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傍流点景

余所見と隙間と偏りだらけの見聞禄です
(・・・今年も放置癖は治らないか?)

そして…帰ってきた

2005-09-26 | 本・雑誌・マンガ等
 彼岸が過ぎて、ようやく我が天敵の湿度熱気が去り、長月はライヴに映画に読書に久々に充実した日々を過ごしている。…の割に更新が進まない己の怠慢に恥じ入りつつ。
 さて夏が来る前、空前のマイ・リバイバル・ブームだった「あしたのジョー」。来月アニメの「ジョー2」DVD-BOXが発売されることに合わせたわけではないが、あの熱病のような勢いもじんわり戻りつつある。

 『梶原一騎伝~夕やけを見ていた男』(斎藤貴男著/文藝春秋)を、この彼岸の連休でようやく読了した。素晴らしい評伝だった。読み進むにつれ、涙する場面もしばしばあった。著者である斎藤貴男の梶原作品に対する熱い思い入れが伝わるからだけではない。梶原氏縁の人々への多岐に渡る取材、発表作品、そこから浮きあがる梶原一騎の虚実、その複雑極まる人物像の激烈さがしみるのだ。売れっ子漫画原作者という地位は心から望んだものではなく(彼は純文学を目指していたそうだ)彼はそのことと常に格闘し、もがき、大勢の才能ある人々と熱く交流し、振りまわし、そして決裂していく。
 その生き様を、愛はあれど客観的な視点で描いた全10章、正しく魂のこもった労作・力作であった。本書を薦めていた頂いた、拙ブログにはたびたびTBもして頂いてる小倉さんに、心から感謝したい。

 本書では第4章がまるまる「あしたのジョー」について書かれている。斎藤氏はこの作品こそが“彼を滅ぼした最大の源だったのではないか”と推察している。その後の章はある意味で、その検証とも言える。
 そして、読了した後ではその論拠に納得せざるを得ない。本章で知るのは、ジョーにおけるちばてつや氏の占めるウェイトの大きさであり、彼のジョーというキャラクターに対するのめりこみ方である。対して梶原は、ジョーに己を深く投影しながらも、全盛時代の当時は連載をいくつも抱える身であり、ジョーだけに力を注いげたわけではなかった、という事実。それでも、梶原一騎の最高傑作は「あしたのジョー」だ、と誰もが言うのだ。梶原はジョーという作品を愛憎半ばする思いで抱え続けねばならなかった。

 やがて漫画界の頂点に立ち、格闘技や映画興行へと事業を広げるにつれ、荒廃していく梶原の生活・言動に、家族そして兄弟や友人たちは次々と彼の元を離れ、その姿は孤独な独裁者となっていく。
 ことに、一時は師と仰ぎ熱い友情関係にありながら、事業提携の失敗で決別することとなった、極真空手の大山倍達とのエピソードは苦く残る。(大山自身が、彼の亡くなる前に弟子に語ったという言葉には、思わず目頭を抑えてしまった) そして、梶原一騎の逮捕~スキャンダルの発端となった事件における、盟友であり弟・真樹への仕打ち。なにより、ジョーを共に作り上げたちばてつやに与えた、致命的な侮辱には愕然とした。それが「男の道」「男の生き方」にこだわり続けた作品を書いてきた人間のやることか、と思った。
 が…そういうものかもしれない。掲げる理想が高すぎると、到達出来ないもどかしさに却って言動は逆行し、かけ離れてしまうのかもしれない。或いは、理想と思って目指した場所に来るとそこは違う場所で、失望のあまり自暴自棄になってしまうのかもしれない。
 梶原一騎の素顔はしかし、強面な見た目とは逆にシャイで優しい、子供がそのまま育ったような純粋な男だったという。しかしそのぶん、自分のイメージや世間体として作った壁も厚く、ゆえに人並み以上に己や周囲と格闘し、自らの矛盾に苦しまねばならなかったのだろう。それもまた、彼自身と作品の魅力を形作るものだったのだ。

