気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

「思い込み」とか「信じ込み」と。

2008-08-31 11:02:26 | Weblog
両方似ていますが、「信じ込むこと」は少し、「信条」とか「主義」とか「信仰」とかの感じもします。

でも、これはひとにはまぬがれない面があると思います。たとえば、赤ちゃんで、うまれてすぐに、「これは間違えている、信用できない」なんていうあかちゃんはいないと思います。まず、まわりの物や、ひとが「ある」ことを信じていると思います。そういう意味では、まず「思い込み、信じ込み」ありきだと思います。

そここから、たくさんの大小の「え、あら、ちがってた」を繰り返しながら、少しずつ扉を開いていくのだと思います。

ただ、それが順調に扉が開いていくとは限らないのだと思います。

わたしの場合をいえば、高校卒業まで、まともに本を読んだことがありません。教科書ではなく、ほかの本です。小説とか、科学とか哲学のほんとかまったく読みませんでした。

あるとき、自分のなかに、なんかいやな自分を感じたのですね。前からちょっとはあったのですが、高校出てから、なんかやばいと思いました。でも、本も読んでないから、それが、あてはまることばを知らない。それで、大学浪人中に本を読み始めました。前に書いた被害妄想気味になったのも重なってます。

恥ずかしいしだいですが、「自尊心」とか、「虚栄心」とか「良心」とかそんなことばを初めて知って、「ああ、おれのいやなところはこれだ、これだ」と思ったりしました。「被害妄想」ということばとか、「嫉妬妄想」とか、そういうことばも後になって知って、同じように、「これだ!」 と思った覚えがあります。

わたしのような病気気味なのも含めて「思い込み」とか「信じ込み」は、結局ある考えや、ことばに出会ったとき、はじめて、「え、こんな考えがあったの」というかたちの気づき方がきっかけになると思います。

今、遅ればせながら、好き嫌いのとか、得意、苦手の枠も取っ払い、「ほんとうに近い」ことは何か、いろいろ考えているところです。そのためには、他人のことばに流されず、遠いことも、「身近に感じられる」ことばまで自問で詰めていく以外にないと思っています。

食べていく上で重要な経済の不況、賃金は上がらず、税負担は増える。未来の展望を持たない不況対策。政府が企業がこれにどう対応するか関心を持っています。
政府が企業がこれまでの「思い込み」や「信じ込み」から、どれだけ脱却できるか関心があります。公共対策で景気浮揚の時代はもう終わっています。

いじめ、虐待、学校、企業、さまざまな「思い込み」とか「信じ込み」を破っていくことばを見つける必要が緊急に出ている気がします。

今の時代になぜ戦争はまだあるのか、あれだけの生命を失って、まだ、正義のいい戦争があるとおもっているのか。それを否定できる論理は提示できるのか。すべての戦争は「悪」であるとすべきではないか。
宗教はなぜ、究極対立すると戦争になるのか、それを最終否定する宗教がなくては
ならないのではないか。そこには大いなる「思い込み」とか「信じ込み」が今でもあるのではないか。
そして、ひととして、どうあるのが「ほんとう」か。

自分に「たしかにそうだ」と思われるまで実感を離れないことばが見つかるまで、軽々しいことばはむやみにはくな。単なる知的なことばなどで精神の武装はするな。沈黙と見えても今の自己と理想の自己との不断の内的対話を続けるのが重要だと思います。


でも「思いこみ」は赤ちゃんのときからやっているで、それが人間にしみついているのですね。あまり疑うのに慣れてない。特に日本はそうかもしれません。とても
温和でほんわかしたところがところがどこかにありますからね。

国家とか、国というのは「家族や友達も含め、土地や国土も含んで、ふっくら包んでくれているもの」と思ってられる方がまだ、日本では多いそうです。実はずっと以前はわたしもそう「思い込んで」いました。

