傍流点景

余所見と隙間と偏りだらけの見聞禄です
(・・・今年も放置癖は治らないか?)

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頭上に低気圧停滞中

2006-05-30 | 戯言・四方山話・メモ
○ また放置してしまった。今月は序盤にトバし過ぎたのがあかんかったのだろうか。馴れない部屋掃除に精を出した反動だろうか。どーにもモノを書く気になれない日々のまま、皐月末日を迎えてしまったようだ。おまけに空の具合もどんより気味で、ダラケ気分に拍車はかかるし洗濯物は溜まるし、ううーーーッ。・・・毎日のように更新している方々には誠、畏敬の念を禁じえない。
 てゆーかさー、もうちょっと、軽い気持ちで書けばいいじゃんね私。とはいえ今まで充分カルいというかノリでしか書いてないし、文体の統一もしてないけどさ~(それは一応は意識的)。まあ、そんな個人的な反省とかツッコミとかしつつ。停滞中にハマってたモノとか、映画感想とかの記事もそろそろアップしよーかと思っているのだけど、そのまえに軽くウォーミング・アップとして、以下に映画系ニュースの覚書である。

○ さて、本日は朝から岡田真澄が死去というニュースに仰天してしまったが、夕方の今村昌平監督の訃報には更に吃驚してしまった。
 お2人とも、私からみれば三池崇史監督とは浅からぬ縁の方々である。
 岡田氏をスクリーンで最後に観たのは、今年の春『WARU~最終章』だった。『IZO』にも出演していたけど、似たような感じの胡散臭さ満点の悪役を楽しく演じていたように思う。昔日、かのヴィスコンティも執着したという美少年も、今はこういうポジションなのかー、とか失礼にも思ったりして。
 今村監督の作品は、私は大昔に『楢山節考』と『復讐するは我にあり』と、9.11のオムニバス『セプテンバー・イレブン』しか観てないけれど、まだ10代だった頃に観た『楢山~』はある意味で激しいカルチャー・ショックだった。昔の日本の山村の人たちってスゲェェーーッ!みたいな。三池さんの著作である【監督中毒】にて書かれる、今村監督の問答無用、天上天下唯我独尊な大監督ぶりにも感銘を受けた。そこで書かれる、“幻の映画”であり三池さん自身にも“死ぬほど観たい”と書かれた未発表作『遊郭の少年(戦前戦後を通した新宿二丁目を舞台にそこで生きる人々の物語、とのことである)』。題材や、また三池さんの書く文章の語り口がうまいせいもあるだろうが、これは読んでる此方まで「うわあーそれは観たかったなあ」と思わせた。今村監督の長男である天願大介が脚本を手掛けた、三池監督の劇場公開最新作である『インプリント~ぼっけえ、きょうてえ』の初日から間もないうちの訃報、というのも何かの因縁なのだろうか。合掌。

○ 日本映画系の話題といえば、うって変わって。先日、完成披露試写会があったらしい『日本沈没』
 コレ、割と最近映画館で予告を観たんだけども、いやあ~~特撮レベルだけは『ガメラ3』を超えてる予感に「おおぉぉう!」とワクワク致しましたね! あのー私、樋口監督の『ローレライ』とか全く観る気もなく、これからも恐らく観る機会はないだろうし、映画監督としての彼には微塵も期待はしてない。が。特撮監督としては、素直にモノ凄い人だと思ってますわ。だから、本作に期待するのは怪獣映画と同じ部分。日本各地の名所・名跡の数々を思う存分デストローイッ!!なシーンを見せてくれれば、それだけで満足しますとも(大笑)。
 公開されたら、レディースデーに観に行くリストには入れとこうっと。

○ 洋モノでは、何はなくともまずはカンヌ国際映画祭2006。ケン・ローチ監督、パルムドール受賞おめでとうございます!
 舞台となるのが1920年代のアイルランド内戦というと、ニール・ジョーダン監督『マイケル・コリンズ』で描かれたテーマのその後、という感じなのだろうか。ケン・ローチ作品は、たまーに日本では未公開になっちゃうパターンがあるけど、これはちゃんと公開してくれるだろう。来年辺りになるかもだけど、今から公開が楽しみな作品が増えて嬉しいな。
 本作主演キリアンちゃん(・マーフィー)、Nジョーダン監督の新作『プルートで朝食を』では70年代のグラマラスなドラッグ・クイーン役で、次がコレとは見事なセンスだわ(笑)! 『バッドマン・ビギンズ』のかかし博士@スケアクロウでハリウッドでも一応認知度高めたのに、やはりホームベースでの活動を中心に考えてるようなのもイイね♪

○ 今年のカンヌ出品作で気になった作品は以下。
★『EL LABERINTO DEL FAUNO (PAN'S LABYRINTH)』 ・・・ 『ヘルボーイ』の次にこんなの撮ってたのかデル・トロ監督!ってコトで。ゴシック系ファンタジーなのかな?
★『SOUTHLAND TALES』 ・・・ 『ドニー・ダーコ』1作でファンになっちまいましたリチャード・ケリー監督の新作。ザ・ロック様が出てるってのがスゲー(笑)。相変わらずダーク・ファンタジーっぽいけど、コメディ風味もありそうで新たなる局面を見せてくれるのかと期待。
★『SHORTBUS』 ・・・ 『ヘドウィグ&アングリーインチ』で狂喜と感涙の渦に巻き込んでくれたジョン・キャメロン・ミッチェルの新作は、シノプシスを流し読む限りではグレッグ・アラキ風の群像劇?っぽい。って、英語が不自由なんでいい加減ですが、観てみたいなー。
★『TRANSYLVANIA』 ・・・ トニー・ガトリフ監督の最新作は、主演になんとアーシア・アルジェント! うわあ~・・・想像したこともない組合せだけど(笑)意外と合う、のかも。アーシアがロマの歌を唄ったり踊ったりするシーンもあるんだろうか。気になる!
★『CLERKS II』 ・・・ このところちょいとオトナし目だったケヴィン・スミス監督、原点に戻ったようですね。デビュー作『クラークス』の続編かあ。主人公とダチどもは、相変わらずコンビニとかビデオ屋でウダウダやってるんだろーか>そこまでナードなルーザーぶり極めてたら、それはそれで楽しいが・・・。
 まあ、あとは普通に『バベル』や『マリー・アントワネット(仏でコレを観せちゃうソフィアの、アントワネットに負けない姫様ぶりが流石^^;;)』、『ユナイテッド93』も日本公開の際には観たいかな。

