ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

12 ミミ萩原の台頭

2009年04月16日 09時24分26秒 | ROSSY's HISTORY
  まさかミミがオール・パシフィック王者になるなんて、誰が想像したことだろう…この試合には、全女式の押さえ込みルールが適用されていた。場内からは少なからず、ミミの新王者には野次が飛んだ。大半の観客は、カウント・ツーでミミが勝ったという感覚なのだ。続くWWWA世界シングル戦も同様の暗黙ルールが用いられ、横田がジャッキーを完璧に押さえ込み、タイトルが移動していった。敗れたジャッキーは、リング上で一礼してリングを去ったが、凄く後味が悪い試合であった。押さえ込みは、技の無い新人のために用いられたもの。それが、メインのそれも最高峰のタイトル戦で適用されては…試合内容は当然、消化不良になる。プロの興行として、これでいいのだろうか…
  それは、いつの時代でも感じていたことだ。プロレスは押さえ込みの技術を争うのではなく、プロとしての心・技・体を競うもの、と私は思っている。横田の手を挙げたのは、松永俊国(故人)だった。俊国さんは、私の顔を見た瞬間「スリー入っただろう!?」と問いかけてきた。オール・パシフィクでレフェリーの裁定が不評だっただけに、俊国さんはナーバスになっていたのだ。
  新王者になった横田は、“女子プロレスのウルフ”なんて称された。ウルフとは横綱の千代の富士のニックネームで、小柄ながら闘志の塊だった点が酷似していたのだ。リングネームもジャガー横田に改名し、改めて新時代の到来を感じさせてくれた。敗れたジャッキーは、3カ月後に引退の道を歩むことになった。引退試合の場所は、静岡県の清水市鈴与記念体育館。ここでジャッキーはマミ熊野を相手に、5分間のエキシビジョンを行いマットと決別したのだ。これを前後して、池下ユミ、ルーシー加山、マミ熊野、シルバー・サタンらビューティ・ペア時代の残党がほとんど引退を余儀なくされたのだ。
 私は当時24歳、ようやく仕事を覚えてきたが、この大量引退に少なからず不安を抱いたのは確かだった。私より1つ年上のミミはタレント出身とあって、立ち振る舞いが実にお見事だった。チャンピオンになったことで、ミミには再びタレント活動の機会が訪れた。「セクシーパンサー」という曲で、歌手活動を始めることになったのだ。その頃、私は広尾(最寄り駅は恵比寿だが…)に住んでいて、ミミの住むマンションは歩いて5分程度の距離だったから、芸能の仕事をする際はよく迎えに行ったものだ。
  ミミは母親とポメラニアン犬と一緒に住んでいたが、人前ではけしてスッピンの顔を見せることはなかった。それは本当に徹底していた。さすがは元・芸能人だなぁ~と思うことは幾つもあった。ファンの前では満面の笑顔を絶やさなかったし、サインを断ることは皆無。絶対的にファン・サービスに努めていた。あと自分のセールス・ポイントをよく心掛けていて、あえてセクシーなコスチュームを身にまとった。それもハイレグ(今では死語?)やビキニもどきのきわどい物ばかり。  
  在る時、ミミから「水着(コスチュームのこと、当時の選手は一様にこう称した)の撮影をしてほしいんだ…たくさん持っていくので、お願いします」と言われ、事務所の応接室で撮影したものだ。この写真はレディゴンの全女35周年特集本で、何点か紹介されているから、興味のある方は見直してもらいたい。いつもタレント・モードで、サービス精神旺盛なミミは、その分でプロレスの実力をカバーしていた。これほど扱いやすい選手は、私の知っている限り存在しないのだった。(つづく)

▲今は無き田園コロシアムにて(S56年)。

▲小さな応接室で撮影は行われた。

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