出張もあったけど、少し疲れてて、回転しない頭がますます堂々巡りで、うまくなかなかまとまりせんでした。やっぱり、気まま、気まぐれになってます。またがんばります。











宗教とか、信仰がきらいだった。

2008-08-26 00:14:15 | Weblog
以前宗教的なものが、偏った考えに思えてきらいでした。今も宗教や信仰を持っていませんが、前のように考えていません。

それには、わたしなりの考えの変遷があります。それは、宗教や信仰ではないけれど、家族が健康であってほしいとかの「祈り」のようなものであれば、わたしにもあるのではないか、これをとりだして延長していけば、わからないでもないと思ったことが個人的にあります。ただ、宗教や信仰にはいってしまうことはない気がしました。

でも、それ以来関心は持ち続けています。その後知ったことでは、いくつかあります。ひとつは、原始のひとにとっては、自然の脅威は何か背後に未知のなにか大きな摂理のようなものがあるという恐怖のような、畏怖のような気持ちをもっていた。それは自然宗教という状態で、日本だけでなく、すべてのひとの心をとらえていたということです。

それはわたしの幼児のときの、暗い森のこわさとか、かみなりとか、大雨とかに感じた気持ちに少し似ていたので、すごくわかるような気がしました。”風のささやき””お日様のほほえみ””怒涛””眠れる大地”(三木成夫)こんなことばは、小さい頃、なんとなく自然を生きてるように感じたことがあって、わかるような気がしました。だから、自然宗教のような意味では今でも、よくわかるし、このくらいだったら、固定した宗教や信仰とはいえない自然との関係としたら、無感動よりいいかなって気がします。

ほかに、知ったことがあります。それは特にキリスト教的な一神教的な人格神のような場合、実は人間が本来持っている心のあり方を無意識に「対象化」して、崇めることになったもので、それをじつは「神」と呼んでいるので、本来は人間の中に生まれるものだということです。これが、よく言われる「神は死んだ」といわれる意味だと知りました。

でも、今宗教は厳然とあります。それは、自然宗教が普遍的だったように、これからもあり続けるような気がします。ただ、自然宗教のように、すべての宗教が、和解できる宗教のようになるべき気がします。自然宗教は、その意味で帰っていく方向を教えてくれるような気がします。

また、自由とか、平等には宗教、信仰ではないけれど、それに似た「祈り」とか「信じる」に似たような心のあり方がどうしても必要な気がします。だから、今これらの問題は、わたしの不遜の反省の意味も含め、これからも気がかりな課題です。

母に虐待された6歳の子が、妹や弟の面倒を母に言いつけられたのに、面倒見なかったのは自分が悪かったと、母をかばったという記事が最近ありました。ちょっとやりきれず、悪魔的な気分になりました。









情報空間は世界大、でも自分空間は近所空間。

2008-08-24 12:57:25 | Weblog
でも、情報ってすごいなー、どこまでも身近に飛び込んでくる。日本のなかの情報と同じスピードで世界がはいってくる。でも、距離はすごい離れてるんだ。
情報のすごさは、遠いものを身近に感じさせることが一番かもしれない。ハイビジョン画面なんか、まるでそこにいるように映る。これも身近効果を加速する。いってもいなくても、旅行に行ったような気分。行ったことのある人なら、自分の庭気分になれるだろう。

イラクの戦争開始など、どんな映画よりも手の込んだ映像に見えました。しかし、それは映像ではなく、現実で今に続く悲惨はご存知のとおりです。もしかすると、わたしたちはたくさんの遠い映像を身近に見られるが、でも、やはりどこか「映像」として見ており、身近な隣の人とまではまだみられないのではないかという気がします。ひとはほんとうに身近に感じるためには、現実的な距離が近くなければだめかもしれないですね。だから、いつか他人事になっていってしまう。

でも、四川省の地震のときはさすがに他人事ではない切実感を感じました。だから身近に感じるのは、単なる距離ではなくて、その人それぞれの「身近に感じることが出来ること」によるのかもしれません。だから、別にそこに行かなくても、関心がすごくあることとか、ものには身近に感じられるのかもしれません。まただから、人それぞ自然に選択して見ていることになる気がします。

