rock_et_nothing

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公園の必然性、暮らしのオアシス

2011-01-26 16:05:15 | 随想たち


ラクウショウの気根が、木の精霊の集う姿に見える。
じっと、何かに聞き耳を立てているかのように。

幼い頃から、公園を歩くのが好き。
大きな木の間を駆け回り、木漏れ日をめがけてスキップし、落ち葉を踏みしめ音を楽しみ、好みを拾って宝物にする。
春夏秋冬どの季節にも、公園は楽しみを与えてくれる。

地方でも、大きな市には、整備された公園がある。
歴史的に由緒のある公園を母体としたものや、文化施設に付随したものなど。
しかし、小都市、町や村になると、公園といった概念が存在しないかのようになる。
木や沼、川は、自然に身近にあるから、あえて手を加えた遊歩道や木立は必要ないかのようだ。

生活様式の変化で、ガスや石油、電気が普及して、燃料の調達が便利になり、動力の主原料の変化によって、薪の用途がなくなった。
それで、薪の供給地里山の役目がなくなり、山や雑木林に人の手が入らなくなって、篠や蔓が蔓延り荒れ放題の様相だ。
家々が立ち並び、田畑以外のところは、鬱蒼とした雑木の山となっては、目の保養はおろか自然の旺盛な力のまえに、心の休まる余地を見出すことはできない。
人口比で公園を作る基準が適用されるならば、田舎はまったくの論外になっても仕方がないが、さりとて人の暮らすところ、既存のものを利用して公園を作れるのであれば、全て宅地に転用することなく、それも活用法の一手と思う。

先日、地方都市のベットタウンとして成長した町にある実家周りを歩き、旧市街の空洞化と畜産試験場跡の保留地を見て、こんな考えが浮かんだのだ。
地権者が混在する旧市街は、まとまった土地活用が困難だし、地の利を生かしそれに見合った活用方法がある。
一方、旧市街地から程遠くないところにある「畜産試験場跡地」には、ある時期まで手入れされていた立派な樹木と木造二階建ての洋館風建物、研究施設が残されている。
現在は、「市民公園」として、そのままの状態で保存されているが、恒久的ではないと注釈付だ。
場所的に、市街地・住宅街の中心なので、もしこれらを取り壊すことなく、整備しなおし、市民の憩いの場として保存開放できれば、潤いのある街づくりになるだろう。
この町は、国際的音楽啓蒙活動に力を注いでいる。
ならば、なおのこと街づくりも手を抜いてはいけないのではないか。
地域活性化には、街の理念の差別化も、大きな要素となるから。

音楽と市民の憩える公園の街、一種の桃源郷、暮らしのオアシスとなりえるだろう。