プラネタリウムのパイオニア★東日天文館

東日本初のプラネタリウムが設置された有楽町の東日天文館(毎日天文館)、閉館60年にS13年から6年半の活動を追う

昭和20年5月25日 + 60年

2005年05月25日 | Weblog
■補遺
今日になって<電気科学館二十年史(S32.3.10)>が入手出来た。奇遇です。
改めて読むと、電気科学館設立余話として東日天文館に関しても
以下の記述があったので補っておきたい。以下「 」内は引用文。

�「昭和11年6月9日、大阪新聞社長 前田久吉、<時事新報社>復興に当り
 大阪プラネタリウム(計画案)をみて大阪市当局と会談」

 暗号のようなこの一文、 東京日日新聞社の名前が出てこないので、補足する。
  この時期、福沢諭吉創刊の<時事新報社>は、傾いた営業の再建をかけて
  <大阪新聞 前田久吉>に時事新報の専務を委任する、結局再建はならず
  昭和11年末、前田を専務に推した<東日の高石会長>が時事新報を吸収。
  かくて時事新報の事業を引き継いだ、東日に天文館が出来る。
  上記、引用文日付はこれまで見た天文館の、どの活動記録よりも古い。
  設立経緯に関しては、以前こちらにも周辺状況を記した。

  蛇足だが、前田久吉は貧農の家に生まれ、一新聞小売店から身を起こし
 戦前は大阪新聞、戦後は産経新聞を創業。戦前の責任をとり、時事新報の
 経営に参加。現在、時事新報社はフジサンケイグループに帰属する。
 前田久吉は産経新聞社員だった司馬遼太郎らの庇護も行っている。
 巨大メディアや東京タワーを始業するドリームメーカー前田久吉が、
 東日天文館創始にも関わる事実を伝えてくれる一文で実に興味深い。

� 電気科学館ツァイス�購入について、ドイツ領事・ツァイス社などの
  様々な折衝記録の後ろに、東日について以下記述がある。
 「全く大阪計画の例を以て急速に購入手続・工事に進んだ」

  ツァイス社は一切、世界共通価格変更に応じなかったとあるので
  ツァイス�価格は電気科学館と同じ32万3千マルクだと思う。
  (当時の邦貨46万8千円、輸送費や技師派遣費が3万円、合計約50万円)

�「会館工事に関しては大阪市技師 新名種夫(電気科学館設計)が関与」

 手塚治虫の、鉄腕アトムを誕生させるお茶の水博士研究所の外観モデル
 <電気科学館>だが当時世界的に稀な天象儀室階上設置(8階建の6階に
  天象儀室があるのも同じ)通りに面した1階に関連商品展示の売店設置
 創造的外観などなど、東日会館に踏襲する箇所が実現していくのは、
 この関与が影響しただろう。

�「東日天文館開館にあたっては解説指導に原口氏雄が出張援助した」

� 他頁には「昭和12年4月6日 陸軍大将 鈴木孝雄 来館」とある。

  昭和12年4月は電気科学館開館翌月で、東日天文館開館の1年半前、
  鈴木孝雄は<東日天文館建設会長>でもある。
  この年は、近衛文麿・陸軍大臣・陸、海軍大学長・東京科学博物館々長など
  東日天文館にも関連すると思われる人たちが入館している。

■東日天文館の活動について50回にわけ、駄文を連ねました。
誤述など気をつけたつもりですが、あるかも知れません。
ご意見、コメント欄にいただけたら有り難いです。
リーフ欠号や売店案内記載のもので、いまだ見つからないものもあります。
正式なサイトへの組直し考えましたが、以上のような状況ですし
プログが検索サイトの認知もあり、書き足りない気持ちはありますが、
しばらくこのままにしておくことにしました。

60年前の、特に東日天文館開館時のリーフなど読みますと希望に満ち
当時の人は、天文館が無くなり、断片的な資料しか遺らないとか、
忘れ去られるなど、想像もしてないように思えます。
いつになるか予想出来ませんが、これらが補足可能の状況になれば、
少しずつでも、紹介していければと思っています。

