気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

鏡に映った自分が「自分」だとわかるのは人間だけらしい、

2009-03-21 21:59:48 | Weblog
ほかの動物も自分と同類であることはわかるみたいですが、決して「自分」であるとはわからないようです。そこに「自分ではない」相手を探して鏡のそばに来るのですがどうもそこにいないとなると、どこかその向こうや、後ろにきっといると思ってのぞきに行くわけです。

人間も赤ちゃんのある時期までは動物とおなじようにどこかに隠れているのではと探してあちこち探し回るようです。そしてあきてしまう。

でもある時期人間だけが鏡のなかに映る姿が「自分である」ことに気づき、まちがえなくなるのですね。

これは鏡像段階として人間と他の動物との大きな差異として取り上げられる問題のようです。でも、この問題はまだ決定的には解かれていない気がします。わたしも前からときどき考えていましたがわからないままでした。

なぜ気にかかるかというとこれはもしかしたら、人間と他の動物を分かつ重要な点かもしれないからです。

このちがいがわかれば、人間が人間になっていく過程と動物が動物である大きな違いがわかるかもしれないのです。

ふつうわたしたちが動物を見るとき、結局「人間」から見た動物観のような気がします。かわいいとかこわいとかわかったようにいっていますが、どこかちがうのはわかるけど、ほんとにどこかちがうのかちゃんとした考えではないような気がします。

いまわたしが考えているのは人間だけが不思議なのですが、またあたりまえかも知れないのですが、あかちゃんのある時期、無意識のうちなのですが

「自分のからだが今、このときに、ここという場所に在る」というふうに気づいてしまうようになってしまったのではないかという気がします。それは自然にそうなってきている(自然過程)ので、意識的にではないのです。

動物にはこのような「現存感覚」と呼べるような「自己感覚」、「自意識」は生じない気がします。

動物はもっと直接的、内在的生命のまま一生生きる気がします。

前回も書きましたが、人間はどこか自然の一体感からずり落ちているのです。

そして、ここからことばの人間独特の獲得がはじまる気がします。

ことばは自分が”いま””ここに”いるとふと気づいてしまってからしばらくして誕生18ヶ月頃から、あかちゃんの口から飛び出すようになります。

この不思議な現存感覚からことばの発語までの過程はなんとかうまくことばにして見たいです。前から考えていることです。ことばの獲得で人間はもっと人間になっていった気がします。

すこし時間ください。

おくりびとのDVD届きました。もったいないので何度か見るつもりです。もう1回見ました。やっぱりいいです。聞き落としたことばもありました。

”おくりびと”の外国語映画審査委員長評価を聞いた

2009-03-14 23:20:19 | Weblog
突撃インタビューで民放がアカデミー委員長に聞いたのが放映されて見ちゃいました。あの一見日本的な映画がなんでアカデミー賞取れたか興味津々でしたから。

理由はこうでした。
①死を見取る儀式が共通に人の心をうった。
①夫婦の葛藤とそれを経た後の愛の深まりがすばらしかった。
②親(父)への子の愛の回復がよく描けていた。それは親の死によって最期ににしか訪れなかったとしても。(父親は彼が幼児のとき彼を捨てて家出していたのです。)
③重い主題にかかわらず深いユーモアとコミカルな描き方はたいへんすぐれていた。

よく見てるなあと思います。

でもわたしには人があることをきっかけに大きく成長する転機がある。それがごく自然に描けていたのではないかという気がします。それがこの映画の主調低音ではないかなという気がします。これまでの自分を心の深くから変えてしまうことが。

それは青ざめるような衝撃であることもあるし、徐々にボデイーブロウがきいてくるようなときもあると思います。でもそれは誰でも求めているかどうか別にしてもいつかどこかで誰にも訪れるのかもしれません。

あと「普通の人」の描き方があほ気でなく自然に描けてうまいとうなりました。
みんなだれでも真剣でないように見えるひとでも、それなりに実は生きることはそれだけで喜びも悲しみもたくさん経ているもんだなと思わせるように描けてます。

とうとうDVD申し込んでしまいました。

人間は身体としては地球に適合しているはずなのだが・・

2009-03-14 06:15:21 | Weblog
植物を見てるとちゃんと自然に寄り添って生きてるような気がする。以前転勤で雪国に住んでたとき、まだ山の雪が上にかなりかぶさってるのに、ふきのとうがその下で春を感知してもう咲いておわりに近いのを見て驚いたことがある。雪がいくらあっても自然のサイクルをまちがわないんだなと思いました。

あとで聞いたら、雪の下のほうが意外とふきのとうにとっては暖かく感じられるので早起きするのだそうです。

人間も身体としては自然に適合してこの宇宙のなかの地球に宇宙人としていきていられるはずなのに「心」などが生まれてしまったために、しょっちゅう自然にすなおに適合できずに、ズレてしまう気がする。ときどき自然に逆らうことばっかりわたしなどはやってる気がします。お酒飲みすぎたり、タバコ吸ったり、夜更かししたり。

病気になって落ち込んだりすると毎日だまって日が昇り、風が吹いたりして何もいわずに繰り返している自然がうらやましいような気にもなるときもあるし、なぜこちらだけ落ち込んで向こうは知らんふりのようなのかうらめしい気になったりする。また時にはだまってひとり静かに見守っていてくれるようで、ほんとのだいじな唯一の友達のように見えることもある。なにも言わないけどわかってくれるような。

でもほんとはこちらが思い入れているだけ。自然はただ静かに宇宙の風にあわせてるだけ。他人のようにとってもかしこい。

人間の身体だって自然に適合しているはずで、その証拠に食べ物だってちゃんとこの地球でできるもので間に合わせられるようにできている。月や火星や何百光年の向こうから輸入する必要なんかない。免疫系なんかも身体のなかに造ってくれてガードもしてくれてる。

それなのにピタッと自然に適合できずに、どこかにズレができて心などと呼ぶものが生まれて落ち込んだり、喜びすぎたりする。ほかの動物のほうがもっと素直でうまくやってる気がする。だまって静かに死んでいく。だから、ほかの動物や植物やそれを取り巻く自然を見るとほっとするのかも知れない。

落ちこぼれの人間。自然のサイクルからはずれてしまった人間。

でも落ちこぼれだから、自然をいつくしんだり、ほかの動物を見てかわいいと思ったりできるのかもしれません。絵や音楽やすてきな小説や詩を作り出して必死にそのズレの埋め合わせているのでしょうね。

さあー今日もズレの埋め合わせに走るぞ!


