彼岸が過ぎて、ようやく我が天敵の湿度熱気が去り、長月はライヴに映画に読書に久々に充実した日々を過ごしている。…の割に更新が進まない己の怠慢に恥じ入りつつ。
さて夏が来る前、空前のマイ・リバイバル・ブームだった「あしたのジョー」。来月アニメの「ジョー2」DVD-BOXが発売されることに合わせたわけではないが、あの熱病のような勢いもじんわり戻りつつある。
『梶原一騎伝~夕やけを見ていた男』(斎藤貴男著/文藝春秋)を、この彼岸の連休でようやく読了した。素晴らしい評伝だった。読み進むにつれ、涙する場面もしばしばあった。著者である斎藤貴男の梶原作品に対する熱い思い入れが伝わるからだけではない。梶原氏縁の人々への多岐に渡る取材、発表作品、そこから浮きあがる梶原一騎の虚実、その複雑極まる人物像の激烈さがしみるのだ。売れっ子漫画原作者という地位は心から望んだものではなく(彼は純文学を目指していたそうだ)彼はそのことと常に格闘し、もがき、大勢の才能ある人々と熱く交流し、振りまわし、そして決裂していく。
その生き様を、愛はあれど客観的な視点で描いた全10章、正しく魂のこもった労作・力作であった。本書を薦めていた頂いた、拙ブログにはたびたびTBもして頂いてる小倉さんに、心から感謝したい。
本書では第4章がまるまる「あしたのジョー」について書かれている。斎藤氏はこの作品こそが“彼を滅ぼした最大の源だったのではないか”と推察している。その後の章はある意味で、その検証とも言える。
そして、読了した後ではその論拠に納得せざるを得ない。本章で知るのは、ジョーにおけるちばてつや氏の占めるウェイトの大きさであり、彼のジョーというキャラクターに対するのめりこみ方である。対して梶原は、ジョーに己を深く投影しながらも、全盛時代の当時は連載をいくつも抱える身であり、ジョーだけに力を注いげたわけではなかった、という事実。それでも、梶原一騎の最高傑作は「あしたのジョー」だ、と誰もが言うのだ。梶原はジョーという作品を愛憎半ばする思いで抱え続けねばならなかった。
やがて漫画界の頂点に立ち、格闘技や映画興行へと事業を広げるにつれ、荒廃していく梶原の生活・言動に、家族そして兄弟や友人たちは次々と彼の元を離れ、その姿は孤独な独裁者となっていく。
ことに、一時は師と仰ぎ熱い友情関係にありながら、事業提携の失敗で決別することとなった、極真空手の大山倍達とのエピソードは苦く残る。(大山自身が、彼の亡くなる前に弟子に語ったという言葉には、思わず目頭を抑えてしまった) そして、梶原一騎の逮捕~スキャンダルの発端となった事件における、盟友であり弟・真樹への仕打ち。なにより、ジョーを共に作り上げたちばてつやに与えた、致命的な侮辱には愕然とした。それが「男の道」「男の生き方」にこだわり続けた作品を書いてきた人間のやることか、と思った。
が…そういうものかもしれない。掲げる理想が高すぎると、到達出来ないもどかしさに却って言動は逆行し、かけ離れてしまうのかもしれない。或いは、理想と思って目指した場所に来るとそこは違う場所で、失望のあまり自暴自棄になってしまうのかもしれない。
梶原一騎の素顔はしかし、強面な見た目とは逆にシャイで優しい、子供がそのまま育ったような純粋な男だったという。しかしそのぶん、自分のイメージや世間体として作った壁も厚く、ゆえに人並み以上に己や周囲と格闘し、自らの矛盾に苦しまねばならなかったのだろう。それもまた、彼自身と作品の魅力を形作るものだったのだ。
本書を読んだ後、しばし心に白い余韻が残る。そして、再び「あしたのジョー」が読みたくなる。更にジョーのことをいろいろと考えてみたくなるのであった。
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実は、本書以前にもジョー関連では面白かったものを2冊ほど読んだ。
