気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

「個」とか「公」とかいうことばについて 3

2017-07-29 13:43:28 | Weblog
「公」というどこか不安な気持ちにさせ、、どこかで誘惑的でもあることばはどんな時に出てくるのでしょうか。
僕らの具体的な毎日の生活では実はほとんどでてきて使うことはないですよね。

毎日生活する肉体と心を持った[個人]をひとりひとり足し算のようにたくさん集まっても、たくさん「個人」の集まりとなるだけですよね。全体をまとめれば「集団」というようなことばは使えますが、どうも「公」とは言わないですよね。
そこで、ある生活的でもいいですが、その集まった「個人」みんなに「共通」する利害的な何事かを決定する必要があり、その内容がすべての個人に情報開示され、検討する時
間を経て、多数決が採用され、50%以上とかの賛成を得て承認された場合、それがみんなの総意として認められた場合、「公」の総意というように使ってもいいような気になりますね。
そうすると「公」というのは、まあ個人の賛成も反対もあるが多数決的に優先される意向、意志を持った人々の総称と言っていいのでしょうか。でも、これで見ると、多数決で負けた個人は常に「公」がいいとか、公正とは思わなくてということで基本的にはいつも条件付きということになるのかもしれませんね。少数意見も十分尊重されたうえでとしてもらいたいですね。このようななかでなら、「公」はまだ善良で一人歩きしてないですよね。ここでは僕がわざと主張することにしている考えがあります。
「僕は公の構成要員であり。僕を抜いて公というような使い方はおかしい、それは認めがたい。僕と公は別のものでなく、僕もその一員であるはずだ。対立的に使おうとするのは誤解だ」

あまり読まないので気にしているのですが、「憲法」にある「公」の入った言葉を探してみました。「個」とかかわりあるのでは、次のような、すてきな言葉がありました。

第3章 国民の権利及び義務 第13条
すべての国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

このなかの「公共の福祉」というのは、「公」も「福祉」も先ほどの多数決もはいっているように見えて、妥当に見えて肯定できそうな気がします。(ちなみに改憲の変更は「公共の福祉」が「公益および公の秩序」に変えられようとしており、「公」の定義が具体性を抜かれてくるような気がします。「公」の都合のいい一人歩きが始まり、多数決の「民意」の「反映」としての規定が甘くなっているように思われ、「公的機関」の意向のほうにうまく使われる危険を感じます。「具体的民意」がかすれてきています。危険です。)

取りあえずここで言えることは「個」は自分の自由と平等は堂々と主張して、まあ、言いたいことは言ってもいいが、折れるときは折れなきゃというケースもあるよということになります。だから、「個」の生活のほうが普通はほとんどですが、まあ「公」譲る必要がありますよということになりますかね。次回はこの「公」が見知らぬ怖さににはいっていく危険な暴走の始まりについて、いよいよ書いてみたいです。






個と公とかいう考えについて 2

2017-07-17 23:20:04 | Weblog
前回はじめのところで「個人の自由とか平等をわがままなほどかなり優先したいほうなので「公」というのは好きではないですが」と書きました。
それは僕のなかで、歴史が進んでいけば、当然文明も文化も進歩し、それに従って人間も「自ずと理性的になり」、個人の自由も平等も理性的に認められれていくだろうというように世界全体がなっていくだろう、と思っていたのが、なんかどこで思い切り舵を取り間違えていたのではないかという気がしてきたのです。どうも時代の流れは「個人の自由平等」というようなことを文明が進歩すれば自動的に達成してきるようなものとみなして安心しているのではないか。そんな気がしてきたのです。そして結果的に「個」は「公」よりちいさいように見えるゆえに、その根本的重要性を僕個人も含め、忘れていて、安心しすぎていないかという気がしてきたのです。
でもそんなとき、次のようなことばを見つけました。

「人間の内在史(精神関係の歴史)からみれば近代は外在的な文明の形と大きさに圧倒され、精神のすがた形はぼろぼろになって、穴ぼこがいたるところにあけられた時期とみることもできる。外在的な文明にに追い詰められ、わずかに文化(芸術や文学)の領域だけを保ってきた。そして文明史はこの内在的な文化(芸術、文学)の部分を分離して削りおとすために、理性を理念にまで拡げる過程だっと見なすことができる}(吉本隆明:アフリカ的段階について―史観の拡張:平成10年))