○ 〆は、やってくれるぜ!な【爆音ナイト~サーフ&ロック・ムーヴィー】。吉祥寺バウスシアターはやや遠いけど、爆音ナイト企画には毎度そそられてしまう。今回はちょっと、ディラン&Jキャッシュ・オールナイトは行ってしまいそうだなー。(爆音オールナイトに行くのは、グラム・ロック映画特集以来だなあ)
 嗚呼、でも! どうせなら、オールナイト企画で『DOGTOWN & Z-BOYS』&『ロード・オブ・ドッグタウン』の2本立て+何か(・・・)も加えて欲しかった~!! …まあ後は、ニール・ヤングものは実は観てなかったりするので、これを機会に是非、とは思ってます。ジョナサン・デミが監督した『ハート・オブ・ゴールド』も日本公開して欲しいしね。 

ニアミスなマイ・お犬様たち情報

2006-05-19 | 戯言・四方山話・メモ
 さてマイ・お犬様というのは、この場合私的ミーハー見地から言ってコリン・ファレルとエイドリアン・ブロディな訳ですが、ここ数日久々に色々検索してたら、何やら心穏やかでいはいられないやら、嬉しいようなコワイような各人待機予定作情報その他諸々を散見してしまったので、記憶が流れないうちにココらで覚書です。

○ ニアミスってのはアレです。アメリカン・ロック&フォークの生ける伝説、ボブ・ディランを6人の俳優によるキャラクターによって描くという、例のトッド・ヘインズ監督の『I'm not there』のキャストに一時期2人ともキャスティングされている、という情報が見れた時期があったのでね。
 ところがその後、二転三転して今やエイドリアンの線はすっかり消え、ついでにコリン・ファレル降板の色濃厚になってきている、という「ええーーっっ!?」なニュースに些か気が動転。コチラこちら
・・・後者は英国の有名なタブロイド紙デイリー・ミラーのサイトだけど、まったく流石DMだぜ。イヤらしい書き方しやがって~(怒涙)!って、こんなのにマジギレしても仕方ないんだけどさ。・・・ヒース・レジャー抜擢の裏でコリンが落ちる、と。そういう感じの書き方されてるけど、どっちも現時点では確定ではないようなので、もう少し望みを繋ぎたいのだけどな・・・。すんごく楽しみにしていた映画なだけに、コゴト言わせてもらいますと。ヒースはホントに上手いと思うし割と好きだし何のウラミもないけど、あんたは育児休暇しとれよ!と思ってしまうわ。ゴメン。
 というか、こんなところでも報われないアレキ大王映画、とか。誰も気にもしてないと思うけど『ブロークバック・マウンテン』の撮影監督ロドリゴ・プリエトは『アレキサンダー』と同じなのよー。この差は一体何。(何を今更!?過ぎて、空いた口が塞がらない人が殆どだと思いますが、なんとなくね。比べるモノではないことは、重々承知しておりましてよ)

○ だが捨てる神(・・・)あれば拾う神あり。ということで、なんとあのオッシャレ~洒脱~ってなイメージのウディ・アレンの新作にコリンが出る予定だそうな!(記事
 共演はユアン・マクレガー、トム・ウィルキンソン。で、ユアンとは兄弟役だそうな。金の切れ目が縁の切れ目になる兄弟の愛憎/犯罪モノ?みたい。
 実は私、ウディ・アレン映画をろくに観てないのだけど、こーゆー映画を撮るイメージが全く無い人なんですが・・・どーなんでしょうかね?

○ で、ユアンと言えばニール・ジョーダン監督の悲願『ボルジア』、チェーザレ役のファースト・チョイスなわけだけど。その『ボルジア』もちょっと前途多難な様子みたい。ココによると、やはりネックは資金繰りなのだろうか・・・。
 噂されていた段階でのキャスト、コリン@チェーザレ、スカーレット・ヨハンセン@ルクレツィアに加えて、ジョン・マルコヴィッチ@マキャベリとか、サー・イアン・マッケランとかジャン・レノとか、かなり豪華でワクワクしてたんだけどなあ。今は棚上げ状態でも、執念でなんとか作って欲しいわ監督。極東から念を送って応援しまっせ! 私ファンだしね!
 嗚呼そうそう、日本公開が夏に決まったジョーダン最新作/キリアンちゃん主演の『プルートで朝食を 』もリピートする気満々ですよっ!『クライング・ゲーム』を超えるとは思っちゃいないけど、楽しみ楽しみ♪(ブライアン・フェリーの役柄も見所だわ)

○ それから『新世界』ですっかりマリック・ワールドの住人認定も受けたコリン(笑)、監督の新作『Tree of Life』でやはり再度タッグを組むらしいのも目出度い。今年8月からインドにて本格的に撮影に入る模様。(記事
 共演メル・ギブソンって・・・んーー、何気に同じ系統の顔だよねー(苦笑)暑苦しい感じが。でも『マッド・マックス』の頃のメルは、それなりにカッコイイと思ってましたよ私。最近の彼はよーわからんけども。

 というようなコリン情報のついで、と言ってはなんだけど、『ジャケット』日本公開迫る!という訳でエイドリアン・ブロディ関連もちょいと検索してたら、驚愕のニュースをいくつか見つけてしまいましたよ。

○ hollywood.com情報ですが、待機作でロバート・キャパとサルバドール・ダリを演じるらしいことが判明!(って、確定ではないみたいですが) ひぃ~~っ。両者ともご本尊様の熱烈なファンが全世界的にいるわけで、コレはちょっとコワイなあ。
 しっかしエイドリアンたら『戦場のピアニスト』以来、伝記モノ俳優路線なのかしらん?^^;;
 とりあえず約3年前に日本でも伝えられた企画は、いまだに生きてるらしい。ロバート・キャパの伝記映画のタイトルは、そのまま『Capa』。スペイン内戦従軍時代、報道カメラマンとして一躍有名になった頃のキャパと、当時の恋人ゲルダ・タロー(ナタリー・ポートマンが演じる予定)との物語になるらしい(ん~ベリー・ジューイッシュなキャストだわね)。監督は『アドルフの画集』を撮ったMenno Meyje。

○ もう一つの映画のタイトルは『Gala Dali』で、サルバドール・ダリの妻/ミューズであったガラがヒロインの映画のよう。ガラ役はサルマ・ハエックが候補。監督はタランティーノの連れとしての方が有名なロジャー・エイヴァリーの模様。

