ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

20沖縄の旅

2009年06月09日 09時41分32秒 | ROSSY's HISTORY
  クラッシュ人気が爆発する前に全女軍団は、3週間の沖縄巡業に出た。この時はTV中継や、初のビデオ発売でクラッシュの取材があり、私も沖縄に飛び立った。その頃、基本的に私の仕事内容は、事務所でデスクワークが主な役割だった。興行用のポスター、チケット、優待券の企画、デザインを始め、選手の試合以外のスケジュール調整も行っていた。マッチメークは多少、口を出す程度だがプロレス頭のあるのは私だけだから、タイトルマッチの記録や状況などを察し、松永国松さん(故人)にしきりに助言していた。
  沖縄はかつてアメリカの植民地だったため、街の匂いが違っていた。どこか開放感があり、食べ物も本土とはかなり違ったように映ったのだ。ハテノ浜でのロケでは3~4時間、上半身裸でいたため体全体が真っ赤になり、日射病のような状態になった。千種も飛鳥も同様で、皮膚が被れとても試合が出来る状況ではない。それこそ、受身を取ったらそれだけで痛くて、響くというものだ。しかし試合を休むわけにはいかない。ビデオのロケが原因で休むことなど許されないのだ。「痛っ!」と叫びながらも試合には出場したのだった。私はクラッシュ以外にも選手を連れ出して、撮影した。当時はまだまだ、バリバリのカメラマンであり、感性は衰えてはいなかった。デビル雅美をお城の近くで撮影したり、選手全員をビーチで撮ったりもした。たまの旅は刺激があっていい…
  東京に戻ると、フジテレビの中継が月曜日の午後7時から、30分間のレギュラー枠になることが決まっていた。これは実に5年ぶりのゴールデンタイム進出だった。ビューティ・ペア時代以来となるこの事態は、女子プロレスをさらに好転させていった。午後7時からということは、10代のティーンエージャーが自然に目にする時間帯だ。よく女、子供からブームが起きると言われるが、この時間帯なら急速に復興できる。それも地道なクラッシュ人気がじわじわと浸透してきた賜物だ。
  クラッシュを結成してから、よく地方都市に二人と行ったが、「今は誰にも振り向かれないけど、いつか街を歩けないほどの人気を得てやる…」とそんな気持ちで、街を歩いたことがあった。それが本当にやってきたのだ。私にとってクラッシュは同志だった。一介の広報担当だった私だが、クラッシュの現場マネジャーを任されてから一緒に台頭してやろうと企てていたから、そのチャンスが到来したのだ。
  
 
▲沖縄の旅で撮影したもの。

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1 コメント

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やはりロッシーは詳しい (よーすけ)
2009-06-09 17:10:39
小川さん、是非とも池下が若手を大量に引きつれて結成したブラック軍団の話など聞かせてください。真澄を誘い軍団入りした富士美や横田の同期の水野園江や川上法子など。お願いします。
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