ONE DAY: RYOKAN's Diary III

誰にだって訪れるさ どうしたって悪い日は 地雷と番犬と腰に機関銃 ドイツ製でもダメでしょう

43年ぶりの栄光

2009-08-24 20:20:08 | 雑感
いやぁ9回にとんでもない展開が待っていたなぁ。
 最後あの状態でよく踏みとどまったというか、最後の打者の打球がいい当たりだっただけに打球の方向が(中京にとって)奇跡的だったというか。
 前日は今大会最大の注目選手である菊池を擁する花巻東をメッタ打ちで東北勢初優勝の夢を粉砕し、今日も新潟初優勝の期待を猛打で退け全国的には強すぎるヒール扱いになるのかしら(同じ地域のプロ球団と立ち位置が一緒?)…と思ったら、最後にとんでもない展開が待っていた。優勝投手なのに堂林のインタビューはまるで敗戦投手のような号泣だったもんなぁ。それだけ負けられないプレッシャーが試合前から重くのしかかっていたのだろう。

愛知県の高校が夏の大会に優勝したのも43年前の中京以来なのかな?
 選抜は僕がリアルタイムで観ていた記憶だけでも2回('89 東邦・'05 愛工大名電)あるけど。愛知の「私学4強」と呼ばれてきた他の三校、東邦・名電・享栄には夏の優勝は一度もなく(春は東邦4回名電1回)、他に優勝経験があるのは愛知商(戦前の旧制時代)のみらしい。
 通算勝利数・優勝回数ともに史上最多を誇る中京大中京高だが、優勝したのは全て中京商時代(旧制時代含む)のことで、普通科高校に転換して「中京高」となり更に中京大学附属中京高になってからは一度も優勝していなかった(国体優勝や選抜準優勝はあったが)。

最近では中京大学附属中京高のことを省略して「中京大」と呼ぶ人も多いようだが、附属になる前の方が馴染みのある僕等にとってはその呼び方はたいへん違和感がある。単なる「中京」が一番馴染みのある通称だし、オールドファンは「中京商」か「中商」と今でも呼ぶのだろう。
 そもそも東海大や日大などと違って中京大には他の附属高校はないわけで、同じ学校法人が運営し今回の甲子園にも登場した三重高は附属を名乗っていない(系列の三重中京大は以前は「松坂大学」という校名で「地名しりとり」ゴール地点としても知られるが、数年後の閉学が決定済み)。岐阜の中京高(最近まで中京商高)とはそれぞれの創設者が実の親子という関係で校訓なども同じだが学校法人としては全く別(こちらの系列大学は中京学院大学)。だから「中京高校」のままでも良かったのになぁ…と部外者としては思うのだが。 
 まぁ最近は大学の附属であることを明示している方が野球でも生徒集めに有利なのか、あの平安高だってつい最近「龍谷大平安」になったし、浪商なんて「大阪体育大学附属浪商高」という正式校名からは何を勉強する学校なのかさっぱり分からないものになってしまった(今は商業科なぞ存在せず"浪商"が略称でなく正式な校名。同様の例に名古屋電気高→愛知工業大学附属名電高)。そういえば最近は愛知の4強でよく出てくるのは中京大中京と愛工大名電で、系列大学のない享栄や大学の知名度が薄い東邦(いちおう愛知東邦大学がある)が以前ほど強くないのは単なる偶然ではないのかもしれない(もちろん指導者などの環境面もあるだろうけど)
 そして中京で古くからのファンが思い出すのは襟付きのユニホーム。胸のロゴ書体もクラシカルなもので、今でも親子関係の岐阜の中京高がこのスタイルを維持しておりたまに甲子園でも見られるけど、本家の中京大中京の方は10年ほど前に今風のユニホーム(ロゴも筆記体+ヒゲ付き)に変わってしまいオールドファンを嘆かせた(兄弟校の三重高も同じスタイル)。ただし帽子の「C」の書体は昔からのスタイルを維持している。

僕が高校野球をはじめて意識して観るようになったのは1981年の夏だったように思う。名古屋電気高(当時)が快進撃を見せた時である。その時のエースが工藤公康。甲子園ではノーヒットノーランまで達成している。
(あれから二十数年経つが…工藤、まだ現役だもんなぁ…)
 その翌年から甲子園に愛知県代表で出続けたのが、好投手・野中徹博と控えに紀藤真琴を持つ中京だった。たしか彼等が1年の夏から出ていたような気がする。甲子園を逃したのは3年の選抜だけで、その時に中京にかわり東海代表で活躍したのが享栄のスラッガー藤王康晴だった。この世代はいわゆる「昭和40年組」で、のちプロで大活躍する選手を数多く生み出している。
 野中・紀藤が3年の夏は愛知県大会決勝で藤王の享栄を破って代表となり「池田の夏-春-夏連覇」阻止の筆頭格に挙げられていて順調に勝ち上がり、準々決勝で池田と激突するが水野の前に敗退。しかしその池田も準決勝でPL学園に負けてしまう。エースと4番が1年生のチームなのに…と大変驚いたが、いま思えば当然のことだったな(笑/言うまでもなく桑田・清原)。

野中・紀藤が卒業してプロ入りした後は中京もあまり甲子園に出られない時期が続いた。小学校~中学校の同級生が中京に入学したので注目していたら直後に後藤・木村(二人とも後にプロ入り、ジャイアンツへ)等の活躍で甲子園に出場。木村が宇部商相手に9回1死まで完全試合をしていながら逆転2ラン食らって負けたりしていたな。
 僕の同級生はレギュラー争いに生き残り3年生の時にはクリーンアップを打ったが 、当時は東邦が強くて(エース山田喜久夫を擁し選抜では二年連続決勝進出、夏も出場)とうとう甲子園の夢は叶わなかった。卒業時に大学や社会人野球から誘いがあったけど既に肩を痛めていて野球をやめ就職した、と成人式頃のクラス会で会った時に話していたな。
 実家の近所の幼なじみの子(同級生の弟)は小さい頃から野球を頑張っていてやがて享栄に進み、エースになったが遂に甲子園へは行けなかった。
 記念大会の時は愛知県も東西に分け2校代表になるが、それ以外の年は神奈川・大阪などとともに全国屈指の激戦区となる愛知県。4強など私学では愛知県内だけでなく近隣県から中学でエース兼4番だった選手が集められてレギュラー争いを繰り広げ、そこから更に予選を勝ち抜いていかなければ辿り着けない場所が甲子園なのだから、あの場所に辿り着いただけでも大変なことなのだよな。まして激戦を勝ち抜き優勝など。

 「中京優勝」のニュースを見ながら、そんなことを色々と思い出していた。

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