 ・・・えーと、どちらも監督の力量とモデルにする人物の巨大さが釣り合わないような気が・・・(大きなお世話)ともあれ、順調にコトが運ぶように祈っておりますです、はい。流石にこの2本がちゃんと出来上がれば、日本でも公開してくれるだろうしねえ >エイドリアンはいまいち地味なので、こーゆー心配をしなくちゃいけないのが悲しいですなあ。

からっぽの『ラスト・デイズ』

2006-05-16 | 映画【劇場公開】
 もう一週間前になるけども、ようやくガス・ヴァン・サント監督の『ラスト・デイズ』を観た。自殺してしまったNirvanaのヴォーカリストであるカート・コバーンをモデルとして、その死の前日を撮った映画である。
 しかし、ヴァン・サントは特にNirvanaに何かしらの思い入れがあった訳ではなく、彼の中では、代表作の『マイ・プライベート・アイダホ』の主演俳優であり夭折したリバー・フェニックスを重ねているだとか、もしくはやはり監督作『グッド・ウィル・ハンティング』で名曲の数々の披露したエリオット・スミス(彼も3年前に自殺してしまった)への思いを込めているとか、諸説飛び交っているらしい。
 私自身、90年代前半は今よりかなりちゃんとした(笑)ロック・ファンだったし、Nirvanaはそのデビューから勿論リアルで知っているけども、彼らのファンではなかったし、それはリバーについても同じ。ただし、エリオット・スミスの訃報を聞いたときに泣いたけどね・・・。

 自殺してしまうミュージシャンというのは、その死により伝説化することもしばしば見られることなのだが、私はそういう伝説化が大嫌いだ。悲劇のアーティスト、などと大袈裟に書き立て、持ち上げ、消費するシステムには虫酸が走る思いがする。「何が彼を死に追いやったのか」とか「何で自殺なんか・・・」とか言ってるんじゃないよ。彼を死に追いやった一端は、あんた達なんだ。
 死を選んでしまうアーティストたちは一様に、あまりにも傷つきやすく、病みやすく、凡人の如きズ太い神経を持ち合わせず、サバイバルしようという強さがない。簡単に世間の餌食にされてしまう。もてはやされた後に喰い尽されて、ボロボロにされる。私はそんな彼らの弱さに、憤りを感じることもあった。けれどもきっと彼らは、死を選択するしかなかったほどに追い詰められていたのだ。それしか考えられないほど、苦しんでいたのだ。死は一つの救いの選択だったのだ。----そうは思っても、心から彼らを愛していた気持ちが救われるわけではないけども。
 昔、あるアーティストが「どうしてロックを選んだのか」と訊かれて、「人殺しをしなくてすむように」と答えていた。
 ロックに限ったことではないが、表現者と言われる人の一部には必ずこういう側面があるはずだ。ロックとは何か、なんて今更こっ恥ずかしくて真面目に語りたくはないが、ここでは敢えて書こう。ロックとは、反体制とか若者の為のカウンター・カルチャーとか、そんな古臭く様式化された音楽じゃない。もっと個人的で、根源的なところから始まっている。それは、怒りと哀しみと苦悩、負の激しい感情が音として、唄として鳴らされる音楽だ。日々生きるなかで心に澱んでいき、黒く渦巻いてしまうそれらの感情、ともすると他人か自分を殺す方向に往きかねない心を解放するための音楽ではないのか。(だから、それらの感情にうまく対処できない若者中心になるのは、ある程度は必然ではある)
 そして、そうした同じ思いを抱える誰かに向かって"You're not alone"と手を差し伸べる音楽だ。と私は思う。(このフレーズは、Bowieの大名曲【Rock'n'roll Suicide】から。いまだにこの一節を聴くと、初めてこの曲に出会った時代と同じように涙が溢れる。だからBowieは凄いのだ、と思う。もっとも、ここから更に過剰に連帯を呼びかける類の連中は、個人的にはノー・サンキューなんだけども)

 嗚呼っと、話が大幅に反れてしまったようだね。反れたついでなんで更に続けると、私は基本的にはどんなドン底に落とし込まれても這い上がるだけのしぶとさのある、ロックンロールはサバイバルだと言い切る人(=Bowieです)を愛するので、90年代米国のグランジ・ブーム(今や言葉を書くのも恥ずかしい)からの生き残りであり、Nirvanaと並ぶ立役者であったPearl Jamを、より深く愛している。というか、私には最初からPearl Jam、ヴォーカルのエディ・ヴェダーしかいなかったのだ、あの時期心の底から好きだったのは。勿論今だって大ファンである。目下新譜がヘヴィ・ローテーション中である。・・・まあ、NirvanaとPJは勝手にマスコミが対立を煽ったおかげで色々と愚痴れば長い話もあるが、此処では割愛する。私がカートやNirvanaにいかに興味がなかったかの、大きな理由ではあるけども。

 そんな私なので、『ラスト・デイズ』を観るにあたっての覚悟も何もなく、強いて言えばこの題材を使ってガス・ヴァン・サントがどんな風に撮ったのか、という野次馬的興味と、マイ・フェイバリット女優の1人であるアーシア・アルジェント出演、そしてSonic Youthのキム姐さんの女優ぶりはいかに?というのがポイントだった訳だ。が。
 見事なまでに、まったく気持ちを動かされることのない映画だった。気持ちは動かないが、ひたすらに徒労を感じるほどの、空っぽ感だけが強く残るのだ。たぶん、監督はそれを意図していたのではないかと思う。
 主人公であるブレイクは、冒頭から既に“明らかに心を病んだ人(鬱)”で、ぶつぶつと独り言を言い、森や荒廃した家(そこで療養している)の中を徘徊し、病人である彼を見張るための取り巻き連中は彼には近づこうとはせず(近づこうとする者は制止される。病人には構ってはいけない、というように)、ブレイクは最初から最後まで本当に孤独だ。孤独で、病んでいて、そして既に魂は死んでいるかのようで。誰も手を差し伸べず、彼もその手を探さず、音を出しても、声を出しても、どこにも届かない。そういう人の状態を延々と見せられるのは、面白くはない。そして、このまま彼が死を選んでも、まったく仕方のないことである、としか思えない。で、終わってしまう。
 撮り方、形式としては『エレファント』とまったく同じである。“悲劇”の一日を、その日その場にいた人々の様子を、いろいろと当時を彷彿させるような出来事や暗喩を含みつつも、淡々と撮っているだけ。それでも私は『エレファント』には強く感じるものがあったけども、『ラスト・デイズ』にはまったく何も感じなかった。無感覚に死に向かう人、というのが描きたかったのかもしれない。“殺す”という衝動が内側に向かう人の心の動きは、他者には絶対にわからない、ということを描きたかったのかもしれない。
 それならばこの映画は完璧だと思う。好きか嫌いか、良いと思うかどうかは別にして。けど、怒りも哀しみもすべて“生きることへの絶望”に塗り潰されたものが“ロック”だとは思わないけどね、私は。まあ、ヴァン・サントは“ロック”を描こうとしたのではないんだろうから、そんなことはどーでもいいのだろうけど。

