ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

NO2 女子プロレスとの出会い

2009年03月10日 10時31分00秒 | ROSSY's HISTORY
 映像ながら初めて見た女子プロレスは刺激的…水着を着た女性が闘う姿を見ただけで、小学生にはスリルがあった。IWWA世界王者、小畑千代のロメロ・スペシャルとエア・プレン・スピンは男子にはない俊敏さと華麗さがあり、TVに釘づけになった。私にとって記念すべき初めての女子プロレスは、小畑千代の試合だったのだ。多分、1年ほどでこの女子プロレス中継は終了した記憶がある。次に女子プロレスの試合がTVで放送されたのは、48年に日本テレビが「11PM」の枠で全日本女子プロレスを中継し始めたのだ。これは3ヶ月に1度のペースで、後楽園ホール大会の模様だった。タレントの三木鮎郎と一谷伸江が司会者としてスタジオから中継を織り交ぜた。
 中学生になると、月刊ゴングだけでなく、東京スポーツも週刊ファイトも買い、さらにプロレスにのめり込んだ。クラスでは私のプロレス好きはすっかり有名になり、ちょっとしたプロレス博士のような存在だった。プロレス初観戦は昭和43年1月、千葉県体育館(のちの千葉公園体育館)で見たTBSプロレスだ。このTBSプロレスは、のちに国際プロレスとして日本プロレスの対抗勢力となる団体。
 私が生まれ住んでいた千葉県千葉市には年に1度、日本プロレスの興行がやって来た。全女も48年5月に始めて千葉県体育館に来た。家には、特別優待券が新聞の折り込みとして配布され、「500円」で観戦できると記載されていた。中学生になったばかりの少年に、「500円」は魅力的だった。私は特別優待券を握りしめ、体育館に出かけて行った。ところが、体育館はプロレスが行われる様子がなかった。調べてみると開催されるのは、天台町に新しく出来た体育館が千葉県総合運動場体育館といい、私が行った弁天町にある千葉県体育館と似通った名称だったのだ。私のように間違えて来てしまった客も多数いた。弁天町から、天台町までは距離があり、初女子プロレス観戦は断念した。
 中学、高校時代と私は外国人レスラーに夢中になり、宿泊しているホテルまで訪れ、サインを貰ったり写真を撮ったりする事を趣味というか、生きがいにしていたのだ。千葉から、赤坂見附(日プロ=ホテル・ニュージャパン)、新宿(新日本=京王プラザホテル)、東銀座(全日本=銀座東急ホテル)、泉岳寺(国際=ホテル高輪)の各所に出没した。60年代から70年代にかけて、活躍した来日外国人レスラーのサインはほとんど貰うことが出来たのである。
 女子プロレスにも関心があったのだが、なかなか接するチャンスは無い…初観戦となったのは49年3月、後楽園ホールにおける「スプリング・シリーズ」だった。全女は昔から女子の試合に必ず、ミゼットの試合が加わっていて興行の柱になっていた。後楽園ホールの1階で隼大五郎と天草海坊主が歩いていた。生でミゼットを見るのが初めてだったため、異次元の、まるで宇宙人?みたいな感覚を覚えた。当時のエースは、星野美代子でジャンボ宮本、赤城マリ子の全盛期。星野は後年、娘の中山香織がFMWでレスラーとしてデビュー。星野は引退後、営業部長だった中山淳一さんと結婚した。ジャンボ宮本は、横に大きかったが、身長は150センチそこそこ。ボディ・アタックとヒップ・ドロップが見せ場だった。赤城は小柄で白いコスチュームが眩しく、フライング・クロスチョップ、卍固め、ダブルアーム・スープレックスなど、男子で流行の技を取り入れていた。必殺技を必ず2度決めるのが、女子の試合展開でその点が妙に新鮮だった。  (つづく)

▲タイガー・ジェット・シンの部屋にも侵入?

▲当時、一番好きなガイコク人だったダニー・ホッジ。

▲元NWA世界王者ジン・キニスキーは貫禄に溢れていた。

▲昭和49年12月には全女の試合を撮影。メインはマッハ文朱&ジャンボ宮本組。

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