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縄文人の反乱 日本を大事に

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 大東亜会議70周年記念特別企画第二幕 「ハルノートの謀略」

2013年12月03日 22時05分18秒 | 色んな情報

 

 大東亜会議70周年記念特別企画第二幕 「ハルノートの謀略」
( 開戦決意の瞬間 )
         石坂 哲朗
ロシァ革命に伴い1919年に世界を共産化するための「コミンテルンインターナショナル」と言う組織ができその本部をモスクワに置いた。
この組織のエージェントは世界に散り主要機関の首脳部に潜伏する。...
中国共産党を操り、蒋介石率いる国民党に大日本帝国を支那事変に引きずり込み、
又、米国首脳部に多数潜伏させたエージェントによりこの三者を消耗戦に陥れて行った。
いわゆる日本側が終結に何度向かおうとも、このコミンテルンの指揮する支那兵が攻撃を仕掛け永遠と終結に至らないという謀略であった。

1941年7月28日サイゴンをはじめとするカムラン湾等々大日本帝国軍の統治下となり南部仏印進駐を果たす。
この作戦は7月2日御前会議による決定であったが、この時、この進駐により、もし米国との折り合いが付かぬことになった場合「対米英戦を辞セズ」と決していた。
米国は既に1939年「日米通商航海条約の廃棄」1940年1月「鉄・航空機用燃料などの輸出に制限」などの1937年から始まるABCD包囲網(米英欄支那)が完成しようとしていた。
続く同年7月「日本の在米資産凍結令」 8月 「石油の対日全面禁輸」となる。
この時日独伊軍事同盟を脱退していればとの説も多いが、コミンテルンの次なる「アジアの赤化作戦」それにも増して英国チャーチル首相からの「米国参戦への熱望」を満たして行くには、どうしても日本からの米国攻撃が不可欠であったと考えてしまう。
なにより謀略をもってするスターリンさえ米国参戦なくして勝利はおろか 独・第三帝国を防衛する力は皆無であった。
それに増して極東での大日本帝国からの攻撃を恐れていたのだ。
しかし大日本帝国は親米親英派の案など大幅に取り入れ米国との交渉を最後まで諦めず、それは三国同盟破棄論までに至っていた。
それら全て米英ソの謀略の前には無意味であったわけである。
これに望みを賭けていた第三次近衛文麿内閣同年10月18日総辞職。
同日 悲劇の将・東条英機 陸軍大将による内閣が発足するわけである。

11月・在米武官は米国の伝文を傍受する。
「日米協定基礎概要案」いわゆる「ハルノート」と言われている。
その内容はすさまじく武官から日本に送られたこの書に対するものは次の通りである。
(原文カナ)果然、米武官より来電、米文書を以て回答す、全く絶望なりと。
曰く1四原則の無条件承認 
2支那及仏印よりの全面撤兵 
3国民政府(汪兆銘政権)の否認 
4三国同盟の空文化」
「米の回答全く高圧的なり。而も意図極めて明確、九カ国条約の再確認是なり。
対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。
交渉は勿論決裂なり。
之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり。
もちろんこの電文は開戦を早めさせる意図により、あらかじめ日本が解読可能な暗号を使用して打電したものでる。
大日本帝国が対米戦を決意した瞬間であった。

この傍受作戦を了承したルーズベルトはその時「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言ったという。

「日米協定基礎概要案」はその後 英・欄・支・他米国首脳に速やかに伝えられる事になる。
しかしこれは大変柔らかいもので、「米国 国務長官コーデル・ハル」が作成したものであった。
しかしソ連のスパイ・ハル長官の記したそれは「ハルノート」と呼ばれることは無かった。

もう一人のスパイ「 コミンテルンインターナショナルの工作員 ハリー・デクスター・ホワイト米国財務次官補 」の書いたもの。
実はこれこそが後の世に伝えられる・・つまり、日本に傍受させるため打電し、又11月26日に大日本帝国へ提示される事になるこれこそが「ハルノート」と言われるものなのである。
このスパイの目的はもう一つそれは「日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くこと」であった。
この「ハルノート」・・日米開戦の一報を誰よりも喜んだというチャーチルでさえ
戦後この書を読み「「これを見ればどんな国でも米国に対して武器を持ち立ち上がっただろう」と驚嘆した。