 アーシアの出番は「えっ、コレだけ?」と拍子抜けするほどの扱い。でも、黒い短髪に眼鏡のボーイッシュなスタイル、Tバック・ショーツ(!)でうろうろしている姿はセクシーだった。キム姐さんは、なんというか映画だろうがなんだろうが、あの落ち着きっぷり、クールぶりは変わらず。あまりに自然に“役者”していたのが流石だった。

 だがそれより何より、一番印象に残ったのは3度ほど繰り返して流れるVelvet Undergroundの【Venus in Furs】である。ブレイクの見張り役として家にたむろする取り巻きのアマ・バンド?の男女(男2人はバイ・セクシュアルという設定だった)が、チーク・ダンスを踊るためにかけるのがこの曲なのだが・・・ジョン・ケイルが奏でるヴィオラの頽廃的な響き、ルー・リードの官能的な呟き唄がゆっくりと時間を腐らせるようなこの美しい曲がスクリーンから聴こえてくるのは、ちょっとした感動ではあった。なんだか、すごく場違いな感じで鳴ってはいるんだけどね。

皐月鑑賞希望メモ

2006-05-09 | 戯言・四方山話・メモ
 GWも終わり、個人的には部屋大掃除の第一段階が終了して、ライヴ行ったりCD買ったり映画行ったりもしたんだけど、心に隙が出来てしまったからか、風邪っぴきになってしまったのであった…。はううう。まあGW半ばくらいから、咳込みがちだったのでヤバイかなーとは思ってたんだけどもねえ。そんな調子で野暮天の極みな『新世界』3連発、頭に悪い血が昇ったかの如きタワゴトばかり書き殴った報いであろうか、或いは気温変化に体温調節がついていけなかったのか。
 拙ブログをのぞいてくださるモノ好きな皆さま方も、どうぞこの時期油断なさらず、くれぐれもご自愛くださいませ。
 では以下、もう皐月も10日近く過ぎてしまったけど、優先順位の高いものから鑑賞希望メモ一覧也。(先月からの持ち越しもいっぱいあるのにねえ。いつものことだけど)

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ナイロビの蜂 … なんつってもレイチェル・ワイズ主演!(賞は助演みたいだけど実質主演でしょ?)ってことで、去年から注目していた映画。高級官僚と活動家のカップルの話、というのも凄まじいですな。有名らしい原作は知らないけど、『シティ・オブ・ゴッド』の監督作品って部分でも、観応えのある映画に出来上がってるんじゃなかろうか。

ジャケット … 一時はてっきり、日本ではお蔵入りかと思ってたエイドリアン・ブロディ主演作がようやく陽の目を~!というだけで嬉しいのである。彼を支える(?)のが、ヘタな男よりオトコ前なキーラ・ナイトレイなのも良し。キーラも好きだわ。スカーレット・ヨハンソンに負けるな!って感じよ。(笑>映画の期待と関係ないじゃん^^;;)

ゴール!STEP1 … 『新世界』を観る度にコレの予告を観て、Oasisの“Morning Glory”が響いてくるだけで「ズルいよー!」と思いつつも泣けてくる、というアホな事態になっております。FIFA公認のサッカー3部作ってだけでも笑うし、私的には1部だけで充分かもしれないけど(プレミア・リーグが好きだから)観ますともさ、ええ。

インプリント ~ぼっけえ、きょうてえ~ … 全米放映禁止の【マスター・オブ・ホラー】オムニバス中の三池監督作、地元日本はオッケーでなにより! コチラも原作は読んでないけども、予想では『オーディション』+『殺し屋一』な感じかな? 今からワクドキです!

嫌われ松子の一生 … 日本が誇る21世紀の大傑作の一つ(だと思う)『下妻物語』に続く中島哲也監督最新作ということで、たとえ主演女優が苦手でも大変に待ちかねていた映画。ボニー・ピンクがソープ嬢とか、スカパラ谷中氏が風俗店マネージャーとかそんなキャスティングも見物ですね~。

ニューヨーク・ドール ・・・ ニューヨーク・ドールズ再結成来日の直前に亡くなってしまったアーサー・“キラー”ケインを中心としたドキュメンタリー。私はドールズのファンだったので再結成来日も行く予定だったけど、彼の死を知って結局行かなかった。ヨハンセンは好きだけど、彼とシルヴェインだけでドールズって言われもね---なんて思ったからですが。改めて、キラー・ケインのために本作は絶対に観ますよ。
 
13歳の夏に僕は生まれた … GW中に開催されていたイタリア映画祭には行けなかったけど、イタリア映画は好きです。子供の撮り方も英国とはまた違う良さがあると思う。これは3月頃に予告を観て、激しく観たいと思った作品。

デス・トランス … チラシ眺める限りだと「ビジュアル・バンドのプロモ?」とか思ってしまうけど、監督は日本アクション映画界を支える下村勇二! そして主演は今や日本でアクションを誇れる男は彼だけか?!な坂口拓!…ま、北村龍平組なワケだけど^^;; それなりに期待を込めて観ておきたいな、と。

★オマケ★ 
ローズ・イン・タイドランド ・・・ コレを初めて予告で観たのも3月頃だったかな? とにかくテリー・ギリアム最新作というだけでも観たい気煽られまくりだったけど、何と言っても女の子のダークな空想世界が中心らしい、ところがツボ。そして女の子のパパ役はジェフ・ブリッジス!元ロックスターってキャラらしいよ(笑>ハマリ過ぎだろ・・・)。

ウルトラバイオレット … コレも『新世界』上映前予告で観て、思わず笑い出しそうになった1本。ミラのガンカタ(@リベリオン)だよ!監督もガンカタの人らしいし! てか、ミラってたら、すっかり女サイボーグ戦士路線がデフォルトになってるのだろうか?(正しくはサイボーグじゃなくミュータントみたいだけど。そして、何気に【AKIRA】入ってる気が・・・) とりあえず話のネタ的には面白そーなんで、公開時に余裕があったら観てみたいですね。
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Welcome to 『The New World』 ③

