ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

NO1 プロレスとの遭遇

2009年03月09日 01時44分49秒 | ROSSY's HISTORY
 かつてモバイル・ゴングで連載した「ロッシーがイチバ~ン!」というコラムを復刻。「ROSSY's HISTORY」として当時の写真も加え、連載していきますのでご覧下さい。

 早いもので私が女子プロレスという業界に入って、31年の月日が経ちました。ざっと振り返ってみて…20歳で全女に入社し、20年間在籍し取締役企画広報部長…アルシオンを設立し6年間、代表取締役…AtoZではエグゼクティブ・プロデューサー…JDスターで格闘美のブッキングやマッチメークを担当…そして今は風香のエージェント&フリープロモーター&ライター業…表向きはこのように、いろいろな団体を渡り歩いたみたいですが、31年間はホントに山あり、谷あり、多少の栄光あり?でした。そして私はどんな状態になってもプロレスとは離れられない。それを改めて悟りました。大袈裟にいうと、私はプロレスで息をして、プロレスを生活の糧にしているのです。興行の世界をいやと言うほど体感、マスコミの立場も理解できる、大ベテランになりました。ロッシー小川がプロレス人生で経験した事や、あのレスラーのあの出来事を少し綴ってみたいと思います。
 私は物心ついた頃から、TVと漫画と野球が好きな子供だった。昭和30年中頃の特撮ヒーローものが大好きで、「ナショナル・キッド」、「少年ジェット」、「怪傑ハリマオ」は特にかぶりつきで見入っていた。漫画も「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、「スーパージェッター」、「エイトマン」は欠かさず見ていたし、野球は巨人オンリー…同じ千葉県出身の長島茂雄がマイアイドルだった。そんなTVっ子の私も、小学生からクラスで一番体が大きく、よく「相撲取りにでもなれば…」と周囲の大人から言われたものだ。そんな体格のいい私でさえ、不思議なことにプロレスのプの字も知らずにいたのだ。そんな私がプロレスと出会ったのは、小学校4年生のことだった。
 何気なしにTVで見た、プロレス中継にものの見事にはまってしまったのだ。それは昭和42年4月のこと。日本プロレスの「第9回ワールド・リーグ戦」が日本テレビで中継されていた。確か、金曜夜8時はウオルト・ディズニーのアニメとプロレス中継が隔週で交互に放送されていて、ディズニーがある時プロレスは夜11時台に放送された。毎回とはいかなくても、親の目を盗み深夜のプロレスを恐る恐る楽しんだものだ。私が始めて好きになったレスラーは、ジャイアント馬場だった。209センチ、16文キック、インターナショナル王者…子供心にレスラーは、強くて大きい、だから馬場が好きになった。馬場以外の日本人レスラーは、アントニオ猪木、大木金太郎、吉村道明ぐらいしかTVには映らない。必然的に外国人レスラーに興味を持たずにはいられなかった。
 43年3月、私をもっと、もっとプロレスに依存させる専門誌との遭遇があった。スポーツ新聞の広告欄に、プロレス&ボクシング増刊号~第10回ワールド・リーグ戦展望号~という文字が目に入った。プロレスに専門誌があることを、初めて知り早速、本屋に駆け込んだのだ。その店には広告に載っていた雑誌はなく、月刊ゴング創刊号が置かれていた。私はその雑誌を慌てて買い、家に帰り読破したのだ。それは衝撃に近いもので、プロレス熱をさらに上げることになった。今、思えば竹内宏介さんの創った世界にグイグイと導かれていたのだった…女子プロレスは毎月、活版ページに1ページだけ載っていて、それ以上の情報はなかった。44年頃だったと思うが、東京12チャンネル(現・テレビ東京)で女子プロレスの中継が始まり、本格的に興味を持ち始めた。それは全日本女子プロレスではなく、日本女子プロレスの試合だった。(つづく)

▲若き日のテリー・ファンクと

▲神様カール・ゴッチと

▲粉砕者クラッシャーと

▲鉄の爪フリッツ・フォン・エリックと

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