 本書を読んだ後、しばし心に白い余韻が残る。そして、再び「あしたのジョー」が読みたくなる。更にジョーのことをいろいろと考えてみたくなるのであった。

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実は、本書以前にもジョー関連では面白かったものを2冊ほど読んだ。
「教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書」(大塚 英志・ササキバラゴウ著/講談社)は、大塚氏担当のマンガ論とササキバラ氏の担当したアニメ論に分かれ、それぞれに梶原一騎の章と、アニメのジョーを監督した出崎統についての章がある。特に、ササキバラ氏の出崎監督論はジョーを中心に書いており----いやあ、実に赤面するより他ないのだけど、私が熱と勢いで書き飛ばした拙稿で力説したようなことは、既に当然のようにササキバラ氏も更に多角的視点・深い論考を交えて書いてらっしゃったのですね! とりあえず、コチラは全てのジョー2ファン必読、“出崎監督のジョー”論決定版として大推薦。ほか、それぞれの作家論も、その作家のファンであるなしに関わらず読み応えある内容、新書でお手軽価格なのがありがたい本であった。もう1冊は古本で購入した「あしたのジョーの大秘密―矢吹丈とその時代」(高取英・必殺マンガ同盟著/松文館)。高取英氏中心の著作なので、寺山修司関連のことも書いてあるかも、と期待したが、そこはそれほど重要ではなく、あくまでも「あしたのジョー」という作品に関する疑問への一問一答形式。よって、評論や著者の思い入れめいた文章は殆どなく、簡潔かつ客観的な内容なので、やや物足りなさは残る。けれど、意外な拾い物なのは、当時のジョーに関する(主に力石徹の葬式関連)新聞記事の紙面が、まるまる収められていることであろう。新書版に縮小されてはいるが、目を凝らせば紙面は読めるし、リアルタイムでない世代としては資料として貴重に感じた。これだけのために買ったと思っても良いくらいである。しかし…当時、力石は体制の象徴だったのかー(苦笑)。遅れてきた、しかも力石死後の展開のほうに思い入れのある私などには、それはむしろホセじゃないの?と思うのだけど。古参ファンの目には、ホセはどう見えていたのか。気になるところではある。

今度はコミック・バトン

2005-07-08 | 本・雑誌・マンガ等
 色んなバトンが・・・(笑)という訳でハルヤちゃんからちょっと前に受け取りました。え~と、バトンパス関係はコレにて打ち止めにしたいと思います >個人的に。
 今や、まったく現役漫画読みからは引退寸前な私なので、かなり古いのばっかでメジャー作ばかりのセレクトですけど^^;;行きま~す。

【Q1:あなたのコミックの所持数は?】
殆どが実家にあるけど数えたことない・・・今持ってるのと合わせても、たぶん200未満。だと思う。

【Q2:今読んでいるコミックは?】
連載中のものはナシ。

【Q3:最後に買ったコミックは?】
○ 『あしたのジョー』講談社文庫版・全12巻(古本屋にて。今の私の頭の中は殆どコレだ!)
○ 『バットマン・イヤーワン』(邦訳版>細かい会話がよーやくわかった~^^;;)

【Q4:よく読む、または思い入れのあるコミックは?】
思い入れってコトになると、どうしても昭和の少女漫画に偏りが・・・てか、90年代でほぼ終わってるんですが;; やや悩みつつ、80~90年代に絞ると以下のような感じ。

☆日出処の天子/山岸涼子
 この時期、いろいろと並行して読んでた少女漫画は数々あれど(ガラスの仮面、オルフェウスの窓、悪魔の花嫁、エロイカより愛をこめてetc.)ダントツで夢中になっていたのがコレ。いろんな意味でディープ・インパクトな1作でした。当時はラストに「え~?!」となったものの、年を経て読み返すとコレしかないという終わり方で、何度読んでも切ない。

☆カリフォルニア物語/吉田秋生
 これも『日出処~』とだいたい同時期にハマってたかな~。私の中では、吉田秋生の頂点は本作。まるでアメリカン・ニューシネマをそのまま漫画にしたような・・・他に類を見ないレベルの作品だったと思う。画風は殆ど少女漫画版・大友克洋だったけどね;; この後の『吉祥天女』まではファンでした。

☆アリスにお願い/岩館真理子
 本来こーゆー絵は、私は苦手系なんだけど・・・岩館真理子だけは特別例外。フワフワ可愛らしい絵なのに、暗黒青春少女モノという落差にKO。『キララのキ』と迷ったけど、一冊に凝縮された物語としてはやはり本作のほうが凄いかも。何度読んでもラストのくだりは号泣。
 私の妄想としては、栗山千明と宮崎あおいが10代のうちにコレを映画化して欲しかった!のですがねえ~ >現役美少女ならアリス役@成海璃子ちゃんで!(高校生役だけど・・・) 美名子役はショートカットが似合う内省的な子が誰かいれば・・・(理想は、昔の前田愛だったんだが)

☆ZERO/松本大洋
 松本大洋は『鉄コン筋クリート』にもガツンとやられた。けれどたった2巻でコレだけボクサー漫画として完璧なものを描いた、ということも凄い。ある意味で『あしたのジョー』へのオマージュというか、変奏とも言える内容であり、これまた最後は涙が止まりませんでした。

☆さくらの唄/安達哲
 安達哲を知ったのは『お天気お姉さん』(連載当時のマガジンは愛読してた)だったけど、なんつーか本作のシャレにならない思春期グチャグチャのドロドロ具合にはドーンと来ました。こんだけやっといて、一応ちゃんとハッピーエンドってのも茫然。暗黒カオス青春漫画の傑作でしょう。


