気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

とてもいいことばに出会って、うれしかった。

2009-01-31 22:01:38 | Weblog
それはこんなことばです。

「わたしの考えでは、人間とは、必然的に自分自身と対立するものであり、自分を肯定することができないものであり、したがって、みずから自分を断罪の対象としないかぎりは、自分を徹底的に愛するできないものなのである。」(「文学と悪」「ジョルジュ・バタイユ」・ボードレールについてより)

最初読んだとき、え、っと思っただけなのですが、あとでじわじわ沁みこんできました。

ここまで自分を追い込んだら、疲れてしまいそうです。そんな気がします。でも、どこか魅力を感じるのです。

「必然的に自分自身と対立するものであり」とはどういうことでしょう。これは卑近なところに引き寄せれば、経験や勉強をしてもう少しましな自分になりたいという向上心でしょうか。今のままではどこか自分に不満と思っていたら、そのところですよね。自分のなかにわがままや、冷たさをふっと感じたとき、いやな自分だなと思って反省します。ところが気づいてもなかなか直らない。自分にそれが付きまとう問題になってくる。

そんな自分を生活のなかで再び感じると、だんだん自分に嫌気がさして、自分が嫌いになってくる。やさしそうに見えたり、えらそうなことを言ったりしている自分を出したりすると、柄でもないのにと、あとでいい気になった自分が思い出されて、赤面、真っ青な気持ちになる。われながらなんかいやらしいやつだなと思う。

そんな失敗をしてしまう自分からなんとか逃れたい、変えたいと思う。そうするとどうしたらいいんだとなる。

勇気もないのにこじんまりとして、やさしくなったり、えらそうな自分がしゃしゃり出る。

結局、そんな性悪な自分を認めて自分のなかで対面し、ずっと自分を否定する努力を自己対話のように変えられる事を願って「すこしはよくなりたい」と思っていく以外にない。そんなところでかろうじて自分を肯定することが可能かも知れないと思う。

そう思うとこのことばが腑に落ちてくるのですね。

でも、赤ちゃん見たり、心の素直なやさしそうなひとを感じると、ああ、おれにはとてもなれそうもないなとあきらめを感じることがあります。もう赤ちゃんからは脱落してるし。


オバマ大統領の就任演説はとても率直なところがあった。

2009-01-25 23:11:31 | Weblog
何度か読み直ししました。どこかひかれるものがあって、なにを言ったのか内容を
確認したかったからです。あまり期待を裏切らなかったです。

合衆国の現状認識が日本と似ていて面白いと思いまいた。

「家は失われ、職はなくなり、ビジネスは台無しになった。我々の健康保険制度は金がかかりすぎる。荒廃している我々の学校はあまりにも多い」
日本も犯罪なんかアメリカのあと追ってますね。

ところが政治の目指す目的が日本と違う。

「我々が今日問うべきなのは、政府の大小ではなく、政府が機能するか否かだ。家族が人並みの給与の仕事を見つけたり、、負担できる(医療)保険や、立派な退職資金を手に入れることの助けに、政府がなれるかどうかだ。」

日本の政治家で政府の役目をこのように言っているのを聞いたことありますか。
いつか聞いて見たいものです。日本の政治家のレベルがわかりますね。民主党も大丈夫でしょうか。

「公的資金を管理する者は適切に支出し、悪弊を改め、誰からも見えるように業務を行う。それによって初めて、国民と政府の間に不可欠な信頼を回復できる」

日本の現状も同じだけど、日本の首相からこんなことば聞けますかね。各省庁はいかに予算を取るかでしのぎをけずってます。予算を取れないのは能無しといわれます。既存実績は最低確保しなくちゃあほなのです。あまり細かく見られたら困るし、透明性なんかあっては困るのです。守るべきは「既得権」です。