イラクの開戦のとき、結局一番死ぬのは責任のないイラクの国民ばっかじゃないか、と思いつつ、「映像」として見てしまった自分を覚えています。

情報の話に戻ります。情報のおかげで、わたしは世界がまだ、戦争をすてられず、自由も平等も助け合いもまだ、遠い希望でしかないと感じています。そして、国家が国民のためどころか、国民の幸せをだしにして自国民をだましているのを見たくなくても見てしまいます。情報はタイムリーで「現在」をリアルに感じさせてくれます。

しかし、それがそうだからこそ、逆に情報が逆に危険なこと知っているものもいると思います。ロシアや、中国や北朝鮮、その他多くの国が今でも情報規制をしています。日本のような国はアメリカ、フランスほかかぞえるほどしかないと思います。完全にしていなくても、限定しているところも多いと思います。四川省の地震やチベット問題のその後はまったく情報規制されています。ロシアや北朝鮮も秘密だらけです。情報はだから、すべてきているわけではない。

彼らはこう言うと思う。「親が子供にすべて話すかね。知らなくてもいい家のなかのごたごたは親が片付け、子供は知らないほうがいいだろう。それは親心というものだ。国民とても同じだ。知らなくてもいいことで心をわずらわせれば、間違えた情報でなにを言い出すかわからない。だからへたな誤解をするより、まじめに仕事に精出すほうが幸せというもんだろう。教えないのは親心だよ。ただ、家族と国家とはちょっと違うところがある。子供の家庭内暴力は家の問題だ。だが、国民の国家内暴力は、多くの国民を守るべき国家を壊すことになる。それは国民に成り代わって、排除する以外にないものだろう。それが国をあずかる者の使命だ。外部からの侵略の排除も同様だ。同じ「家」がついてもそこが違う。」

こういう「国民に開かれていない国家」は国民主体の国家ではない気がします。いざとなったら、必ず国家が出てきます。権力好きで国民を子供扱いする国がまだほとんどだと思います。

日本のように、「国民がいい意味でうるさい国は、国家も勝手に出来ない」という状態が、今のところいちばんいい国と思います。ただし、ご存知のとおり、日本はいろんな問題が今になって噴出しています。まだまだ、考えどころです。

心のスピードと社会のスピードは違う気がする。

2008-08-22 00:18:01 | Weblog
なにかどこかせわしなくて、どこかいつも追われているように余裕がないような気がします。いろんなことに目移り、気移りして、なにかもっとうちこめるものがないのかとあせっても、なかなか見つからない。特に得意なものもないし。

気持ちの余裕がないのか、東京の空をゆっくり見あげたこともない気がします。なんか狭い空間で毎日行き来して生きてるような気がします。「気晴らし」「うさ晴らし」はあるけど、どこかスッキリしない。旅行も別に行きたくない。こんな弱気な愚痴はなせる親友もいない。

自然を見るのもたまにはいいけど、自然ばっかりだと、やっぱり、賑わいや、人混みもほしくなる。

どこか月曜日は仕事に行くのが気が重い。いい映画や、すてきなコンサートもあるのに、そのときはいいかもしれないけど、そのあと、気がついたら、とりのこされるのは空洞だらけの自分。

社会のスピードから、落ちこぼれたいのに、生活もあるし、弱い自分を感じるのがいやだから、疲れても無理する。どこかいつもあせってる感じ。ゆっくりあせるなっと、いわれても、ひとからおくれてしまいそうで、不安になる。

きっと、こんなところが、わたしの強がりをはぎ取ったら、ほんとのすがたかもしれません。一見楽しそうにはしてるけど。全然うそ。

こんな自分に疲れてるときに、ふっと、気ままな猫見たり、庭の雑草むしってると「おまえらしあわせだなー」なんて、親近感持ってしまうこともあります。やっぱりつかれてるのかなー。ひとりごとや、かれらとひっそり会話始めてしまいそう。

