女子プロレスはクラッシュによって、復興の兆しを迎えたが…相乗効果として、TBSが女子プロレスを題材としたドラマの放送を決定した。このドラマは山田太一脚本による「輝きたいの」である。菅原文太がトレーナーとして出演。新人女子プロレスラー役に、三原順子、今井美樹、現役レスラーから小倉由美が抜擢された。今井美樹は当時、モデルでこの作品が女優としての初出演。後には歌手となったが、女子レスラー役が芸能界の出発点だった。4話の短いドラマだったが、山田太一の脚本ということもあり、話題にはなったと記憶する。ドラマに先駆けて、道場でレスラー張りに受身を習ったりもしていた。ゴールデンウイークに放送があり、内容も秀逸で感動的だった。三原順子はこのドラマがきっかけで一時、女子プロレスに傾倒していた。
昭和59年4月には後楽園ホールでの、クラッシュ・ギャルズVS極悪同盟の初対決が実現。のちに定番カードになったが、この時は実にフレッシュだった。クラッシュは青(飛鳥)と赤(千種)がタイガーマスクばりにパンタロン・スタイルで登場。そう初代タイガーマスクの新日本後期は、真紅やブルーのパンタロン・スタイルで小林邦明らと闘っていた。千種はこれにヒントを得て、パクッたという訳だ。千種はその後も、流行っていたものを即、取り入れた。このころ前田日明がトップとして、ユニバーサル・プロレスを旗揚げ。千種は長州力よりも、前田の格闘プロレスに傾倒していった。とにかくパンタロン姿からのキックはカッコ良かった。謎の覆面マネジャーを従えた極悪同盟は、暴れまくった。この覆面マネジャーは一部で、柳みゆき(故人)説もあったが、誰にも正体は暴かれなかったのだ。マスクド・ユウはこの試合で、覆面を取られ素顔になりクレーン・ユウに改名。ダンプ&クレーン、覆面マネジャー、それに阿部四郎を加えたカルテットは強烈だった。昭和55年入門の同期4人がまさか、女子プロレスの主流になるとは…
私はその頃、みき書房という出版社に依頼され1冊のムックを編集することになった。これは新日本プロレスの経理担当で友人の青木謙治さんが、「女子プロレスの本があったら、いいのに…」という願いから、知り合いを通じて実現の運びとなった次第だ。その2年前にはベースボール・マガジン社からプロレス・アルバムシリーズで「リングに咲いた恋人たち」という特集を手伝った経緯もある。今でもそうだが、女子プロレスのマスコミ露出は少ないため自ら編集に絡んでいかないと思うような内容は出来ないからだ。根っからのプロレス者の私は、男子と女子を同等の目線で見ていたから当然、内容も純プロレスだった。
この時、「あれも、あれも載せたい!」と悩んでいた私に、月刊プロレス(後の週刊プロレス)の編集長だった杉山さんはこう言った。「編集の仕事はいかに、多くの材料を切り捨てられるか?これが重要なんだ…」と。確かに載せられるスペースは限られている。載せたいものの全部を載せることは出来ない。切捨ての論理である。この時は進行表、いわゆる台割を自分自身で考えたし、写真を選び、見出しやキャプションも付けた。これは意外に快感であった。何か自分が仕切っているという錯覚に落ちいってしまう。
みき書房からのムックは「リングに投げキッス」というタイトルを考えた。ストレートに女子プロレスを表現するより、この方が可愛らしさがあった。雑誌を一冊任されるというのは、責任もあるが、それよりやってみたい企画を実現出来る喜びのほうが強かった。B5判よりさらに小さなサイズのムック本だが、ここで千種と前田日明の対談か、ツーショットを取れれば絶好なタイミングだった。
前田がファンクラブのイベントに出ると聞き、知り合いの社長に頼み千種を帯同した。ステージがあり前田はトークしていたが、時別ゲストという扱いで千種が登場したのだった。これが千種にとって、前田とは初の顔合わせだったのだ。控室で、千種は前田にスープレックスの掛け方や、サブミションの入り方を簡単に教わった。イベントが終わってから、前田は恵比寿の整体所に行き、用賀で食事を共にした。その席に高田伸彦(現・延彦)も現れて、前田と豚足を食べたのが未だに印象に残っているのだ。ムック本は超マニアックに仕上がった。
▲全女の事務所前で菅原文太と。
▲長与は真紅のパンタロン姿で出場。
▲クラッシュのライバルとして極悪同盟が急浮上。
▲長与が前田日明と初対面。二人とも若い!