「我々の経済の成功は単に国内総生産(GDP)の大きさだけでなく、我々の繁栄が広がる範囲や、機会を求めるすべての人に広げる能力によるものだった。」

日本ではGDPばっかり取り上げられます。景気は我々という生身の人間の財布の中身で測るべきで、オバマの言うとおりです。これも日本の政治家は勉強してないので勇気をもって言えない発言です。

「我々の共通の防衛については安全と理想とを天秤にかけるという誤った選択を拒否する」「我々の安全は、大義の正当性や模範を示す力、謙虚さ、自制心からいずるものだ」「我々は信じている。古くからある憎しみはいつかなくなり、民族を隔てる線も消えると。世界が小さくなるなかで、我々に共通の人間愛が現れることになると」「腐敗や欺き、さらに異議を唱える人を黙らせることで、権力にしがみつく者よ、あなたたちは、歴史の誤った側にいる」

これらの発言はブッシュには言えなかった発言に思えます。憲法9条変えたくてしょうがない日本の危機論者、戦争好きに煎じて飲ませたい発言です。しかし、これはオバマがこれからどうするか試金石の気がします。しかし、これらの発言は日本が今世界に発信してもいい内容です。誰も言えるだけの度胸がありません。

でも総じて日本の政治家にはあまりない人間論が根底にしっかりあるような気がします。ブッシュとはだいぶ違ってくるかもしれません。
日本の政治家がまた顔色見ながらやっていくアメリカのトップなのでちょっと読み込んでみました。一度皆さんも読んでみてください。



「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたらしい

2009-01-24 08:48:10 | Weblog
この映画は主演の本木君が長く暖めてきたテーマを滝田監督が映画化したものです。

チェロ奏者の夢破れ故郷に帰った本木君がたくみな広告にだまされ納棺師の助手になる。はじめ世間体を気にしたり、他人の死を嫌悪したりうとましく思ったりして遠ざけているが、やがて仕事とは思いつつのめりこんでいき、だんだん本気になり、他者の死を受け入れ、死をごく自然な最期として受け入れられるようになるというストーリーです。

スーッと自然すにはいってくるのですが、実はとてもよく考えられたものです。
うさんくさい、限定されたテーマをこれだけすてきに描けたら立派としかいいようがありません。

ぼくの好きな山崎努や余貴美子がごく自然な演技でうまいし、ほかのひともとてもうまい。ちょこちょこ笑ったり、なんども泣かされたりしてしまいました。

家を捨て、憎んでいたおやじの死を偶然から納棺することになり、そのおやじが思い出の小石をだいじに手にしていたのを知ったときの本木君の気持ちの変化と表情の移り変わりは最期のほうの圧巻です。

モントリオール世界グランプリやほかにも国内外30くらい賞を取ったみたいです。

見たい方はひっそりとひとりで行かれるのもいいと思います。


2,3日出張して帰ると、ああここが自分の家だなと思う。

2009-01-23 20:53:22 | Weblog
この感じ前からあるのです。懐かしいのとはちょっと違うのです。ふーんおれここに住んでるんだという、すこし客観的な眼差しになるのです。すぐまた普通の住人の気持ちに戻っていくのですが、わずかのあいだ不思議な気持ちになるのです。