天皇陛下は、平和を愛する帝国になぜ武器を取らせたのかと遺憾の心情を開戦のお言葉として発せられた。

各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ・・・と。(抜粋)
( いしざか てつろー )
第二幕 「ハルノートの謀略」終了
ここで休憩に入ります。 第三幕 後期待下さい。
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 大東亜会議70周年記念特別企画第二幕 「ハルノートの謀略」  ( 開戦決意の瞬間 )    ロシァ革命に伴い1919年に世界を共産化するための「コミンテルンインターナショナル」と言う組織ができその本部をモスクワに置いた。  この組織のエージェントは世界に散り主要機関の首脳部に潜伏する。  中国共産党を操り、蒋介石率いる国民党に大日本帝国を支那事変に引きずり込み、  又、米国首脳部に多数潜伏させたエージェントによりこの三者を消耗戦に陥れて行った。  いわゆる日本側が終結に何度向かおうとも、このコミンテルンの指揮する支那兵が攻撃を仕掛け永遠と終結に至らないという謀略であった。    1941年7月28日サイゴンをはじめとするカムラン湾等々大日本帝国軍の統治下となり南部仏印進駐を果たす。  この作戦は7月2日御前会議による決定であったが、この時、この進駐により、もし米国との折り合いが付かぬことになった場合「対米英戦を辞セズ」と決していた。  米国は既に1939年「日米通商航海条約の廃棄」1940年1月「鉄・航空機用燃料などの輸出に制限」などの1937年から始まるABCD包囲網(米英欄支那)が完成しようとしていた。  続く同年7月「日本の在米資産凍結令」 8月 「石油の対日全面禁輸」となる。  この時日独伊軍事同盟を脱退していればとの説も多いが、コミンテルンの次なる「アジアの赤化作戦」それにも増して英国チャーチル首相からの「米国参戦への熱望」を満たして行くには、どうしても日本からの米国攻撃が不可欠であったと考えてしまう。  なにより謀略をもってするスターリンさえ米国参戦なくして勝利はおろか 独・第三帝国を防衛する力は皆無であった。  それに増して極東での大日本帝国からの攻撃を恐れていたのだ。  しかし大日本帝国は親米親英派の案など大幅に取り入れ米国との交渉を最後まで諦めず、それは三国同盟破棄論までに至っていた。  それら全て米英ソの謀略の前には無意味であったわけである。  これに望みを賭けていた第三次近衛文麿内閣同年10月18日総辞職。  同日 悲劇の将・東条英機 陸軍大将による内閣が発足するわけである。    11月・在米武官は米国の伝文を傍受する。  「日米協定基礎概要案」いわゆる「ハルノート」と言われている。  その内容はすさまじく武官から日本に送られたこの書に対するものは次の通りである。  (原文カナ)果然、米武官より来電、米文書を以て回答す、全く絶望なりと。  曰く1四原則の無条件承認   2支那及仏印よりの全面撤兵   3国民政府(汪兆銘政権)の否認   4三国同盟の空文化」  「米の回答全く高圧的なり。而も意図極めて明確、九カ国条約の再確認是なり。  対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。  交渉は勿論決裂なり。  之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり。  もちろんこの電文は開戦を早めさせる意図により、あらかじめ日本が解読可能な暗号を使用して打電したものでる。  大日本帝国が対米戦を決意した瞬間であった。    この傍受作戦を了承したルーズベルトはその時「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言ったという。    「日米協定基礎概要案」はその後 英・欄・支・他米国首脳に速やかに伝えられる事になる。  しかしこれは大変柔らかいもので、「米国 国務長官コーデル・ハル」が作成したものであった。  しかしソ連のスパイ・ハル長官の記したそれは「ハルノート」と呼ばれることは無かった。    もう一人のスパイ「 コミンテルンインターナショナルの工作員 ハリー・デクスター・ホワイト米国財務次官補 」の書いたもの。  実はこれこそが後の世に伝えられる・・つまり、日本に傍受させるため打電し、又11月26日に大日本帝国へ提示される事になるこれこそが「ハルノート」と言われるものなのである。  このスパイの目的はもう一つそれは「日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くこと」であった。  この「ハルノート」・・日米開戦の一報を誰よりも喜んだというチャーチルでさえ  戦後この書を読み「「これを見ればどんな国でも米国に対して武器を持ち立ち上がっただろう」と驚嘆した。     天皇陛下は、平和を愛する帝国になぜ武器を取らせたのかと遺憾の心情を開戦のお言葉として発せられた。    各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。  一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ・・・と。(抜粋)  ( いしざか てつろー )  第二幕 「ハルノートの謀略」終了  ここで休憩に入ります。 第三幕 後期待下さい。  有難う御座いました。  シェアする方 リクエストしてねー

 


●ムサシ機関

2013年12月03日 22時05分18秒 | 色んな情報

●ムサシ機関
●自衛隊の秘密諜報組織ムサシ機関   http://p.tl/XxPG
冷戦期に米軍と共同で情報収集活動に当たった自衛隊の元情報機関長が、朝日新聞の取材に応じ、 国内外で行っていた諜報( ... 別班は部内で「ムサシ機関」と呼ばれ、在日米陸軍の情報部門と秘密裏に連携した。
 
●日米秘密情報機関:「影の軍隊」ムサシ機関長の告白  http://p.tl/dPaY
然るに、平城著書は、際立った存在であり、詳細、具体的かつ明快な表現により自衛隊情報史の一面を説いているので、史料的価値に富む。
本書は、主題の情報勤務の他、旧軍時代の戦場体験、警察予備隊入隊の経緯、その後の各級指揮官、統合幕僚会議(統幕)の要員及び統幕学校職員としての実務経験に加え、退役後の実業家としての活動にも具体的に触れている。
 
●『「日米秘密情報機関」副題:「影の軍隊」ムサシ機関長の告白 元自衛隊陸将補 平城弘通/著(講談社)』を読むその1 自衛隊インテリジェンス機関の黎明期   http://p.tl/S84n
 
●ムサシ機関  http://p.tl/jDru
新聞によりますとこの組織は正式には陸幕第2部特別勤務班(別班)であり、在日米軍の情報部門と協力して対ソ情報活動を行っていたようです(ネーミングの由来や中野学校の卒業生が関与してたのか興味がありますが)。
 
●日米秘密情報機関:「影の軍隊」ムサシ機関長の告白  http://p.tl/VRDe
日米秘密情報機関 「影の軍隊」ムサシ機関長の告白 元東部方面調査隊・相馬原派遣隊長 高井三郎 http://www.jpsn.org/opinion/old_soldier/461/ -国民の皆様に情報の本質を理解して頂くための良書の紹介- 具体的かつ明快に綴る ...
 
●『日米秘密情報機関』http://p.tl/K2MX
 講談社様より平城弘通・元陸将補の著書『日米秘密情報機関~「影の軍隊」ムサシ機関長の告白』をいただき、さっそく拝読しました。
 詳細は本書を読んでいただきたいですが、私も初めて知る新事実がいくつも紹介されています。たとえば、「ムサシ機関」の存在がバレそうになり、名称を「小金井機関」に変更したなどという話もあります。途中で何か違う名称にしたらしいということは私も聞いていたのですが、それが「小金井機関」という名前だったことは初めて知りました。
 
●【話題】自衛隊の秘密情報組織「ムサシ機関」私が率いた 元情報機関長が国内外で行っていた諜報活動を証言  http://p.tl/i_h8
なんで、ペラペラしゃべる?
どういうことだ、爺さん。
 
●ひぇっ! 無効票にされた実物写真です って!えっ?自衛隊の秘密諜報機関?って .http://p.tl/9tk5
先ほど草加市の無効票大作戦の写真が掲載されました。
噂の写真がこちらのようだ。
これが
選挙委員会とグルで
無効票にされた実物写真です。

嘘でなければ大変な事件です。
 
●「日米秘密情報機関 「影の軍隊」ムサシ機関長の告白」平城弘通新刊 ...http://p.tl/tlST
影の軍隊”は実在する!! 2010年8月、朝日新聞のスクープによりその存在が明らかになった「陸幕二部別班」。通称「ムサシ機関」。自衛隊の中核を成していた最強の情報部隊は、どのような任務を進めていたのか?
 
