気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

アカデミー賞「おくりびと」(映画)と「つみきのいえ」(アニメ)の共通点

2009-02-25 22:36:11 | Weblog
おくりびとがアカデミー候補になったのは以前お知らせしましたがとうとう受賞しました。

アカデミー会員は監督や俳優など映画関係者6,000人の組織らしいです。それだけに国際映画賞ではなくアメリカアカデミーといえるのですが、世界的に有名になり、外国語映画賞はたいへんな評価らしいです。

日本のふたつの映画はどこか似ていると思ったのですが、朝日新聞が次のように書いていていいなと思いました。

「”おこくりびと”も”つみきのいえ”も家族をなくした人に寄り添うような物語だった。別れの悲しみを思い出でいやす。そこから前にすすむエネルギーが生まれる。社会派でもなく、政治的でもない日本映画が共同の輪を広げた理由はそんなところにあるのかもしれない。」

両作品は他の候補作にくらべ確かにある意味でなにかを声高に提示するのでなく物静かに提示されていたと思います。

ただ、なぜダブル受賞できたかについて、それだけではない気がします。大きな理由は両作品が「宗教的」なかたちではなく、「普遍的」なかたちとして死を見つめながらも生と愛を描けたからだと思います。

それがアカデミーにとって両作品が驚きであり、認められたということだと思います。

アメリカ自体が戦争やテロで深く疲労しており、傷ついている部分があり、この両作品が深い慰めを与えた気がします。

とてもいい知らせでした。両方ともまた見に行きたいと思います。


横尾忠則さんの「故郷」という印象に寄せて

2009-02-22 09:59:07 | Weblog
横尾忠則さんは有名な画家ですが、猛烈な読書家で、最近小説で泉鏡花賞も受賞しました。「ぶるうらんど」という本をたまたま読んで感動しました。ブログも書いてて、いつからかよく読むようになりました。自分の絵画についてもことばで書いてくれたりして、絵についても理解の参考になります。

絵も文章も関心ある画家は少ない気がします。たいしたもんだとわたしは思っています。ファンに対して「理解する、理解される」ことの怖さとやさしさについて深い考えをきっと持っているのだと思います。素人の絵の理解が難しいのをわかっていてくれて、やさしく、照れくさそうにサービスしてくれているのだという気がします。

最近故郷の西脇市に久しぶりに帰った印象を読み、自分の印象とだぶって考えるところがありました。
印象に残った三日間の文章引用させてもらいます。


「2月17日
久し振りの帰郷。こちらも昨日までは春の陽気だったそうだが、山間部とあって空気が冷たい。夕方には雪がちらつく。初雪だそうだ。同級生の商工会議所の会頭や、一級下の美術館館長らと夕食を取りながらいつもの事ながら、学校時代の想い出に話がはずむ、至福の時間である。

2月18日
小学五年生の時、隣町で殺人事件が起こった。その加害者はわが家から見える所に住んでいた人で四軒先の家だった。今日はその被害者が殺害された場所に行った。当時の事件を目撃した人達三人に当時の生々しい話を聞いた。共通した部分、食い違った部分のヅレを埋める作業(想像力)が結構面白かった。この事件をぼくは絵にしている。タイトルは加害者の言った「今夜の酒には骨がある」というものである。絵は被害者の家の庭で解剖が行われたのを見た時の記憶を描いた。
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郷里というのは実に残酷なものだ。現実は無惨に思い出と記憶をむさぼり食う。皿に残された食べかすみたいだ。郷里は遠くにあって、近くにあるという記憶の中にのみ存在するものらしい。
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最近西脇市岡之山美術館にアメリカ産の猫が捨てられた。えらい人懐っこいのはいいが、写真を撮られるのがイヤでどうしても真正面の顔を撮らしてくれない。名前は「ネコ」らしいが、もう少し気の利いた名前にしたいものだ。明日考えよう。
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朝6時前に消防署のサイレンで起こされる。町の全貌が見えるホテルの部屋からは2ヶ所で煙が上がっている。やがて消防車2台が出動していった。右手に見える煙の方に行ったが、間もなくガッカリしたように消防車が帰ってきた。消火されたあとに行って用がなく帰ってきたらしい。以前泊まった時も朝早くサイレンで起こされた。この時は洪水だった。川が氾濫しそうになっていた現場に飛んでいった。川はうなり声を立てて流れていたが、堤防の決壊はまぬがれた。市長もいたので、「堤防の決壊する所を見たかったなぁ」と言ったら、「えらいこと言わんといて下さいな、夜も落ち落ち眠れへんかったというのに」と怒られてしまった。郷里に帰ると子供時代に戻ってしまって災害があると子供みたいに興奮してしまうのである。