1年ももしかして離れていたら、自分の家なのに懐かしいような、昔ここにおれという人間がっと住んでたんだなーという気持ちになりそうなのです。

住んでいたかったのにそこを捨てざるを得なかった人なら、きっと昔自分の姿をそこに重ねるということはあるのでしょうね。

死んでゆく自分を見ているもうひとりのわたし、死んだ瞬間、それを見ていたもうひとりのわたしはあとかたもなく消えていなくなる。そんな感じはあってもいい気がします。

どこかでそんな眼差しをわたしは自分で持ちたいと思っているのかもしれません。

今生きている自分を、すこし他人のように照らし出すような不思議な探照燈のようなものを持ちたいのだと思います。

きっとベタな自分を冷静に見られたらという気持ちが生み出す、幻想の視線です。


今日はすぐ消えてしまう日常の裂け目のような感じを、忘れないうちに書いて見ました。

きっとだれもが書かないときえてしまう不思議な思いをときどき感じているのでしょうね。

この感じが、なにか共通の連想につながったら、また考えていきたいと思います。

今日は出張から帰ってきて、今はもう普通の自分の家に帰っている気分です。また来週も3日くらい出張です。

いつか自分の家が遠い他人の家に見えてくることがあるのかもしれません。ひとりだけだからよけいに。

世界は紆余曲折があっても常に進歩していくという幻想・思い込み

2009-01-18 19:59:02 | Weblog
科学の進歩による文明的な観点から見れば、現在は常に歴史の最先端であるようにできていると思います。ただ、百年後の人間もその時代が最先端であり、今のわれわれの時代は百年前の時代になってしまうことはたしかです。2度目の大不況の時代としてしかのこらないかもしれません。

現代に生きるわれわれは、科学の進歩のなかで心の関心も、知識もすべてにおいて最先端の時代に生きていると思い込む楽観性を背負い込んでいるように見えます。
そしてなんとなくそのことで自信を持っているようです。

しかし、どうもそう思い込んで喜んでいる自分と望ましい自分とのあいだにギャップがあるような気がするのです。「豊かな科学の時代に生きる人間は自動的に心も豊かである可能性を持っている」というふうにはどうも人間の心はできていないような気がします。

携帯もインターネットもIpodも便利でいろんな関心の多様化を楽しませてくれます。でも、どうもわたしたちはいつかその便利さも普通になっていく気がします。

そうすると便利さの彼方にどうも「ほんとに求めてるものはなんなんだろう」という、そんなおぼろげな疑問が芽生えてくるような気がするのです。

そしてそのことに敏感なひとがそれぞれに発言するようになってきている気がします。

中沢新一という批評家・哲学者・宗教学者はアニメ、映画について不思議な発言をしています。

アニメは生身の人間や動物ではありません。命を吹き込まれた不思議な存在です。こういってます。
「死んだように眠っている物質から、むくむくと生命をもったものが立ち上がる瞬間を、アニメはイメージのなかに実現してみせようとしてきた。・・物質に生命を吹き込むこの芸術は、この世界が生命と力にあふれたものだけでできているのではないことを、私たちに教える力を持っている。この世界はまた、弱いもの、小さなもの、死の近くに生きているもの、すでに死んでしまったものたちの記憶などとの、豊かな共存でなりたっている。宮崎駿の作品について「常に、死の世界の近くにあるものばかりを描いてきた。ナウシカの腐海も、トロロの森も、千と千尋のお風呂屋も、じつはそれと気づかれないようにエレガントに描かれた、死の世界のことではなかっただろうか。・・知らぬ間に、現実を支配する力強い生命だけの世界を抜け出して、弱者や死者とともに生きるやさしさを学んできたのだ」
そして子供たちはその世界にかえって素直に反応できるものだといっています。(読売新聞08/9/3朝刊)

そして最新の本ではすぐれた映画のなかにある不思議な夢のような宗教性について述べています。

また、テレビ出演でお勧めした吉本隆明氏はそのなかで今の時代がことばが豊かになり、細分化した物言いができるようになったとしても、それは枝葉が多くなったことであり、それよりも重要なのは幹であり、その根源はつぶやくような沈黙であり、古代の人間は表現できぬもどかしさのなかでもっと起伏のある心の深さを持っていたと考えたほうがいいといっています。

わたしたちはもう便利さと、多様さより想像力の驚くような豊かさに驚きたい、また自らも生み出したいと思い始めてきているのではないでしょうか。




生誕。時間・空間

2009-01-12 12:54:33 | Weblog
この世に生まれた瞬間から、すべての生物はそれぞれの時間・空間を持たないと生きていけないようにできている気がします。
植物のようなあまり動かない生物でも、独自の成長の時間性と環境の空間性を受け入れています。