【Q5:バトンを渡す5名】
うーんと・・・まったくセレクトの予想がつかないだけに是非読んでみたい、AKIさん、フェイユイさん! またまたお願いしてもよろしいでしょうか・・・^^;;  お気が向かなければ落としてくださいまし~。

『この世の果ての家』

2005-04-04 | 本・雑誌・マンガ等
 困ったことだが、映画とか音楽に関する感想文は気持ちと勢いにまかせて書き飛ばすことが多く、そのぶん何やら的を得ない印象だけを語っても、自己満足は果たされてしまう。私はこの映画のこんなとこが好き!とかこの音のココがカッコよ過ぎ!なんてのは主観でしかないもので、言葉は所詮視覚や聴覚にはなりえない(イメージの補足説明にはなっても)。実際に観て、聴いたものには叶わないというエクスキューズがある。というか、それを言っちゃあお仕舞いよ、ってな話だが。
 ところがそれが本となると、話が違う。ましてや、個人的にはここ何年か無かったことなのだが、ラスト近くでは終始ハンカチを目に押し当て、頁を濡らさんばかりに読んだこの小説の素晴らしさを、どう言葉で語ろうというのか。

 マイケル・カニンガムの『この世の果ての家(原題:A Home at the End of the World)』('90)は、深く染み入り痺れるような読後感と、ある種の無力感を感じさせた久しぶりの物語である。
 小説においては、何より冒頭でのれるかのれないかが重要なのだが、本作は書き出しからグッともっていかれた。その文体の独特の香りとリズムをもった美しさ! 原文のほうがより素晴らしさを味わえるのだろうが、私にはそこまでの英語力はない。恐らくは翻訳者の功績によるところも大きいと思うのだが、詩的で、無駄のない、優しくも切ない音楽のような文章である。
 ちなみに、マイケル・カニンガムは映画化した『めぐりあう時間たち』の原作がピュリッツァー賞受賞等で高い評価を受けた人で、本作は彼の長編二作目にあたる作品だそうだ。

 さて本作の主人公は、オハイオ州クリーヴランドで育ったジョナサンとボビーという2人の幼馴染。彼ら2人と、ジョナサンの母アリス、成長したジョナサンがニューヨークでルームメイトとして暮らす女友達クレア(ジョナサンはゲイである)の四つの視点から語られる、彼らの愛と喪失と「家(家族)」についての物語だ。あるいは繰り返す日常をそのまま受け入れて生きる人たちの諦観、そして最後に残されるささやかな希望を維持することについての物語である。
 私は、彼らのことがとてもよく知っている人だ、という懐かしさと悲しさを感じてしまう。
 郊外の、無気力でさびれた田舎町で過ごす人々。或いは都市生活に蔓延する孤独感。帰る「場所」に対する嫌悪感と、矛盾する郷愁。何かが間違っているのに、そこから抜け出せない焦燥と怒り。死を傍に感じる恐ろしさと誘惑。大切なものを失い、荒涼とした世界で、それでも来る日も来る日も繰り返しの日常を生きることの意味。
 それは、アメリカ人でなくとも、また己のセクシュアリティに悩むといった経験がなくとも、とりわけ現代に生きる人間ならば誰しも抱く想いの数々だ。私は4人の登場人物のそれぞれに共感したし、彼らが最後に選んだ生き方にも納得が出来た。
 だから物語の結末は、ハッピーエンドである。彼らなりに行き着いたハッピーエンド。
 ボビー、ジョナサンから語られるこの話は、やはりボビー、ジョナサンの順で語り終わる。この最後のボビーとジョナサンの章がたまらない(私の号泣が止まらなかったのはここだ)。登場人物の誰もが幸せになる、とか何かが結実して大団円、とかそういう終わり方ではない。別離の悲しみは繰り返し、築き上げたものは半ば壊れていくのだが、だからといって彼らが不幸なのかといえば、決してそうではない。
 『この世の果ての家』の彼らに相応しい、切なくもすがしささえ感じる締めくくり。
 こんな決り文句は陳腐で、まさしく優れた文章に対して、稚拙な言葉でしか語りえない無力感を噛み締めずにはおれないが、これぞ傑作文学である、としか言いようがない。

 最後になるが、この小説は70年代のロック好きならより楽しめる部分がある。主人公の2人、とりわけボビーは音楽を愛していて、少年の頃から亡き兄の影響でウッドストックの時代に憧れているという設定なので、いろいろなバンド/ミュージシャンが彼らの生活の彩りとして登場する。印象的に使われているものを挙げるだけでも、ローラ・ニーロ、ヴァン・モリソン、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズ、ボブ・ディラン、グレイトフル・デッド、ブルース・スプリングスティーン、そしてスティーヴ・ライヒにジェスロ・タル、ジャズだがジョン・コルトレーンといったところだ。
 先述したようにカニンガムの文章の美しさというのは音楽的であることなのだが、その「音楽」とはこれらのアーティストに呼応するものかもしれない。