2月19日
郷里にいる時間は死の時間のように感じる。無目的な時間の流れの中にいるからだろうか。子供時代の回想の痕跡を求めて彷徨するそんな時間は肉体から遊離した、現実から分離した「もうひとつの現実」だからだろうか。
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夜になって西脇の街のY字路を撮りに出る。車が時々走る程度で人の姿はほとんどない。昼間は記憶の中の町ではないが、夜になるとやっと記憶の町に近づいてきた。これはぼくにとっては大発見だ。昼が現在の町だとすれば夜は過去の街である。
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子供の頃母に連れられて行った本黒田へ行く。公衆便所かと思うほど小さい駅にびっくりする。子供の頃はこれでも一人前の駅だったんだ。親戚の家には声を掛けなかったけれど、この家の周辺で遊んだ時間を何とか取り戻そうと記憶の断片を写真に納めた。全く変わってしまったものと当時のままのものが共存している風景はちょうど自分の絵画作品を見ているようだった。 」

(わたしの感想)
故郷はもう現実の生きている場所ではなく、出離してしまった過去の場所としてある。そこにいっときかえってきた。現実の生きている心の現在としては存在せず、「かつてそこに存在していた」記憶として引き寄せられるものとしてある。
故郷に立つわたしは亡者のような眼差しで「生きいきしていた過去の幼児」を他者のように回想している。

しかし、そのようにある故郷は{現実から分離した「もうひとつの現実 」}として今の心とは遠いようにみえながら、実は深くやはり心の奥に不思議な過去として他人のような自分のことのような経験として深く今に関わりを持っている。

現在は幼児の時と訣別している。しかし、この訣別そのものが幼児のときの自分と深く関わりがある。それはまちがいなくわかる。

それはどのようにつながっているのか。それが故郷を見る眼差しになる。あの故郷の「全世界」だった時間は今どのように自分のなかに生き延びているのか。
それを感じることが故郷に帰ることだと横尾さんは言っているように思えました。

それは失われたものとして残酷であり、その距離のなかでこれからも生きていかざるを得ないという決意のようにも思えました。






「命こそ宝」(”ぬち”どう宝)ということばが前から沖縄にあるらしい。

2009-02-21 21:51:07 | Weblog
沖縄のひとはみんな知ってるらしい。泡盛で同名の焼酎もあるらしいし、その名前の建物もあるらしい。
はじめて知りました。腹話術のいっこく堂が沖縄市出身でテレビでいってた。

生きていることが大事、たしかに失敗も成功もある。でもそれよりもまず生きていることが大事。そうすれば失敗や成功も違う目で見られる。この考えがもしだれもの心に自然に住み着けば、わたしには世界は変る気がします。でも、かなりの時代無理でしょう。

憎らしいやつ、殺したいやつにあったとき、このことばはふっとんでしまうほどのものかもしれないと思います。でも、このことばを考えていくに値することばだと思います。戦争の悲惨さを知っている沖縄だからこんなことばが残ってると思い込んでます。

まだわたしにもこのことばの重みはわかりません。大好きな吉本爺はこれに似た重要な考えとして「存在倫理」ということばを提出しています。いいこと、わるいことという倫理的考えの出てくるもっと根っこに「命あることの相互尊重、共感」を
考えるべきとしてるという意味だと思います。

幼児虐待、親子殺人やテロなど凶悪な事件を見るたび、このことばを考えます。世界のどの宗教でさえもここまでいけてない気がします。普遍宗教としてこのことばが根っこになればいいと思います。


像(イメージ)としての死、霧のなかの死

2009-02-15 18:02:12 | Weblog
死を考えることは「どのような自分であれば肯定してを受け入れて」生きていく(死んでいく)ことができるのかという問いと同じ気がする。

死んだひとびとが肯定できる生を生ききれずに死んでいったというとき、その無念さはわたしに無言に語りかけてくるのではないか、そう気づいたとしても、どのようにそのかすかな声をききとればいいのか。その方法はあるのか。

どこか重たいような気がして避けてきたことです。原爆の死も、戦争における死もましてやアウシュビッツの死もわたしは具体的に「知らない」、イラクやアフガンで死んだ人々の死も「知らない」。身近な死以外のさまざまな死も「知らない」。どこかで近づいたり、忘れたり、離れていくものとして心の距離感がうまく取れない。「余命なき若き花嫁」のドキュメントのビデオを撮ったまま見ることができない。

