プラネタリウムのパイオニア★東日天文館

東日本初のプラネタリウムが設置された有楽町の東日天文館(毎日天文館)、閉館60年にS13年から6年半の活動を追う

77歳ですね。

2015年11月03日 | Weblog
本日 東日天文館77周年、爽やかな秋空と共に密かにお祝いしてます。
10年前に始めたブログ、資料をまとめて冊子にしたいと思いつつ時間が経ってます^o^

有楽町で逢いましょう

2010年05月25日 | Weblog
昭和33年公開、対面にあった有楽町そごう(現ビッグカメラ)の
オープンが舞台の映画。
冒頭と最後に有楽町駅から見た旧東日会館のカラー映像あり。


画像は「有楽町で逢いましょう」のタイトルバック。
左側が旧東日会館、右側の建物は小林一三の日劇で
あいだに有楽町そごうがあります。
有楽町そごうの開店自体は昭和32年5月25日で
東日天文館被災のちょうど12年後になります。
小林一三が82歳で亡くなった年でもあります。

東日天文館の画像は白黒ばかりで、カラーでは、
写真も見たことなかったのですが
遺された鮮明なカラー動画をみていると
今もうないという気がしません。

CS日本映画専門チャンネルでは「東京映画散策」と銘打ち
昭和20年後半~30年代の、東京が舞台に製作された映画を
放映しており、興味深く見ています。
「有楽町で逢いましょう」もその一篇です。
土地勘をお持ちの方は面白いと思います。
ほかに「銀座二十四帖」という昭和30年の映画にも
白黒ですが、当時の旧東日会館の外観が出てきます。

東日会館跡に建っている新有楽町ビルは、昭和42年の建築なので
まだこの類の映像は遺っていると思います。

68th+東日記念スタンプ

2006年11月03日 | Weblog
11月3日、開館68周年   

昭和13年の開館時から使われる東日会館記念スタンプ3種
画像のスタンプ日付は昭和17年6月28日。
略称だったのか「TONKAN」のロゴが入る。
昭和17年、日中戦争続いてると思うのですが、敵性語とは英語のみで
トンナンシャーペー、ローマ字表記ついては、おおらかだったんでしょうか。

原口氏雄さんの関与からか、スタンプ図柄は
昭和12年の電気科学館の開館記念スタンプと構図の同じものもある。
遺ったもので確認出来るだけでも投影時間、年間プログラム、月刊リーフレットの
発行スタイル、それに広告を出す会社が同じなどなど・・今にも繋がる踏襲点多い。

昭和18年の東日から毎日への社名変更に伴いスタンプも毎日のものに変わる。

星の見方 - 東日版

2006年10月31日 | Weblog
星の見方 - 東日版 15銭
両面印刷のカード4枚
180㎜×135㎜でハガキより一回り大きい厚紙

①星座一覧 画像右列
②銀河系宇宙番附 画像左列
 番付中、東日天文館は勧進元になっている。
③春の星 夏の星
④秋の星 冬の星
 ③④は同じ絵が「星と宇宙」にも「天文讀本」にもある。

戸田 光潤

2006年09月28日 | Weblog
昭和17年春、東日天文館研究室員 戸田 光潤氏(東京天文台)
格子月進図を井本進氏に閲覧、解説する(天文月報1972 vol65 No.11)

 いまのところ天文館職員で実名の確証得れる人は、ほとんどないです。
 戸田光潤氏の名前もない、リーフの記名はやはりペンネームで、
 職員は外部機関からの人が多いのではないかと思います。

 同誌では戸田光潤氏の肩書は「東日館」職員、東日館とは
 東日会館の略称ではなく、東日会館を所有した株式会社の名前。
 (昭和18年まで社長は前田久吉、のちに㈱毎日館に改称)
 以前、東京日日新聞会社組織図に東日天文館が載ってないと
 かきましたが、天文館の運営は、新聞社ではなくて
 「㈱東日館」ではないかという気がします。

画像左 天文月報1972 vol65 No.11の表紙
画像下 格子月進図 奥付
 同誌に載る東日天文館で撮られた昭和17年のもの
画像右 科学知識 天文号(大正13年8月発行)
 戸田光潤執筆の記事が載る。
 東京天文台職員の他の執筆者は井上四郎、小川清彦、水野良平。

「学徒勤労動員」 昭和20年

2006年08月16日 | Weblog
NHK朝ドラ「純情きらり」、本日より昭和20年に入りました。

だから、というわけではありません。昭和20年1月に毎日天文館を
見学なさった方のサイト「学徒勤労動員」紹介させていただきます。
天文館以外の本題も、ご自身の体験で綴られる内容で、興味深いです。