 ・・・えーと。ココで終わるのがカッコイイよな、と思いつつ。
 何故に日本語翻訳版が12年以上も前に出ている本作を、わざわざ今読んだのかを告白しておく。この小説は去年、米国で映画化公開されたのだ。日本での公開は未定だそうだが、その映画版にコリン・ファレルが出ている・・・ちゅーことで。ええ、そうです。目下絶賛開催中コリン祭りの一環だったんですね~(爆)。
 ハマるかどうか試しでいろいろレンタルで観ているうちに、すっかりハマってしまったという、アホっぷりなのだが、この作品に関してはとにかくここまで原作が素晴らしいとは知らなかったので、ますます日本公開を切望してしまう。
 だってコリンがボビー役だっていうし! ジョナサン役の役者さんがちょっと存じ上げない人なのだが、アリス役がシシー・スペイセク、クレア役がロビン・ライト・ペンという実力派女優陣というのもそそるではないか。・・・って、地味?もしかして。ご当地ではゴシップ的な話題はあったようだけど(修正なしのコリンの全裸シーンがどうこう、みたいな^^;;)そんなことはとりあえずどーでもいいだろう!と。というか、別にカッコつけではなくコリンがボビーをやるってことは、ナニが見える見えない以上に、彼の役者としての成長という意味で非常に期待感を抱かせるので、どうにか日本での公開を決めて欲しいものである。(本国では既にDVDまで出てるのに~)

“A Home at the End of the World”--official site (US)

アイルランド系の“血と骨”

2005-02-04 | 本・雑誌・マンガ等
実は目下、恥ずかしながらのマイ・ブーム・バンドがある。
去年後半からじわじわと潜伏し、テレビ放映されたグラストンベリー2004で完全に祭り状態になったのが、バカ兄弟@oasisである。・・・・・・遅すぎるところがクールじゃん自分!などとは到底言えないのだが、とにもかくにもハマっちゃったもんは仕方ない。

で、密林中古店で早速買ったoasisのギャラガー“バカ”兄弟の、長兄ポールが書いた『ブラザース(まんまじゃん!)』を読みながら、何故かふっと思い出したのは、梁石日の『血と骨』であった。
正確には『血と骨』に描かれる父親というか、主人公の家庭環境というか、まあ家族の中に怪獣がいるというか理解不能な暴君がいるというのは、何処の国であろうとこうなるよなあ、みたいなところなのだが。

ギャラガー家はイングランドのマンチェスターに来たアイルランド系移民である。
イングランドの労働者階級の親父、特にアイリッシュはともかく酒呑んでは暴れてパブや往来では喧嘩、家では女房子供をボッコボコというのは、映画や文学等を通して個人的には知っていたわけで、彼らの家族もまたその典型だったというのは別段衝撃的ではない。
しかし、そうした怪獣の“血”を否応なく継いでるギャラガー三兄弟の中での因縁、彼らが付き合わねばならない宿命、のようなものは察してあまりある。どんな親であろうが、受け継いでしまう「血と骨」からは逃れようがないのだから。

バンドを大成功させて文字通り夢を実現した弟二人。彼らの中に潜む怪獣は、それで少しは穏やかになっただろうか。長兄でありつつ常に頼りないと思われていた繊細なポールは、彼の中の小さな怪獣を表出もできず、なだめることも出来ないがゆえ、この本を書いたのだという。
彼の綴る言葉は、決してうまいわけではないが、それだけに返って共感と親近感を覚える。彼の家族への愛は悲しいほどに深い。酷い仕打ちばかりの父親に対してさえ、それを感じるほどに。

「怒りをこめて振り返るな」と、oasisのバカ兄弟のあんちゃんが唄ってるところを、実は先述のグラストンベリーで初めて聴いた。今までちゃんと聴いたことがなかった。あんちゃんの朴訥とした声で唄われる詩を聴いて、涙が出てきた。こんなに染みる唄だなんて、知らなかったのだ。
現実には本当に、思い出すだけで怒りで体が震えるようなことばかりだとしても。それは決して抑えきれるものではないにしても、この唄を聞いてなんとかやりすごす。
イングランドでのoasis人気、観衆の大合唱というのは、そういうことなのではないか。泣くか唄うしかない有様なら、唄うほうを選ぶさ。英国製のドラマで聞いたことがある台詞だが、まさにそんなところなのだろう。
「怒りをこめて振り返るな」は、ノエルあんちゃんが自分自身と兄弟に言い聞かせる唄だ。

そのことがよくわかった本書でもありファンは必読である、と強引に締めくくることにする。
(今更おまえが言うな!って話ですけど)