※文明とか文化のはばなしい外在的発展からは、あまりこじんまりして生活的に隠れて見えぬにくいですが、それに対応した心の自由の進化も自然に伴うだろうと想定されている気がします。しかし彼はそれは相関をそれほど信用していないのだということです。逆に内在的歴史は取り出して独自に検討すべきだというのです。どうも文明の発展には内在的文化は勘定に入っていない。
ここで「理性を理念まで拡げる過程だったとみなすことができる」とは、「人間には、まちがわずに歴史を正しいほうに導いていけるだろうという、「理性」が備わってきているのだから、理性を「絶対的な正しい導きの思想」として信じていけば、文明や文化は進歩していくだろう。そう信じることが「理性を理念まで拡張」の意味です。しかし一見華やかな文明の進歩の中で、本当は真にだいじにすべき心のだいじさが、華やかさとにぎやかさの中で、「削りおとされている」というのです。「理性」ということばを語る人は皆さん気を付けてくださいね。僕はある時からとても気になるようになりました。皆さん私も信用しないでくださいね。「理念」というのは「実現されるはずの最高の思想」というほどの意味です。

家族内殺人、虐待、好きな人を簡単にあやめる、学校でも会社でも、いろんないじめ、自殺、うつ病などの心の病気の増加。こういう些細に見えて大事なことがどこか狂ってきているのは一見文明的、文化的に楽天的に「公」的なものだけを重視?してきた繊細さの足りない「理性」幻想のつけなのだとおもいます。人間理性だけでは生きていません。もっと心で生きています。

僕たちは負けそうになっても、くだらない猛々しい理性の心無い、冷たい「いわゆる理性」を、ひとつひとつ確認しておきましょう。テレビ見てるとまるでショーのようにこの頃よく見えますね。

まだ、「公」にはいろんなことが吹き寄せてきて気になることがあるので、また次回書きますね。

個と公(おおやけ)とかいう考えについて 1

2017-07-09 16:46:53 | Weblog
この頃、国とかマスコミの対応とかテレビ見てて、なんかいらだつような気持ちが続いていて、すこし考えていて、書いてみたいと思いました。ただ、だれがいいとか、わるいとかではなく違う視点から書きたいと思いました。僕としては自分だけではなく、個人の自由とか平等をわがままなほどかなり優先したいほうなので、「公」というのは好きではないですが、「公」というのは長い歴史のなかで考えられてきた一般的制度もたくさん含んでいますから、それも考えざるを得ません。

個というのは、自分、友達、家族、恋人とか、ひとりひとりを思い浮かべれば、まあ、顔も心も具体的な感じがして、イメージも涌きわかるような気がします。 
ただ、すこし外れるかもしれませんが、僕は自分自身の個の心の世界と身近な家族でもそうですが、友達とか恋人とかと共有する心の世界を分けて区別しています。それは家族にも、友達にも、恋人にも言わない、言えない自分の世界を誰もが独自に持っていると思うからです。ぼくのわるい性格は僕が自覚して治す以外ないですしね。僕の世界以外の人と共有する世界は基本「ふたり(対)の世界」と思ってます。友達と言っても結局、僕とひとりひとりの友達との関係だからです。だから個の世界は人間の心と顔の見える世界です。芸術の世界ですよね。

ところが、「公」というのはひとりひとりよりは多そうで、まとめた総称のようにも思えるが、どうも「ひとりと多」いうようになんか、力的に個のほうが弱そうに見えたりもする気もする。またどうも、個人個人にはある「顔」や「心」的なものはなく、なんか乾燥した他人事みたいなよそよそしさを感じる。
ここで「公」というのは取りあえず個である私ではないような、また私が決めたものではなく以前から世間では「そうなっています」とか言われるようなものなどがそうです。慣例、規則、仕来り、信仰、また制度として行くことに決まってる学校、とか。ま、もっといけば、勤め先とか、国家まで行きますね。皆さんも思いついたものあげてみてください。なんかわがままなぼくには苦手というか窮屈なものがおおいですね。

「公」というのをなんかもうすこし実感としてなにか自分でもほかの人にもわかりやすい言い方ができないか考えあぐねてしまいます。

ふっと思ったのは、お母さん抱かれた幼児のことでした。人見知りというのがありますよね。ネットで引いてみました。

「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」
人見知り ひとみしり

「乳児が見慣れぬ人に対して恐怖を示し、あるいは泣き出す現象。この現象は、いままで自分の養育にあたってくれた親しい人、とくに母親と見慣れない人とを区別する能力が現れたことを意味する。それ以前の乳児は、人であればだれでもそばにいてくれるだけでよく、多少は父と母との間で、あるいは他人に対して反応が異なるが、それはあまり目だつものではない。ところが生後6か月前後から、見慣れている人とそうでない人とをはっきり区別するようになる。