●いかがわしい本を見抜く見識  http://p.tl/c087
              ──一つのケーススタディ──
「 自衛隊秘密諜報機関:青桐の戦士と呼ばれて 」 :阿尾博政 ( 講談社:09.6.5 ) の記述内容の壮大な虚構を暴く
 
●陸上自衛隊の秘密情報部隊が独断で海外情報活動 首相、防衛相に知らせず - 大艦巨砲主義! http://p.tl/QFih
通称ムサシ機関だね。 元々防衛庁時代に長官と陸幕長が米軍の要請に相乗りする形で作った経緯があるだろ。 関係者はペラペラ話さないから、頃合いとみてわざと喋ったな。 自衛隊がこういう活動していて、むしろ安心するだろ。
 
●自衛隊に「秘密諜報機関」があった! http://snforever.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/post_35d1.html
 阿尾氏は、元自衛隊の一等陸尉で、レンジャー部隊や空挺部隊を経験して、陸上自衛隊幕僚監部第二部(諜報部門)に移動した後、日米合同の諜報機関、通称・「ムサシ機関」に勤務し、その後「阿尾機関」として独立、国内外のさまざまな工作に従事した。かつて、台湾には白団(ぱいだん)と言って、蒋介石総統の要請により台湾の国府軍を秘密裏に支援した旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団が存在していた。 昭和二十四年から昭和四十四年までの間、団長富田直亮(陸軍少将)の指導のもと、八十三名にものぼる団員が活動した。
 


●広開土王碑●任那日本府(みまなにほんふ)●任那(みまな、にんな)●倭●大和

2013年12月03日 20時35分23秒 | 色んな情報

●広開土王碑●任那日本府(みまなにほんふ)●任那(みまな、にんな)●倭●大和
●広開土王碑には、古代の朝鮮半島を日本が支配していたことを示す記述がある。http://p.tl/atrq
 
●広開土王碑  http://p.tl/RbQj
 広開土王碑とは、現代も中国吉林省に立っている、高句麗の第19代の国王、広開土王の功績を記した石碑のこと。 まず、どこにあるのか地図で示そう。 △現在では中国国内にあることが分かる。 □広開土王・こうかいどおう…374~413…は、好太王とも永楽太  ...
 
●高句麗広開土王碑 - nifty http://p.tl/NTE1
高句麗広開土王碑は改竄されたか by T. 【はじめに】. 『東アジアの古代文化を考える会』が設立されたのは1972年11月のことだったと、事務局長だった故鈴木武樹氏の『わたしの古代教室』(新人物往来社、1974年)を読み返してわかりました。
 
●真面目に韓国考察(資料編) - FC2  http://p.tl/rjdC
 広開土王碑には、古代の朝鮮半島を日本が支配していたことを示す記述がある。
 韓国はこれを認めたくないがために、日本軍が改竄したと叫んでいるが、日本が行く以前に中国人によって拓本が取られていたことで、日本による改竄がない、正真正銘の記述であることが証明された。
 韓国がどう言おうと、間違いなく古代の朝鮮半島には日本が進出していたのである。
 
●任那日本府(みまなにほんふ)http://p.tl/minY
『日本書紀』の雄略紀や欽明紀などに見える、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関。宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭王済や倭王武が宋 (南朝)から任那という語を含む号を授かっている。
下記に列挙される史実を根拠として、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、ヤマト王権(大和朝廷)に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官僚、等々)が一定の軍事的・経済的影響力を有していたと見られている。
 1.『日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在する。
 2.『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている[注釈 1][注釈 2]など、朝鮮半島での倭の活動が記録されている。
 3.新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているが、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がないこと[注釈 3]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明している[注釈 4]。
 4.幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されているが、この地は任那四県とよばれる広義の任那の一部である[注釈 5]、[注釈 6]、[注釈 7]。
 5.宋書倭国伝のなかで451年、宋朝の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や478年、宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述している。
 
●任那(みまな、にんな、369年[要出典](~400年) - 562年)は古代に存在した朝鮮半島南部の地域。
http://p.tl/znQ1
朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域、三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。任那諸国の中の金官国(現在の慶尚南道金海市)を指すものと主張する説もある(後述)。

後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる。

第二次世界大戦後、次第に政治的な理由により任那問題を避けることが多くなっていたが、倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている、広開土王碑日本軍改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。
●語源と読み
任那の語源については、『三国遺事』所収の『駕洛国記』に見える首露王の王妃がはじめて船で来着した場所である「主浦」村の朝鮮語の訓読み(nim-nae)を転写したものとする鮎貝房之進の説が日本の学界では主流を占める。また日本語呼称の「みまな」は、「nim-na」という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。この場合はm→ma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている。
 
●狗邪韓国(くやかんこく)http://p.tl/5L47
3世紀中ごろ、朝鮮半島南部に存在した倭国内の領域政権。狗邪韓国の成立時期は不詳。中国の正史「三国志」「後漢書」に登場する。

狗邪韓国(くやかんこく)は任那(みまな)や加羅との関連性が指摘されている。(加羅を参照)
 
●魏志倭人伝(ぎしわじんでん)http://p.tl/_Ilt
中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称[1]。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた
 
●『魏書』(ぎしょ)http://p.tl/lbWy
中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。
 
●東夷伝(とういでん)http://p.tl/91VM
中国の史書の中で、中国の東方に住んでいる諸民族について書かれた伝(記述)。
周代以前の「夷」とは現在の江蘇省や山東省周辺に居住していた民族を差していたとされているが[1]、史書が編纂された時代において「夷」は消滅しており、中華世界の東に居住していた諸民族を指して「東夷」と呼んでいた。主に韓,倭(朝鮮,日本)を差すことが多い。