前、小うさぎとごいっしょに生活してたけど、安心するとうさぎもおなか出してねちゃうんですよね。知ってますか。

猫もうさぎも、植物も、樹木も「自然のスピード」そのものでいきてるよな。どうして人間だけできないのか。どこかで、なにかがずれてる。

今、心の病気が多いのも、もう少しひとも自然のスピードに近いところで生きたいのに、なにかやみくもに成果や結果が求められて、心のスピードに合わないことが原因だとよく思います。

でも、もうそれが限度に近くなってきているような予感がします。
でも、みんなが、自由と時間をくれと叫び始めたあと、どんな時代に未来をしていきたいのか、ほんとにかんがえどころのような気がします。

そんなとき、猫やうさぎや植物や樹木にそっと語りかけて相談するのが、だいじなような気がしきりにします。

なんか、寝不足でねむいです。あさっては、土曜日、しっかり眠って幸せになってやろうと思います。ああー、週休最低3日にしてほしい!できたら4日に。そうしたら、文句言わずに働きます。やっぱり、だめかなー。

「善い」とか「悪い」とかははどこからくるのだろうか。

2008-08-20 00:27:20 | Weblog
「善い」「悪い」は別に法律できめたわけではないと思います。「悪い」が世の中で前から行われているから、法律を作らざるを得なくなったわけだと思います。なにもなければ、法律など必要ないですからね。

あまりひどくないときは、日本だったら、悪い祖先の霊がついてるとかで、清めとかお祓いで悪い霊を取り払うとかキリスト教だったら、懺悔して、「罪を憎んで、人を憎まず」なんてことで、済んだのでしょうが、ごぞんじのとおり、社会の進歩は、悪の進歩も並行するかのごとく、日本の犯罪もアメリカなどの残酷さを後追いしています。テロなんて仁義もくそもありません。「ひとの気持ちを思いやって」などといっていて、自分にふりかかったら、いっぺんにやられる可能性もありますから、ことばだけでいいことなどいえないかもしれません。だから、法律はいつも後追いだろうと思います。

今「人の気持ちを思いやって」と書きましたが、わたしには、こんなことばは恥ずかしくて大声ではとてもいえません(小声では言う可能性あります)。自分がいつも出来なくて悩んでいることを、とても人にお勧めなどできません。きっと言えるひとは、できるひとなのでしょう。

でも、自分ができるとおもっているひとはすごいなと思います。でも、その人が戦争の時代に駆り出されて、相手を殺さなければ、自分が殺されるとかいう場合、どうなんでしょうか、わたしだったら、「人の気持ちを思いやって」などというひまはなく、相手をやっつけない自信が全然ありません。今現在そういう可能性がないからといって自信を持つのは危険だと思っています。自分はいざとなったら、なにをやらかすか信用出来ないと思っています。出来る人もいるかもしれませんが。

わたしの好きな親鸞上人君は、その時代誰も肉や妻帯もだめな時代に両方やっちゃったひとですが、すごいこと言ってますね。(今の時代妻帯もお肉たべるのも親鸞君と同じで普通になってます)

罪を犯した人間は、間違いを犯して、結局落ちこぼれで、誰も助けてもらえない。自力では救いようがない。他力をお願いする以外にない。仏はしかし、他力を頼む以外にない人間こそ哀れみ、進んで真っ先に救おうとする。自分は罪を犯さないと思っている人は、自分に自信を持っており、自力で善を行えると、自分に自信を持ちすぎて、謙虚さを忘れていることになる。それは、仏の救いの主意ではない。世間では普通逆に考えるが、仏の真意はそのようなものである。仏の大慈は、世間レベルの小慈より広大なものであると。なんか、キリスト教にも同じようなことばがあるように聞いていますが、不勉強です。

しかし、「善い」とか「悪い」はどこからきたのでしょうか。どこが境目なのでしょうか。わずかにわたしが思うに、自分のわがままで、相手のことわすれたとき、どこか、いけないやつだと自分を思うのが多いので、そのあたりが、実感として、ほかのひとにも共通かなという気がします。でも、よくわかりません。そのあたりから、また、考えてみます。

