傍流点景

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(・・・今年も放置癖は治らないか?)

からっぽの『ラスト・デイズ』

2006-05-16 | 映画【劇場公開】
 もう一週間前になるけども、ようやくガス・ヴァン・サント監督の『ラスト・デイズ』を観た。自殺してしまったNirvanaのヴォーカリストであるカート・コバーンをモデルとして、その死の前日を撮った映画である。
 しかし、ヴァン・サントは特にNirvanaに何かしらの思い入れがあった訳ではなく、彼の中では、代表作の『マイ・プライベート・アイダホ』の主演俳優であり夭折したリバー・フェニックスを重ねているだとか、もしくはやはり監督作『グッド・ウィル・ハンティング』で名曲の数々の披露したエリオット・スミス(彼も3年前に自殺してしまった)への思いを込めているとか、諸説飛び交っているらしい。
 私自身、90年代前半は今よりかなりちゃんとした(笑)ロック・ファンだったし、Nirvanaはそのデビューから勿論リアルで知っているけども、彼らのファンではなかったし、それはリバーについても同じ。ただし、エリオット・スミスの訃報を聞いたときに泣いたけどね・・・。

 自殺してしまうミュージシャンというのは、その死により伝説化することもしばしば見られることなのだが、私はそういう伝説化が大嫌いだ。悲劇のアーティスト、などと大袈裟に書き立て、持ち上げ、消費するシステムには虫酸が走る思いがする。「何が彼を死に追いやったのか」とか「何で自殺なんか・・・」とか言ってるんじゃないよ。彼を死に追いやった一端は、あんた達なんだ。
 死を選んでしまうアーティストたちは一様に、あまりにも傷つきやすく、病みやすく、凡人の如きズ太い神経を持ち合わせず、サバイバルしようという強さがない。簡単に世間の餌食にされてしまう。もてはやされた後に喰い尽されて、ボロボロにされる。私はそんな彼らの弱さに、憤りを感じることもあった。けれどもきっと彼らは、死を選択するしかなかったほどに追い詰められていたのだ。それしか考えられないほど、苦しんでいたのだ。死は一つの救いの選択だったのだ。----そうは思っても、心から彼らを愛していた気持ちが救われるわけではないけども。
 昔、あるアーティストが「どうしてロックを選んだのか」と訊かれて、「人殺しをしなくてすむように」と答えていた。
 ロックに限ったことではないが、表現者と言われる人の一部には必ずこういう側面があるはずだ。ロックとは何か、なんて今更こっ恥ずかしくて真面目に語りたくはないが、ここでは敢えて書こう。ロックとは、反体制とか若者の為のカウンター・カルチャーとか、そんな古臭く様式化された音楽じゃない。もっと個人的で、根源的なところから始まっている。それは、怒りと哀しみと苦悩、負の激しい感情が音として、唄として鳴らされる音楽だ。日々生きるなかで心に澱んでいき、黒く渦巻いてしまうそれらの感情、ともすると他人か自分を殺す方向に往きかねない心を解放するための音楽ではないのか。(だから、それらの感情にうまく対処できない若者中心になるのは、ある程度は必然ではある)
 そして、そうした同じ思いを抱える誰かに向かって"You're not alone"と手を差し伸べる音楽だ。と私は思う。(このフレーズは、Bowieの大名曲【Rock'n'roll Suicide】から。いまだにこの一節を聴くと、初めてこの曲に出会った時代と同じように涙が溢れる。だからBowieは凄いのだ、と思う。もっとも、ここから更に過剰に連帯を呼びかける類の連中は、個人的にはノー・サンキューなんだけども)