中国の正史の中では二十四史の中の『後漢書』から『新唐書』の間に東夷伝が出てくる(東南夷伝、蛮夷伝となっているものもある)。中でも、『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)は特に有名。
 
●倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、http://p.tl/j_Rt
1.紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
2.奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
※「大和」を参照のこと。
 
・「日本」の前身としての「倭」[編集]「倭国」および「倭人」も参照
倭および倭人の指し示す範囲は時代と研究によって変遷する。史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある。倭国は「大倭国」「大和国」とも呼称され、7世紀後半には国号を日本に改めた。 中国人歴史学者の王勇によれば中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている。

・「大和」の前身としての「倭」[編集]「大和」も参照

奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。

8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。

737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして、752年(天平勝宝4年)もしくは757年(天平宝字元年)橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』である。
 
●倭国(わこく)http://p.tl/oTEk
古代の中国の諸王朝やその周辺諸国は、当時、日本列島にいた人を倭人(わじん)と呼んでいたが、その倭人による政治勢力、国家を指して、なよなかな女性や人に委ねるという語義の漢字「倭」を用いた呼称が倭国である。 漢字の朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。
 
●大和(やまと)http://p.tl/Zbii
日本の異名。大倭・大日本(おおやまと)という雅称も指す。大和政権が五畿の一つ大和(現在の奈良県)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は2字用いることが定められ[1]、倭と通じる和の字に「大」を冠して「大和」と書くように取り決められた
・大和の範囲
元々は大和王朝(ヤマト王権)の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、大和王朝が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。さらに支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。

令制国の大和は大和国を参照。
・「やまと」の語源は諸説ある。
 ・山のふもと(→倭参照)
 ・山に囲まれた地域であるからと言う説
 ・この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
 ・「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説
 ・「やまと」は元は「山跡」とする説。
 ・三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説
 ・邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説
 ・「やまと」は元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説。[6]
 ・アイヌ語で、“ヤ”は接頭語、“マト”は讃称で、高貴を意味する“ムチ”や祥瑞を意味する“ミツ”等と同根の語とする説。
 ・ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説
 
●日本国(にっぽんこく、にほんこく)、または日本(にっぽん、にほん)http://p.tl/8Si0
日本列島及び周辺の島々を領土とする国家である。
 
●国号
日本の日の出(三重県伊勢市 伊勢神宮・宇治橋)「日本」という漢字による国号の表記は、太陽崇拝と相俟った中央集権的発想に基づくもの、また日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる。
近代の2つの憲法の表題は、「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」ないしは「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。
 
●由来
「日本」の表記が定着する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国・倭」と称される国家があった。
『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。
「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする。
『旧唐書』は、「倭国」と「日本国」を併記した上で、日本国は倭国の別種とし、倭国が日本国に改名した可能性と元小国の日本が倭国を併合した可能性について記している。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は劉徳高や郭務悰、司馬法聡らの使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。

具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。

(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。

(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。但し『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている
 
●本当の半島の歴史  http://p.tl/f1K3
つまり、古代から半島人は嘘つきで、シナ人・朝鮮人は古代から魔族とでも表現すべき種族だったのです。 ... その間に除福などのユダヤ人や、シルクロードの交易で利益を得ていた技術集団・秦氏が、半島を経由せずに船で日本に渡来する。 ... 倭人は半島の民族から様々なことを教えられたどころか、半島に初めて統一国家を築く新羅の基礎づくりを指導したのは、実は ...... つまり、新羅を主戦場とした倭と高句麗の対決は-少なくとも新羅の立場から見れば-広開土王碑が示すような“高句麗の圧勝”ではなかったのだ。


●わび・さび●粋

2013年12月03日 13時34分58秒 | 色んな情報

●わび・さび●粋
●女と女性の使い方  http://p.tl/7PTD
女と使うのは差別用語だからと 女性というように成った。
女は差別用語ですか。
この言葉の使うカタチは日本人にとっては大事な事だと思う。
 
●[ 江 戸 時 代 ]  http://p.tl/CCbi
わび・さびには、日本の美的観念という共通部分もあるが「いき」とは大きく違う。 ☆わび・ さび(侘・寂)http://p.tl/bivx 日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。 本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめ
 
● 男前 ●美女 ●イケメン http://p.tl/n8XR
見るように、自然に溶け込むこと、朽ちては再生するプロセスそのものへの馴染み、死をも敵対するものとしては捉えず、侘(わび)、寂(さび)に見るように朽ち果てゆくものへの素朴な同調などが基調になっている。
 
●『●風狂の道●風教の道●風流』 http://amba.to/SQ1rdm
風狂の道○風教の道○風流婆娑羅(ばさら)や数寄(すき)とともに侘び・寂び(わび・さび)と対峙する存在で有るように見えたけれども又含んで居るようだ。 傾く(かぶく) ... 本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。
 
●『粋』の日本人 うだつ『卯建』が上がった http://p.tl/ozk3
わび・さびには、日本の美的観念という共通部分もあるが「いき」とは大きく違う。 ... わび・ さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つ。
 
●日本を楽しむ http://p.tl/dxO8
 
●ねずさんの ひとりごと 日本の防衛は日本の手で  http://p.tl/pyul
ゴッホは、日本のわび・さび、そして輪廻転生もわかっていたのです。
 
●旬 と 生活 と 贅沢 http://p.tl/uqLT
シャレはおしゃれの究極である。 他戯れをダじゃれにしてダジャレにして洗練されていった。 今の日本人は自分が生まれてからズット可愛くて男前なんて思っている人、 私はオシャレと粋なカッコウをした女ばかり。
 
●入れ墨(いれずみ)の良し悪し タトゥー http://p.tl/FJ9L
入れ墨(いれずみ)の良し悪し ○タトゥー・やまだや感情論抜きでなんで刺青がダメなのか http://bit.ly/HExbio コメントにもありましたが。江戸時代の「刺青」ってのは「島流しの罪人の罪状確認」もしくは「『火消し』の方々が『粋』を自慢する」為に入れていたものです。こーいったものは所謂「和彫り」ですね。後で消すのは大変なよう。
 