ロシアという国と国民についてとプーチンの眼。

2009-03-06 21:27:42 | Weblog
最近NHKでロシアを2日連続でドキメンタリーで取り上げていました。共産主義を標榜するソビエト連邦崩壊後のロシアという国家と国民の動向に前から関心があったので、かなり入れ込んで見ました。

NHKが今のロシア国家を「国家資本主義」という名前で取り上げていたのにはちょっと驚きました。初めて聞いたことばです。今ロシアは民間企業を認めていますが、国の資源に関りある企業などが大きくなると隙を見つけたり、隙を作って国営化に逆戻りするようなことをかなり巧妙にやっています。国から役人を送り込んで実質国営化に移行させていくのです。民間にもうけさせ、税金を取るより、国営にしたほうが利益はそのまま国の強大化に使えます。国が金持ちになれるからです。

これでは民間の自由市場は本来的には育ちません。国の権力だけが大きくなるだけです。ある部分過去のロシアに逆戻りです。

プーチンは世界に対する強大な影響力と権威を持っていたソビエト連邦の時代のようにロシアの威厳を過去のように取り戻したいと思っている人間に見えます。

世界はアメリカだけで動いているのではない。ロシアを忘れることは許されない。
そう思っていいるようです。

そして不思議なことですが国の世界における権威の復活の点だけは国民も望んでいることであり、プーチンはそれを知っていて人気に利用している気がします。

ロシアの国民には世界のなかでロシアがプライドを持てていた時代から、その威厳がなくなったことに自分のプライドを傷つけられたような気がいているようなのです。尊敬されない民族になったような気がしているらしいのです。それは以前に「ロシアの民主主義」という番組を見たときに特に感じました。

これを国民に感じたとき、個人的には、あっと思いました。わたしにも日本人として世界からの日本への尊敬をと思いますが、まず、誤解されずに正しく理解されたいと思うのが先のような気がします。

ロシア国家と国民の自国に対するプライドはすごいもので、それがわたしを驚かせたわけです。敗戦した日本と違うのかなととも思いました。


そのほかにたいへん気になったことがあります。それはロシア正教会へのプーチンやメドベージェフの肩入れです。

今ロシアは年金も壊れてきており、日本以上に貧富の格差があるようです。その問題は経済的に国家として主導し、改善していかなければならない最大の問題であると思えるのですが、先に書いたとおり国家のみが金持ちになり、民間の自由な市場に国家が口を出しすぎていて、育っていかないのです。

その経済的苦しさから来る生活的な問題や心の悩みをロシア正教会を駆け込み寺のようにして批判を紛らせているように思えることです。この感じはもう少し調べて見たい気がします。

たしかにロシアの場合教会は日本人には不思議とおもえるほど共同体的な場になっているようですが、教会にいっているのに祈らない無神論者もたくさんこの頃はいるようです。今度の番組も老夫婦で奥さんが信者で教会には行ってるのに、だんなは祈ってなくて、神父と議論なんかしているのです。面白かったです。

経済的政策の失敗から来る国民の苦しみを心の問題に還元されて、教会担当に回されたらたまらない気がしました。心だけじゃ介護もおなかもいっぱいにならない気がしました。

帰る場所がないときつい。

2009-03-01 21:14:45 | Weblog
今度の不況で帰る場所を失った人は多いし、まだこれからも増える気がします。実家にしばらく戻ってという人も多いと思ったのですが、もう家に迷惑かけられないという人のほうが多いように思えました。

誰にも甘えられないと思った人が、帰って寝る場所も失ったとき、生きる勇気を失う人もいる気がしまう。失業した人にはとても気のやさしい人が多くて、仕方がないなと思っている人も多いという印象を受けた覚えがあります。自分のせいだと思っているようにも思えました。

家族や社会から自らドロップアウトしてホームレスになった人も雨風をしのぐ拠点だけは作ってます。それは最低限必要なんだと思います。アルミ缶50kg集めて今は3000円くらいの稼ぎしかならないみたいです。でも、それで犬、猫のえさも買ってやってるみたいです。

彼らを責める人もいますが、どこかわたしには責める気になりません。意外とかっこつけない自己放棄した悲しさがあるような気がします。

へんなこというようですが、他人事であれば責めることもできるでしょうが、どこかわたしには他人事に思えないようなところがあります。どこかですこし、ドロップアウトしたい気がきっとあるのでしょう。

千葉県では県や市の委託で困った人の駆け込み寺になるような中核センターができていて、ホームレスの人の就職活動も取り組み始めたようです。家もなく保証人もないので就職できない人が多いのですが、意外とほんとは働く意欲のある人多いみたいです。

自殺は年間30000人以上、また増えるかもしれません。一日90人くらい死んでいます。たいへんな数の気がします。

でも、家があっても帰る「心の家」ではない問題もたくさんあるような気がします。

もう少し世界のスピードがすべてにおいてゆっくりしたほうがいい気がします。世界自体がなぜか早く結果を出したくてあせっているような気がしきりにします。