あまり普段わざわざ考えるまでもなく「あると信じて」いることは誰でもたくさんあると思います。生まれる前から歴史はあっていろいろ制度はその時代までの過程が既にありますからね。誕生してもすぐには赤ちゃんは歩けないので「身近」に育ててくれる人がいなければ生きていけません。動物では人間が一番一人では食べていけるようになる時間が長いのは人縁です。その「身近」な場所はいろんな事情ですべて同じではないですが一般的には「父と母」がいる「家族」、「家庭」というものが最初になります。そこが人間の生まれて最初の場所ですね、赤ちゃんは食べて大きくなると今度は「保育園」」幼稚園」「小学校」などに行くようになります。すこし「家庭」から子供は離れる時間が多くなります。
菅首相の「ことば」を使えば「家族・家庭」は「自助」?、学校は「公助」?ですかね。
ただ「自助」も「家族・家庭」が崩壊していれば、はじめから「自助」は成り立ちませんね。
赤ちゃんに「自助」はできないし、「生活保護」という「公助」?も赤ちゃんでははじめから制度の対象外ですよね。
「あると信じて」いるものはですから、ある程度形態が身近にイメージできることが前提です。ただ育児放棄された赤ちゃんは「家庭」がイメージできないことはあり得ます。ここでは「家庭」を標準として一般的に想定しています。
ここでタイトルに関してはどうでしょうか。
「実家」は子供たちが育って離れた「家庭」との関係性をこめての呼び方で「ある」をイメージ可能と思います。または「本家」は子供またその親を含めて時間的繋がり、関係性を拡大して考えていく先に想定できる家族、親族の広がりのなかで、ある意味中心かなと思われている「ある」を想定できると思います。
それでは「国家」とは何かイメージとして身近な「ある」を想定できるでしょうか。異なった人々の構成する「家族」「実家」「本家」を足し算した集合体として考えて場合、どうも数としては例えば「民族」などと言えるかもしれませんが「身近さ」がないですね、隣の知らない家族と「込み」で一緒にされたくない人も多い気がします。つまり「家族」「実家」「本家」の系列は別の同じ系列とはかえって関係を「閉じて」収束し「身近さ」を維持していて、違う系列は「他人」という関係になると「お互い」考えることになると思います。そうすると「国家」とはお互い他人同士の関係のなかに出てきて「身近さ」の無い不思議なところに出てきた
イメージで、特に望んだものでもないものの「全体性」だけが身近でないところにイメージされるものように思われます。
この身近でない全体性を、少し身近に感じるために他人同士を繋がりあることばで了解する必要があります。それが例えば「民族性」とか共通の土地に住まう土地の「領地」とかの包括する概念ですね。しかし「民族性」「領地」とかは「身近な生活現実」のところから出てきたイメージではないですね。家族系列は社会の中では閉じることによって関係を深めるため、国家にまでそのまま拡大はしません。この「身近」ではないイメージとしての「全体性」「共同性」「民族共通性」「領地共有」ような全体のイメージは一見そう見えないですが実は宗教の意識の自分を超える大きな普遍的存在に対する尊敬の意識に似ているのですね。
「国家」はですから、具体的な現実の生活では身近な存在ではありませんが意識して思い描くと「全体性」「共同性」「民族共通性」「領地共有」のような普遍的な全体性をつかさどる
ようにイメージされる存在です。だから国家は実家や本家のように人間の顔は浮かびませんが、普遍性の神のような存在として国民を見つめているような「幻想のイメージだけの存在」であり「母屋」のような身近なものはなく官僚機構も法律も「幻想のイメージの神の住んでいる館」を実在と思わせるための構築物です。ジョン・レノンの「イマジン」はこの辺よく捉えていると思います。次回は世界の「国家」のきな臭さの危険な増大について書きます。
菅首相の「ことば」を使えば「家族・家庭」は「自助」?、学校は「公助」?ですかね。
ただ「自助」も「家族・家庭」が崩壊していれば、はじめから「自助」は成り立ちませんね。
赤ちゃんに「自助」はできないし、「生活保護」という「公助」?も赤ちゃんでははじめから制度の対象外ですよね。
「あると信じて」いるものはですから、ある程度形態が身近にイメージできることが前提です。ただ育児放棄された赤ちゃんは「家庭」がイメージできないことはあり得ます。ここでは「家庭」を標準として一般的に想定しています。
ここでタイトルに関してはどうでしょうか。
「実家」は子供たちが育って離れた「家庭」との関係性をこめての呼び方で「ある」をイメージ可能と思います。または「本家」は子供またその親を含めて時間的繋がり、関係性を拡大して考えていく先に想定できる家族、親族の広がりのなかで、ある意味中心かなと思われている「ある」を想定できると思います。
それでは「国家」とは何かイメージとして身近な「ある」を想定できるでしょうか。異なった人々の構成する「家族」「実家」「本家」を足し算した集合体として考えて場合、どうも数としては例えば「民族」などと言えるかもしれませんが「身近さ」がないですね、隣の知らない家族と「込み」で一緒にされたくない人も多い気がします。つまり「家族」「実家」「本家」の系列は別の同じ系列とはかえって関係を「閉じて」収束し「身近さ」を維持していて、違う系列は「他人」という関係になると「お互い」考えることになると思います。そうすると「国家」とはお互い他人同士の関係のなかに出てきて「身近さ」の無い不思議なところに出てきた
イメージで、特に望んだものでもないものの「全体性」だけが身近でないところにイメージされるものように思われます。
この身近でない全体性を、少し身近に感じるために他人同士を繋がりあることばで了解する必要があります。それが例えば「民族性」とか共通の土地に住まう土地の「領地」とかの包括する概念ですね。しかし「民族性」「領地」とかは「身近な生活現実」のところから出てきたイメージではないですね。家族系列は社会の中では閉じることによって関係を深めるため、国家にまでそのまま拡大はしません。この「身近」ではないイメージとしての「全体性」「共同性」「民族共通性」「領地共有」ような全体のイメージは一見そう見えないですが実は宗教の意識の自分を超える大きな普遍的存在に対する尊敬の意識に似ているのですね。
「国家」はですから、具体的な現実の生活では身近な存在ではありませんが意識して思い描くと「全体性」「共同性」「民族共通性」「領地共有」のような普遍的な全体性をつかさどる
ようにイメージされる存在です。だから国家は実家や本家のように人間の顔は浮かびませんが、普遍性の神のような存在として国民を見つめているような「幻想のイメージだけの存在」であり「母屋」のような身近なものはなく官僚機構も法律も「幻想のイメージの神の住んでいる館」を実在と思わせるための構築物です。ジョン・レノンの「イマジン」はこの辺よく捉えていると思います。次回は世界の「国家」のきな臭さの危険な増大について書きます。