人間の場合は自然の時間性と空間性と別個に成長のための独自に生きていくための心的時間性と空間性をそのなかで独自につくっていくと思います。

これは植物やほかの動物にはない特徴な気がします。彼らは自然に同調して生きていけるように思います。

ところが人間の場合はそれがある時期本人にとって自由の制限のように感じられる時期が生まれてくる気がします。

ところが、羽ばたこうととすると、本人にとって心的時間性と心的空間性は意外とその人の独自な家庭環境とか生活環境とかに制限されていてなかなか抜け出たつもりでも離陸が難しいときがある気がします。

みなそれなりの自己形成のなかから、共通した普遍性を手探りで探していきますがどうも想像が及ばないことが出てくる気がします。そんなときはどうしたらいいか考えあぐねます。

わたしの場合は意外と身近な自分から出発する以外にないと感じています。たとえば欝病とはどんな状態かとしたら、自分がなんか仕事が重く感じられて、思い悩んだ時の延長線で目途をたてて拡大理解しようとしていきます。本もそれにつれてときどき読みます。

また、宗教であれば、特定の信仰とか宗教はないけれど、祈りのようなものはあるなとか、なにか絶対的に信じたい宗教以外の考えとか、思想とかほしいと思っているとすれば、それは一種の信仰に近いのかなと思って翻訳していきます。

でも、いつも実感となるまで自分のものにするのはなかなか難しいなと思います。
今度の派遣の方たちの、住まいを失ったり、居場所がなくなったり、これからの不安などは理解はできても、その心細さや実感は予想する以外に知りません。
自分はもう生きていても迷惑だけだと自殺する人もいるかも知れない気はします。

この心細さをすこし感じたことがあるのは小学校か中学の頃、両親が経済的なこともあるけど、よくケンカしてたときがあります。そのときくらい家がいやで、ケンカのない普通の家がいいな、このままだと自分の安心して帰れる場所がなくなってしまう不安を覚えたことがあります。そのとき思いが残っていて、帰ってゆっくり安心できる場所はとてもだいじだと考えてきました。でも実際にはそれを失ったことはありませんでした。だから、ほんとにそんな場所をなくしたらきついだろうなーと思う意外にありません。

やさしさなんていうのもいつも悩んでしまいます。わたしにはほんとのとのやさしさとかは、宮沢賢治ではないですが、「自分のことを勘定に入れない」で無償であるべきと考えてます。でも自分のしてることはいつもそれからはるか遠いと思ってしまいます。すこしは実感としてわかります。そのすごさも、すばらしさも。でも
とてもそこまでやさしくなれていない自分を感じるばかりです。

でも、今は少しずつ実感としての共感にまずしい経験から近づいていく以外にないかなとは感じています。頭だけの理解でなく、実感として近づきたいというのが望みです。頭だけだとおしゃべりの物知りと同じになってしまうからです。









開眼手術後の世界・続

2009-01-06 22:14:51 | Weblog
術後の方たちが「見ることの学習」するのをわたしたちは不思議に思います。覚えていない赤ちゃんの頃から自然に学習することなく「見ることに慣れてきた」からですね。

でも、術後の方の話を聞いていると、見ること自体がほんとうはたいへんな過程を実はみんな難なくとおりすぎているのだなーという気がします。

術後の方がかなり見ることを少しづつ学習したあともどうしても理解できないことがあるそうです。それはわたしを考え込ませてしまいました。

たとえばひとつはいつまでも人の顔の表情がわからない。ほかには円錐は横から見ると三角形に見える、でも上から見ると円です。つまり、立体が全体として見れずに、どうしても全体がいっぺんに理解できない。平面はまあまあわかり三角形まではわかってきても円錐なんかはパット見てわからない。

これとかなり関連してると思いますが要するに遠近感、奥行き感がわからない。立体は奥行きがあることを理解しなければわからないわけです。わたしたちは立体は
表面の「うしろ」がまだ奥行きとしてあると知っているわけです。