でも、おなかがすいて、死にそうになったら、あなたのパン奪ってしまうかもしれませんので、そのときはよろしく!!。



「こころの飢え」としての事件の時代

2008-08-17 15:29:07 | Weblog
わたしの印象として、異常も含め、とても事件の多くが精神的な様相を呈してきているという気がしています。これは、ある意味で、否定的な面もおおいのですが精神的なものが重要な問題としてせり上がってきた時代が、歴史上、はじめて、大きな意味をもちはじめてきたのではないかという兆候を感じます。

ただ、それは、まだ、精神的受身の状態から抜け出せなくて、もがきながら生きてきて、結局自立的な自分をつくれなくて、それが、自虐的に、自己処罰の意味も含め、事件をおこしているという気がします。単に相手をやっつけるのではなく、自分を犯罪者として世界、社会から落ちこぼれることもどこかに感じながら、自己処罰しているように思えます。それは、普通いえば、甘えであり、感情的、短絡的に見えます。落ちこぼれそうな自分を必死でプライドで支えてきたのに、それが自力で無理だと覚悟してしまった上、他者や、社会や家族、友人という外部のせいにしていると思いますが、その中に、自分は誰よりもだめな自分であるんだという自己処罰もこめられている気がします。

このような事件に共通している点がまだあります。それは、少しはおかしな点があっても、普通ではそれほど異常と見えないのに、あるとき急にひとに対し、異常を見せるという点です。周りのひとが、事件後のインタビューで、普通の印象の人でしたというのをよく聞きます。いつも異常でしたというのは、少ない気がします。

先に書きました被害妄想もある段階までは、そういう意味では周りから異常にみえません。でも、今鬱病がかなり増えてますが、それを含め、精神的な予備軍の病気をかかえているひとが増えている気がします。

それが、逆にわたしには、今の時代が、精神的な自由や納得感を含めて、みながほんとうの自分を精神的に求めてきているあがきのようにみえるのです。

でも、それに対し、思想や、教育や、また、親たちが、それに対し満足するものを蓄積できていて、提示することができていないというような気がしきりにします。

ようするに、この高度情報化、高度消費社会のなかで、一見自由にみえながら、支えになるものを真の意味で提示できていないし、自力でもみつけられないという気がするのです。

また、それは、社会的制度、政治制度、会社のシステム、賃金制度などにも、その求めるものに応じた変革が,時代に沿って変革されずに、旧態依然で居直っているというような問題もあるような気がします。

今、わたしたちの時代は、社会も含め、個人や家族がどうあり、どのような方向に向かうべきか、真に問いだした時代だと思います。そしてまだ答えには遠い状況だと思えます。機能的にこうあるべきだとか、勉強するべきだとか、表面的な「あるべき論」ではなく、もっと個人に即した、深い人間論が生まれるべきと思います。

このような問題を考えるときも、事件を起こした個人の生育の家庭環境、親との
接触の心的問題、また、本人個人がそれに対し、どう自分を対応してきたかの克服の問題、そして、彼を一人の社会人として扱う、社会での彼のあり方、それに対応する社会の問題をそれぞれ別途に分離して考えた上で、その上で、全体を考えるべきと思います。それぞれの問題のなかに、問うべき大きな問題で、解決しなければいけない個々の問題が含まれていると思います。

いずれにしても、今わたしたちは、心をほんとうに動かす、ほんものの考えや思想を求めてきていると思います。
今、機能的な平面的な欲望の言語に逆らって、垂直的に深い自分のことばをさがす時代が到来していると思います。

でも、雷雨で傘を持っていなかったりとか、焼肉食いたいのに金がたらないとか、掃除の予定が、やっぱりできなかったとか、いろんな目前の気苦労が立ちふさがって、なかなか思うようにいかないものです。24時間うまくいかない場合は、幻想の心の25時間目を作り出して、机に向かっていけば、いつか24時間に対抗できる自分が見つかるというのを聞いたことがあります。あわててはいけないということです。