サイト管理者Tさんは、昭和20年当時10代後半で、岩手県から
神奈川県の相模陸軍造兵廠に学徒勤労動員にいらしており
休日の東京見物で、二度の空襲警報の中、上野の博物館と美術館、
そして毎日天文館を見学なさった体験をサイトに記されてます。
サイト拝見させて頂いたうえ、61年前のご体験をうかがうメール
失礼かと思ったんですが、お送りしましたところ、
実に敏速に、具体的な体験談をご返信いただきました。

<以下いただいたメール>
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■61年前の終戦混乱期、昭和20年(1945年)の記憶は定かでは
ありませんが、出来るだけ冷静忠実に思い出してみます。
お役に立たないと存じますが御了承下さい。
■時期
昭和20年1月と昭和19年11月の2度東京に出ましたが、
昭和19年11月は休暇で帰省する時で、昭和20年1月は間違いなく
有楽町の「毎日天文館プラネタリウム」に行きました。
人通りの少ない静かな銀座3丁目から日本橋方向に歩いた記憶があります。
空襲が激しくなる直前です。
銀座通りから神田方面も歩きましたが、人通り少なく建物疎開
学童疎開も完了した時期と思います。
■開演
パンフレットやチケットの記憶は全くありません。
ドーム型屋根のある階までエレベータで上がりました。
入場者は軍隊の人達のようで30~40名位で、随分空いてました。
こんな少ない入場者でも実施されるか、不安でした。
解説者は若い男性。
BGMはサラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」のような気がします。
青少年時代、空襲等々の危険を冒しても、地方から出てきた若者には
「毎日天文館」に行く事が憧れでした。
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皆様ご存じのとおり、毎日天文館 昭和20年に関しての記録はほとんど
遺っておらず、当方のブログも19年10月までしかありません。
貴重なご体験をうかがえ、感激しました。
この時期については戦時中、昭和20年6月まで営業された戦前からの
プラネタリウム大阪市立電気科学館の記録から想像するのみでした。
私のようなものが書くまでもなく、ご記述を他資料と比較しましても
矛盾するものありません。
T様、本当にありがとうございました★

追記1
本日16日NHK BS1放送のBS特集
「カラー映像記録 よみがえる昭和初期の日本」(前編)
正月に放送されたものの再放送。
はじめの方に東日会館旧館屋上、もしくはすぐ近くから
日比谷~銀座方面を望んだ映像が出ます。
天文館ドームシルエットの建物がすこし想定できます。

追記2
天文館には会員制度があったもよう。
豊田一郎(小説家 昭和七年 東京都生まれ)の「夢幻泡影」に
会員になっていたとの記述があります。

天文讀本 3rd

2006年06月17日 | Weblog
<天文讀本>の3つめの版を確認、入手できました。
③昭和18年 1月20日発行 7000部
表紙はこれまでと同じ「東日」天文館編となってますが
本の奥付では「毎日」天文館発行になってます。
(昭和18年元旦、東京日日新聞社は毎日新聞社に社名変更する)
前版との内容に関するちがいは、わずかしかありません。

過去の2つは
①昭和14年12月 9日   部数不明
②昭和17年 6月20日  10000部

この時局に、1万部発行した7ヶ月後に7千部発行するって
そんな冊数、刷られてたことに驚きました。兵用天文の参考書に使われたんでしょうか。
(そのわりには、②と③今はあまりみかけません)
以前、詳細な記録の残る大阪市立電気科学館という戦前からのプラネタリウム入館数が
昭和12年から15年までが20万人/年、前後なのに対し軍需用もあり開戦後
昭和16年から18年までは30万人/年強に増えるという記述引用させてもらいました。
この冊子刷数をみても、やはり傾向は天文館も同じだったんじゃないかと思います。

追記Ⅰ
毎日天文館天象儀室跡のホールは昭和26年12月に開業したラジオ東京(現TBS)の
スタジオとして、戦前とは別の性格で全国的に活躍していたこと知りました。
トラ死して皮を残す。と申しますが、毎日天文館は天象儀を失っても、民放の放送業界
黎明期スタジオとしてスターを演出し世を照らす事実、ユニークな運命だと思います。
追記Ⅱ
NHK朝ドラ「純情きらり」、いま天文館の開業する昭和13~14年が舞台なので
(天文館はでてきませんけれども)よく見てます。