それの極めつけですごいのは例えば電車が遠ざかっていけば小さくなるのはわたしたちには当然です。でも彼らにはそれがまったくの驚きなのです。ビックリしてどうしてか考え込んでしまうそうです。眼の前でこの大きさのものが、見ることにおいては小さくなる。これは触覚ではわからず、視覚によってしか経験できません。
触覚のなかで「もの」が小さくなる事はありません。

皆さん不思議だと思いませんか。でも実は赤ちゃんを見ているとそれと似た時期がほんとうはあるのです。皆さんはそれをいつか無意識に乗りこえてきているのです。

実は顔の表情を理解することは実は高度なことだとわたしは思っています。至近距離の母的存在の怒ったときの荒い扱いとか、笑っときとかのやさしい抱っことか赤ちゃんのときからみんな仕草とか声の表情とかで自然に顔の表情を全身で理解してきているのです。顔の表情をそのように見ることのなかった術後の彼らはそれがないためにいつまでも顔の表情を理解することが難しいのです。

わたしたちはことばに付随した顔の表情によってどれだけ理解を助けられているか知れないのです。

皆さん前にいる方がしゃべっているのに顔の表情がなかったらゾッとしませんか?

顔の表情とは心の現われです。形態ではないわけです。彼らは形態までわかってきても心の現われとしての表情が「変化」することを理解することが難しいのです。

ときどきわたしは開眼者の方にお会いできたら、たくさん聞いて見たいことがあります。それは当然だと思っている見ることについて「見ることの不思議」を聴くことができそうだからです。

そしてときどき「眼ってなんであるの、誰がこんなものつくってくれたの」なんてこどものように生命の不思議までいってしまいます。あほですね。

皆さんいがですか?

いつか赤ちゃんのころの不思議な見え方についても書いて見たいと思います。


先天盲開眼手術後の世界

2009-01-04 10:38:54 | Weblog
視ることの病みたいなこと考えたあとたまたま視覚回復手術が可能な先天盲の方の手術後の初めて見たこの世界がどう見えるかに関心持ったことがあります。

眼が見えるひとは普通周りの世界がなぜこう見えるかなんて考えません。なぜなら見えてるとおりとしかいえないからです。視ることの病なんて考えたからこんなことがちょっと不思議で、関心持ったのだと思います。

質問です。開眼手術した人がいきなりわたしたちと同じようにこの世界がこのように見えるとおもいますか?

答えは難しいと思います。なぜかといえば、「気づいたときはもうこう見えていた」としかいいようがないからです。うまれ落ちて以来どんな風に見えてきたかなど考えずに見てきているからいいようがないわけです。

答えは赤ちゃんもそうですが、開眼手術後の方もまったくわたしたちが見えるようには「まったく見えません」

赤ちゃんとは違うところがあるので開眼手術後の方を中心に考えて見ます。

まず、術後の方の前提を考えてください。彼は「まだ一回も眼を使ってものを見たことがない」のです。つまり眼が「何のためいあるか知らないし、見ることとはどんなことか知らない」のです。この前提がぼくらには理解できないのですね。

実はこのことが術後の方にとって大問題なのです。いろいろ調べていくと結局視力も出るはずなのに「見ることがわからない」ままに、前の盲目と同じ状態に戻ることになる人も多いそうです。

そして見ることの「学習・訓練」をずっとしていってしていってやっと「見るということがどういうことかやっとわかってきた」いう段階になるらしいです。

この初期のニュアンスは次の例で比ゆ的に引用すると次のようです。

「初めて顕微鏡で組織標本を見せられた学生は生まれてはじめて視力をもった眼科手術後の患者のように視野が混沌としているように見える。教示されてようやく、そこに細胞の構造や細胞の形態が見えてくる」(頼藤和寛:人みな骨になるならば)