これは、せっかちなすぐ成果を求める当のわたしに対する自戒のことばです。

みなさんこころの風邪などひかぬよう、元気にお過ごしください。
今日なぜか、風に秋の気配を感じました。夏はまだ頑張るつもりなのでしょうか。


拉致被害者曽我ひとみさんの詩

2008-08-13 10:23:03 | Weblog
今年の8月12日は曽我さん親子が(母46歳、ひとみさん19歳)佐渡から拉致された1978年からちょうど30年とのこと。ひとみさんが記者会見で、「おかあさんに会えたら思い切り甘えたい」といっていました。そういうときの彼女の顔には帰ってきたときと同じで笑いはなく、なにか生真面目に会えない気持ちにじっと耐えているように見えました。でも、この気持ちの率直な表明は彼女が日々耐えている心の底からのギリギリの叫びに聞こえ、帰ってきたとき(2002年10月24年ぶり)の気持ちを読んだ彼女の文章を思い出させました。

その帰国の会見のことば、新聞に載った文章を、ひとによっては幼い気持ちの表現に思えたかもしれませんが、わたしには強烈に響いて、この人はほんものの詩人だと思いました。そこにはずっと耐えて自分にも禁じてきた帰国への望みをやっと言ってもいいんだという搾り出すような気持ちを短いことばながら感じたのです。新聞を切り抜いて、しばらくして友達にファックスで送ったことがあるのですが、友達もじっと読むまでは、特に気にしていなかったようです。今回も探したのですが、整理がわるくみつかりません。どこかにあるはずなのですが。

インターネットに載っていたので、そのまま引用します。
「二十四年ぶりに、日本に帰ってきました。とてもうれしいです。心配をたくさんかけて本当にすみません。
今、私は夢を見ているようです。
人々の心、山、川、谷、 
みんな温かく 美しく見えます。
空も 土地 木も 私にささやく。
『お帰りなさい、頑張ってきたね』。
『お帰りなさい、頑張ってきたね』。
だから、私もうれしそうに
『帰ってきました。ありがとう』と、元気で話します。」

これを読んだとき、彼女は人の心や、空や、土地や、谷のような自然に対してを豊かに深く感じ、交流できる人で、まっすぐ生きてきた人だなーと直感で感じたんだと思います。それにくらべて、このわたしは・・・と思いました。

でも、このときも、家族やおかあさんといっしょでないことは、心にあったと思います。

わたしも取りあえず戦後生まれで、残留孤児や、ロシアのラーゲリ抑留者の人たちやその他同じような境遇の人たちがどんな思いで日本を思っていたか、その深さはわかりません。ラーゲリから戦後遅く開放されたロシア文学者の内村剛介さんは「生き急ぐ」のなかで、帰れると思って現地にいたら生きていけなかったといっています。なぜなら、帰れると思って生きていたら、毎日帰れないということを突きつけられるわけです。それでは、心もからだもボロボロになってしまいます。帰りたい気持ちは封印して、心の奥底にないかのごとく埋めて生きていく以外にないといっていると思います。

きっと、曽我さんも、そのように生きてきたのだと思います。それは帰ってこれなかった多くの人々を含め、言語に絶する孤独だったと思います。
曽我さんの帰国のことばは、やっと心の奥底の封印を解いて、語った珠玉のことばだと思います。これが詩でないはずがありません。




オリンピックの身内の熱狂ってすごい

2008-08-12 14:43:26 | Weblog
スポーツってなんか純粋に楽しめる感じで、見てる自分も気だてがそのときはとてもいいように思えて、うれしい感じ。

でも、フェルプスみたいのは、断トツで別の感じだけど、あとはなぜ、日本人が勝ったときだけうれしくて、他の国の人が勝ってもあまり感じないのでしょう、なんてことを考えてみたのです。

きっとオリンピックのようなときは、日本全体を大きな自分の家族みたいに自然に考える気になって、その身内が勝ったような気になるのではないでしょうか。(これ今日考えていて初めて思いついた考えです)。そうすると、応援するのがよくわかる気がします。身内を応援しないわけがありません。負けたらよくがばったねっていってあげられます。