御指導頂きました皆様、たくさんのアクセス頂いた皆様
ありがとうございました。

■■■ 了 ■■■

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AFTER 1945

2005年05月24日 | Weblog
焼夷弾というのは粘状オイルを詰め込み、火災拡散をもくろむ
木造家屋の多かった日本の都市に向けた爆弾だ。
鉄筋コンクリート構造体(RC)の貫通には向かない。
この画像を見ても付近のRC建造物は戦前のまま、焼けてない。
ただ東京駅・旧々国技館などの柔いドーム部分を貫通する部分被害は生じた。
毎日会館の場合、ドーム直下に天象儀室・ツァイスⅡがあったのは哀しい。
60年前のあした、毎日天文館は物理的になくなる。
現在、プラネタリウム施設を日本語で表現するよう問えば、チルドレンでも
<天文館>と答えてくれる。<天象儀>の意味を知らない人でも<天文館>はわかる。
戦後、天文館と冠したプラネタリウム施設は、ごく少ないのに
この認識があるのは、プラネタリウムのパイオニア・東日天文館(毎日天文館)が
伝搬、遺伝したひとつだと、自分は信じている。

画像は昭和22年7月4日の毎日会館と行進するGHG、右下は有楽町駅。
天文館のあった6階窓には「毎日ホール」と看板が上がる。
このホールは、昭和26年よりラジオ東京(現TBS)のスタジオになる。
集めた写真の中でも、ドームが大きく写り、周辺状況もわかるので、この画像を
選んだ。ほかにこの日の画像を選んだ理由はない。

昭和19年・月報

2005年05月23日 | Weblog
毎日天文館「月報3」2604年(皇紀)10月號
「基礎航用天文(3)」(阿部三雄)
「十月の空」(井田桂一)
この月から半年ほどで、原爆以上の被害者数を出す規模の
東京大空襲が始まる。天文館配付物、自分が持つラストです。

紙質がぐっと落ち、写真・カラーの印刷がない。
投影プログラムの記述なく、科学力の戦争への有用性をとうている。
この時期については、電気科学館の場合<50年のあゆみ>に以下の
記述がある。
*「準徴用とみられるほど、軍の利用が増えた。技術職員2名が
  軍属となり、軍人の科学教育を担当した」
  入館数は昭和12年から15年までが20万人前後なのに対し
  軍の需要からか、16年から18年までは30万人強に増え、
  19年には、約17万人になる。

電気科学館は公立で科学教育は天文と電気の半々だったようだが、
毎日天文館も開戦以降は兵用プログラム、この月報でも航用天文を
取り上げている、需要層や運営の傾向は近かったのではないだろうか。
19年は、軍の学徒動員・勤労動員が激化し、子供も疎開を始める。
電気科学館の19年入館数半減は、その層や軍人以外の減少だろう。
毎日天文館もこの需要を乞う時世でないとみたからか、開戦時からの
軍人と学生の半額割引は、この月報の時点では軍人のみにしている。

月報の投影時間表記はこれまでと同じだが、月毎にプログラムをたて
リーフレット発行できる形態だったのかどうか、わからない。
ただ、草下英明氏は<星日記>で昭和19年に2度、天文館に行ったと
記述しておられる、それなりの一般向け営業はあったようだ。

天文館研究室員

2005年05月22日 | Weblog
昭和18年初め、読売に原口氏雄の南方従軍記「星夜征記(全15)」が
新聞連載され、10月に「星と兵隊」と題し出版される。
画像左は、天文館発行ではないが「天文常識-星の話」 原口氏雄著
昭和14年12月発行 136ページ B6サイズ 50銭
画像右は、原口氏雄氏と電気科学館のツアイスⅡ。

<天文館研究室員>もしくは関わられた方の氏名、まとめてみた。
①野尻 抱影・鈴木 敬信(東京科学博物館)・原口 氏雄(電気科学館)
②日暮 楠夫・秋元 徽瑯・赤沼 聡明
 ・一石 治雄・阿部 三雄・井田 桂一(リーフレット記名より登場順)
③浅野 馨介(天文館発行の冊子奥付より)
  全冊子に記載される編集代表、他の東日発行誌には出てこない