「教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書」(大塚 英志・ササキバラゴウ著/講談社)は、大塚氏担当のマンガ論とササキバラ氏の担当したアニメ論に分かれ、それぞれに梶原一騎の章と、アニメのジョーを監督した出崎統についての章がある。特に、ササキバラ氏の出崎監督論はジョーを中心に書いており----いやあ、実に赤面するより他ないのだけど、私が熱と勢いで書き飛ばした拙稿で力説したようなことは、既に当然のようにササキバラ氏も更に多角的視点・深い論考を交えて書いてらっしゃったのですね! とりあえず、コチラは全てのジョー2ファン必読、“出崎監督のジョー”論決定版として大推薦。ほか、それぞれの作家論も、その作家のファンであるなしに関わらず読み応えある内容、新書でお手軽価格なのがありがたい本であった。もう1冊は古本で購入した「あしたのジョーの大秘密―矢吹丈とその時代」(高取英・必殺マンガ同盟著/松文館)。高取英氏中心の著作なので、寺山修司関連のことも書いてあるかも、と期待したが、そこはそれほど重要ではなく、あくまでも「あしたのジョー」という作品に関する疑問への一問一答形式。よって、評論や著者の思い入れめいた文章は殆どなく、簡潔かつ客観的な内容なので、やや物足りなさは残る。けれど、意外な拾い物なのは、当時のジョーに関する(主に力石徹の葬式関連)新聞記事の紙面が、まるまる収められていることであろう。新書版に縮小されてはいるが、目を凝らせば紙面は読めるし、リアルタイムでない世代としては資料として貴重に感じた。これだけのために買ったと思っても良いくらいである。しかし…当時、力石は体制の象徴だったのかー(苦笑)。遅れてきた、しかも力石死後の展開のほうに思い入れのある私などには、それはむしろホセじゃないの?と思うのだけど。古参ファンの目には、ホセはどう見えていたのか。気になるところではある。
さて夏が来る前、空前のマイ・リバイバル・ブームだった「あしたのジョー」。来月アニメの「ジョー2」DVD-BOXが発売されることに合わせたわけではないが、あの熱病のような勢いもじんわり戻りつつある。
『梶原一騎伝~夕やけを見ていた男』(斎藤貴男著/文藝春秋)を、この彼岸の連休でようやく読了した。素晴らしい評伝だった。読み進むにつれ、涙する場面もしばしばあった。著者である斎藤貴男の梶原作品に対する熱い思い入れが伝わるからだけではない。梶原氏縁の人々への多岐に渡る取材、発表作品、そこから浮きあがる梶原一騎の虚実、その複雑極まる人物像の激烈さがしみるのだ。売れっ子漫画原作者という地位は心から望んだものではなく(彼は純文学を目指していたそうだ)彼はそのことと常に格闘し、もがき、大勢の才能ある人々と熱く交流し、振りまわし、そして決裂していく。
その生き様を、愛はあれど客観的な視点で描いた全10章、正しく魂のこもった労作・力作であった。本書を薦めていた頂いた、拙ブログにはたびたびTBもして頂いてる小倉さんに、心から感謝したい。
本書では第4章がまるまる「あしたのジョー」について書かれている。斎藤氏はこの作品こそが“彼を滅ぼした最大の源だったのではないか”と推察している。その後の章はある意味で、その検証とも言える。
そして、読了した後ではその論拠に納得せざるを得ない。本章で知るのは、ジョーにおけるちばてつや氏の占めるウェイトの大きさであり、彼のジョーというキャラクターに対するのめりこみ方である。対して梶原は、ジョーに己を深く投影しながらも、全盛時代の当時は連載をいくつも抱える身であり、ジョーだけに力を注いげたわけではなかった、という事実。それでも、梶原一騎の最高傑作は「あしたのジョー」だ、と誰もが言うのだ。梶原はジョーという作品を愛憎半ばする思いで抱え続けねばならなかった。
