両方似ていますが、「信じ込むこと」は少し、「信条」とか「主義」とか「信仰」とかの感じもします。
でも、これはひとにはまぬがれない面があると思います。たとえば、赤ちゃんで、うまれてすぐに、「これは間違えている、信用できない」なんていうあかちゃんはいないと思います。まず、まわりの物や、ひとが「ある」ことを信じていると思います。そういう意味では、まず「思い込み、信じ込み」ありきだと思います。
そここから、たくさんの大小の「え、あら、ちがってた」を繰り返しながら、少しずつ扉を開いていくのだと思います。
、
ただ、それが順調に扉が開いていくとは限らないのだと思います。
わたしの場合をいえば、高校卒業まで、まともに本を読んだことがありません。教科書ではなく、ほかの本です。小説とか、科学とか哲学のほんとかまったく読みませんでした。
あるとき、自分のなかに、なんかいやな自分を感じたのですね。前からちょっとはあったのですが、高校出てから、なんかやばいと思いました。でも、本も読んでないから、それが、あてはまることばを知らない。それで、大学浪人中に本を読み始めました。前に書いた被害妄想気味になったのも重なってます。
恥ずかしいしだいですが、「自尊心」とか、「虚栄心」とか「良心」とかそんなことばを初めて知って、「ああ、おれのいやなところはこれだ、これだ」と思ったりしました。「被害妄想」ということばとか、「嫉妬妄想」とか、そういうことばも後になって知って、同じように、「これだ!」 と思った覚えがあります。
わたしのような病気気味なのも含めて「思い込み」とか「信じ込み」は、結局ある考えや、ことばに出会ったとき、はじめて、「え、こんな考えがあったの」というかたちの気づき方がきっかけになると思います。
今、遅ればせながら、好き嫌いのとか、得意、苦手の枠も取っ払い、「ほんとうに近い」ことは何か、いろいろ考えているところです。そのためには、他人のことばに流されず、遠いことも、「身近に感じられる」ことばまで自問で詰めていく以外にないと思っています。
食べていく上で重要な経済の不況、賃金は上がらず、税負担は増える。未来の展望を持たない不況対策。政府が企業がこれにどう対応するか関心を持っています。
政府が企業がこれまでの「思い込み」や「信じ込み」から、どれだけ脱却できるか関心があります。公共対策で景気浮揚の時代はもう終わっています。
いじめ、虐待、学校、企業、さまざまな「思い込み」とか「信じ込み」を破っていくことばを見つける必要が緊急に出ている気がします。
今の時代になぜ戦争はまだあるのか、あれだけの生命を失って、まだ、正義のいい戦争があるとおもっているのか。それを否定できる論理は提示できるのか。すべての戦争は「悪」であるとすべきではないか。
宗教はなぜ、究極対立すると戦争になるのか、それを最終否定する宗教がなくては
ならないのではないか。そこには大いなる「思い込み」とか「信じ込み」が今でもあるのではないか。
そして、ひととして、どうあるのが「ほんとう」か。
自分に「たしかにそうだ」と思われるまで実感を離れないことばが見つかるまで、軽々しいことばはむやみにはくな。単なる知的なことばなどで精神の武装はするな。沈黙と見えても今の自己と理想の自己との不断の内的対話を続けるのが重要だと思います。
でも「思いこみ」は赤ちゃんのときからやっているで、それが人間にしみついているのですね。あまり疑うのに慣れてない。特に日本はそうかもしれません。とても
温和でほんわかしたところがところがどこかにありますからね。
国家とか、国というのは「家族や友達も含め、土地や国土も含んで、ふっくら包んでくれているもの」と思ってられる方がまだ、日本では多いそうです。実はずっと以前はわたしもそう「思い込んで」いました。
出張もあったけど、少し疲れてて、回転しない頭がますます堂々巡りで、うまくなかなかまとまりせんでした。やっぱり、気まま、気まぐれになってます。またがんばります。
でも、これはひとにはまぬがれない面があると思います。たとえば、赤ちゃんで、うまれてすぐに、「これは間違えている、信用できない」なんていうあかちゃんはいないと思います。まず、まわりの物や、ひとが「ある」ことを信じていると思います。そういう意味では、まず「思い込み、信じ込み」ありきだと思います。
そここから、たくさんの大小の「え、あら、ちがってた」を繰り返しながら、少しずつ扉を開いていくのだと思います。
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ただ、それが順調に扉が開いていくとは限らないのだと思います。
わたしの場合をいえば、高校卒業まで、まともに本を読んだことがありません。教科書ではなく、ほかの本です。小説とか、科学とか哲学のほんとかまったく読みませんでした。
あるとき、自分のなかに、なんかいやな自分を感じたのですね。前からちょっとはあったのですが、高校出てから、なんかやばいと思いました。でも、本も読んでないから、それが、あてはまることばを知らない。それで、大学浪人中に本を読み始めました。前に書いた被害妄想気味になったのも重なってます。
恥ずかしいしだいですが、「自尊心」とか、「虚栄心」とか「良心」とかそんなことばを初めて知って、「ああ、おれのいやなところはこれだ、これだ」と思ったりしました。「被害妄想」ということばとか、「嫉妬妄想」とか、そういうことばも後になって知って、同じように、「これだ!」 と思った覚えがあります。
わたしのような病気気味なのも含めて「思い込み」とか「信じ込み」は、結局ある考えや、ことばに出会ったとき、はじめて、「え、こんな考えがあったの」というかたちの気づき方がきっかけになると思います。
今、遅ればせながら、好き嫌いのとか、得意、苦手の枠も取っ払い、「ほんとうに近い」ことは何か、いろいろ考えているところです。そのためには、他人のことばに流されず、遠いことも、「身近に感じられる」ことばまで自問で詰めていく以外にないと思っています。
食べていく上で重要な経済の不況、賃金は上がらず、税負担は増える。未来の展望を持たない不況対策。政府が企業がこれにどう対応するか関心を持っています。
政府が企業がこれまでの「思い込み」や「信じ込み」から、どれだけ脱却できるか関心があります。公共対策で景気浮揚の時代はもう終わっています。
いじめ、虐待、学校、企業、さまざまな「思い込み」とか「信じ込み」を破っていくことばを見つける必要が緊急に出ている気がします。
今の時代になぜ戦争はまだあるのか、あれだけの生命を失って、まだ、正義のいい戦争があるとおもっているのか。それを否定できる論理は提示できるのか。すべての戦争は「悪」であるとすべきではないか。
宗教はなぜ、究極対立すると戦争になるのか、それを最終否定する宗教がなくては
ならないのではないか。そこには大いなる「思い込み」とか「信じ込み」が今でもあるのではないか。
そして、ひととして、どうあるのが「ほんとう」か。
自分に「たしかにそうだ」と思われるまで実感を離れないことばが見つかるまで、軽々しいことばはむやみにはくな。単なる知的なことばなどで精神の武装はするな。沈黙と見えても今の自己と理想の自己との不断の内的対話を続けるのが重要だと思います。
でも「思いこみ」は赤ちゃんのときからやっているで、それが人間にしみついているのですね。あまり疑うのに慣れてない。特に日本はそうかもしれません。とても
温和でほんわかしたところがところがどこかにありますからね。
国家とか、国というのは「家族や友達も含め、土地や国土も含んで、ふっくら包んでくれているもの」と思ってられる方がまだ、日本では多いそうです。実はずっと以前はわたしもそう「思い込んで」いました。
出張もあったけど、少し疲れてて、回転しない頭がますます堂々巡りで、うまくなかなかまとまりせんでした。やっぱり、気まま、気まぐれになってます。またがんばります。