②③に関して、実名のわかる鈴木・原口両氏がリーフレット執筆者に
出てこないのは不自然だし、日暮氏以外の全員、苗字が「あ」・「い」で
始まるのは、揃いすぎている。
最初にリーフレット記名した日暮楠夫は、プラネタリウム投影冒頭の
日暮れがくすむ情景をもじったのではないだろうか。
他に所属機関を持った研究者が、便宜的に天文館用のペンネームを
用いた気がするが、憶測の域を出ない。
同名で執筆した書誌・投稿等みつけられないため今のところ、そう思う。

前回出た度々表記が変わる天文館の電話番号も、わかる分まとめた。
昭和14・15年(3回線) 23-1624・1939・5810
昭和16年(4回線) 23-1624・1939・5810・5619
昭和17・18年(5回線) 23-7261~5
昭和19年(3回線) 23-7261~3
天文館研究室員含めた職員数、デスク数に、同数ではないにしても
あるていど平行すると思う。変更は人員増減が理由ではないだろうか。
各年リーフの記名数からすると電話線数-1ぐらいが、研究室員数では
ないかと思うが、決定打にはなりえず、これも憶測の域を出ない。

昭和18年・毎日天文館

2005年05月21日 | Weblog
昭和18年1月1日東京日日新聞社は毎日新聞社に社名変更する。

画像左、昭和18年9月リーフレット
「月を科学する」(阿部三雄)
これも年号の記載がない。18年か19年だが、「改メ毎日天文館」と
表記していることで、1月1日の社名変更から、そう日が経たぬだろう点、
天文館はよく電話番号が変わっているが、電話番号と入場料金表示が
後に出る19年10月のものと、違う点からも18年と推測した。

リーフレットには大人金額50銭の表記がなく、軍人・青年学校生徒が
25銭、小人が10銭の表記だけになっている。
表紙はこれまで月ごとにオリジナルデザインだったが、17年<天象儀>の
デザインが表紙に使われる。
18年以降、これまでの形態の<天象儀>は発行されたんだろうか。
以前は、年間プログラムを<天象儀>で予告していたが、本リーフレットで
次10月のプログラム「宇宙と星雲」を予告する。
瀬名秀明氏の「虹の天象儀」は、この18年10月にタイムスリップする。
コロコロ藤子世代なので楽しく拝見した。
<八月の博物館>文庫も発売日に購入し、楽しく読んだ。

画像右、「毎日天文館 広告葉書」
東京市内女子校見学係宛。消印日付等無い。これも毎日天文館なので
18年か19年だが入場料・電話番号が上のリーフレットとあう為
18年と推測した。18年11月には文系の学徒出陣が始まる。
19年になると勤労動員でほとんど学校に通えなくなり、小人は疎開が
始まる。この時期では、広告葉書もあまり効力は発しない。

タイトルは<彗星>とあるが「~月のプログラム」の表記が無い。
社会見学用のプログラムだろうか。<彗星>は毎年恒例のプログラムだが
この年18年2月には<フェデッケ-ホイップル彗星>が観測されており、
世間でも彗星が話題になった可能性がある。

昭和17年②・カールツァイス社広告

2005年05月20日 | Weblog
画像上段、昭和17年4月リーフレット
「北緯五十度より南緯三十五度まで」(井田桂一)
プラネタリウムプログラム<樺太から満州まで>兵用の解説。
開館から3年間、入館料は大人50銭、小人25銭と一定だったが
昭和17年になって団体割引しかなかった軍人・青年学校生徒は
一律25銭、小人は10銭になっている。

画像下段左から、「天文讀本」重版表紙
昭和17年6月20日発行重版、A5サイズ、114ページ、30銭、発行1万部。
最新版とあるが内容は昭和14年と同じ。あえて違う箇所をあげる。
①広告(東芝・クラブ歯磨・ツァイス望遠鏡)なくなる
②最終頁の編纂のことば、なくなる
③本の高さが1センチ縮まる

下段中、<天文讀本>重版裏表紙「売店案内」
昭和16年と比べると<天界通信>が無くなり、14年と同じになっている。

下段右、<天文讀本>初版裏表紙「ツァイス天體用望遠鏡」広告
同じ広告は前回の<星と宇宙・改訂版>背表紙にも載る。
会社ロゴマークはZEISSⅡなどにあるマークをもじっている。
<カール・ツァイス東京>は、丸の内郵船ビルとあるので東日会館跡から近く
歩いていけるところだ。どちらも現在は、その場所に無い。