これは健眼者の学生にとっても見た経験のない細胞の構造や形態は教えられなくてはまったく判別できないということです。

ところでたまたま引用の文章にある術後の開眼者にとっては「すべて見た経験のないものばかり」なわけです。だから健眼者のように経験のなかでたいていのものが「命名」されていて「知っている」ことが彼らにはまったく「形態」も何もわからないのです。皆さんなんとなくイメージわきましたか?イメージがわかないというイメージですが。

ここから彼らは出発するのです。だから見えていても何も見えないと同じなわけです。

訓練する人は健眼者ですからはじめ「スクリーンに○や△や□を写し、色も変えたりして教えていこうとします」
ところがこれではほとんど学習が進まないことがわかってくるそうです。

なぜかといえば、○や△や□は「見たことがないから」スクリーンに映されてもわかるわけがないのです。色も同じです。「色があることも知らない」から赤とか青なんて言われても「なにを言われているかわからない」わけです。

ぼくらには想像できないほどの世界だと思ったほうがいいです。

もっと驚くのは学習が進まないあとに彼らの言ったことばです。

「まず言われているものがどこにあるかわからない」という発言です!
ようするに彼らはスクリーンの「どこに指示されているものがあるかわからない」
と言っているわけです。それは考えれば当然なわけです。眼での「形態」は見たことがないのですから。

ここで学習の方法を変更することになります。スクリーンはやめです。術前では手で「ものを触る」ことで「形態」を確認していたので、まず、○や△や□の「物」を手に持つと「それはここにある」と確認できます。そして安心して手でなぞりながら「そこをずっと眼で追っていくのです」

そうすると境界の線を追っていくと(これも慣れてきてやっとできるのです)あるとき前は部分部分しかわからなかったけれど「つながって全体が見えるようになってきた」という時期がやっとくるのです。△は「ここがまっすぐ行って途中で違うほうへ行くというように」

そしてその頃の発言がまたビックリです。
「わたしはなにをしようとしているかやっとわかってきた気がします」

つまりここまできてやっと「眼で見るということがどういうことかわかってきた」と言っているのです。それはもっと言えば「眼がなんのためにあるかがわかってきて、なにをしようとしているかがやっとわかってきた」という意味です。

見るという事は「自然過程」で普通気にしていませんが、実は見ることにおいても「見ることによってしかできない経験」というまた独自の経験を自然に積んでいるのですね。

「眼にしかできない経験」、それはまた書いてみたいですが、例えば眼はその場にとどまって「遠近感」、「奥行き」、「形態」を見ることができます。見ることによってしか使えない「ことば」です。また「色」という概念も眼の経験による概念です。「形態」は眼でなくて手でもわかるといわれるかもしれませんが、「全体」を一度に把握することは眼でないとできません。

皆さん「色」がなくなったらどうしますか?この世界のはかわりませんか?

ところで術後の方はもっともっと苦労して見ることを獲得していきます。長くなってすこし疲れたのでまた次回くらいに続き書きます。

明日4日教育テレビ22:00から90分吉本隆明単独番組お勧め

2009-01-03 20:02:27 | Weblog
ときどきというかたびたびわたしのブログで取り上げた吉本隆明氏が教育テレビ
50周年記念番組で単独特集です。吉本ばななの父ちゃんとしても有名です。

思想界の巨人と言われ83歳になりますが、真の思想家とはかくも無償に不可避的に考え続ける過酷な存在なのかと圧倒されます。

講演会に久しぶりに行きましたが、2000人のうち若者、しかも女性が増えているのにビックリしました。ずっと前に行ったときはもっと団塊以上がおおかったのですが・・・
しかも当人水も飲まずに3時間しゃべり続け。時間が来ましたとタオルがはいって残念そうにやっとストップです。かんがえられません。この老人どうなってんのってみんな思ったみたいです。

わたしも若い頃は老人とは体力の衰えとともに動作もにぶくなり考えることもぼんやりしてきて、隠居のように孫をあやして余生を送る存在のように考えてきましたが、とんでもない老人誤解だとわかりました。