「なんてかわいそう」そう思う。でもそう思いつつ、ほんとうにその死を受け入れ、あるときは告発できる死のイメージをわたしは持っているのか。引き寄すぎたり、ひと事になってわすれてしまうかたちでしか近寄っていないのではないか。

最期のことばを聞き取るようにそばでほんとうに看取ったことはあるのか。それさえも避けているのではないか。それも知らずに、考えることもなく、さまざまな生をさえぎって死をもたらすものや国家の悪、戦争を告発できるのか。

おまえの「かわいそう」は正義と銘打った戦争ともなれば、すぐOKをだすほどの楽天性をもっているのではないか。そこで死にゆく人びとのイメージから、反撃できるのか。

死はずっと前、霧に隠れて見ることも、感じることもなかった。霧の薄れるとき、それをふと気づくこともあるようになった。でも霧は不安をかき消すようにまた目の前を覆っていった。霧の向こうにそれがあることを感じるようになった。しかし、その距離感は不断の霧にさえぎられて距離と位置がまだわからないものとしてある。それは実はそれをとらえようとする生きている「わたしの位置も場所も」霧のなかにあって生きている今をとらえられていないとおなじことではないにか。そう思ってしまう。

わたしが死に近づいたとき、そこにいてほしい身近な人だけに会いたいと思うだろう。わたしは手を握っていてほしいと思う。
わたしの身体はゆるやかに潤いをなくし弛緩していく。身体があるという感覚が失われるにつれ、痛みや不快の感覚がが遠のき、「ここに手があり、足があり、ここにわたしがいる」という「生の時間と空間の統覚の感覚」がなくなっていく。

が、ここで不思議なことが起こる。事故にあい、手足を失ったひとが事故後いつまでも、そこに手足がないにもかかわらず、「指先に痛みを感じる」というように、「意識のなかでは身体は完全に健康で元気である」という「幻肢の感覚」が消えないように、「身体の桎梏から開放された」意識は自由と健康を獲得する。

その意識のなかでは「身体に制約された今という時間、ここという空間がら解き放たれ時間空間は無制約になる」その意識のなかでは「過去は現在と混じりあい、空間的距離は取り除かれる」それは夢の中での出会いと同じになる。だれにもどこでも会える。

そして違いはただもうわたしは目覚めることがないということだ。

想像している今現在の死にゆく意識の普遍性を素描してみました。ときどき変なこと考えてます。でもわたしには生きていくことを考える上で必要な気がしきりにしているのです。まーでも、ほんとに死ぬときは思わず死んでるでしょう。生きてるうちは生きましょう。

今日はひとにも自分にもあまりいわないつぶやきを書いてしまいました。
また書くかも知れませんので、そのときはご容赦を。

「職業”詐欺”」NHKドキュメンタリーを観て

2009-02-13 22:40:37 | Weblog
振込み詐欺特集とは知っていたのですが、なんかゾットして見たくなかったのですが、昨日テレビをつけっ放しにしてチャンネル切り替えたら再放送やってて思わず見てしまいました。NHKオンデマンドに登録して、315円でもう一度見ました。放映したばかりなのに再放送希望2位みたいでした。

次はオンデマンドでのこ番組紹介です。まとめうまいです。

「今の日本、勝ち組か負け組かどちらかですよ。この格差社会で勝とうと考えたら、振り込め詐欺が一番近道ですよ」―――詐欺師たちはカメラの前で平然とこう語った。警察の厳しい取締りにもかかわらず一向に減らない振り込め詐欺。去年の被害額は263億円、5年間の累計では1300億円を超えた。実行犯は20代の若者がほとんどで、有名大学や一流企業の出身者も多い。詐欺を「仕事」、実行犯を「従業員」と呼び、友人、知人を“高給”でスカウトし組織化を進める。「騙される方がバカ」と悪びれず、高級マンションや外車を購入、「金こそ全て」の生活を送る。逮捕のリスクが高い犯行は、安い報酬で雇った生活苦の失業者を使うなど極めて悪質だ。雇用環境が悪化する中、これまで犯罪とは無縁だった人々が「明日の生活費が欲しい」と、振り込め詐欺組織の下働きをする構図が生まれている。若者たちはなぜ詐欺に走ったのか。その軌跡を徹底的に取材し辿っていくことによって、日本社会の抱えるいびつな病理を浮かび上がらせる。」

