぶの意味である「竹生」からきているとも言われている。
★武生地名考 http://p.tl/mDwS
「催馬楽(さいばら)」の一節、「道ノ口 武生の国府に 我(われ)はありと…」から来ているそうです。
 武生(たけふ)当地方は、往古より「古志国(こしのくに)」と呼ばれ、早くから開けた所であり、
当時の武生を歌ったものとして道の口と挿櫛(さしぐし)の2曲が残っている。越前の国府であったこの地は、古くから要所として栄えたので詩にまで詠まれたのであろう。
由緒ある地名なのでなおさらだ。「武生」が初めて歴史に登場するのは奈良時代末から平安初期にかけてできたとされる「催馬楽(さいばら)」の一節である
★催馬楽(さいばら)http://p.tl/baAs
平安時代に隆盛した古代歌謡。元来存在した各地の民謡・風俗歌に外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡である。
管弦の楽器と笏拍子で伴奏しながら歌われた「歌いもの」の一つであり、多くの場合遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われた。
語源については馬子唄や唐楽からきたとする説などもあるが定かではない。

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