気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

本は時間がないと読みたくなり、暇だと読まなくなる傾向があり、困っている。

2009-07-27 21:22:40 | Weblog
勤めの月~金は読めないと思うと、混んだ通期電車45分は周りの圧力に抗してスペースをつくり文庫本、勤務先近くのEXCELSIORでアメリカンコーヒー一杯で30分強その続きか、別の本を時を惜しむように読む。でも時間の余裕のある土日は暇はあるのに、なぜかそんなにあせらない。ほんとに読みたいなら、土日にしっかり読めばいいのに。

そんな生活の繰り返し。矛盾だと思っても直せない。自分の時間ができたと思ったら、テレビをだらだら見てる。ときどき読みたい本の続きをのんびり読んでいる。
月~金のほうが結局土日より読む量が多い感じ。いやになる。きっとのんびりしたいだけで、まじめな生き方がしんどくてできない怠け者に過ぎないのではと思ってしまう。

きっとほんとは勉強するより「自分の気ままな時間を獲得したい」だけかなと思う。でも、土日も「勉強している自分」の姿を期待して夢見ているのです・・・
そうこうするうちに土日はまたたくまに終わり、来ないでほしい月曜日が来るのです。ああ、また貴重な土日が失われ・・、こんなちぐはぐな人生が続き、あるとき、自然のNONがわたしの命を切断する。終わり。

月曜日は子供の頃の夏休みが終わって、学校が始まるときのいやーな気分にとても似てる。いつまでも遊びたい。遊び足りないのだろうか。子供は遊ばせたほうがいいですよー。おとなになって遊び足らないとこーなるのです。でも遊んだほうだけどな。それでもまだ遊び足りない感じ。

事件を起こしてる大人や子供はきっと思い切り遊べなかったひとが多いんだろうねという気がする。豊かな愛に包まれた無償の遊び、それは絶対に必要な気がする。
無償の遊びを知らないと遊びがぎこちなくなる。遊んじゃいけないなんてあほなこと考える倒錯まで出るかも知れない。

今、まだ時代は「知、知、知」(ちっちっち)。落ちこぼれたらたいへんだ。ほんとは学校は思い切り遊びを主体にして、遊びの自主性から、ほんとの自主性に移ったほうがいい、気がする。望むべくもない、この日本。


脱線しました。ところでふと思ったのですが、あとあなたの生きる時間は、限られましたと宣告されたらわたしは急に勤めの日のようにすがりつくように必死で本を読もうとしたり、するべきことをしなくてはいけないような気になるのでしょうか。なんとか時間を貴重に思うのでしょうか。ふっと思っただけなので、ここまでにします。

キュープラー・ロスは人間が死を宣告され、それを拒否し、また受け入れていく過程は人が生きているとき解決できない難問にぶつかって受け入れて生きようとする過程と同型だといいました。

もしかしたら、わたしの甘い悩みはその前哨戦かもしれません。

でも親鸞はいいこと言ってます。できのいい弟子の唯円が、祈ってもなかなかわたしは悟れませんと親鸞に素直に言ってしまったら、いや、実はわたしもおまえとおんなじだ。この浮世はなかなか魅力があって、離れられないものよと答えたそうです。こんな名僧がいたら、是非講話が聞きたいものです。



「詩」のことが気にかかって、ときどき読みます。

2009-07-25 21:39:05 | Weblog
書けないのに、よく読みます。はじめは読むこと自体しなかったのは先回書きました。絵とか、音楽とか、詩とか、よくわからないなと若い頃思っていて、コンプレックスに近かったです。

たとえば絵です。見てても「わからない絵」ってありますよね。「なに書いてんの」と思ってしまうわけです。でもあるとき「意味」って考えてたら、つまらないと思ったんです。色がきれいだとか、なんかおもしろい感じとか、絵は見るんだから、こちらがふっと感じるの自分に自信もって、見てなんか感じればいいじゃんて居直ったんです。あほかっていわれそうですけどね。すこし自分に自信持てたので居直れたのかもしれません。

そうしたら、絵は前よりもっと心に深く受け入れられるようになってきました。抵抗がなくなったわけです。描いたひとと同じ意向でないにしても、なんか「そーか、いいね」思うようになりました。あー、心の普遍性ってあるなーと今は思ってます。

これは実は音楽にも、詩にも同じだったんです。「なに表現しようとしているの」「どんな意味なの」って考えていたのです。普通知ってる歌とか以外のクラシックとか、ジャズとになるととたんにそう考えてしまっていたのでした。絵や音はきっとことばよりももっと直接的な媒体なのでしょうね。耳や眼の神経はいちばん脳に近いところにあるせいかなと思いこんでます。

でも、ときどき、なに言ってんのと言われそうなことを実はまだ考えてます。色や音をなぜ人間は心地よいと思ったりするようにできているのか。すてきな色や音が
なかったら、どんなにこの世はつまらないだろう、あってよかったと思います。個人的にお酒がこの世界にあってよかったと思うように。