●江戸黒漆喰  川越氷川神社 http://p.tl/2KK0
川越といえば蔵の街並みが有名ですが、よく見ると壁は黒漆喰で塗られています。これは明治二十六年の川越大火後、蔵が次々と建設された際、黒壁が主であった東京日本橋の蔵の街並みを手本にしたからではないかと考えられています。
ちなみに、日本橋の蔵は『江戸黒』と呼ばれ『黒=粋な色』ということから川越の蔵も黒くなったとも言われています。
 
●「天国からの手紙」 涙が止まらない http://p.tl/G263
粋なはからいを送った局員に敬意を・・。
 
●正月は着物と日本髪が最高 http://p.tl/Nj7s
江戸時代の文化江戸時代に入ると「粋」の概念とともに、日本独自の装飾品小物が急激な発展を見せた。根付、印籠、煙草入れ、櫛、髪飾り、簪、帯止めなどがそれで、職人たちは装飾 ...
 
●『●レイラインや聖地』 http://amba.to/YTVd4e
●davinciさんからお問い合わせがありました。
 シバラクさんは【 レイラインや聖地 】 どのように考察されていますか!?
私は初め この言葉の意味するものをそんなに興味を持っていないので何だろうと思い調べてみた。
私の中では これは日本語で言えば結界のラインと理解する。
 ... 昔の人は粋だったんだね。 洒落が効いてセンスがある。
 
●からくり 職人 http://p.tl/yB-B
 
●お煙草盆(おたばこぼん)http://p.tl/Bzlt
 
●わび・さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。
 侘(わび、侘びとも)http://p.tl/bivx
 動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろうか。本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていった。
 
●侘(わび、侘びとも)http://p.tl/TM78
動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろうか。本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていった。
 
●いきまたは意気(粋から転送) http://p.tl/eMjp
江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。江戸時代後期に、江戸深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる。身なりや振る舞いが洗練されていて、格好よいと感じられること。また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。

「いき」は、単純美への志向であり、「庶民の生活」から生まれてきた美意識である。また、「いき」は親しみやすく明快で、意味は拡大されているが、現在の日常生活でも広く使われる言葉である。

なお、「粋」は「すい」と読み、「いき」と使用するのは誤用、誤読である(いきと粋(すい)を参照)。反対語は「野暮」(やぼ)または「無粋」である。

 


●【文化勲章】●有形・重要無形文化財

2013年12月03日 12時09分09秒 | 色んな情報

●【文化勲章】●有形・重要無形文化財
●ぶんか-くんしょう【文化勲章】
学術や芸術など文化の発展に顕著な功績を残した人に授与される勲章。1937年(昭和12)に制定。
 
●文化勲章(ぶんかくんしょう)  時事用語のABC  http://p.tl/uveH
文化の発展に顕著な功績を残した人に授与される勲章

学術や芸術などの分野で、日本の文化の発展に関して飛び抜けた功績を残した人物に贈られる。文化勲章の授与は、1937年に制定された文化勲章令に基づく。

文化勲章の受章者に関する選考は、文化審議会・文化功労者選考分科会の意見を聴いて文部科学大臣が内閣府賞勲局に推薦し、必要な審査を経た上で、閣議で決定する。毎年11月3日の文化の日に文化勲章の親授式が開かれ、皇居で天皇陛下から親授される。

勲章のデザインは、京都御所紫辰殿の「右近の橘」に由来するらしい。橘の5弁の花の中央に3つ巴の勾玉を配置し、鈕には橘の実と葉をかたどったものが使われている。

文化勲章の受章者は文化功労者の中から選ばれるのが一般的だが、ノーベル賞の受賞などが先行すると文化功労者でなくても授与できる。この場合でも、文化功労者と同様に、終身年金が受けられる。
 
●文化勲章  日本の勲章・褒章一覧  http://p.tl/GYHH
我が国の勲章の種類(文化勲章)
・文化勲章
 昭和12年に制定されました。勲章のデザインは、橘の五弁の花の中央に三つ巴の曲玉を配し、鈕※にも橘の実と葉が用いられています。
【参考】
 常緑樹である橘は、平安京の頃から京都御所紫宸殿の南庭に植えられ、「右近の橘」と称されるなど古来から珍重されており、その悠久性、永遠性は文化の永久性に通じることから、文化勲章のデザインに採用されたと言われています。
※ 紐・・・ちゅう
文化勲章・略綬(左)
Order of Culture
 
●文化勲章(ぶんかくんしょう)http://p.tl/7DEz
科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者に授与される日本の勲章。当時の内閣総理大臣・廣田弘毅の発案により[1]、1937年の文化勲章令(昭和12年2月11日勅令第9号)を以て制定された。
 
●勲章のデザイン http://p.tl/7u2t
文化勲章の場合、制式と図様も1937年の「文化勲章令」(昭和12年2月11日勅令第9号)により定められている。賞勲局及び造幣局の嘱託で東京高等工芸学校教授の畑正吉がデザインした[2]。意匠案と昭和天皇との関係は別項を参照のこと。
文化勲章は、章、鈕、環、綬の各部から構成される。
・章
勲章は橘の五弁の花の中心に三つ巴の曲玉を配する。鈕にも橘の実と葉が用いられる。綬の織地は淡紫色。
・鈕
 この節の加筆が望まれています。
・環
 この節の加筆が望まれています。
・綬
綬の幅は3.7センチメートルで淡紫色と定められている。
・略綬
淡紫色で直径1センチメートルの同色の翼を付すこととされている。
 
●授与
親授式が毎年11月3日の文化の日に皇居宮殿松の間で行われ、天皇から直接授与(親授)される。

1997年(平成9年)から現行の天皇親授に切り替えられたが、それまでは宮中で天皇臨席のもとに内閣総理大臣が勲記と勲章を手交する伝達式の形式で行われていた。そのため、以前は同じく宮中伝達式により授与される旧勲二等と同位に位置づけられていたが、現在では同じく天皇親授により授与される大綬章(旧勲一等)と同位に位置づけられている
 
