気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

世界は紆余曲折があっても常に進歩していくという幻想・思い込み

2009-01-18 19:59:02 | Weblog
科学の進歩による文明的な観点から見れば、現在は常に歴史の最先端であるようにできていると思います。ただ、百年後の人間もその時代が最先端であり、今のわれわれの時代は百年前の時代になってしまうことはたしかです。2度目の大不況の時代としてしかのこらないかもしれません。

現代に生きるわれわれは、科学の進歩のなかで心の関心も、知識もすべてにおいて最先端の時代に生きていると思い込む楽観性を背負い込んでいるように見えます。
そしてなんとなくそのことで自信を持っているようです。

しかし、どうもそう思い込んで喜んでいる自分と望ましい自分とのあいだにギャップがあるような気がするのです。「豊かな科学の時代に生きる人間は自動的に心も豊かである可能性を持っている」というふうにはどうも人間の心はできていないような気がします。

携帯もインターネットもIpodも便利でいろんな関心の多様化を楽しませてくれます。でも、どうもわたしたちはいつかその便利さも普通になっていく気がします。

そうすると便利さの彼方にどうも「ほんとに求めてるものはなんなんだろう」という、そんなおぼろげな疑問が芽生えてくるような気がするのです。

そしてそのことに敏感なひとがそれぞれに発言するようになってきている気がします。

中沢新一という批評家・哲学者・宗教学者はアニメ、映画について不思議な発言をしています。

アニメは生身の人間や動物ではありません。命を吹き込まれた不思議な存在です。こういってます。
「死んだように眠っている物質から、むくむくと生命をもったものが立ち上がる瞬間を、アニメはイメージのなかに実現してみせようとしてきた。・・物質に生命を吹き込むこの芸術は、この世界が生命と力にあふれたものだけでできているのではないことを、私たちに教える力を持っている。この世界はまた、弱いもの、小さなもの、死の近くに生きているもの、すでに死んでしまったものたちの記憶などとの、豊かな共存でなりたっている。宮崎駿の作品について「常に、死の世界の近くにあるものばかりを描いてきた。ナウシカの腐海も、トロロの森も、千と千尋のお風呂屋も、じつはそれと気づかれないようにエレガントに描かれた、死の世界のことではなかっただろうか。・・知らぬ間に、現実を支配する力強い生命だけの世界を抜け出して、弱者や死者とともに生きるやさしさを学んできたのだ」
そして子供たちはその世界にかえって素直に反応できるものだといっています。(読売新聞08/9/3朝刊)

そして最新の本ではすぐれた映画のなかにある不思議な夢のような宗教性について述べています。

また、テレビ出演でお勧めした吉本隆明氏はそのなかで今の時代がことばが豊かになり、細分化した物言いができるようになったとしても、それは枝葉が多くなったことであり、それよりも重要なのは幹であり、その根源はつぶやくような沈黙であり、古代の人間は表現できぬもどかしさのなかでもっと起伏のある心の深さを持っていたと考えたほうがいいといっています。

わたしたちはもう便利さと、多様さより想像力の驚くような豊かさに驚きたい、また自らも生み出したいと思い始めてきているのではないでしょうか。