20代がほんとに多いみたいです。だいぶ逮捕されてきているみたいですが、あまり長くやるつもりはなくていい目を見たら足洗うつもりなのですかね。大学生とか大手企業の退職者とか頭の回りが速いのも多いみたいです。

彼らのせりふ、発言それから、友人証言、取材班の実感、感想などランダムに並べてみます。

:自分のふところに入ったら、自分のお金、仕事だと思ってる。
:詐欺は仕事、分け前は給与。
:いい車、いい家、いい女つれて、羽ぶりよく振る舞って、優雅に生きる。
:ふところが寒いからやりたい思いはある。
:朝9時から、夜9時まで200件近くかける。遅刻したやつはその日分け前なし。
:被害者のこと考え後悔もしたこともあるけど、生活しないと生きられない。
:仕事がないときには甘いことばに聞こえる。
:普通に働いてて20代でいい生活できない。
:いま振込め詐欺すごくいいですよ。どのチームも2000万から、8000万達成してる(10店以上の詐欺グループオーナー・ヒルズ族夢見て会社退職。)☆こいつチェーン店の立ち上げマニュアルもつくってた。経営者気取りです。
:内定取り消しのやつなんか、社会をうらんでる。そういうやつは将来の幹部候補生ですよ。超おいしいよ。くさってるのはいいですよ。スーパー原石だよ(同上)
:年も越せないやつは目の前の5万、10万の金でいくらでもやる。(同上)
:金がなければ、家庭のため、生活費のため、借金のためとか、学費のためとか、自分だけの正義がつくれればいい。いくらでも名義を貸しますよ。(同上)
:犯罪をビジネスのように話す男。(同上の男の取材班の感想)
:友人が社会に出て働くよりも優位に立ちたかった。(つかまったあとの裁判証言)
:今の若者がお金に執着するのはわかる(詐欺友人の若者13人みんなの意見。)
:お金で存在感を示すしかなくなっていたと思う。(高校、大学時代の友人証言)
:今の若者はお金の占める価値の割合は大きいと思う。(まともな大学生の友人)
:もう生活だめかなと思ったらやっちゃおうかなと思う。ひとを殺すよりはましかなと。1,2回だったら仕方ないかなと。
:お金がぎりぎりなくなると仲間としての勧誘はすごいやさしい誘いに思えてくるかも。(わたしのあやしい感想)


わたしの感想。
なぜか若い女の子の援助交際を思い出しました。彼女は金がほしい。おっさんが声えかけたら、ついてきて金くれた。女の子だとこのくらいかもしれないけど、頭の回る野郎が声かけまくって金のありそうなのに目をつけて、芝居打って金巻き上げる。振り込めさぎの場合、電話だけで顔も見ないから、芝居がうまくいったことのほうしか考えない。「あいつ泣いてたよ。あのじいさん金持ってるよ。」というのが話題になる。グループの変な仲間、団結意識と信頼関係?だまされるのがわるいというわけ。おいおいのわるいのお前らだろ。

取材班が何度もいろんな彼らに「これ犯罪だよね」って言うけど、いってわるいと思うやついたら、はじめからやってないか、すぐやめるよね。

援助交際もそうだけど、振込み詐欺もずっとあとになってあまりよくないと思ってやめたとしても、やった事実は心に傷として残るかも知れないからはじめからやらないほうがいい気がするね。

しかし、「これ犯罪だよね」っていうのはことばでわかってるのと、自分で実感としてわかるのはべつだよな。「人殺しは犯罪です」はだれも頭でわかってる。でも殺すやつは殺すな。ひとは「これは犯罪です」とは違うところで、やってしまうと考えたほうがいい気がする。法律が心の規律をしばるのはそんな多くない気がする。大麻なんかも同じかも。

もう少し時間をかけてまた書いて見たいです。この問題ひとごととはおもえません。


リハビリ、そのものが生きることだ、という考え

2009-02-08 21:35:15 | Weblog
綾戸智絵がコマーシャルで障害がある母親らしきひとと共演し、さらっとあの猛烈な元気さで「リハビリは生きることよ」っていう場面がありました。えっと思いました。それは障害やリハビリは特別のものではない、生きていく過程に起こりうる自然なことでしかないという考えのように聞こえました。そしてそこから出発してリハビリするのは、そのものが元気に生きていることと何の変わりもない生きることよというメッセージに聞こえました。