 嗚呼っと、話が大幅に反れてしまったようだね。反れたついでなんで更に続けると、私は基本的にはどんなドン底に落とし込まれても這い上がるだけのしぶとさのある、ロックンロールはサバイバルだと言い切る人(=Bowieです)を愛するので、90年代米国のグランジ・ブーム(今や言葉を書くのも恥ずかしい)からの生き残りであり、Nirvanaと並ぶ立役者であったPearl Jamを、より深く愛している。というか、私には最初からPearl Jam、ヴォーカルのエディ・ヴェダーしかいなかったのだ、あの時期心の底から好きだったのは。勿論今だって大ファンである。目下新譜がヘヴィ・ローテーション中である。・・・まあ、NirvanaとPJは勝手にマスコミが対立を煽ったおかげで色々と愚痴れば長い話もあるが、此処では割愛する。私がカートやNirvanaにいかに興味がなかったかの、大きな理由ではあるけども。

 そんな私なので、『ラスト・デイズ』を観るにあたっての覚悟も何もなく、強いて言えばこの題材を使ってガス・ヴァン・サントがどんな風に撮ったのか、という野次馬的興味と、マイ・フェイバリット女優の1人であるアーシア・アルジェント出演、そしてSonic Youthのキム姐さんの女優ぶりはいかに?というのがポイントだった訳だ。が。
 見事なまでに、まったく気持ちを動かされることのない映画だった。気持ちは動かないが、ひたすらに徒労を感じるほどの、空っぽ感だけが強く残るのだ。たぶん、監督はそれを意図していたのではないかと思う。
 主人公であるブレイクは、冒頭から既に“明らかに心を病んだ人(鬱)”で、ぶつぶつと独り言を言い、森や荒廃した家(そこで療養している)の中を徘徊し、病人である彼を見張るための取り巻き連中は彼には近づこうとはせず(近づこうとする者は制止される。病人には構ってはいけない、というように)、ブレイクは最初から最後まで本当に孤独だ。孤独で、病んでいて、そして既に魂は死んでいるかのようで。誰も手を差し伸べず、彼もその手を探さず、音を出しても、声を出しても、どこにも届かない。そういう人の状態を延々と見せられるのは、面白くはない。そして、このまま彼が死を選んでも、まったく仕方のないことである、としか思えない。で、終わってしまう。
 撮り方、形式としては『エレファント』とまったく同じである。“悲劇”の一日を、その日その場にいた人々の様子を、いろいろと当時を彷彿させるような出来事や暗喩を含みつつも、淡々と撮っているだけ。それでも私は『エレファント』には強く感じるものがあったけども、『ラスト・デイズ』にはまったく何も感じなかった。無感覚に死に向かう人、というのが描きたかったのかもしれない。“殺す”という衝動が内側に向かう人の心の動きは、他者には絶対にわからない、ということを描きたかったのかもしれない。
 それならばこの映画は完璧だと思う。好きか嫌いか、良いと思うかどうかは別にして。けど、怒りも哀しみもすべて“生きることへの絶望”に塗り潰されたものが“ロック”だとは思わないけどね、私は。まあ、ヴァン・サントは“ロック”を描こうとしたのではないんだろうから、そんなことはどーでもいいのだろうけど。

 アーシアの出番は「えっ、コレだけ?」と拍子抜けするほどの扱い。でも、黒い短髪に眼鏡のボーイッシュなスタイル、Tバック・ショーツ(!)でうろうろしている姿はセクシーだった。キム姐さんは、なんというか映画だろうがなんだろうが、あの落ち着きっぷり、クールぶりは変わらず。あまりに自然に“役者”していたのが流石だった。

 だがそれより何より、一番印象に残ったのは3度ほど繰り返して流れるVelvet Undergroundの【Venus in Furs】である。ブレイクの見張り役として家にたむろする取り巻きのアマ・バンド?の男女(男2人はバイ・セクシュアルという設定だった)が、チーク・ダンスを踊るためにかけるのがこの曲なのだが・・・ジョン・ケイルが奏でるヴィオラの頽廃的な響き、ルー・リードの官能的な呟き唄がゆっくりと時間を腐らせるようなこの美しい曲がスクリーンから聴こえてくるのは、ちょっとした感動ではあった。なんだか、すごく場違いな感じで鳴ってはいるんだけどね。


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