でも、でもって考えてしまいます。これは仕方ないんだろうなーと思いながら、すべての国の選手をそう思うことできないのかなーと。

身内意識なくすのはできない相談です。だって、自分の赤ちゃんと、ほかの家の赤ちゃんとやっぱり思い入れは絶対違います。そうすると、どう思うのが一番いいかというと、それは自然にそうでしかないのだから、そう思っていい。家族というものは身内びいきでいいのだということ。家族というものはそういう存在だということ。世界のなかで、どこの国でも、そのようであること、それが、この歴史のなかで、人間が自然に生み出してきただいじな単位だというと。それの単位のもとに社会、世界が成り立っているということ。身内の外まで、ひとは身内のように感じるのはむずかしい存在だということ。家族は社会に対し、閉じてゆくことで、残った強力なあり方だということ。


その上で、身内以外のひとにどう接していけばいいのか、それが、考えどころだと、それに近いことは可能なのかと考え続けていけばいいということ。仕方ないとそこで、止めることもできるけど、そうでない考えもあるのではないかということ。家族だからできるけれど、逆に家族にできるならそれが、もしかしたら、ひとの可能性として、家族と同じように思えることは望みとしてできないかというと。

そして、もっと普遍性にもっていくなら、すべての生命ある存在への、がんばってるなーという共感のようなところまでいけないかなーということまでいくかもしれません。

好き嫌いでやっていくと、きっと、どちらがよくて、どちらがわるいという論理にいってしまいます。そうすると排除の論理までいってしまう気がします。
これが行き着く先は、国家間でも、宗教間でも、民族間でも、テロだとか、すべての争いに行きつくような気がします。

でも、こう書いてきて、自分でできてないなーと反省しきりです。

世界ウルルン滞在記っていうテレビありますよね。ひとによっては、やらせとか、恥ずかしいなんて思う人もいるかもしれないけど、わたしは好きです。一週間くらいの滞在だけど、最後に「おまえは、おれんちの息子(娘)だ、だからまた必ず戻って来い」っていうのが、ありうる、ありうるって気がするのです。こうやってすぐ身内になれるんだなーって。身近に感じることが、ひとにやさしくなれるはじまりなのかなーて思います。きっとどのくらい身近に感じられるかが、だいじなんだなーと思います。



身体が「在る」なんて普通考えない、ですよね。

2008-08-10 11:53:46 | Weblog
あ、身体が「在る」なんて普通考えないですよね。あるのが当然なんだから。風邪をひけば熱が出ます。けがをすれば血が出ます。でも、直ったら、それで終わり。鏡を見れば、美男、美女とか、そうでないとか写ります。でも、それは、身体が「在る」のが当然の中でのことだと思います。鏡に写る自分を見て、これは何者なのかなんて、他人のように見ることは普通ないと思います。自分に違いないことを普通疑いません。それが普通だと思います。

でも、身体が「在る」んだなと思うようになるときがあると思います。

ケガや病気で自分の身体に異常が続き、残ったとき、ああ、自分は身体というものを持ってるんだなと思うような気がします。そして、実は老齢になったときの、身体の衰えによる不調もこれと同じ類のものです。

ですから、これはすべてのひとがいつか感じる意識かもしれません。

また、自分は特に具合はわるくなくても、ある場合、自分の身体が「在る」ことを意識することがあると思います。それは、長く連れ添ってきた夫婦が、あるとき、最愛の相方を亡くしたようなとき、そこに、いつも二人でいて成り立っていた心の空間がなくなってしまうことで、「身をそ(殺)がれたような」気持ちになり、残っている自分がなんの役にもたたず、身体を含めて、ただ意味もなく「ここに在る」だけという気持ちになることがあるのです。この場合、心の支えの「あり場所」も失くしたわけですから、長く気落ちして、立ち直るのがむずかしいこともありえます。一番だいじなものがもう、永遠に帰ってこないのですからね。


たしかに、身体が「在る」ことを意識しないのは、健康のとてもだいじなバロメーターだと思います。

でも、身体はいつも、これからもあなたのお供をして、一生連れ添っていくのですから時々思い出して、その苦労をねぎらってあげてほしいものです。そうしなければ、身体だって悲鳴をあげる時もあるのですよ。







国家とか学校にも「顔」がある?

