rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

デビッド・シルヴィアンとレンブラント・ファン・レイン

2011-12-23 23:23:14 | 音楽たちーいろいろ
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David Sylvian

デヴィッド・シルビアンの”ブリリアント トゥリーズ”を初めて聴いたまだ十代の頃、曲のイントロ部分からある一枚の絵が脳裏に浮かんできた。
レンブラントの銅版画の傑作”三本の木”だ。
重苦しい雲の切れ間から射し込む眩い光に照らし出される、身を寄せ合い立つ三本の木。
三本の木は、天に向かって救済を求める祈りの手を、必死の思いで差し出している。
そこに射す光の矢によって、隔絶された絶海の孤島から、救い出される安堵に満ちているかのようだ。

それからというもの、雲切れ間から斜めに射し込む太陽の光を見るたびに、”ブリリアント トゥリーズ”が脳内に流れ出し、ついで”三本の木”がオーバーラップする。
あるいは、暗澹たる気分で、深海2万海里にいる生物のようになり、遥か上にあるであろう光と清涼な空気を求めたくやや上向き加減になったとき、この両者がどこともなく現われ出てくる。

光は、希望であり、慰め、憐れみ、慈しみだ。
今この現在において、”光”はもっとも求められているものであろう。
太陽が人を照らしている間、何が起ころうとも”光”は人の心も照らし続ける。

自分の心に”光”が消えかけたときには、この曲と絵を思い出そう。
わすれずに。


レンブラント”三本の木”

小豆を煮る

2011-12-23 00:00:31 | 食べ物たち
小豆を煮ている。
夕食後、みんなで緑茶を飲んでいたときに、甘いものが欲しくなった。
クッキーやチョコレートではない、甘いもの。
餡子的なものを、味覚が要求していた。
買い置きの小豆がある。
よし、小豆を煮ようと台所へたった。
小豆を水洗いし、たっぷりの水で沸騰させる。
灰汁を煮こぼし、水を替え、煮立ったら弱火でコトコト煮る。
浮き出た灰汁を、丁寧に取り除く。
1時間ほど煮てから火を止めて、蓋をして明日まで放置。
明日は、弱火でじっくりと煮、柔らかくなったら砂糖と塩で味をつけよう。
すると、小豆がぜんざいに変身だ。
暖かくても美味しいし、冷ましてバニラアイスと食べるのもいい。
お餅や白玉団子もいけるし、アレンジは気分次第。
家族で一緒にぜんざいを食べる。
とてもいいことだと思う。

アンソール”首吊り死体を奪い合う骸骨たち”

2011-12-21 23:24:23 | アート

首吊り死体を奪い合う骸骨たち

ベルギーの19世紀から20世紀にかけて活躍した画家、ジェームズ・アンソール。
同世代に、ベルギー象徴主義のフェルナン・クノップフがいるが、社交的にも経済的にも成功していたクノップフと違い、アンソールは屋根裏部屋に引きこもって制作に精を出していた。
アンソール自身、自分のカリカチュアに甲虫の姿をとって描いている。
それを見て、アンソールのことを、美男子で華やかに成功を収めているクノップフに対して勝手に敵視して、いじけているいじけ虫に思うようになった。
そんなアンソールは、屋根裏部屋の裏窓から世間をこっそり覗き見、だからこそ、人の愚かさ醜さを感じ取り、絵にできたのかもしれない。
そして、何より自分の心の中をじっくりと観察できる環境にあっただろう。

この”首吊り死体を奪い合う骸骨たち”、風刺が効いている。
彼が意図したのと違うだろうが、昨今の世情と重なり見えてしまう。
おや、そういう自分も引きこもりのいじけ虫。
関東の辺境から、世の動きを眺めているのであった。

”ジリジリ”我が家での炭酸の通称

2011-12-20 22:33:21 | つぶやき&ぼやき
目の前で、我が家の男どもが炭酸水を飲んでいる。
この二人、炭酸がことのほか好きなのだ。
炭酸を飲んでいるとき、まるでワインのテイスティングをしているかのように、眺め、嗅ぎ、音を聞き、口に含んで、咽喉越しを楽しみ、余韻に浸る。

いまだに、我が家では、炭酸飲料のことを”ジリジリ”と呼んでいる。
中くらいの人が小さいときに、炭酸の説明で言ったのが始まり。
だから、今も、「ジリジリ飲むか!?」と声掛け合ってから飲んでいた。

どこの家庭でも、このような言葉があるのではないだろうか?
その家だけの言い回し。
その言葉が、いつまで使われるのか分からないが、小さな家族の絆として、我が家族に刻まれる。
”ジリジリ”、我が家での炭酸の通称。

笑い

2011-12-19 00:28:40 | 随想たち
昨日の”THE MANZAI”を見ての、笑いの質について、家人と話していた。
繰り返しから生まれる笑い、話の飛び方落差から生まれる笑い、ずれから生まれる笑い、けなし落とす笑い、世相を皮肉る笑いなど、その芸をする人たちの方向は千差万別。
家人と意見が一致するのは、下ネタに頼ったり、けなし罵倒したり、固定ギャグを頻繁に入れ込んでくる、そんな笑いを好まないということ。
不快感を与えられるのは、笑いなのだ、真っ平ごめんなのである。
自分は、漫才ブームを中学生の頃経験したが、どうにもそこで繰り広げられる笑いが好きではなかった。
ここ近年のお笑いブームも、やはり懐疑的だが、中には腹を抱えて笑えるものも確かにある。
家人や中くらいの人が見ているお笑いを隣で見ることが多くなり、それなりに面白いと思う芸人達もできた。
テレビ界やお笑い界が、盛り上げようと企画する”M-1"なども見てきた。
そこで1位をとる芸人よりも、2番手のほうが自分にとっては良い芸人である確率が高い。
笑いがソフトで、インパクトに欠けるのか?
たぶん、自分の笑いのツボと、大方の笑いのツボが、違うのだろう。
それは、個人の趣向によるから致し方ないことなのだが、お笑いの芸にしても、人が傷ついたり不快になるネタは、どう考えてもよろしくない。
もっとも、おおっぴらにいわゆる不適切発言ができないでストレスをためている方々の代理人として、お笑いのネタでみなの溜飲を下げている効果があるにしてもだ。
個人主義が万能というわけではないが、全体主義、同一化希求体が席巻しているこの国において、”異”であることの不安、”異”を排除しようとする風潮が、人々を圧迫している。
自分はどう見てもはみだし者なので、過剰反応しているかもしれないが、卑屈な笑いは、人の品性を貶める。
”笑い”は、人の心と体を活性化する重要な働きがあるというではないか。
貧しい”笑い”では、その効用も上がらないだろう。
どうか、心底楽しめる”笑い”をしよう。
活躍している芸人の皆さん、なるべく不快な笑いは扱わないで頂きたいと、お願いします。
笑いに毒はつきものだけれど、隠し味、薬味程度にとどめていただいて。