東京日日新聞社は天文館開館前後に、<大ドイツ展覧会>の協力
<ヒットラーユーゲント(ナチスの青年団)>の来日歓迎会主催などの
ドイツ贔屓で、天文館開館式にはドイツ大使館からオット大使の代理人も
出席し祝辞を述べている。
科学啓蒙というなら莫大な金額をドイツのツァイスのみに、かけるより
巾広く他分野にも予算を使う方が自然だ。ツァイス導入にはいくつかの
理由があると思うが、ひとつにはドイツ贔屓の時勢や社風もあっただろう。

ツァイス社はこの後、分裂・統合の変遷を経る。カメラレンズはプレミアも多く
現在でもSONYサイバーショットなどデジカメにも使われている。

昭和17年①・星と宇宙

2005年05月19日 | Weblog
昭和17年3月リーフレット
「赤道を越える」(井田桂一)
プラネタリウムプログラム<四季の太陽>、
当時の日本軍東南アジア侵攻にあわせた兵用天文の解説。

画像中・右、「星と宇宙とプラネタリウム解説」表紙とその目次
昭和17年2月20日発行改訂版、A5サイズ、100ページ、30銭
次回<天文讀本>の重版と違い、改訂なので初版と若干内容が違う。

昭和17年プログラム

2005年05月18日 | Weblog
昭和17年プログラム
太平洋戦争も開戦、軍人層に向けたのかプログラムタイトルにも
これまでなかった、それらしい傾向が見えてくる。
年号記載ないが、年号のある月刊リーフレットとタイトルが一致する。
昭和18年1月1日、東京日日新聞の毎日新聞への社名変更と同時に
東日天文館も毎日天文館に名称変更したとすると、これ以外に
東日名義の<天象儀>にはならないことも17年の判断材料にした。
夏の彗星・お月さん・年末のタイムスリップものなどいくつかは
毎年の定番になっている。

昭和17年
1月 日・独・伊に対して米・英・ソを中心に26カ国が連合国共同宣言。
    日本の東南アジアの占領始まる
    小泉純一郎誕生
4月 米機、東京・名古屋・神戸を空襲
6月 日本、ミッドウェー海戦敗北
    アンネの日記始まる
    ポール・マッカートニー誕生
11月 ガダルカナル攻防戦
流行語 <ほしがりません勝つまでは><非国民>   

昭和16年③・通俗天文

2005年05月17日 | Weblog
昭和16年11月 リーフレット
「希望の星」(秋元徽瑯) 金星を解説している。
開館3周年、これまでの年中無休は、第1第3月曜定休に変わる。

画像中央は「通俗天文」
昭和16年9月20日発行、表紙含めて10ページ、非売品となっている。
社会見学用のリーフレットだろうか、<秋の星の観察>というタイトルで
平明な解説が載る。これは五・六年小国民用なので他にもあるだろう。

画像右は同背表紙の売店案内、2年前の昭和14年12月のものと
比べると<天界通信>という天体ニュースが加わり、冊子<星と宇宙>が
無くなっている。
<星と宇宙>は昭和17年に改訂版が出ているので、後に紹介する。

草下英明氏は<星日記>で、この頃の時代背景をご自身の
天文体験と共に詳述しておられ、興味深く拝見した。
□□<星日記>引用始□□
この年(S16)、国内旅行も制限され、学生狩りと称して喫茶店などで
ブラブラしている学生は片っぱしから補導されたし
勤労奉仕で学業もままならない。暗黒の時代である。(中略)
しかし真の暗雲・狂瀾はこれから始まる。
□□<星日記>引用終□□

今回までで戦前の東日天文館紹介終わります

昭和16年②・電気科学館

2005年05月16日 | Weblog
昭和16年6月東日天文館リーフレット
「星の見方・方角を知る法」(一石治雄)

