気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

生誕。時間・空間

2009-01-12 12:54:33 | Weblog
この世に生まれた瞬間から、すべての生物はそれぞれの時間・空間を持たないと生きていけないようにできている気がします。
植物のようなあまり動かない生物でも、独自の成長の時間性と環境の空間性を受け入れています。

人間の場合は自然の時間性と空間性と別個に成長のための独自に生きていくための心的時間性と空間性をそのなかで独自につくっていくと思います。

これは植物やほかの動物にはない特徴な気がします。彼らは自然に同調して生きていけるように思います。

ところが人間の場合はそれがある時期本人にとって自由の制限のように感じられる時期が生まれてくる気がします。

ところが、羽ばたこうととすると、本人にとって心的時間性と心的空間性は意外とその人の独自な家庭環境とか生活環境とかに制限されていてなかなか抜け出たつもりでも離陸が難しいときがある気がします。

みなそれなりの自己形成のなかから、共通した普遍性を手探りで探していきますがどうも想像が及ばないことが出てくる気がします。そんなときはどうしたらいいか考えあぐねます。

わたしの場合は意外と身近な自分から出発する以外にないと感じています。たとえば欝病とはどんな状態かとしたら、自分がなんか仕事が重く感じられて、思い悩んだ時の延長線で目途をたてて拡大理解しようとしていきます。本もそれにつれてときどき読みます。

また、宗教であれば、特定の信仰とか宗教はないけれど、祈りのようなものはあるなとか、なにか絶対的に信じたい宗教以外の考えとか、思想とかほしいと思っているとすれば、それは一種の信仰に近いのかなと思って翻訳していきます。

でも、いつも実感となるまで自分のものにするのはなかなか難しいなと思います。
今度の派遣の方たちの、住まいを失ったり、居場所がなくなったり、これからの不安などは理解はできても、その心細さや実感は予想する以外に知りません。
自分はもう生きていても迷惑だけだと自殺する人もいるかも知れない気はします。

この心細さをすこし感じたことがあるのは小学校か中学の頃、両親が経済的なこともあるけど、よくケンカしてたときがあります。そのときくらい家がいやで、ケンカのない普通の家がいいな、このままだと自分の安心して帰れる場所がなくなってしまう不安を覚えたことがあります。そのとき思いが残っていて、帰ってゆっくり安心できる場所はとてもだいじだと考えてきました。でも実際にはそれを失ったことはありませんでした。だから、ほんとにそんな場所をなくしたらきついだろうなーと思う意外にありません。

やさしさなんていうのもいつも悩んでしまいます。わたしにはほんとのとのやさしさとかは、宮沢賢治ではないですが、「自分のことを勘定に入れない」で無償であるべきと考えてます。でも自分のしてることはいつもそれからはるか遠いと思ってしまいます。すこしは実感としてわかります。そのすごさも、すばらしさも。でも
とてもそこまでやさしくなれていない自分を感じるばかりです。

でも、今は少しずつ実感としての共感にまずしい経験から近づいていく以外にないかなとは感じています。頭だけの理解でなく、実感として近づきたいというのが望みです。頭だけだとおしゃべりの物知りと同じになってしまうからです。









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