2006-05-08 | 映画【劇場公開】
 ポカホンタスは、スミスのことを「自由の翼」だと言った。
 彼女は直感でスミスの本質を見抜いていたのだ。自由の翼は一つの場所には留まれないし、縛ることも出来ない。常に未知へ開かれた場所に向かって飛んでいく。それは、実はポカホンタスとも共通する部分でもあるのだが、彼女のあまりにも強いスミスへの恋情は、あるべきバランスを崩していた。
 彼女にとって、スミスはただの男ではなかった。彼は“新世界”そのもので、実際以上の存在と思ってしまい、けれどそれが恋の実体であることをわかるには、彼女は若すぎた。乙女の純情、一途な恋心などと言葉にすれば美しいように感じるけども、本当は恐ろしいものだ。イタいものだ。殊に、何かと暴走しやすい10代の初恋がそのようなものであったなら。
 ポカホンタスはスミスによって初めて恋を知り、そして初めて“裏切り”を知るのだ。(王の愛娘で、部族の中でも特別扱いだった彼女は、そういったことと無縁に暮らしてきただろうから)
 “喪失”を経験したポカホンタスは、もう少女ではなかった。

 ここから映画の後半の始まりとなり、後半ではポカホンタスの少女から大人の女性~母へと成長するドラマが描かれていくのである。

 そこへ登場するのが、もう一人のジョン、ロルフ@クリスチャン・ベイル。
 私はベイルも結構好きな俳優なので、ロルフは後半で場を浚うような美味しい役どころなのかと思っていたのだが、そうでもなかったのが意外である。彼は、とにかく地味の一言だ。ひっそりと目立たず穏やかで、影からポカホンタスを見守る---しかし、それがロルフなのである。ポカホンタスの視点・印象からいっても、スミスの鮮烈さに比べて、ロルフの地味さや目立たなさは当然のことで、しかし、だからこそ彼女は彼によって安らぐことができたのだろう。
(流石はクリスチャン!である。ダテに演技の鬼ではない。が、正直に思ったのは「こんなに女にとって都合のいい男はいねぇよ!」であるのだが…まあ後半の肝はポカちゃんの再生物語なので、そんな年増の黒いツッコミはナシということでね、ハイ;;)

 妻子を亡くすという“喪失”を経てヴァージニアにやってきたジョン・ロルフは、人づてに聞いたであろう人質であるネイティヴの王女の悲恋、その嘆きに囚われたままのポカホンタスに心惹かれるのだが、彼は何故彼女に興味を持ったのだろう?
 傷ついた小鳥のような異郷の少女を助けてやりたいという庇護の心、または似たような喪失を経験した者同士による癒しを求めたのか---私的には、いまひとつロルフの心理はわかりかねるのだが、それでも最初から「保護者」的に登場するロルフは、文字通りの貴族紳士である。ヴァージニアでタバコ栽培を根付かせ、発展させていく基礎を作ったとされるロルフは、農夫の誠実さと辛抱強さでポカホンタスに働きかけ、彼女の半ば死んだような心に懸命に水をやって甦らせようとする。

 ポカホンタスは愛することに臆病になっていた。というより、スミスとの出会いで一生分の恋をしてしまい、彼が去ったときに心の一部が死んでしまった。(台詞では「He killed my god」とまで言ってる気がするが・・・) そんな彼女の前に現れたもう1人のジョン、ロルフ。彼はスミスのような“新世界の象徴”ではなく、彼女に思いを寄せるただの「白い」男だった。
 彼の優しさに応えて、ついにポカホンタスは彼の妻になる。
 ロルフに対するポカホンタスの気持ち、愛情の在り方というのは、恋ではない。スミスに感じたような激しい感情ではない。しかし、それは幻想とは無縁の確かな安心であり、共に生きるにはこの穏やかに支えあう愛こそが大切だということを、彼女は体得していくのだ。そして、ようやく彼女は本来のあるべき自分を取り戻し、再生する。やがて息子を得て、彼女は“母の愛”を知ることで、満ち足りていくのだ。
(母とは、ポカホンタスにとって“大地の精霊”であり、ネイティヴたちの信仰の源ではないかと思うのだが、どうだろうか。ちゃんと調べればいいのだが、、、いい加減ですみません)
 この一連のシークエンス、ロルフとの穏やかな日々の情景に重ねられる彼女のモノローグは、映画の後半で最も熱いものがこみ上げるシーン、クライマックスの一つである。

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 穏やかな幸福のさなかにいるポカホンタスの耳に、死んだと思っていたスミスの消息が聞かされるところが、また絶妙の構成なのである。
 同時に、彼女についに海の向こうの“新世界”への上陸、かの国の王への謁見の機会がやってくる。スミスが教えてくれた言葉の国、彼や夫の国である英国へと、彼女は足を踏み入れることになるのだ。

 ポカホンタスとスミスの再会・決着がなければ2人の物語は終われない。ポカホンタスにとっては過去との決別であり、スミスにとっては残酷な再会である。
 お膳立てするのがロルフ、というのがまた出来すぎな夫、って感じではあるのだが、彼にとっても妻が本当に過去の恋を振り切れるのか、夫婦としてもはっきりしておかなねばならない重要課題であったのだろう。不安を胸に秘めつつ、妻に昔の男に会ってこいというロルフは、相当なオトコマエなのであった…。

 そうして、2人は再会する。私は毎回、このシーンでは胸が詰まって目頭を抑えずにはおられない。
 ポカホンタスの前に現れるスミスは、なかなか彼女の顔を直視することが出来ない。それは、彼にとっては彼女を愛すればこそ、との理由はあっても、結果的には“裏切った”という後ろめたさがあるから、だけではない。別れを決意したときにわかっていたことではあっても、彼女が既にかつて愛した“大地の少女”ではなく、英国風の“ただの女”に変容してしまったことを思い知るからではないだろうか。
 しかし、それはポカホンタスにとっても同じことだ。あんなにも恋焦がれ、神のようにも感じた存在が、実は“ただの男”であったことに、ようやく彼女は気づくのだ。あの頃、悩ましげにスミスが言った言葉を、彼女は思い出しただろうか。「俺は君の思うような男ではない」「君が見ているのはずっと前の俺だ」---その真意を、彼の苦しかった胸中を、彼女は理解しただろうか。
 「君と初めて話すような気がする」というスミスの台詞が切な過ぎる。ヴァージニアの森深く、川を越えて訪れたネイティヴたちの世界に足を踏み入れ、ポカホンタスと出会い、愛し合った夢のような日々。しかし今や夢は色褪せ、壊され、あの頃の2人はあまりにも遠ざかり、完全な過去となっていた。彼は今も尚、自由に、孤独に、未知を求めて彷徨い続ける男だ。
 それでもスミスが再び告げるように、彼が彼女を愛したことだけは真実であったのだ。

