気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

とてもいいことばに出会って、うれしかった。

2009-01-31 22:01:38 | Weblog
それはこんなことばです。

「わたしの考えでは、人間とは、必然的に自分自身と対立するものであり、自分を肯定することができないものであり、したがって、みずから自分を断罪の対象としないかぎりは、自分を徹底的に愛するできないものなのである。」(「文学と悪」「ジョルジュ・バタイユ」・ボードレールについてより)

最初読んだとき、え、っと思っただけなのですが、あとでじわじわ沁みこんできました。

ここまで自分を追い込んだら、疲れてしまいそうです。そんな気がします。でも、どこか魅力を感じるのです。

「必然的に自分自身と対立するものであり」とはどういうことでしょう。これは卑近なところに引き寄せれば、経験や勉強をしてもう少しましな自分になりたいという向上心でしょうか。今のままではどこか自分に不満と思っていたら、そのところですよね。自分のなかにわがままや、冷たさをふっと感じたとき、いやな自分だなと思って反省します。ところが気づいてもなかなか直らない。自分にそれが付きまとう問題になってくる。

そんな自分を生活のなかで再び感じると、だんだん自分に嫌気がさして、自分が嫌いになってくる。やさしそうに見えたり、えらそうなことを言ったりしている自分を出したりすると、柄でもないのにと、あとでいい気になった自分が思い出されて、赤面、真っ青な気持ちになる。われながらなんかいやらしいやつだなと思う。

そんな失敗をしてしまう自分からなんとか逃れたい、変えたいと思う。そうするとどうしたらいいんだとなる。

勇気もないのにこじんまりとして、やさしくなったり、えらそうな自分がしゃしゃり出る。

結局、そんな性悪な自分を認めて自分のなかで対面し、ずっと自分を否定する努力を自己対話のように変えられる事を願って「すこしはよくなりたい」と思っていく以外にない。そんなところでかろうじて自分を肯定することが可能かも知れないと思う。

そう思うとこのことばが腑に落ちてくるのですね。

でも、赤ちゃん見たり、心の素直なやさしそうなひとを感じると、ああ、おれにはとてもなれそうもないなとあきらめを感じることがあります。もう赤ちゃんからは脱落してるし。