まあ、あまり自分には記憶がない人もいるかもしれませんが、赤ちゃん見てるとよくある風景だと思われると思います。
あの漠然たる見知らぬというか見慣れぬ他人のいるよそよそしい世界、それが「公」のはじまりに近い気がします。
次くらいに書きますが、ぼくにしばらくあった被害妄想という高校後の病の発現は、ここに根があったのかもしれません。そして統合失調症のやさしいみんなの不安もこれに関係ある気がします。

あの、よそよそしさ、不安、恐怖を抱かせるような世界。
小さい頃、学校の帰りに少しもう暗くなりそうで、いそいで近道の竹藪のそばを通ったら、繁った竹藪の暗い奥から怖い何かが出てきて襲われそうな気持ちになって、遠くに見える家の灯りを目指して必死に逃げ走った感じ。何もなかったような顔で帰りましたが、心は真っ青でした。あの暗い見知らぬ不安な場所。また、友達と遊んでて気が付いたら、みんな帰っていなくなって、そのいなくなった闇が迫るだれもいない空き地や公園にいる不安。

よくわからない不安ですよね。でもそれはきっと長じてもどこかに気づかず残っているようなことよくありますよね。フロイトという精神分析学者が「無意識」と名付けた考えかたですね。

ここで先ほど書いたのと関連しますが「公」とはどこか見知らぬ、見慣れぬもの、どうも自分とかほかの個人のように顔を持った、また心というのとは何か違った世界とぼんやりと規定できるものかもしれません。社会という言葉がありますが、ま、人々が住んでいる世界くらいの意で考えれば、まだ人顔が感じられます。ま、個々には私や家族や友人や恋人もそのなかにいられそうですが、どうも「公」はなんか位相の違う違和を感じます。

実はこんな世界にみんな普通だとは思いながら触れているのですね。中学校までは義務教育ですか。
まあ、高校、大学までそのまま行けるところもありますが、そうでないところがまだ多いですよね。僕も一貫ではない高校受験、大学受験しました。

今考えるともう「公」という面から考えるともうそれに面していたのですね。ある意味受験して合格かどうかということは「自分で決められない」ことです。僕個人の意志では決められないわけです。誰か(たち)が僕をほかの受験者と比較して合否を決める。自分を自分で決められないところではだれか選ぶ「権限のあるものがその権利を行使するわけです。」高校は幸い合格しましたが、実はその不安は大学受験の時に顕在しました。受験勉強して、受験真近になって模擬試験などを受けているうちに、できたりできなかったりの波に一喜一憂するうちに自信はどんどん不安に変わっていきました。いつも成績のいいものを見ると別世界の人のようにうらやましくなるほどでした。そして現役では見事に不安は的中し、不合格でした。不合格を確認して宿泊したホテルに帰ってきて、めまいがして目の前が真っ暗にほんとになりました。翌年は何とか受かりました。

高校が、大学がそして、受験生の合否を決める先生たちが悪いとかいいとかではなく、「公」的なものを必要として、長い歴史のなかで考え出され、作られてきた制度とかシステムというものは、時として個人にとっては違和を覚えさせるものになるということです。僕自身は結局学生時代はそんなことは実は何も考えず、ぼんやり暇くれてありがとうみたいに過ごしてきて、いまごろになって言っているわけです。会社でもそうです。一般には公とは言わないでしょうが、これだけ資本主義が発達すれば、広く採用されてる制度ですから「公」でもよいでしょう。「公」の王様のような国家はいざとなれば戦争のために国民を「徴兵制」によって戦地に送り込むことができたわけです。
また制度そのものともいえる法律も「公」と言えますし、そして「公」はその制度を強化していく過程で、「指導制」、「統治性」をますます発揮するようになる傾向があります。つまり大学を経営する。会社を経営する。国家を統治する。法律による取り締まりを強化する。ここに制度というものが心ある顔を失い、冷たい覚めた乾燥した、ゆとりのない、遊びのない個人に対し、よそよそしいものに対立し変貌していく可能性があるのです。(次回へ)1年以上ぶりの投稿です。すいません。頑張って続きまた書きます。