●人間国宝(にんげんこくほう)http://p.tl/jcWQ
日本の文化財保護法第71条第2項に基づき同国の文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称である。文化財保護法には「人間国宝」という文言はないが、重要無形文化財保持者を指して人間国宝と呼ぶ通称が広く用いられている
 
●重要無形文化財(じゅうようむけいぶんかざい)http://p.tl/ymu1
日本において、同国の文化財保護法に基づいて、同国の文部科学大臣によって指定された、無形文化財のこと。
 
●無形文化財(むけいぶんかざい)は、http://p.tl/7X0O
1.広義では、人類の文化的活動によって生み出された無形の文化的所産全般を意味する。
2.狭義では、日本の文化財保護法や地方公共団体の条例における文化財の種類のひとつで、音楽や工芸技術などの無形の文化的所産を意味する。特に、文化財保護法第2条第1項第2号において規定された「無形文化財」を意味する。
 
●有形文化財(ゆうけいぶんかざい)は、http://p.tl/8nR2
1.広義では、人類の文化的活動によって生み出された有形の文化的所産全般を意味する。
2.狭義では、日本の文化財保護法や地方公共団体の条例における文化財の種類のひとつで、建造物や美術工芸品などの有形の文化的所産を意味する。特に、文化財保護法第2条第1項第1号において規定された「有形文化財」を意味する。
3.一般に「有形文化財」といった場合には、地方公共団体が文化財保護条例により指定した有形の文化財を指すことが多い。
 
●登録有形文化財 http://p.tl/xFst
1996年の文化財保護法改正により創設された文化財登録制度に基づき、文化財登録原簿に登録された有形文化財のことである。登録対象は当初は建造物に限られていたが、2004年の文化財保護法改正により建造物以外の有形文化財も登録対象となっている。登録物件は近代(明治以降)に建造・製作されたものが主であるが、江戸時代のものも登録対象になっている。
 
● 国宝(こくほう)http://p.tl/sk8T
日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。

法的には、国宝は重要文化財の一種である。国宝・重要文化財の指定手続、指定制度の沿革などについては、重要文化財の項を参照。

なお、いわゆる「人間国宝」とは重要無形文化財に指定された芸能、工芸技術などの保持者として各個認定された者の通称である。
 
●文化財(ぶんかざい)は、http://p.tl/mZaK
1.広義では、人類の文化的活動によって生み出された有形・無形の文化的所産のこと[1]。「文化遺産」とほぼ同義である。詳細は文化遺産を参照。
2.武力紛争の際の文化財の保護に関する条約、文化財不法輸出入等禁止条約、文化財の不法な輸出入等の規制等に関する法律などの条約および法令において規定されている「文化財」のこと。詳細は文化遺産保護制度を参照。
3.日本の文化財保護法第2条および日本の地方公共団体の文化財保護条例において規定されている「文化財」のこと。
本項では3について詳述する。
 
●重要文化財(じゅうようぶんかざい)http://p.tl/YC-v
日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。文化庁による英語表記はImportant Cultural Properties[1]。

日本の地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、文化財保護法に規定する「重要文化財」とは国(日本国文部大臣)が指定した有形文化財のことを指す。本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(「国の重要文化財」)について記述する。
 
●重要美術品(じゅうようびじゅつひん)http://p.tl/a5qi
文化財保護法施行以前、旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき日本政府(文部大臣)が、日本国外への古美術品の流出防止を主目的として認定した有形文化財のことである。
 
●日本の世界遺産(にほんのせかいいさん)http://p.tl/k-dj
ユネスコの世界遺産に登録されている日本国内の文化・自然遺産の一覧。Category:日本の世界遺産に索引がある。


●探偵趣味の会●江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)

2013年12月03日 11時20分26秒 | 色んな情報

●探偵趣味の会●江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)
●探偵趣味の会(たんていしゅみのかい)探偵作家・雑誌・団体・賞名事典 http://p.tl/xOlz
1925年(大14)、大阪毎日新聞社会部副部長の春日野緑と、当時同社の広告部にいた江戸川乱歩が相談し、結成。講演、映画の会、課題創作を試み、週刊「サンデーニュース」や機関誌「探偵趣味」を発行した。また、1926年(大15)から1929年(昭4)まで年度別傑作選集の「創作探偵小説集」を刊行。横溝正史や西田政治が関わっていたほか、山下利三郎、甲賀三郎、小酒井不木も同人に加わっていた。1926年(大15)には六甲苦楽園で渡瀬淳子一座の探偵ページェントを開催。
江戸川乱歩の上京とともに「探偵趣味」の発行所が大阪のサンデーニュース社から東京の春陽堂に移り、会は中絶。探偵小説ファンの親睦団体の第一号である。
 
●えどがわ-らんぽ【江戸川乱歩】
(1894-1965) 小説家。三重県生まれ。本名、平井太郎。早大卒。「二銭銅貨」「心理試験」などのトリックを巧妙に用いた本格推理小説で登場、以後、推理小説界に君臨した。他に「パノラマ島奇譚」「陰獣」「孤島の鬼」など。
〔アメリカの詩人・小説家エドガー=アラン=ポーをもじった筆名〕
 
●江戸川乱歩  美術人名辞典  http://p.tl/n0LE
読み方:えどがわ らんぽ
推理小説家。三重県生。本名は平井太郎。早大卒。多彩な職業遍歴ののち執筆した『二銭銅貨』が「新青年」編集長森下雨村に認められ、文壇にデビュー。以後『D坂の殺人事件』『心理実験』『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『陰獣』等怪奇な謎を秘めつつも科学的推理に基づく作品を次々と発表、また『怪人二十面相』等の児童ものでも幅広い人気を集めた。戦後は内外探偵小説の紹介・研究評論、江戸川乱歩賞の創設等、後進の育成にも力を注いだ。探偵作家クラブ賞受賞、日本推理作家協会初代理事長。昭和40年(1965)歿、70才。
 