 ポカホンタスもまた、彼が去った理由をもはや問いただそうとはしない。それも含め、ポカホンタスは過去を全て受け入れるだけの女性となった。スミスという“新世界”を恋し、求め、失ったものは大きかったけども、換わりに得たものも大きく、彼女は決して後悔していないのだから。

 姿は変わっても、彼女が本来持つしなやかな強さと美しさの不変さに改めて打たれつつ、けれど己の手の届かない存在となったポカホンタスを無言で見送る、スミスのラスト・ショット。
 彼の“新世界”に関する思いの、すべてを語るコリン・ファレルのアップ。これこそが本作での彼のクライマックスであり、このシーンの為のスミス@コリンのキャスティング、と個人的には感涙止まずの名場面である。

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 以上、GWラストの三日連続で書きなぐってきたが、やはり当初断った通り、というか殆どこのブログを始めて以来、一番の駄文シリーズになってしまった気が…自己満足なのに、全然満足いかない出来でお恥ずかしい限りであります。こんだけ書いてるのに、まだ書き足りないがキリないのでこのへんで止めておきます^^;; 
 今回も結局、コリン好きによるコリン礼賛で終わってしまい、ベイルさん以外の俳優さんにも殆ど触れられなかったなあ…。ただ、とにかくポカホンタス@クォリアンカ・キルヒャーの素晴らしさは必見でありますよ。15歳の少女とは思えぬ風格、堂々としたデビュー作ぶりだから! 
 
 しかし、しつこいようだが本作の真髄は俳優の演技に非ず、この映像を体感することにあるので、もし未見の方で本作に興味があるのでしたら、是非とも今週中に映画館で観られたし!なのでありますことよ。(注:今週中で終わる予定なのは関東周辺です…) 

Welcome to 『The New World』 ②

2006-05-07 | 映画【劇場公開】
 さて、やはりここでコリン・ファレルに触れないわけにはいかない。
 ①で私は敢えて「ポカホンタス@クォリアンカ・キルヒャーの為の映画でもあるが、ジョン・スミス@コリンの物語でもある」と書いた。というのも、私はこの映画の中で一番寄り添って観てしまうのがスミスだったからだ。いくつか見かけた本作評価では、軒並み女性からのスミス支持は低く、特にロルフ@クリスチャン・ベイルと比べてしまうとその差は歴然、という感じで、まあ、それは客観的にはわからなくもない。だが個人的には、恋をするのも何かもが初めてだったお嬢様のポカホンタスより、いろんな世間のままならなさを知っているスミス、孤独であっても自由を求めてしまう彼の選択や在り方に、胸を締めつけられてしまうのだ。
 もしかしてそれは、個人的に私がコリンのファンだからかな、とも思ったのだが、公開初日に同行したC.ベイルを愛する友人も私と同じ感想だったので、きっとファンであるかどうかは関係ないのよね。ということにしておこう(笑)。

 監督であるテレンス・マリックは、ジョン・スミスの役はコリン以外にはいない、と早くから決めていたそうだが、彼のどの作品を観て「決めた」のか。邪推&妄想ではあるが、たぶん『タイガーランド』のコリンを観たからかな、と思う。個人的な印象では、『タイガーランド』でコリンが演じたボズというキャラクターは、『シン・レッド・ライン』でジム・カヴィーゼルが演じたウィットに似ている。そして、ウィットのキャラクターは、本作のスミスにも被るのだ。
 そして、スミスはウィット以上に情熱的で官能的で、揺れやすく、繊細で---と言えば聞えはいいが、愛ゆえの苦しみに何度も涙を見せる女々しい男だ。演じるコリンは、犬だか熊だかというほどに毛に覆われた顔、男くささ満点の容貌にも関わらず、その女々しさをまったく自然に表出させていく。その落差にまた、ファンとしてはグッとくる訳だが、監督もまたスミス役にそういった魅力を求めていたのではないだろうか。
 以下は、本作前半をスミス側に立って観た私的解釈である。

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 前半はとくに、実に原初的なエロティズムに満ちた愛の映画である。ポカホンタスとスミスの2人の恋、その描写のなんと艶かしくもきめ細やかなことか! 教えて欲しい言葉をジェスチャーで示すポカホンタス、言葉を教えるスミスに触れる彼女の指、見詰め合う瞳。言葉よりも、お互いに触れ、微笑み、見ることだけで、彼らが惹かれあっていく過程を示していく、そんなシーンの数々に見惚れずにはいられない。そして、ポカホンタスが繰り返す問い「あなたはだれ?」---愛する気持ちと、それを表すもの、言葉と心が一致しないもどかしさを丹念に描写していく前半に、どうしても個人的には思い入れてしまうのである。