詩は絵とか音楽と同じように「意味、意味」て考えないように読むようにしていきました。そしてすこしずつわかるようになってきました。

今は、すべて芸術なるものは、絵に、音楽に、ことばにうまく表現できないもの、出したいのにできないものを必死に表現したいという心の深い欲求から出てくるのだなと思っています。それはどこかでうまく表現できないわたしにもどこかで共通するものだと思うようになりました。その成果を見てきっとわたしたちは感動しているのだと思います。

わたしの好きな吉本翁が、現代の有名な詩人が集まった講演で、詩のはじめは自己慰安からであり、好きな詩をまねしていったといっていました。きっとそれは絵にも、音楽にも同じ出発であると思います。自己慰安というのは、自分でそれをひとりでしているとほっとする、楽しいも含まれていると思います。

きっと何もできないわたしは、成果を手元においてそのすてきに浸りながら、どこかでわかる気がして自己慰安されている気がします。

浪人するまで本を読んだ覚えがないほど読まなかった。 

2009-07-20 11:35:13 | Weblog
高校の頃、本一冊も読んだことがないのを気にしたのだと思いますが、ジャンクリストフという有名らしい本を借りてきました。でも読みたいと思って借りてきたわけではないので、最初の数ページを読むとあきてしまいます。そして次に読み始めるとまったく読んだところを忘れている始末なのです。何回か繰り返してあきらめました。ついでに言うなら、読むのも関心がありませんでしたが、作文とかの書くこともまったく苦手でした。書きたいことがまったくなかったのでした。

次に本を読み始めたのは浪人してからでした。現役の大学受験まじかになってきて、自信を失ってきたのでした。それは乱高下する心の状態で、テストがいいと大丈夫だと思ったり、わるいとやっぱりだめだと思ったり、繰り返すのです。そのまま受験に突入して、見事希望校を落ちたのでした。泊まっていた宿に帰ってきて、落胆したのか、はじめて貧血のように立ちくらみを感じました。

親に無理いって東京の予備校に行きました。下宿は普通の民家の2階の4畳半の部屋を借りました。高円寺の環状7号線の真横でした。

そこで不思議なのですが、高校の国語の教科書に載っていた文章を読む気になったのです。小林秀雄という人の文章でした。受験に落ちて、受験はまた1年後ということで取り残されたような気になっていたのですが、逆にふっと勉強のためではない時間のなかにしばらくのあいだ入り込めて、文章を文章として読める心の状態になったのかもしれません。情けない話ですが。

もうひとつの読み始めた原因は自信をなくしたことだと思います。その心の状態はわたしには予想できなかったもので、自分ながらどこかこれはおかしいと診断しました。きっとのんきに生きてきたつけが回ってきたのです。

それからの読書は基本的に今でもそうですが、「心の奥深さを教えてくれるもの、なにを求めていけばいいのか、心の迷いも含めて教えてくれるもの」そんなものをもとめているような気がします。だから、この人の本はたくさん悩んで乗り越えてきた人の本だな、ほんものだなと思えるときは読んでて信頼できるなと思ったりします。それはジャンルに関係なくです。マルクスの本なんか経済学ですが、書くマルクスという人の人間力が文章の裏や骨格に渦まいている気がします。

わたしはきっと本を読むとき、その本の内容を読むと同時に、それを書く人の無言の心の骨格を読み取ろうとしている気がします。あるいはその両方を同時に考えていくことが読むことだと思っている気がします。

だから楽しい、すてきな本だとしても、こんなに書けるようになるには作者のそれまでの心の過程や蓄積があり、それをも読み取ろうとしているみたいです。

ただ楽しく読めばという考えもありますが、わたしの読書の始まりからして、なにかを求めて本に向かっている気がするのは仕方ない気がします。

村上春樹が7年ぶりに「1Q84」を書き、1ヶ月ほど前に読み終えました。好き嫌いはあるかもしれませんが、当初から現代を書こうとして悪戦しているところがある作家だと思ってきました。彼の感受する現代の問題はなにか、今のわたしの関心と結びつけて考えていますが、まだうまくクロスしていません。でも、もっとたくさんの作家が現代とはこういう時代で、希望と絶望とはなんなのかを追求して提示してほしい気がします。

ベストセラーにはそれなりにどこかいいところがあるということらしいです。おきらいな方も一度読んで見てください。かなり真面目に書かれた長編で終わりまでぐいぐい読ませる力は持っている気がします。でも上下で合計3600円はなー。







油断するとゴミはウイルスのように忍び寄る。

2009-07-10 22:09:12 | Weblog
片付けられない人々は見るところ独り住まいが多いような気がします。その点わたしも十分資格があると思います。ペアともどもというのはあまりいない気がします。二人いるとどちらかが気がついてチェックがはいるような気がします。

片付けるというのは身についているかどうかで違う気がします。いちばんかわいそうなのは「片付け方がわからない」というのです。これはしつけのせいですかね。美的感覚とかの前の段階です。これなどは昔の自分も含め同情します。

