眼は開いているのですが、考えごとに集中していると実は「取りあえずの視界」だけになって、歩いても考えるのが好きな人はなにかにぶつかりそうになるみたいです。そんな人は音も聞こえているのに心的には遮断できてしまうみたいです。
どうも考えることと視ることには背反する傾向がすこしある気がするのです。あるものを視て感動するときも、それがなぜかと考え出すと対象をじっと視る集中からから少し距離をおくような気がします。
※それに比べると音楽などの聴くことは感じることが考えることと混交できるみたいです。でも眼をつむっているひともやはりおおいみたいですが。
逆にいえば、視てばかりいると考えることをやめてしまうことがありうる。考えられなくなることがおこるのではと思います。
だから普通は考えることをはじめる儀式としてよく眼をつむるのですね。お坊さんの修行がそうみたいですね。
でもこちらの希望としては考えだしたら電柱にぶつかるくらい考え込めたらうれしい気がします。普通はテレビをつけっぱなしでのながら思考です。なんか消しきって静かなのがちっさいころからのテレビっ子の習性でできないのです。しないし。
前にもすこし書いたのですが、視ることは病気だなと思った経験があります。考えなくても見ていればまー満足ってことはあるのですね。朝からテレビつけて視てれば考えなくてもなんと時間がまぎれて楽しいのですね。そうするとだんだん考えるのがばからしいような気になって、時間を流すようになるわけです。それでも生きていけるわけですけど、一種心が流れ出して廃人になっていきそうな気がしだしたのです。反省したのですが、そのボーが楽でなかなか抜け出せませんでした。
あとほかにも見ることに病気があることもあると思ったことがあります。恋は盲目という病のときは心の焦点距離がおかしくなるのにつれて、視覚の焦点距離もほんとに合わなくなります。ぼやけるんですね。あばたもえくぼに見えるわけです。
あと前に書いた高所恐怖症も1例です。
あと個人的には高く飛んでくる野球のボールを走りながら追うと自分の位置とボールの位置との距離感が合わないというより、それが合わせられないと思ってしまって不安になってくる。「じっとなにかを視る」ことに不安を感じるようなのです。
これは心の病が、視覚に現れた病です。
わたしに似たような経験で悩んでいる人もいるかもしれませんね。これは実は不安を覚えるようなことは視たくないという心の視線の不安といっしょのことのような気がします。これはなにか無意識のどこかに過去の不安になった経験が隠れている気がします。
でもこのように考えてきて今は、歳のせいもあるのか、しっかり不安なことも見つめなくては、もう逃げてはいけないような気もしています。
それから視ることの病気には「知識好き」というのもある気がします。「歴史」も視るし、「もの」も見る。「知識」も視る。「情報も」視る。ようするに「知っている物知り自慢病」です。こういう方にあうと「よくご存知で」といいながら疲れてくるのです。知識を視て仕入れるのが大好きなのです。わたしはそこから「知恵」をつかんできてほしい、聞きたいと思うのですが、そのような方はみんなが知らないことを知っているのがうれしくてしょうがないらしいのです。疲れます。
これは「視るべきことは視る」の反対で「なんでも多く視ればいい」という眼の傲慢さに類します。こういう方はきっと目をときにやはりつむったほうがいいのです。見ないほうがいい。眼は気をつけたほうがいい。わたしも気をつけます。
視ると見るがうまく使えませんでした。視るはじっと見る感じがしますね。
どうも考えることと視ることには背反する傾向がすこしある気がするのです。あるものを視て感動するときも、それがなぜかと考え出すと対象をじっと視る集中からから少し距離をおくような気がします。
※それに比べると音楽などの聴くことは感じることが考えることと混交できるみたいです。でも眼をつむっているひともやはりおおいみたいですが。
逆にいえば、視てばかりいると考えることをやめてしまうことがありうる。考えられなくなることがおこるのではと思います。
だから普通は考えることをはじめる儀式としてよく眼をつむるのですね。お坊さんの修行がそうみたいですね。
でもこちらの希望としては考えだしたら電柱にぶつかるくらい考え込めたらうれしい気がします。普通はテレビをつけっぱなしでのながら思考です。なんか消しきって静かなのがちっさいころからのテレビっ子の習性でできないのです。しないし。
前にもすこし書いたのですが、視ることは病気だなと思った経験があります。考えなくても見ていればまー満足ってことはあるのですね。朝からテレビつけて視てれば考えなくてもなんと時間がまぎれて楽しいのですね。そうするとだんだん考えるのがばからしいような気になって、時間を流すようになるわけです。それでも生きていけるわけですけど、一種心が流れ出して廃人になっていきそうな気がしだしたのです。反省したのですが、そのボーが楽でなかなか抜け出せませんでした。
あとほかにも見ることに病気があることもあると思ったことがあります。恋は盲目という病のときは心の焦点距離がおかしくなるのにつれて、視覚の焦点距離もほんとに合わなくなります。ぼやけるんですね。あばたもえくぼに見えるわけです。
あと前に書いた高所恐怖症も1例です。
あと個人的には高く飛んでくる野球のボールを走りながら追うと自分の位置とボールの位置との距離感が合わないというより、それが合わせられないと思ってしまって不安になってくる。「じっとなにかを視る」ことに不安を感じるようなのです。
これは心の病が、視覚に現れた病です。
わたしに似たような経験で悩んでいる人もいるかもしれませんね。これは実は不安を覚えるようなことは視たくないという心の視線の不安といっしょのことのような気がします。これはなにか無意識のどこかに過去の不安になった経験が隠れている気がします。
でもこのように考えてきて今は、歳のせいもあるのか、しっかり不安なことも見つめなくては、もう逃げてはいけないような気もしています。
それから視ることの病気には「知識好き」というのもある気がします。「歴史」も視るし、「もの」も見る。「知識」も視る。「情報も」視る。ようするに「知っている物知り自慢病」です。こういう方にあうと「よくご存知で」といいながら疲れてくるのです。知識を視て仕入れるのが大好きなのです。わたしはそこから「知恵」をつかんできてほしい、聞きたいと思うのですが、そのような方はみんなが知らないことを知っているのがうれしくてしょうがないらしいのです。疲れます。
これは「視るべきことは視る」の反対で「なんでも多く視ればいい」という眼の傲慢さに類します。こういう方はきっと目をときにやはりつむったほうがいいのです。見ないほうがいい。眼は気をつけたほうがいい。わたしも気をつけます。
視ると見るがうまく使えませんでした。視るはじっと見る感じがしますね。
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