NHKで脳出血でマヒ障害になったキャスターが、リハビリ番組を主催していました。日本の昆虫の世界的写真家が脳出血で身体不随になり、「写真家は死にました」と挨拶状を出し生きる気力をなくしていました。でもリハビリをするなか、散歩の途中、リハビリで花の咲く場所に案内され、写真のことを思い出さされます。その後彼は昆虫のいる場所に変え、身体の動く場所での写真を撮りはじめます。「身体が不自由でもそのなかでできることがある」それが彼の今の生きる気力、迫力になっているといっていました。

わたしは老年であることが実はリハビリ対象であると年とともに感じ始めています。それは突然来るかもしれないし、影のようにかもしれないが、しかも確実に近づいてきます。

それは受け入れます。しかし、同時に受け入れたくありません。若者のように戻れないことは残念ですが、そのまま受け入れるのではなく、できる範囲で抵抗したいと思います。それはリハビリと同じ考えです。それは生きていく限り当然のことのような気がします。

そして抵抗はそれなりに効果を出していることを感じています。わたしはテニスが好きでしたが、股関節の痛みで1年間無理でした。でも痛み治療や太りすぎの体重を落としたり、カルシウムを取ったりしたのがいいのか、今は1週間に1回のテニススクールに通い、不思議ですがだんだん早く動けるようになってきています。続けていくとほったらかしより、回復していくことができるのです。

心が絶望してリハビリをあきらめても、身体は期待して待っていることがあるのです。だから、リハビリは生きていこうとする意志と同じであり、その意志は生きることと同義な気がします。

でも、予期せぬことはこれからもあるかもしれませんが、死なない限り、そこからできることはしていく以外にないだろうと思います。





中国の民主化運動についての感想(2)

2009-02-08 09:16:07 | Weblog
以前に中国のテレビ放送が国家放送ののみであり、情報が統制されていると書きました。しかし、インターネットは広く普及しています。そこでは情報の統制は完全にできない可能性があります。今回の憲章がネット上で公開されたことはわたしには言論の自由の推進の上で重要であり、ひとつの力となっていく気がします。

また、本来北京オリンピック前の発表を考えていたのは情報統制が不可能なのを見込み、しかも世界中の情報が北京に向いている時を利用し、中国の閉鎖性と国民の意志を世界にアピールしたかったのではないかと思います。

この時期の発表になったのは四川省の大地震の人災的問題の隠蔽、チベットの宗教弾圧また、北京オリンピックで見た他国の開放状況の実感にも危機感を抱いた関係もあると思います。

今回の「憲章」の書き方は実に理路整然としています。ちなみに「憲章」とは今回の場合、国家・国民がよって立つ大前提の理念といえると思います。
その全体は概略下記のとおりです。これは共産党の一党独裁にによる権力と腐敗に対する根本的な異議がこめられている気がします。

1.前書きで長い歴史のあとの現状を分析し、2.で現状を打破すべき、到達されるべき「基本的理念」を明確に述べ、3.でそれに基づく具体的な「基本的主張」を延べ、4.で「結語」として概略次のように結んでいます。

4.の(概要):中国が国連安全保障理事国の5常任理事国のなかでただ中国だけが「いまだに権威主義政治のなかにいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない!政治の民主改革はもうあとには延ばせない」

「そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、08「憲章」を発表する。我々はすべての危機感・責任感・使命感を共有する中国国民が、朝野(公と民)の別なく、身分に関わらず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参加し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、できるだけ早く自由・民主・憲政の国家を作り上げ、先人が百年以上の間根気よく追求し続けてきた夢を共に実現することを希望する」と結んでいます。

2.の基本的理念は次のいくつかの理念の世界普遍性を述べています。
①自由②人権③平等④共和⑤民主⑥憲政

①の自由には自由は普遍的価値であるとして「言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進等」をあげ、「自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない」といっています。「④の共和とは「皆がともに治め、平和的に共存する」とされています。また⑥の憲政は「法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則」とされています。

3.の「基本的主張」については2.の理念に反している状況に対する改善要求が書かれています。これは前回掲載の文章読んでください。かなり具体的提言です。


わたしは今回の記名して起案したひとびとや共鳴したひとびとが弾圧されることなく、時代を画するひとびととして記憶されるように遇されることを強く望みます。

それは今にいたっても全世界の希望でもあると思うからです。

北京オリンピッのあとの中国民主化の再燃の動きに注目する

2009-02-07 22:43:17 | Weblog
日本の新聞は不況一色でこの動きをわずかしか取り上げていません。しかし、わたしには重要な問題であり、日本の新聞はもっとしっかり取り上げるべき重要な動きだと考えます。

