術後の方たちが「見ることの学習」するのをわたしたちは不思議に思います。覚えていない赤ちゃんの頃から自然に学習することなく「見ることに慣れてきた」からですね。
でも、術後の方の話を聞いていると、見ること自体がほんとうはたいへんな過程を実はみんな難なくとおりすぎているのだなーという気がします。
術後の方がかなり見ることを少しづつ学習したあともどうしても理解できないことがあるそうです。それはわたしを考え込ませてしまいました。
たとえばひとつはいつまでも人の顔の表情がわからない。ほかには円錐は横から見ると三角形に見える、でも上から見ると円です。つまり、立体が全体として見れずに、どうしても全体がいっぺんに理解できない。平面はまあまあわかり三角形まではわかってきても円錐なんかはパット見てわからない。
これとかなり関連してると思いますが要するに遠近感、奥行き感がわからない。立体は奥行きがあることを理解しなければわからないわけです。わたしたちは立体は
表面の「うしろ」がまだ奥行きとしてあると知っているわけです。
それの極めつけですごいのは例えば電車が遠ざかっていけば小さくなるのはわたしたちには当然です。でも彼らにはそれがまったくの驚きなのです。ビックリしてどうしてか考え込んでしまうそうです。眼の前でこの大きさのものが、見ることにおいては小さくなる。これは触覚ではわからず、視覚によってしか経験できません。
触覚のなかで「もの」が小さくなる事はありません。
皆さん不思議だと思いませんか。でも実は赤ちゃんを見ているとそれと似た時期がほんとうはあるのです。皆さんはそれをいつか無意識に乗りこえてきているのです。
実は顔の表情を理解することは実は高度なことだとわたしは思っています。至近距離の母的存在の怒ったときの荒い扱いとか、笑っときとかのやさしい抱っことか赤ちゃんのときからみんな仕草とか声の表情とかで自然に顔の表情を全身で理解してきているのです。顔の表情をそのように見ることのなかった術後の彼らはそれがないためにいつまでも顔の表情を理解することが難しいのです。
わたしたちはことばに付随した顔の表情によってどれだけ理解を助けられているか知れないのです。
皆さん前にいる方がしゃべっているのに顔の表情がなかったらゾッとしませんか?
顔の表情とは心の現われです。形態ではないわけです。彼らは形態までわかってきても心の現われとしての表情が「変化」することを理解することが難しいのです。
ときどきわたしは開眼者の方にお会いできたら、たくさん聞いて見たいことがあります。それは当然だと思っている見ることについて「見ることの不思議」を聴くことができそうだからです。
そしてときどき「眼ってなんであるの、誰がこんなものつくってくれたの」なんてこどものように生命の不思議までいってしまいます。あほですね。
皆さんいがですか?
いつか赤ちゃんのころの不思議な見え方についても書いて見たいと思います。
でも、術後の方の話を聞いていると、見ること自体がほんとうはたいへんな過程を実はみんな難なくとおりすぎているのだなーという気がします。
術後の方がかなり見ることを少しづつ学習したあともどうしても理解できないことがあるそうです。それはわたしを考え込ませてしまいました。
たとえばひとつはいつまでも人の顔の表情がわからない。ほかには円錐は横から見ると三角形に見える、でも上から見ると円です。つまり、立体が全体として見れずに、どうしても全体がいっぺんに理解できない。平面はまあまあわかり三角形まではわかってきても円錐なんかはパット見てわからない。
これとかなり関連してると思いますが要するに遠近感、奥行き感がわからない。立体は奥行きがあることを理解しなければわからないわけです。わたしたちは立体は
表面の「うしろ」がまだ奥行きとしてあると知っているわけです。
それの極めつけですごいのは例えば電車が遠ざかっていけば小さくなるのはわたしたちには当然です。でも彼らにはそれがまったくの驚きなのです。ビックリしてどうしてか考え込んでしまうそうです。眼の前でこの大きさのものが、見ることにおいては小さくなる。これは触覚ではわからず、視覚によってしか経験できません。
触覚のなかで「もの」が小さくなる事はありません。
皆さん不思議だと思いませんか。でも実は赤ちゃんを見ているとそれと似た時期がほんとうはあるのです。皆さんはそれをいつか無意識に乗りこえてきているのです。
実は顔の表情を理解することは実は高度なことだとわたしは思っています。至近距離の母的存在の怒ったときの荒い扱いとか、笑っときとかのやさしい抱っことか赤ちゃんのときからみんな仕草とか声の表情とかで自然に顔の表情を全身で理解してきているのです。顔の表情をそのように見ることのなかった術後の彼らはそれがないためにいつまでも顔の表情を理解することが難しいのです。
わたしたちはことばに付随した顔の表情によってどれだけ理解を助けられているか知れないのです。
皆さん前にいる方がしゃべっているのに顔の表情がなかったらゾッとしませんか?
顔の表情とは心の現われです。形態ではないわけです。彼らは形態までわかってきても心の現われとしての表情が「変化」することを理解することが難しいのです。
ときどきわたしは開眼者の方にお会いできたら、たくさん聞いて見たいことがあります。それは当然だと思っている見ることについて「見ることの不思議」を聴くことができそうだからです。
そしてときどき「眼ってなんであるの、誰がこんなものつくってくれたの」なんてこどものように生命の不思議までいってしまいます。あほですね。
皆さんいがですか?
いつか赤ちゃんのころの不思議な見え方についても書いて見たいと思います。