テレビなどで「困った人々」として取り上げられますが、気持ち的にはだれかペアがいればなーと思ってあげてしまいます。

独りになると片付けに厳格な規律のないわたしなどはふっと気を抜いて「ちゃんとこんどするから今日は、」などとふところの深いところを自分に許し、日を繰り延べます。でも二日も気を抜くと読むはずだった新聞の朝夕刊が分厚い宣伝をはさみこみ、帰りに買うビニール買い物袋、とうもろこしの皮、枝豆の食べがら、焼酎のビン、発泡酒の350ミリ缶、ついでに台所の皿やコップ、箸などがところ狭しとわたしを鞭打ちます。反省が苦手なわたしですが、犯罪の証拠を目の前に突きつけられ、「このままでは生きていけない」と苦悩し、「近々片付けを実行にうつす」と覚悟を決めます。これができなければ人生の落伍者と同じだと自虐的な気持ちになるのです。

これからも意識的努力をして、きれい好きになり、禍根を残さず死にたい、・・・、嘘です。

いまのところ急に湯を吹き上げる間欠泉のように、ギリギリの1週間ベースでふっと幸せになれています。でも、これをもう少し・・先に延ばしたら・・・、きっとあのテレビの人のように・・・。どこかで持続せねば・・・。かっこいいことばなど人に吐けない。かっこよくしゃべっていて、台所を思い出したら、なにもいえなくなる、かもしれない。

きれいに片付き、高級そうな安いワインを静かに飲みながら、わからないジャズを
知っているように聴く。世界の不幸を憂い、そう思う自分に祝杯をあげる。

やっぱりゴミのほうが現実的で、身につかない。これからもゴミに追われる自分との戦いを繰り返す。

しかし、秘かにこの頃思ってます。ここにわたしは存在するという「心の実感」はないけれど、「食べ続け、生き延びているこの身体は存在」するというのをゴミは周りを囲んでくれることで、わたしにいつも自己確認させてくれる。こちらのほうが確かなのではないか、あやふやな心などとくらぶれば。

ちょっとわれながらさびしい自己覚醒ですが、このあたりからしか自分の影が確かめられない気がちょっとしているのです。時間は止められない。でも身体の存在した影はもしかしたら、残る。

絵とか音楽は残る。文章は心もとない。バナナの皮でも残そうか。誰かがかつて存在して食べた証拠ののように。

ここ3ヶ月で三度も自転車の警察尋問に呼び止められた。

2009-07-05 21:43:05 | Weblog
最初の2回は三日おかずでした。会社の帰りに飲んだあと駅から帰る途中、「すいません、自転車の登録確認させていただけますか」ということでした。知らなかったのですが、購入したとき警察に提出する所有者の住所、名前がわかるコードが張られているのですね。別にわるいことしてませんから、名前言ったら所轄に連絡して同じだったので、どうもありがとうございましたですぐ終わりました。

2回目はすぐあとですから、夜道は同じでも頭にきて、ちょっと前にされたばかりだよ。ここらばっかりで検問みたいにやってんのと食って掛かったのですが、先方そんなことで動じるわけがありません。同じことをされて、釈放されました。


そしておとといです。にぎやかなところですが、また帰りに呼び止められました。
ところが前と違った質問から来たのです。まるで世間話のように。「鍵がついていませんがどうされたんですか」でした。こちら素直ですから、鍵なくしたんで、取り外したんだけど、また買ったまま取り付け面倒くさいし、もう古いからそろそろ持ってってくれないかなと思ってそのままにしてると本音言いました。前と後ろにかごついてて、もう古いので、ほんとに半分盗難希望してるのに、全然持っていってくれないのです。

でも同じようにまた照会されて同じ確認でした。このごろ警察もこういう検問も多いんだと思ったのですが、その瞬間はっとすべて理解したのでした。

警察は自転車の呼びとめなどめったにしないのです。鍵がついてないのが怪しかったのです。これは盗難車の匂いがするということなのです。2度までの聴取は職務どおりなのですが、3度目はついていない理由など聞いて、より実はいやみなわけです。ほんとうは「こいつぬすんだとちがうか」と本音は思っているのです。

ここで言っておきますが、聴取のこつは単に普通の職務上に過ぎませんというのがこつです。決して「あなたの自転車は鍵がついておらず、それは盗難の多いご時世では普通ありえないことで、限りなく盗難された自転車のにおいがします。盗んだのはあなたかもしれません。だからお呼び止めしたのです」などと本音は決して言わないことです。

ただ、皆さんは職務上以外はこんな疑いきった方法は採用しないよう希望します。
このやり方は自分の側の心は隠して相手の心だけ盗み見る権力的な誘惑的方法であり、サド的快感がわいてくる可能性があるからです。

この心性を政治権力が万が一持った場合、多くの無実の人間が死に追いやられることは確実な気がします。そして歴史上も。また現在もある気がします。