下記の宣言は「ネット」で実名も公表し、発表されたようです。中国政府は強制的にネット上のデータ の削除を実施していますが、ゲリラ的に再登録されて国民に広がっているようです。中国政府は国家転覆扇動罪(日本にはありません)を適用して秘密裏に投獄をしてく可能性が強いと思いますが、中国国民が以前の民主化運動挫折のようにそのまま黙っているかこれから見守りたいと思います。今度の彼らの運動は明確な文章として提示されています。

「前書き」にあるのですが、「中国政府が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に署名して10周年である。」ことから、その民主化への「具体的提案」として
書かれたとしており、国の意向に決して逆らったものではないという立場から起案
されています。つまり反逆ではないという体裁をとっています。それはおそらく考え抜かれたものと思います。

オリンピック前に起草されたようですが、大地震もあり時期がずれたようです。

下記の文章はネット上で捜して見つけました。翻訳して載せてくれた方が誰かわからないのですが、感謝します。

ここにはわれわれ日本だけでなく国家、国民、社会のあり方にもたくさんの示唆を得るところがあるような気がします。考えさせられました。これについてはまた書いて見たいと思います。
 
とりあえず、是非読んでみてください。いちばん最期にどなたかのコメントが載ってます。それも読んでください。


「世界人権宣言採択から60周年の12/10、中国の民主派の学者・作家・弁護士ら303人は、中国共産党に一党独裁の矛盾を指摘し、人権擁の護を要求した声明「08憲章」(憲章08、2008年憲章)をネット上で発表。」

 ネットで広まり賛同署名が5000人を突破する一方、党による、主な起草者の逮捕、文章データの強制削除が相次ぎ、微妙な雰囲気を漂わせています。
《 零 八 宪 章 》
2008年12月10日公布

≪08憲章(和訳)≫
一、まえがき
 今年は中国立憲百年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁」誕生30周年であり、また中国政府が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に署名して10周年である。長い間の人権災害と困難かつ曲折に満ちた闘いの歴史の後に、目覚めた中国国民は、自由・平等・人権が人類共同の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基本的制度枠組みであることを日増しにはっきりと認識しつつある。こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた「現代化」は、人の権利をはく奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である。21世紀の中国がどこに向かうのか。この種の権威主義的統治下の「現代化」か? それとも普遍的価値を認め、主流文明に溶け込み、民主政体を樹立するのか?それは避けることのできない選択である。

 19世紀中葉の歴史の激変は、中国の伝統的専制制度の腐敗を暴露し、中華大地の「数千年間なかった大変動」の序幕を開いた。洋務運動はうつわ面での改良を追求し、甲午戦争(日清戦争1894年)の敗戦は再び体制の時代遅れを暴露した。戊戌変法(1898年)は制度面での革新に触れたために、守旧派の残酷な鎮圧にあって失敗した。辛亥革命(1911年)は表面的には2000年余り続いた皇帝制度を埋葬し、アジアで最初の共和国を建国した。しかし、当時の内憂外患の歴史的条件に阻害され、共和政体はごく短命に終わり、専制主義が捲土重来した。うつわの模倣と制度更新の失敗は、先人に文化的病根に対する反省を促し、ついに「科学と民主」を旗印とする「五四」新文化運動がおこったが、内戦の頻発と外敵の侵入により、中国政治の民主化過程は中断された。抗日戦争勝利後の中国は再び憲政をスタートさせたが、国共内戦の結果は中国を現代版全体主義の深淵に陥れた。1949年に建国した「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実際は「党の天下」であった。政権党はすべての政治・経済・社会資源を独占し、反右派闘争、大躍進、文革、六四、民間宗教および人権擁護活動弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千万人の命を奪い、国民と国家は甚だしい代価を支払わされた。

 20世紀後期の「改革開放」で、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的全体主義から抜け出し、民間の富と民衆の生活水準は大幅に向上し、個人の経済的自由と社会的権利は部分的に回復し、市民社会が育ち始め、民間の人権と政治的自由への要求は日増しに高まっている。統治者も市場化と私有化の経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から徐々に人権を認める方向に変わっている。中国政府は、1997年、1998年にそれぞれ二つの重要な国際人権規約に署名し、全国人民代表大会は2004年の憲法改正で「人権の尊重と保障」を憲法に書き込んだ。今年はまた「国家人権行動計画」を制定し、実行することを約束した。しかし、こうした政治的進歩はいままでのところほとんど紙の上にとどまっている。法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。とりわけ官民対立の激化と、騒乱事件の激増はまさに破滅的な制御不能に向かっており、現行体制の時代遅れは直ちに改めざるをえない状態に立ち至っている。