2008-08-09 10:16:55 | Weblog
国家や政府は人間ではありませんから、もちろん顔はないと思います。でも『はじめは人間が作り出したものにも関わらず、手を離れて人々に共通のものになり、だんだん前からずっとあったように思えてきて、しかも力を持って、逆にこちらに影響を持つ』ように思えるものには、こちらを向いている表情のような、顔のよなものを感じる気がすることがあり得ます。

この『 』のようなものには国家のようなものだけでなく、似たものが実はたくさんあると思います。それはたとえば

「学校制度」「法律」「会社という制度」「宗教」、あと「習慣・しきたり」といえるようなもの全般(たとえば葬儀方法、礼儀の仕方など)。

これは「生まれる前からあって当然守られるべき」というように思わされるものです。

実は、わたしはこれらを気にするタイプだったので、今は基本的に逆にだいきらいな種類のものに属します。それは、今わたしの個人感じ方、自由と合わない場合が多いからです。これらはわたしに「えらそうな顔」をして、「これは前から守られてきたみんなが正しいと思ってきたことだよ、そんなわがままは許されるもんじゃない」といっているように迫ってくるのです。考えてみるといやだと思いながら、よく守ってきたものです。

これらは、いいところは残しても現在の目から大胆に変えるべきところは変えていいのです。また、中からも変えられるべきです。みんなが今ハッキリ意見を持つべき時代になってきているとわたしは思います。まだ、小声が多すぎる気がします。
まー、ちょっと勇気はやっぱりいる気はしますが。手ごわい「顔」してますからね。

国家は人間の精神のなかに働きとしてある「指導したい、教わりたい、統治したい」というような性向が、歴史の中で析出していって、大きくそびえ立ったものです。決して、わたしや、家族や、友達を包み、街を日本の自然をすべてほんわり包んだものが国家ではないと思います。世界は権力好きな国家の組織が今でもたくさんの人々を恐怖でもって統治しています。

「学校」も「法律」も守るために汲々としています。「学校」は特に低学年は遊びのように勉強を繰り込むべきです。無理すれば、いつか後に遊べなかった反動が出てきます。あとに出るのはたいへんな時もあります。「法律」も心の病気の事件の多いこの頃、どう裁けばいいのか、苦心惨憺しています。「法律の範囲」で裁かなければならないからです。今ある法律以外はつかえないからです。犯罪にするのか、心の施設に入れるのか。
「会社」はご存知のとおり、うつ病の人をたくさん生んでます。成果の求められるスピードと評価のきつさ、不当性についていけない人が増えているのが主な原因と思います。
「宗教」は「人間自身の中に本来ある意識」が対象化され、象徴化され精錬されていったものです。決して、はじめから彼方にある崇高なものではないです。ただ仏教はそれほど象徴化、偶像化されていなくて、人間の意識とあまり飛びぬけて離れていないので、いい距離な気がしています。ちょっと哲学に近い気がします。

しかし、『 』のようなものには、皆さんも染まっているかもしれません。それは剥離するのが難しいものです。でも、自分の首が絞められて呼吸が苦しくなったら、是非この観点で、心を覗き込んでみてください。
被害妄想を感じやすい人はこんな世界にはすごく敏感で、混乱しやすいかもしれませんね。わたしもそうでしたから、少しはわかります。

もちろん、「家庭」だって、この観点適用できます。親も当然の権利のように、子供に向かえば、前に書いた「一触即発」です。


これは、以前書いた心の一つの「戦場」である共同の世界の具体的な様相でもあります。 

今日は夜更けと朝と二つ書きました。少しサボった反省からですが、でも、今自分がだいじに考えてること、どう書こうかと飲んで酔っ払っても、少しは考えている今日この頃です。でも、どう考えたらいいのかもわからなこともあって、そのときは苦戦です。