●江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)
本名平井太郎。1894年(明27)、三重県名張市生まれ。代々平井家は藤堂家に使えていた。実弟は平井蒼太。甥は松村善雄。少年時代には黒岩涙香に親しみ、早稲田大学経済学部卒後、造船所の事務員、平井蒼太とともに開いた団子坂の古本屋「三人書房」、「大阪時事新報」の記者、「大阪毎日新聞」の広告部員、夜なきソバ屋、工人倶楽部書記長にいたるまで、さまざまな職業を遍歴していた。古本屋時代には浅草オペラ講演会を結成。帝大出身の技術者で組織されていた工人倶楽部には、甲賀三郎が所属していた。ペンネームは探偵小説の始祖ポーにちなむ。別名小松龍之介。
1916年(大5)、「火縄銃」を執筆し、「冒険世界」に送る。
1920年(大9)、友人の井上勝喜と智的小説刊行会を結成し、「グロテスク」という会員制同人誌を刊行しようとするが、挫折。その際、江戸川藍峰名義で「石塊の秘密」を執筆するが、これが1923年(大12)に発表した「一枚の切符」の原型である。
失業中の1922年(大11)に執筆した「二銭銅貨」が「新青年」主筆、森下雨村に認められ、小酒井不木の推薦とともに1923年(大12)に同誌に掲載され、デビュー。「二銭銅貨」は日本初めての本格的創作探偵小説とされ、大評判となる。「二銭銅貨」は最初、当時の探偵小説の第一人者と目されていた馬場孤蝶に送ったものだが、いつまでも返事がなかったので、取り返し、森下雨村に送り直したという逸話がある。
その後、「新青年」に、「二廃人」(1924年(大13))や、1925年(大14)からは「D坂の殺人事件」「心理試験」「屋根裏の散歩者」など六ヶ月連続短編を連載し、斬新なトリックを採用した本格探偵小説のほか、恐怖と神秘を題材にした変格探偵小説などの短編を矢継ぎ早に発表する。「心理試験」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第一号(1925年版)」に収録される。
谷崎潤一郎や佐藤春夫など、日本の耽美主義文学の影響や、また、宇野浩二的な私小説的な作風が見受けられる。乱歩の変身願望、隠れ蓑願望、ユートピア願望を反映してか、トリック的には一人二役や暗号を扱ったものが多く、一般に探偵小説のトリックのなかで多くの比重を占める密室やアリバイ崩しは少ない。
1925年(大14)、「探偵趣味の会」同人となる。また、同じ1925年(大14)に大衆文芸の振興を目的とした「二十一日会」同人となる。同人には中心となった白井喬司のほか、長谷川伸、小酒井不木、土師清二、国枝史郎、正木不如丘がいた。
1926年(大15)に「大衆文芸」に発表した「鏡地獄」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第ニ号(1926年版)」に収録される。
1926年(大15)に「新青年」に連載した「パノラマ島奇談」で長編小説の分野も開拓。また、「一寸法師」(1926年(大15)東京朝日新聞)などエログロ味の濃厚な通俗サスペンス長編で人気を博した。三島由紀夫は通俗サスペンス長編「黒蜥蜴」(1934年(昭9))の戯曲化を試みている。
1927年(昭2)には、執筆活動を停止し、早稲田大学正門前で妻に下宿屋を営ませ、自らは放浪の旅に出る。その一方で土師清二、長谷川伸、国枝史郎、小酒井不木とともに「耽綺社」を設立し、大衆文学の合作を試みようとした。
その後は、全集の印税で暮らしを支え、しばらく筆を絶っていたが、「新青年」の編集長を務めていた横溝正史の勧めで、1928年(昭3)、「陰獣」を「新青年」に発表。日本屈指の名作として名高い。掲載雑誌は三版まで刷られた。当時は休筆の連続や人間嫌い、放浪癖から、深夜土蔵に蝋燭をともし、草双紙の無惨絵を見ながら執筆しているという伝説があった。
1929年(昭4)、「新青年」に発表した「悪夢」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第四号(1928年版)」に収録され、のち、「芋虫」と改題される。
1929年(昭4)、「押し絵と旅する男」を「新青年」に発表。
1930年(昭5)、「黄金仮面」を「キング」に発表。
1934年(昭9)、「石榴」を「中央公論」に発表。
1936年(昭11)には「少年倶楽部」に「怪人二十面相」を発表。少年小説にも新境地を開いた。
1943年(昭18)、「偉大なる夢」を「日の出」に発表。
戦争中は写経に明け暮れる。また、一時、福島県保原に疎開していた。池袋丸山町会の副会長や大政翼賛会豊島区支部事務長を務めていたため、戦後は公職追放されるが、のち解除。戦争中の近所付き合いが効を奏してか、一変して人間嫌いを脱し、社交的になった。島田一男、香山滋、渡辺剣次、楠田匡介、中島河太郎、千代有三、荻原光雄、岡田鯱彦、鷲尾三郎とともに「十人会」を結成していたこともある。
1946年(昭21)に、探偵小説作家の親睦をはかる意味合いで、「土曜会」を主催し、ついで、1947年(昭22)、「探偵作家クラブ」が結成されると、初代会長に就任。
1949年(昭24)から乱歩邸で、主に本格派探偵作家を招いた新年会が催され、恒例となる。
1950年(昭25)、「報知新聞」に発表した「断崖」が1951年(昭26)、第4回探偵作家クラブ賞短編賞の候補となった。また、この作品は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1951年版」に収録される。
1951年(昭26)、ロジャースカーレットの「エンジェル家の殺人」を翻案し、「三角館の恐怖」として「面白倶楽部」に発表。
作家としての業績の一方で、研究評論の分野でも成果を残し、1951年(昭26)に発表した評論集「幻影城」で、1952年(昭27)、第5回探偵作家クラブ賞を受賞している。
探偵小説芸術論を唱える木々高太郎と「ロック」上で「一人の芭蕉」と題し、論争をした。この論争は、1950年(昭25)、「新青年」に掲載された文学派座談会「抜き打ち座談会」につながり、探偵文壇を木々高太郎率いる文学派に対し、江戸川乱歩を総帥とする本格派は「探偵小説は基本的に娯楽の範囲に属するが、芸術的な作品もありえる」という立場をとり、対立した。
1953年(昭28)に「宝石」に発表した大下宇陀児、角田喜久雄、木々高太郎との連作「畸形の天女」が、探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1954年版」に収録される。
1954年(昭29)に「産経新聞」に発表した「兇器」が、日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1955年版」に収録される。
1955年(昭30)、探偵小説奨励の賞として江戸川乱歩賞を創設。
1955年(昭30)に発表した「化人幻戯」(宝石、宝石)と、「オール読物」に発表した「月と手袋」により、1956年(昭31)に第9回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。また、「月と手袋」は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1956年版」に収録される。
1955年(昭30)には三重県名張市に生誕碑が建立される。
1956年(昭31)に「オール読物」に発表した「堀越捜査一課長殿」は日本探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1957年版」に収録される。
1957年(昭32)、経営難に陥った「宝石」の編集経営に参画。
1963年(昭38)に「社団法人日本推理作家協会」に発展すると、初代理事長に就任。
1961年(昭36)、「新青年」「宝石」に連載してきた回顧録をまとめ、「探偵小説四十年」として刊行。
1961年(昭36)、探偵小説の評論と新人育成の効をたたえられ、紫綬褒章授与。
1965年(昭40)、脳出血のため死去。日本推理作家協会葬が営まれた。死後、正五位勲三等が贈られる。
2002年(平14)、蔵書を保管していた「江戸川乱歩邸土蔵」が立教大学に譲渡される。
2002年(平14)、蔵書を目録化した山前譲、新保博久の「幻影の蔵」が刊行され、2003年(平15)に第56回日本推理作家協会賞評論その他の部門を受賞。
2003年(平15)、立教大学が所有する「旧江戸川乱歩邸土蔵」が豊島区指定有形文化財の指定を受ける。
江戸川乱歩に関するサイト:「名張人外境」
 