二、我々の基本理念
 中国の将来の運命を決めるこの歴史の岐路に立って、百年来の近代化の歴史を顧みたとき、下記の基本理念を再び述べる必要がある。

自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。

人権:人権は国家が賜与するものではなく、すべての人が生まれながらに有する権利である。人権保障は、政府の主な目標であり、公権力の合法性の基礎であり、また「人をもって本とす」(最近の中共のスローガン「以人為本」)の内在的要求である。中国のこれまでの毎回の政治災害はいずれも統治当局が人権を無視したことと密接に関係する。人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。

 平等:ひとりひとりの人は、社会的地位・職業・性別・経済状況・人種・肌の色・宗教・政治的信条にかかわらず、その人格・尊厳・自由はみな平等である。法の下でのすべての人の平等の原則は必ず実現されなければならず、国民の社会的・経済的・文化的・政治的権利の平等の原則が実現されなければならない。

 共和:共和とはすなわち「皆がともに治め、平和的に共存する」ことである。それは権力分立によるチェック・アンド・バランスと利益均衡であり、多くの利益要素・さまざまな社会集団・多元的な文化と信条を追求する集団が、平等な参加・公平な競争・共同の政治対話の基礎の上に、平和的方法で公共の事務を処理することである。

 民主:もっとも基本的な意味は主権在民と民選政府である。民主には以下の基本的特徴がある。(1)政府の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民である。(2)政治的統治は人民の選択を経てなされる。(3)国民は真正の選挙権を享有し、各級政府の主要政務官吏は必ず定期的な選挙によって選ばれなければならない。(4)多数者の決定を尊重し、同時に少数者の基本的人権を尊重する。一言でいえば、民主は政府を「民有、民治、民享」の現代の公器である。

 憲政:憲政は法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則である。それは、政府の権力と行為の限界を線引きし、あわせて対応する制度的措置を提供する。

 中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。

三、我々の基本的主張
 そのために、我々は責任をもって、また建設的な市民的精神によって国家政治制度と市民的権利および社会発展の諸問題について以下の具体的な主張をする。

1、憲法改正:前述の価値理念に基づいて憲法を改正し、現行憲法の中の主権在民原則にそぐわない条文を削除し、憲法を本当に人権の保証書および公権力への許可証にし、いかなる個人・団体・党派も違反してはならない実施可能な最高法規とし、中国の民主化の法的な基礎を固める。

2、権力分立:権力分立の現代的政府を作り、立法・司法・行政三権分立を保証する。法に基づく行政と責任政府の原則を確立し、行政権力の過剰な拡張を防止する。政府は納税者に対して責任を持たなければならない。中央と地方の間に権力分立とチェック・アンド・バランスの制度を確立し、中央権力は必ず憲法で授権の範囲を定められなければならず、地方は充分に自治を実施する。

3、立法民主:各級立法機関は直接選挙により選出され、立法は公平正義の原則を堅持し、立法民主を行う。

4、司法の独立:司法は党派を超越し、いかなる干渉も受けず、司法の独立を行い、司法の公正を保障する。憲法裁判所を設立し、違憲審査制度をつくり、憲法の権威を守る。可及的速やかに国の法治を深刻に脅かす共産党の各級政法委員会を解散させ、公器の私用を防ぐ。

5、公器公用:軍隊の国家化を実現する。軍人は憲法に忠誠を誓い、国家に忠誠を誓わなければならない。政党組織は軍隊から退出しなければならない。軍隊の職業化レベルを高める。警察を含むすべての公務員は政治的中立を守らなければならない。公務員任用における党派差別を撤廃し、党派にかかわらず平等に任用する。

6、人権保障:人権を確実に保障し、人間の尊厳を守る。最高民意機関(国会に当たる機関)に対し責任を負う人権委員会を設立し、政府が公権力を乱用して人権を侵害することを防ぐ。とりわけ国民の人身の自由は保障されねばならず、何人も不法な逮捕・拘禁・召喚・尋問・処罰を受けない。労働教養制度(行政罰としての懲役)を廃止する。

7、公職選挙:全面的に民主選挙制度を実施し、一人一票の平等選挙を実現する。各級行政首長の直接選挙は制度化され段階的に実施されなければならない。定期的な自由競争選挙と法定の公職への国民の選挙参加は奪うことのできない基本的人権である。