昭和59年4月には後楽園ホールでの、クラッシュ・ギャルズVS極悪同盟の初対決が実現。のちに定番カードになったが、この時は実にフレッシュだった。クラッシュは青(飛鳥)と赤(千種)がタイガーマスクばりにパンタロン・スタイルで登場。そう初代タイガーマスクの新日本後期は、真紅やブルーのパンタロン・スタイルで小林邦明らと闘っていた。千種はこれにヒントを得て、パクッたという訳だ。千種はその後も、流行っていたものを即、取り入れた。このころ前田日明がトップとして、ユニバーサル・プロレスを旗揚げ。千種は長州力よりも、前田の格闘プロレスに傾倒していった。とにかくパンタロン姿からのキックはカッコ良かった。謎の覆面マネジャーを従えた極悪同盟は、暴れまくった。この覆面マネジャーは一部で、柳みゆき(故人)説もあったが、誰にも正体は暴かれなかったのだ。マスクド・ユウはこの試合で、覆面を取られ素顔になりクレーン・ユウに改名。ダンプ&クレーン、覆面マネジャー、それに阿部四郎を加えたカルテットは強烈だった。昭和55年入門の同期4人がまさか、女子プロレスの主流になるとは…
私はその頃、みき書房という出版社に依頼され1冊のムックを編集することになった。これは新日本プロレスの経理担当で友人の青木謙治さんが、「女子プロレスの本があったら、いいのに…」という願いから、知り合いを通じて実現の運びとなった次第だ。その2年前にはベースボール・マガジン社からプロレス・アルバムシリーズで「リングに咲いた恋人たち」という特集を手伝った経緯もある。今でもそうだが、女子プロレスのマスコミ露出は少ないため自ら編集に絡んでいかないと思うような内容は出来ないからだ。根っからのプロレス者の私は、男子と女子を同等の目線で見ていたから当然、内容も純プロレスだった。
この時、「あれも、あれも載せたい!」と悩んでいた私に、月刊プロレス(後の週刊プロレス)の編集長だった杉山さんはこう言った。「編集の仕事はいかに、多くの材料を切り捨てられるか?これが重要なんだ…」と。確かに載せられるスペースは限られている。載せたいものの全部を載せることは出来ない。切捨ての論理である。この時は進行表、いわゆる台割を自分自身で考えたし、写真を選び、見出しやキャプションも付けた。これは意外に快感であった。何か自分が仕切っているという錯覚に落ちいってしまう。
みき書房からのムックは「リングに投げキッス」というタイトルを考えた。ストレートに女子プロレスを表現するより、この方が可愛らしさがあった。雑誌を一冊任されるというのは、責任もあるが、それよりやってみたい企画を実現出来る喜びのほうが強かった。B5判よりさらに小さなサイズのムック本だが、ここで千種と前田日明の対談か、ツーショットを取れれば絶好なタイミングだった。
前田がファンクラブのイベントに出ると聞き、知り合いの社長に頼み千種を帯同した。ステージがあり前田はトークしていたが、時別ゲストという扱いで千種が登場したのだった。これが千種にとって、前田とは初の顔合わせだったのだ。控室で、千種は前田にスープレックスの掛け方や、サブミションの入り方を簡単に教わった。イベントが終わってから、前田は恵比寿の整体所に行き、用賀で食事を共にした。その席に高田伸彦(現・延彦)も現れて、前田と豚足を食べたのが未だに印象に残っているのだ。ムック本は超マニアックに仕上がった。
▲全女の事務所前で菅原文太と。
▲長与は真紅のパンタロン姿で出場。
▲クラッシュのライバルとして極悪同盟が急浮上。
▲長与が前田日明と初対面。二人とも若い!