画像右に、同年同月の電気科学館リーフレットを並べてみた。
両館とも6月10日の<時の記念日>にあわせたのか、
暦のもとになる天体の運行が、共通のお題になる。
①六月のプラネタリウム解説「天と暦」
②七月予告と解説
③今月の文化映画 月に4タイトル、天象館での映画予告
④観測帖 6月の暦と惑星の状況
⑤コラム <早起き、早寝>英国のサマータイム紹介
      挿絵は<精密日時計>
⑥表紙にある当月星座図を解説する<みのりの星>
⑦星の友信
同じB5サイズでも、電気科学館は字を小さくして詰め込んでいる。
にぎやかなのは、大阪の気質を示すようで見ていて楽しい。
<クラブ歯磨>の広告も共通する。

昭和16年①・東日70年史

2005年05月15日 | Weblog
昭和16年2月リーフレット
「星の覇王シリウス」(一石治雄)
昭和16年5月リーフレット
「星の世界一周」(阿部三雄)

「東日70年史」(画像右)はこの時期(昭和16.5.15)、非売品で出版。
A5サイズ、400ページ余り。天文館に関しての記述は1パーセントほど。
東日会館外観・内部の写真、仕様、ツァイス画像は、ここからも引用した。
当時の会社組織図も載るが、そこに天文館は無い。
この年からリーフレットは欠号が多いが、この本は立派に見え
遺す意識もはたらいたのか、頻繁にかつ安価で見かける。

昭和16年プログラム

2005年05月14日 | Weblog
昭和16年プログラム
年号記載ないが、年号のある月刊リーフレットとタイトルが一致すること
加えて、この年9月に沖縄をかすめる皆既日食、10月に火星接近があり
プログラムでも当月それらを扱っていることなどから16年と判断した。

*昭和16年
3月 国家総動員法改正布告
6月 ナチスがソ連に宣戦
8月 米・英が大西洋憲章=国連の祖
10月 スパイ・ゾルゲ検挙
12月 日米開戦、戦艦大和が完成する

東日の記述まであるかは、わからないがゾルゲや10代前半の星新一、
三島由紀夫もこの頃の有楽町を何度も歩いたようだ。

昭和15年10月 リーフレット

2005年05月12日 | Weblog
昭和15年10月 リーフレット
「月の出・月の入」(秋元徽瑯)
9月のリーフレットは自分は所有しない。
9月のプログラムは「超速度による惑星の運動」(天象儀より)

5月初めからメジャーな検索サイトのほとんどでこのプログが
<東日天文館><有楽町 天文館>などでかかるようになってるようです
5月25日まであと2週間きりましたが、それまでには
1万アクセスに届きそうです。
望外な数のアクセスに驚いてます、ありがとうございました。

昭和15年8月 リーフレット・万国博覧会中止

2005年05月11日 | Weblog
昭和15年8月 リーフレット
「さそり座の曲線美」(野尻抱影)

愛知万博が話題だが紀元2600年、1940年3月からこの月8月まで、
東京・横浜で予定されていた東洋初の万博は、日中戦争の激化で中止。
東京会場は月島が予定されていた。
ゲートとして建設された勝鬨橋(かちどきばし)が名残で遺る。

月島から勝鬨橋を渡り、晴海通りを直進するとほどなく有楽町駅、
東日天文館跡にたどりつく。
東日天文館建設も、万博を多少は意識しただろう。
東日天文館オープンとほぼ同時期、1938年8月に幻に終わった
同博覧会の入場回数券が発行されている。
当時100万部発行された回数券を現在でも所有している方には
万博協会から愛知万博の招待券2枚が贈られるそうだ。
同様の招待が1970年の大阪万博でも行われ、当時の申出数3千件。
今回も所有している人が見つかれば、時々ニュースになっている。

紀元万博も、初年入場者数60万人の東日も当時の花形に違いないが
内地戦最大の被災地東京のことでもあり、直接資料が極めて少ない。
幻・東日天文館の資料欠号は、もうこの世に無いんじゃないかと
思うこともあるが、同時期のこういう話題が出てくると少し希望もわく。
直接資料に触れる機会の少ない東日天文館には一面的な解釈が
なされたり、若い人には全く知らない人も多い気がする。
パイオニアスピリッツが廃れるのを惜しく思いこのプログを公開し
微力を尽くしているつもりです。