プラネタリウムのパイオニア★東日天文館

東日本初のプラネタリウムが設置された有楽町の東日天文館(毎日天文館)、閉館60年にS13年から6年半の活動を追う

昭和14年11月・12月 リーフレット

2005年04月30日 | Weblog
昭和14年11月 リーフレット
「皇紀元年の空と壱萬年後の空」(秋元徽瑯)
<昭和15年=皇紀2600年=西暦1940年>
開館一周年の挨拶も載る。
S13.11~S14.10までの年間入場者数が、60万人を超えたと発表している。
電気科学館の場合、昭和14年は20万8千人なので3倍ほどになる。
遺る資料が極めて少ない東日天文館だが、やはりすごい入場者数だった。
戦後、東日天文館はなくなってしまうけれども、多くの人を感化、
直接・間接的に影響を与え、日本のプラネタリウムの量・質が、
爆発的に飛躍する礎のひとつになったのも納得出来る。

昭和14年12月 リーフレット
「興味深い惑星の運動」(秋元徽瑯)

今日4月末日で、昭和14年のリーフレット紹介終わります。

昭和14年9月・10月 リーフレット(秋元徽瑯)

2005年04月29日 | Weblog
昭和14年9月 リーフレット
「お月様を語る」(秋元徽瑯<きろう>)
この月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、
3日、英仏が独に宣戦布告、第2次大戦始まる。
東日のZEISSⅡも数ヶ月遅れていれば、どうなっていたかわからない。
秋元徽瑯さんのデータなし。

昭和14年10月 リーフレット
「隣の宇宙を覗く」(日暮楠夫)

昭和14年7月・8月 リーフレット(日暮楠夫)

2005年04月28日 | Weblog
昭和14年7月 リーフレット
「火星の大接近は・・・」
当月28日に最接近する火星。
5月の予習プログラム続編。

昭和14年8月 リーフレット(日暮 楠夫)
「彗星と流星」
この号からリーフレット著者の記名が始まる。
研究員の名前がわかる唯一の資料。
日暮楠夫さんとは誰だろう。
文面からは明治43年(1910)のハレー彗星は体験されたようだ。
ハレー彗星を20歳で見たとしたら、昭和14年(1939)は49歳になっている。
野尻抱影の場合、明治18年(1885)11月15日生まれで昭和14年(1939)この月は53歳。

東日会館 館内画像

2005年04月26日 | Weblog
■画像左、天象儀室
前回コメントいただきありがとうございます。
御指摘のワイヤーが写るもの載せてみました。(東日70年史より)
ワイヤー下端は外周柵上端に帯金で止めてあるようです。
溶接ではないので、取外しが出来るように思います。
天象儀背後には、解説台も写っています。
クリックで拡大する画像は実物に近いものを貼っているつもりです。

■画像右上、天文科学館
開館時の天文展覧会の模様、「伊能忠敬の象限儀」「模型天体」などが
展示される。
展示ケースは五島プラネタリウムのそれに、形状が似ている気がする。
当時の新聞によると右側の人が持っているのは天文展覧会パンフ。
活動期間全てを通し、展示物の資料が少ないので、これが発掘されたり、
行かれた方のお話が聞けると有り難いですが、機会に恵まれません。

■画像右下、開館時の東日会館玄関ホール内側、自分が知る唯一の
画像。来場者が手に持っているのは、おそらく開館記念誌。
電気科学館の場合、これに平面図・館内各室内写真50枚余・建物仕様・
費用が載る。東日のものは、いまのところ見つからない。

昭和14年4月 リーフレット・星月の歌

2005年04月24日 | Weblog
昭和14年4月 リーフレット
「日食と月食の話」
この月20日に日食、翌5月3日に月食が起こる。
初めて電気科学館とプログラムが共通する。
リーフレット説明に3面使うのは最初で最後になる。

広告は、これまで画像掲載を省略してきたが、専門に収集している方も
いるようなので、簡単に紹介しておく。
天文館開館から昭和15年春まで<クラブ歯磨>がリーフレット広告を独占する。
孫文も愛用したというクラブ歯磨の製造元は当時、中山太陽堂と称し、
現在では化粧品で有名なフルベール(株)。
15年春以降は天文館も利用層が変わったのか、養毛剤・栄養剤の広告が増える。
<クラブ歯磨>広告は、戦前の電気科学館リーフレットにも散見する。

■「星月の歌」という東日天文館の童謡が、この月にColumbiaから出ている。
作詞 目崎志真子(ver.1)北里悦郎(ver.2) /作曲 山田耕筰
二葉あき子がカバーしたものは、現在でも購入出来るもよう。