 言葉が通じない、肌の色も身に纏うもの違えば、何もかもが違う彼らを引き合わせるのは、最初は好奇心であった。誰もが持つ、未知なる世界への興味---2人にとっての“新世界”。
 英国人たちが降り立った地はヴァージニアと名付けられる。豊かな自然、高い草の生い茂るなか、英国人たちが作ったジェームス砦から離れて佇むスミスを見つめてくる少女。黒い髪、黒い瞳を真っ直ぐに向ける、しなやかな小鹿のような少女。それが2人が会う最初のシーンである。やがて、ネイティヴたちに捕らえられたスミスは、処刑される寸前をこの少女~王の愛娘ポカホンタスによって救われる。王は娘の願いを聞き入れ、更にこう言う。「あの男は海の向こうの世界をおまえに教えてくれるだろう」と。
 ネイティヴの女たちは、スミスが許されると禊払いのような儀式を彼に施し、そのときから彼はネイティヴたちの“客人”のように扱われることになる。そしてスミスが足を踏み入れる世界~彼らの自然と一体化した生活に、何よりもポカホンタスの物怖じしない強い瞳、豊かな大地を体現する無垢の存在に魅了されていく。
 そして最初、眩しげに躊躇いがちにポカホンタスを見つめるスミスの瞳が、やがて熱く情熱的になるにつれて、ポカホンタスにはスミスへの恋心が目覚めていく。海の向こうから来た異人、自分の知らないことをたくさん知っている人、それを教え導いてくれる者に対する恋。それもまた、彼女にとっては初めて知る新しい感情、世界だったのではないか。彼が自分を見つめる眼差し、髪に肌に触れる指先、その全てに大きな意味があるように思えてる。彼女は瞬く間にスミスへの恋に夢中になっていく。「彼が神のように思えてしまう」というほどに。
 スミスの場合は、もっと複雑である。彼にとって、ポカホンタスは自分の存在する世界が忘れてしまった“自然の象徴”だ。彼女とネイティヴたちの中にいると、英国人としての自分を、何が目的でこの地に来たのかを忘れてしまう。彼らの、本来人間がこう在ったであろう姿は自分の中にもあり、それこそが人生の真実ではないかという気持ちになり、ポカホンタスに惹かれる気持ちを圧しとどめることが出来ない。同時に彼は恐らく、彼女の恋心が何処から来ているかを知っている。そして心の奥底には、王の娘である彼女を引付けておくのは有利だという計算、だから彼女を愛してはいけないのだ、という気持ちが潜んでいたのかもしれない。しかし、迷いなく自分を求めてくる彼女を愛しく思う心、それによって得られる幸福感を否定できない。
 まるで夢を見ているようだ、と彼は思う。彼女の世界に同化できれば、どんなにいいか。だから、ポカホンタスに触れる彼の指の動きは、まるで夢の実体を確認するかのように臆病で繊細だ。

 けれど、異人であるスミスはネイティヴの共同体への同化は許されない。それは、族長であるポカホンタスの父ポウハタンの決定だ。娘に言われて助けた白い男には、悪意はまったく見えない。それでも2人が愛を深めていく姿は、彼にとって大きな不安であったから。スミス、というより彼の背後にあるものへの警戒と不安。
 そしてスミスは、英国人が築いた砦に帰されることになる。
 門をくぐり、砦の中の惨状を目の当たりにし、彼の夢は醒める。そこでは飢餓と疫病が蔓延し、子供たちにいたるまで人々の心は荒みきり、“文明国”から来たとは思えぬほどの卑しさと醜さを露呈していた。帰還して早々に、スミスは心ならずも砦の責任者となり、本来の己に課せられた使命に直面するのだ。
 自分たちは何を求めて、この大地にやってきたのか?

 折にふれ、スミスが思い出し涙するポカホンタスとの愛の日々。しかしもう戻れないのだ。戻れないことを痛感するほどに、彼女との思い出の残像が強く甘く呼びかけてくる。ポカホンタスと再会しても彼は「俺は君が思うような人間ではない」と言葉では言うのだが、心は激しく揺れ動く。彼女の姿を見て、彼女に触れると、またあの“夢のような日々”をやり直せるかのように錯覚してしまう。ネイティヴたちとの小競り合いが激化し、または彼らとの交易に応じているときも、そして父王から勘当されたポカホンタスを人質に取ることに反対して拷問されるときも、彼女の声が囁きかけ、彼女と交わした愛がスミスの心を強く捉えている。
 しかし、新たなる使命が祖国から告げられ、ついに人質として砦にやってきたポカホンタスと会って、彼は苦悩のすえに決心し、そして確信するのだ。彼女の元には留まれない、自分は彼女の望む幸せを与えることは出来ないのだ、と。そして---彼女もまた、既に彼の愛した“自然の少女”ではいられなくなってしまうのだ、ということを。

 2人の砦での最後の逢引となるシーンが遣る瀬ない。英国風にコルセットのドレスを着て、靴を履いてポカホンタスはスミスに会いに来る。彼の国の衣装が「似合ってるかしら?」と乙女らしいことを思っているのが、また泣かせるのである。スミスには苦い、彼女の姿だっただろう。彼はポカホンタスには、そんなコルセットで締め上げるドレスなど着て欲しくなかったに違いない。だが、そんなことを言う資格は、すでに彼にはないのだ。
 そして「私たちはずっと一緒」と信じ込んでいるポカホンタスをおいて、彼は新たな旅立ちへと去っていく。

≪③へ続く・・・ことになるとはっ;;≫

Welcome to 『The New World』 ①

2006-05-06 | 映画【劇場公開】
 Come Spirit----映画『ニュー・ワールド』は、精霊に呼びかけるポカホンタスの声で始まる。
 彼女は、風と太陽に向かい、腕を高く上げる。まるで精霊たちからの祝福を一身に受けるかのように。海を見渡す森に住み、水に遊び、輝く太陽のもと大地の恵みを受けて生きる1600年代のネイティヴ・アメリカンたちの世界。
 彼らの平和で穏やかな世界を脅かす者たちが、海からやってくる。英国人たちの3隻の船だ。英国王のための黄金を求め、そして“未開の地”に新しい国をうち立てるために。旧教(カトリック)で腐敗したヨーロッパから逃れ、新教(プロテスタント)の教えを広める使命のために。※
 そのとき英国兵士ジョン・スミスは、船の底の牢に反乱罪の廉で囚われていた。船がアメリカ大陸に近づいたとき、彼は天から差し込む太陽の光を、漏れてくる海水を浴びて微笑む。鎖につながれて尚、彼にとって新世界の光は福音であるかのように。彼にとって、未知の大地を見ることが出来る、それ自体が希望であったというように。

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 人によって「映画を観る醍醐味」の定義は違うと思うのだけど、私にとってはその1つは“体感出来る映画”である、ということだ。映画館の暗がりの中、輝くスクリーンから溢れる映像に音に、時間を忘れて浸り、酔い、溺れるとき---ブルース・リー師父ではないが「考えるな、感じろ!」と本能に命ずる映画と出会えたとき、その「醍醐味」を味わえる贅沢を噛み締める。
 
 『ニュー・ワールド』は、私にとって正しくそういう映画であった。
 公開初日に観て以来、今までで計4回観たが、まだイケる。私は、この映画を観ているときは何も考えずに、ただ感じるままに身を任す。それだけなのだが、観るたびに涙するシーンが増えていき、観終えた後は穏やかで、じんわりとした高揚感に包まれ、けれど何処か夢から醒めたような寂しさが残る。そして、もう一度観たい、味わいたい、と繰り返してしまうことになる。この映画が観れる間は、他はいらない、とさえ思ってしまう。(東京では5/12迄で終わるハコが多いようで・・・3週間で打ち切りとはムゴイ;;) 
 だが決して、この映画は超傑作!とか魂を揺さぶられるような感動!と鼻息荒く言いたてる種類のものではない。ただ無意識に、心が引つけられてならないのだ。