8、都市と農村の平等:現行の都市と農村二元戸籍制度を廃止し、国民一律平等の憲法上の権利を実現し、国民の移動の自由の権利を保障する。

9、結社の自由:国民の結社の自由権を保障し、現行の社団登記許可制を届出制に改める。結党の禁止を撤廃し、憲法と法律により政党の行為を定め、一党独占の統治特権を廃止し、政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。

10、集会の自由:平和的集会・デモ・示威行動など表現の自由は、憲法の定める国民の基本的自由であり、政権党と政府は不法な干渉や違憲の制限を加えてはならない。

11、言論の自由:言論の自由・出版の自由・学術研究の自由を実現し、国民の知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道の規制を撤廃し、現行「刑法」中の「国家政権転覆扇動罪」条項を廃止し、言論の処罰を根絶する。

12、宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障する。政教分離を実施し、宗教活動が政府の干渉を受けないようにする。国民の宗教的自由を制限する行政法規・行政規則・地方法規を審査し撤廃する。行政が立法により宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体(宗教活動場所を含む)は登記されて初めて合法的地位を獲得するという事前許可制を撤廃し、これに代えていかなる審査も必要としない届出制とする。

13、国民教育:一党統治への奉仕や濃厚なイデオロギー的色彩の政治教育と政治試験を廃止し、普遍的価値と市民的権利を基本とする国民教育を推進し、国民意識を確立し、社会に奉仕する国民の美徳を提唱する。

14、財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関に対し責任を負う国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。

15、財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択(住民投票)や民意機関(議会)の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。

16、社会保障:全国民をカバーする社会保障制度を構築し、国民の教育・医療・養老・就職などの面でだれもが最も基本的な保障を得られるようにする。

17、環境保護:生態環境を保護し、持続可能な開発を提唱し、子孫と全人類に責任を果たす。国家と各級官吏は必ずそのために相応の責任を負わなければならないことを明確にする。民間組織の環境保護における参加と監督作用を発揮させる。

18、連邦共和:平等・公正の態度で地区の平和と発展を維持し、責任ある大国のイメージを作る。香港・マカオの自由制度を維持する。自由民主の前提のもとに、平等な協議と相互協力により海峡両岸の和解案を追求する。大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する。

19、正義の転換:これまでの度重なる政治運動で政治的迫害を受けた人々とその家族の名誉を回復し、国家賠償を行う。すべての政治犯と良心の囚人を釈放する。すべての信仰により罪に問われた人々を釈放する。真相調査委員会を設立し歴史的事件の真相を解明し、責任を明らかにし、正義を鼓舞する。それを基礎として社会の和解を追求する。

四、結語
 中国は世界の大国として、国連安全保障理事会の5つの常任理事国の一つとして、また人権理事会のメンバーとして、人類の平和事業と人権の進歩のために貢献すべきである。しかし遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。

 そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。我々はすべての危機感・責任感・使命感を共有する中国国民が、朝野の別なく、身分にかかわらず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参加し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、できるだけ早く自由・民主・憲政の国家を作り上げ、先人が百年以上の間根気よく追求し続けてきた夢を共に実現することを希望する。

括弧内は訳注。

Comments
Y..長っ! しかし書いてあるとおりになれば結構いい国になりそうな予感がする(08年12月28日 10時50分35秒)Trick中国は「2つの中国」論を流布している海外Webサイトへのアクセス遮断しているそうです。中国からのアクセスを遮断したい時に使えそう。http://www.computerworld.jp...(08年12月28日 11時39分50秒)八咫烏まさか全文引っ張ってくるとは....今日明日何かが起こる事柄ではないですが”憲章77”のようにこれが元で流れが変わったと言われるかもしれないですよね。
天安門の時のように政治闘争ではなく党対民衆の争いになりますが民族問題が表面化してきている今に出されたのは大きいと思います。
民族問題で弾圧が噂されるとともに経済が下向きの中国で大きな分岐点になるかもしれないです。<希望的観測(08年12月28日 14時57分43秒)珍竹林明治帝の御世の自由民権運動を彷彿とさせますな…w 如何な崇高な理念を掲げても民衆が国家体制を倒すことを目論めば死罪もありうるのは日本であっても同じ。(08年12月28日 15時07分32秒)ZOO民主主義になっても、拡張政策がかわるとは思えないけど。おそロシアとかみてたら。(08年12月28日 19時55分29秒)八咫烏民主化すると旧ソビエト以上の分裂すると思いますよ。富と利権が地方に分散してる上、軍閥が地方ごとで力を持っているのでまとめることは難しいと思います。もちろん民族対立も(08年12月28日 21時06分19秒)たこアーっ!!(08年12月28日 22時03分00秒