東日版 ZEISSⅡと鈴木敬信

2005年04月23日 | Weblog
■画像左、1938年11月2日一般への開館の前日、内覧会(開館式)で
プラネタリウム解説を行う鈴木敬信、33歳。
(東京日日新聞<1938.11.03>より)

*画像の載る新聞には苗字の記載しかありませんでした。
 画像より小林悦子先生に御指摘頂きました。ありがとうございました。

鈴木敬信は当時、東京科学博物館理学部主任、翌1939年海軍水路部技師
(戦後は海上保安庁水路部編暦課)に就任する。
天文館研究室は東日新聞社員でなく、外部職員で構成したのだろうか。
開館式当日は40分かけて東京から南極の空を演出。
横山大観、市川房枝、文部大臣、陸海空軍各大将ほか1600名が参加し,
3回にわけ上映。

■画像右は東日版 ZEISSⅡ(星と宇宙-S17版より)
星の投影数8900、重さ2500㎏。
東日天象儀室のドーム直径20m、高さ18m、座席数は600席弱
理化学研究所の田口リュウ三郎の音響設計が施されている(天文読本)。
前年の電気科学館の場合、価格46万8000円、輸送費や技師派遣費が
3万円、合計約50万円。

延面積1万㎡の東日会館全体が、203万円なので四分の一ほどになる。
(価格は東日70年史より、延面積5800㎡の電気科学館が建物のみの
工費113万円なので 203万円は建物費で天象儀は含まないと判断)
一企業が負担するには莫大な金額なので、それほど必要だったかと
不思議に感じるが採択した理由はいくつかあると思う。
一部書いておく。
価格面を単純に見れば、100万人×大人入場料50銭でみあう。
電気科学館の場合、S12年開館から終戦までの入場者数
大人小人あわせ約200万人、売上は約63万円になっている。
電気科学館は購入当初の7年分割返済の計画を繰上げ、
3年ほどで完済する。(電気科学館二十年史より)
東日の入場者数は初年度60万人(他の年は資料なし)なので
6年半である程度みあったろう。

東日天文館設立経緯について、この機会にふれておく。
昭和11年早春、時事新報主催の工業博覧会が上野公園で行われ、
好評を博す。
永続的に利用出来る施設が求められ,天文館建設会・後援会が
設けられる。中途、その時事新報を11年末、東日が買収。
事業を引継いだ東日が、新設会館に天文館を設置することになる。
(以上、天文館建設会長 鈴木孝雄陸軍大将の開館の式辞より要約)

その東日も明治44年、度々の業績不振により、名こそ残れど大毎に
企業買収されていた。東日の会長は大毎の会長が兼務している。
実質的なスポンサー大毎新聞は、東日の知名度・社会貢献度の認識を
高めるべく天文館を設置継承を判断したと推測する。
東日(毎日)はその後も<ニッポン号>での飛行機世界一周、
戦後はプロ野球参画など様々な企画を演出、現在に至る。
ついでのついでに書くが、毎日オリオンズの後身、大毎オリオンズの
大毎はここに出た大阪毎日でなく、毎日+大映をさす。

*電気科学館のツァイス価格・入場者数につきましては
 大阪市立科学館の方々のご教示、並びに市立科学館のサイト内
 「なにわの科学史」と「50年のあゆみ(1987)」を参考にさせて頂きました
 東日会館の入場者数を類推すべく同時期に設立された博物館等も
 資料探しましたが特に戦前・戦中において、電気科学館ほど
 アンソロジーをまとめられているのは少なく稀少に思いました。
 ありがとうございました

天界五景

2005年04月18日 | Weblog
絵葉書「天界五景」
左から東日の包紙、毎日になってからの包紙、中身五葉。
絵葉書のタイトルは左上から、
極光 オーロラ・月世界から見た地球・大彗星
次列上から、光冠 コロナ・月世界より見た地球・宛名面。
5枚1組、20銭。

昭和13年12月 リーフレット

2005年04月17日 | Weblog
昭和13年12月 リーフレット「美しい冬の夜空」
<天象儀>に予告が記載されるプログラム<過去の空と未来の空>とは
内容が違う。予告プログラムは変更されているようだ。
<S13年の天象儀>予告範囲(S14夏)までは、予告より、時節の天象を
優先したリーフレットが多い、それ以降は内容が一致するようになる。

東日天文館は科学の殿堂と称しているが、天文館建設会長は
当時の陸軍大将・陸軍技術本部長 鈴木孝雄(鈴木貫太郎元首相の弟)であり
東日開館の前年には廬溝橋事件を発端に日中戦争が始まっている。
兵用天文に繋がるプログラムが求められても、不思議はない。
<過去の空と未来の空>は開館1周年のS14年11月に投影され直されている。