 こういった「観て、感じてナンボ!」な映画について語るというのも非常に無粋な話であり「とにかく観て欲しい」で終わりたいのだけども、さりとて語りたいことがないわけではなく、しかしいくら書いても何かが釈然とせず、どうにも文章表現力の拙さを実感するばかりである。でもなんとかしたい、という悪あがきとして、とりあえず本作について何を思ったかということを、以下に記したいと思う。

 私はテレンス・マリック監督作品は『シン・レッド・ライン』しか観てないのだけど、やはりそれも映画館で観なかったことを物凄く後悔した作品の一つである。観てしばらく茫然としたほどハマり込めた映画だったので、きっと私には彼の作風がタイプなのだろう。
 自然光のみで撮影したという、何処を切り取っても写真か絵画のように美しい構図の映像(環境ビデオか?と思う部分もあるが)、それにぴったりと調和する音楽。繋がらないカットを繋ぐ、人物たちの散文詩の如きモノローグ。考え抜かれているであろう、隙も澱みもない編集。そのリズムにスルッとノッていければ、時間が長いとは微塵も感じない。

 けれど逆に、ノレない・合わない人にとっては、とてつもなく退屈な映画なんでしょうな、たぶん。乱暴に言ってしまえば“雰囲気モノ”だからね(^^;; >余談ながら、私にとって本作と同系統の映画というと、王家衛の『楽園の瑕』が思い当たるのであった)。
 それにしたって、私的ツボ映画にありがちなこととはいえ世間での受けなさ加減がちょっと寂しい。

 所謂ハリウッド的にわかりやすくドラマチックな演出は影も形もないし、台詞さえ最小限に抑え、印象的な映像のみを重ねていくひたすらに詩的な作品であって、またこれほど映画ならではの魅力に溢れている作品にも、そうはお目にかかれないと思う。
 物語は在って無きに等しい。大枠は勿論あるし、それは非常にわかり易い。しかし、重ねられていく映像~記憶の中の残像や心に描く想像の光景、時々で変わるモノローグの主体~そこに何を読み取り解釈するかは観る人によって違うだろうし、そのどれか1つが正しい、ということはないように思う。これは、私は技術的なことはわからない素人だけども、物凄いテクニックとセンスが必要とされる撮り方ではないのだろうか。それが、わずか3作で巨匠と称されるテレンス・マリック監督の巨匠たる由縁だろうか。

 さて本作の大枠は、ポカホンタス@クォリアンカ・キルヒャー(エクセレント! 本作は彼女のプロモ映画とも言えるはず)を巡る愛の物語であり、彼女の生き様を描いた“女性映画”ではないか、と私は思う。
(アメリカの女性生き様映画というと『風と共に去りぬ』が浮かぶのだが、本作の持つ古典性も含めて、実は結構系統的には近い気もする。って、表面的には全く類似性なんかないけども)
 また、自然はどのように文明に飲み込まれてしまうのか、理想がどのように変えられて、違うものになっていくのか。わかっていながら、未知を求めずにはいられないし、もはや後戻りは出来ない。その虚しさと哀しみ、諦念を抱えつつ彷徨うことを選び取るのがコリン・ファレル演じるジョン・スミスである。映画の中では主筋ではないが、これは彼の物語でもある。
 映画の中で、ネイティヴ・アメリカンであるポカホンタスと英国人のジョン・スミスは運命的な恋に落ちる。しかしスミスは自ら去っていき、打ちひしがれる彼女の傍にやがてもう一人のジョン(ロルフ)@クリスチャン・ベイルが現れ、求愛する。ポカホンタスの心はスミスにあるのだけど、ロルフの優しさに応えて彼を夫として受け入れ、やがて母となり心の安らぎを得るようになる。(私は観てないけども、この大枠は恐らく鼠動画版『ポカホンタス』とそんなに変わらないのじゃないか、と思う)

 また本作の舞台である1600年代のアメリカ植民地時代、原住民(ネイティヴ)と英国の入植者たちとの衝突・軋轢という部分が描かれることを過度に期待する向きの方にとっては、思いっきり肩透かしを喰らう展開かもしれない。監督の主眼はそこにはない。ポリティカルな視点は、背景としてさりげなく描かれるに過ぎない。
 スミスとロルフという2人の英国人男性と関わったことは、結果的にはポカホンタスの部族を追い詰めることになるし、英国によるアメリカ植民地化の口実を与えることになる。そして、ネイティヴたちは侵略者たちによって殺戮され、支配され、土地を追われていく---という歴史を私たちは知っているから、あまりに「美しい」ポカホンタスと2人のジョンの愛の物語は、征服者側の都合の良い作り話、と批判されているとも聞く。建国・創生の“国譲り”神話など、その裏側は血にまみれているのはアメリカに限らず何処の国でもあることだ。
 だが、それが何だというのか? ポカホンタスとスミスとロルフの本当のところなんて、本人たち以外誰にもわからない。彼らの間に愛があっては、いけないのか。ポカホンタスという女性(が象徴する被支配者)は、英国人に好きに利用された犠牲者・被害者でなくてはいけないのか。
 それは違うだろう、それだけではないはずだ、というところをマリック監督は描いていて、だからこそ私はこの作品には“女性映画”としての力強さ、正しさがあると思うのだ。
 史実を元にしたとて、映画は映画である。芸術というのは虚実皮膜の間を描くこと、という近松の有名な言葉にもあるように、コレはコレで普遍性を持つ映画の作り方としては大正解!ではなかろうか。(確かに少し、ネイティヴの人たちへの憧憬と理想化は苦笑いな感じだけどもね・・・) 
 人のコミュニケーションと愛の在り方、異種なものへの憧れと失望、それを踏まえたうえでの融合或いは衝突を繰り返す人々の営み、古から続くそれらを描くための素材としてポカホンタスを取り上げたのは、アメリカの原点を描くという意味でも監督にとって必然の作品、だったのかもしれない。

≪②に続く≫

※(5/9記)つい「カトリック(旧)・プロテスタント(新)」と書いてしまったけど、ヴァージニア植民地の場合は英国王直属だから当てはまらないですね、多分。先述の対比が相応しいのはもっと北の、ニューイングランド植民地か。
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