やがて漫画界の頂点に立ち、格闘技や映画興行へと事業を広げるにつれ、荒廃していく梶原の生活・言動に、家族そして兄弟や友人たちは次々と彼の元を離れ、その姿は孤独な独裁者となっていく。
ことに、一時は師と仰ぎ熱い友情関係にありながら、事業提携の失敗で決別することとなった、極真空手の大山倍達とのエピソードは苦く残る。(大山自身が、彼の亡くなる前に弟子に語ったという言葉には、思わず目頭を抑えてしまった) そして、梶原一騎の逮捕~スキャンダルの発端となった事件における、盟友であり弟・真樹への仕打ち。なにより、ジョーを共に作り上げたちばてつやに与えた、致命的な侮辱には愕然とした。それが「男の道」「男の生き方」にこだわり続けた作品を書いてきた人間のやることか、と思った。
が…そういうものかもしれない。掲げる理想が高すぎると、到達出来ないもどかしさに却って言動は逆行し、かけ離れてしまうのかもしれない。或いは、理想と思って目指した場所に来るとそこは違う場所で、失望のあまり自暴自棄になってしまうのかもしれない。
梶原一騎の素顔はしかし、強面な見た目とは逆にシャイで優しい、子供がそのまま育ったような純粋な男だったという。しかしそのぶん、自分のイメージや世間体として作った壁も厚く、ゆえに人並み以上に己や周囲と格闘し、自らの矛盾に苦しまねばならなかったのだろう。それもまた、彼自身と作品の魅力を形作るものだったのだ。
本書を読んだ後、しばし心に白い余韻が残る。そして、再び「あしたのジョー」が読みたくなる。更にジョーのことをいろいろと考えてみたくなるのであった。
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実は、本書以前にもジョー関連では面白かったものを2冊ほど読んだ。
「教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書」(大塚 英志・ササキバラゴウ著/講談社)は、大塚氏担当のマンガ論とササキバラ氏の担当したアニメ論に分かれ、それぞれに梶原一騎の章と、アニメのジョーを監督した出崎統についての章がある。特に、ササキバラ氏の出崎監督論はジョーを中心に書いており----いやあ、実に赤面するより他ないのだけど、私が熱と勢いで書き飛ばした拙稿で力説したようなことは、既に当然のようにササキバラ氏も更に多角的視点・深い論考を交えて書いてらっしゃったのですね! とりあえず、コチラは全てのジョー2ファン必読、“出崎監督のジョー”論決定版として大推薦。ほか、それぞれの作家論も、その作家のファンであるなしに関わらず読み応えある内容、新書でお手軽価格なのがありがたい本であった。もう1冊は古本で購入した「あしたのジョーの大秘密―矢吹丈とその時代」(高取英・必殺マンガ同盟著/松文館)。高取英氏中心の著作なので、寺山修司関連のことも書いてあるかも、と期待したが、そこはそれほど重要ではなく、あくまでも「あしたのジョー」という作品に関する疑問への一問一答形式。よって、評論や著者の思い入れめいた文章は殆どなく、簡潔かつ客観的な内容なので、やや物足りなさは残る。けれど、意外な拾い物なのは、当時のジョーに関する(主に力石徹の葬式関連)新聞記事の紙面が、まるまる収められていることであろう。新書版に縮小されてはいるが、目を凝らせば紙面は読めるし、リアルタイムでない世代としては資料として貴重に感じた。これだけのために買ったと思っても良いくらいである。しかし…当時、力石は体制の象徴だったのかー(苦笑)。遅れてきた、しかも力石死後の展開のほうに思い入れのある私などには、それはむしろホセじゃないの?と思うのだけど。古参ファンの目には、ホセはどう見えていたのか。気になるところではある。