ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

14 ミミの連載

2009年04月26日 08時45分41秒 | ROSSY's HISTORY
  私は昔から外国人レスラーに強い憧れを感じていたから、女子プロレスの世界に入ってからも、接する機会が少なからずあった。月刊平凡の取材でビューティ・ペアとミル・マスカラスを対面させたり、ミミ萩原にいたってはデラックス・プロレスで、「ミミちゃんの知らない出会いシリーズ」というグラビアの連載を積極的にアプローチした。ターザン山本!さんが企画を立てたこの連載は毎月、来日中の外国人レスラーとミミが触れ合うというもの。S56年9月に始まったが、第1回は新日本プロレスに来日中のスタン・ハンセンがゲストとなった。宿泊する京王プラザ・ホテルに出向き、ハンセンにアタックする。本来なら団体にアポを取って取材するのだが、この取材はいつもアポ無しだった。だから、ホテルに訪ねてみないことには取材できるか、どうかも判らない。
  時には日本人選手(タイガーマスクとジャンボ鶴田)と対面することがあったが、これは打診をしてもの。と、言っても団体ではなく、山本さんが個人的にレスラーに都合を聞いてのことだ。本来なら、そんな事はありえないことだが、団体の規制も緩く、それだけ呑気な時代だったのである。タイガーマスクは素顔で現れたが、紙袋にマスクを入れて来たのには驚いた。あの黄金の虎仮面が、無造作に紙袋にとは…それでもタイガーマスクの正体である佐山サトルの素顔をいち早く見たことに、優越感を抱いた私は何なのだろうか?
  私はミミを連れ、ターゲットの選手が宿泊しているホテルに足を運んだのである。ホテルに出向くのはファン時代に、いやというほど経験済み。ハンセンに続いては、テリー・ファンクを訪ねたものだ。ミミは英語が堪能なため、通訳は必要としなかった。1度、テリーを訪ね、赤坂東急ホテルに出向き、そのまま全女の試合会場に連れて行ったこともあった。東京スポーツの山田隆(故人)さんも、なぜかタクシーに同乗して会場に向かったのだ。野外の大会で、確か江戸川区の篠崎だったと記憶するが…テリーをリングサイドの最前列に座らせ、私は一緒に観戦した。勝手にテリーをリングに上げ、挨拶させたりもした。当時のテリー人気は凄まじく、今考えても恐ろしいことをしたものだ。会場は大パニックと化したのだ。
  世界最強タッグ・リーグ戦とMSGタッグ・リーグ戦が同時期に開催している時など、両方のホテルに行きファンクス、バロン・フォン・ラシク&キラー・カール・クラップ、ハリー・レイス、カネック&スペル・マキナ、などと写真に収まった。また、トニー・アトラスは全女の道場まで連れてきて、そこでミミを高々とリフトアップさせたのだ。初代のブラック・タイガーにも会いに行った。どのレスラーも一様にミミには優しく、撮影もスムーズにいった。ミミもこの企画を楽しんでいたが、終いには山本さん抜きで取材をすることもあったが…山本さんがデラプロから、月刊プロレスにウエートを置くようになって、企画は自然消滅のような形になったのだ。
  私の楽しみも無くなったが時折、週刊ファイトの坂井圭也樹さんが上京した際には、取材に同行などして懲りずに外国人選手に接していた。坂井さんは70年代後半にはゴングの通信員として、メキシコ・マットを本格的に紹介した記者だ。いつもマスカラスやテリーと接している坂井さんが羨ましくもあり、憧れでもあった。だから、坂井さんから声が掛かれば飛んでいったのである。それほど20代前半の私に影響を与えてくれたマスコミの一人なのだ。(つづく)

▲スタン・ハンセンと遭遇。私が24歳の時だ。

▲全盛期の初代タイガーマスクと。

▲テリーの希望で全女の会場に連れて行った。

▲ミミの連載では故ジャンボ鶴田と対談。

▲なんと初代ブラック・タイガーにも会っていた。

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