ひとつは余生などといってられない時代の問題もありますが、あとへたをすると定年後も20年以上生きなきゃいけないわけですから、なんとか生きる目標も必要なわけです。隠居なんてもう死語だと思います。

ご存知ない方は是非老人でもこんなやばい老人がいるのかと好奇心で視てください。今日はお知らせまで。


題は「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」です。





視ることの病いと驕(おご)り

2009-01-03 14:32:15 | Weblog
眼は開いているのですが、考えごとに集中していると実は「取りあえずの視界」だけになって、歩いても考えるのが好きな人はなにかにぶつかりそうになるみたいです。そんな人は音も聞こえているのに心的には遮断できてしまうみたいです。

どうも考えることと視ることには背反する傾向がすこしある気がするのです。あるものを視て感動するときも、それがなぜかと考え出すと対象をじっと視る集中からから少し距離をおくような気がします。
※それに比べると音楽などの聴くことは感じることが考えることと混交できるみたいです。でも眼をつむっているひともやはりおおいみたいですが。

逆にいえば、視てばかりいると考えることをやめてしまうことがありうる。考えられなくなることがおこるのではと思います。

だから普通は考えることをはじめる儀式としてよく眼をつむるのですね。お坊さんの修行がそうみたいですね。

でもこちらの希望としては考えだしたら電柱にぶつかるくらい考え込めたらうれしい気がします。普通はテレビをつけっぱなしでのながら思考です。なんか消しきって静かなのがちっさいころからのテレビっ子の習性でできないのです。しないし。

前にもすこし書いたのですが、視ることは病気だなと思った経験があります。考えなくても見ていればまー満足ってことはあるのですね。朝からテレビつけて視てれば考えなくてもなんと時間がまぎれて楽しいのですね。そうするとだんだん考えるのがばからしいような気になって、時間を流すようになるわけです。それでも生きていけるわけですけど、一種心が流れ出して廃人になっていきそうな気がしだしたのです。反省したのですが、そのボーが楽でなかなか抜け出せませんでした。

あとほかにも見ることに病気があることもあると思ったことがあります。恋は盲目という病のときは心の焦点距離がおかしくなるのにつれて、視覚の焦点距離もほんとに合わなくなります。ぼやけるんですね。あばたもえくぼに見えるわけです。
あと前に書いた高所恐怖症も1例です。

あと個人的には高く飛んでくる野球のボールを走りながら追うと自分の位置とボールの位置との距離感が合わないというより、それが合わせられないと思ってしまって不安になってくる。「じっとなにかを視る」ことに不安を感じるようなのです。
これは心の病が、視覚に現れた病です。

わたしに似たような経験で悩んでいる人もいるかもしれませんね。これは実は不安を覚えるようなことは視たくないという心の視線の不安といっしょのことのような気がします。これはなにか無意識のどこかに過去の不安になった経験が隠れている気がします。

でもこのように考えてきて今は、歳のせいもあるのか、しっかり不安なことも見つめなくては、もう逃げてはいけないような気もしています。

それから視ることの病気には「知識好き」というのもある気がします。「歴史」も視るし、「もの」も見る。「知識」も視る。「情報も」視る。ようするに「知っている物知り自慢病」です。こういう方にあうと「よくご存知で」といいながら疲れてくるのです。知識を視て仕入れるのが大好きなのです。わたしはそこから「知恵」をつかんできてほしい、聞きたいと思うのですが、そのような方はみんなが知らないことを知っているのがうれしくてしょうがないらしいのです。疲れます。

これは「視るべきことは視る」の反対で「なんでも多く視ればいい」という眼の傲慢さに類します。こういう方はきっと目をときにやはりつむったほうがいいのです。見ないほうがいい。眼は気をつけたほうがいい。わたしも気をつけます。

視ると見るがうまく使えませんでした。視るはじっと見る感じがしますね。