●江戸川乱歩『ウィキペディア』 http://p.tl/GpMD
江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、正字体:江戸川 亂步、男性、1894年(明治27年)10月21日 - 1965年(昭和40年)7月28日)は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家である。また、戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。
 
●乱歩 (らんぽ、10321 Rampo) http://p.tl/vHnt
小惑星帯に位置する小惑星。高知県芸西村の芸西観測所で関勉が発見した。
推理作家の江戸川乱歩から命名された。
 
●乱歩の関連項目
 平井蒼太 -  乱歩の次弟
 平井隆太郎 - 乱歩の一人息子
 松村喜雄 -  乱歩の従妹の息子
 黒岩涙香 -  乱歩に大きな影響を与えた作家の一人
 光石介太郎 - 一時期、乱歩の弟子のような立場にあった小説家。『新青年』に乱歩の文体模写小説「類人鬼」を発表している。
 J・B・ハリス - 乱歩の最初の英訳単行本の翻訳を担当
 美輪明宏 -  三島由紀夫脚色の舞台黒蜥蜴はライフワーク
 杉原千畝 -  高校、大学とも同窓で知人の外交官
 江戸川乱歩賞
 江戸川乱歩の美女シリーズ - 1977年~1985年 テレビ朝日系 土曜ワイド劇場は25作、明智小五郎役は天知茂
 RAMPO 映画
 乱歩R テレビドラマ
 FC鈴鹿ランポーレ - 鈴鹿市を本拠地とするサッカークラブ。前身は名張市を本拠地にした三重FCランポーレ。同市出身の乱歩の名前にちなんで命名。
 乱歩 (小惑星)
 横溝正史 -  乱歩の生涯に亘る親友。探偵小説家。名探偵金田一耕助の生みの親として有名。
 ワセダミステリクラブ - 乱歩が初代顧問を務めた。
 


『本当の日本の歴史』

2013年12月03日 10時44分57秒 | 色んな情報

『本当の日本の歴史』
         
京免 史朗
朝鮮半島引き上げ時の日本女性の悲劇 「竹の森遠く」

「ヨーコの話」として知られる、
「竹の森遠く」 (So Far from the Bamboo Grove) は、
米兵と結婚し、現在はアメリカ・マサチューセッツ州在住の
川嶋擁子さんこと、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんによる自伝作品です。

作者のヨーコさん自身が11歳だった第二次世界大戦の終戦時に体験した
朝鮮半島北部の羅南からソウル、釜山を経て日本へ帰国する際、
また帰国後の、悲惨な状況を描いています。

「So Far from the Bamboo Grove」は経験を生かし表した作品として、
1986年ニューヨークタイムス「今年の本」に選定され、同じ年、
米国英文学の教師委員会の「教師が選んだ良い本」を受賞し、
米国教科課程の必読書として数多い青少年達に愛読されています。

戦争の悲惨さを訴える資料として、
アメリカでは優良図書に選ばれ中学校用の教材として
多くの学校で使用されています。

「竹の森遠く」は、1986年にアメリカで出版されました。
2005年に韓国でも「ヨーコ物語」という題名で出版されていますが
後に発売中止となりました。
韓国にとって都合の悪い本なので、韓国政府は発売を禁止したのでしょう。

この本の内容は、大東亜戦争末期、朝鮮半島からの引き揚げ時、
当時11才であったヨーコさんと家族が目撃した史実が書かれています。
韓国人らに追い回されて命からがら日本へ逃げ、
韓国を抜けだす過程で日本人が韓国人に強姦され、
暴力により日本人の人々が死んで行った目撃談です。

「So Far from the Bamboo Grove」は、
1987年から、アメリカの学校で
社会科の教科書として採用されています。

続編の「My brother my sister and I」も、
ニューヨーク・タイムズ最高賞、
Publishers Weekly最高賞等、多くの賞を受賞しています。

彼女の著書と講演に感動した多くの学生達の推薦により、
1999年には、ピース・アビーから平和賞が贈られました。
この賞は、世界的に有名なガンジーやマザーテレサ等、
平和に貢献した人達に贈られる賞です。

http://p.tl/wBnZ
http://p.tl/i5FW
http://p.tl/fWNS