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アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

”エンダーのゲーム”と”インセプション”

2014-10-27 12:42:42 | 映画
久々にDVDを借りて映画を見る、”エンダーのゲーム”と”インセプション”。
まずこれらを選んだ基準は、作品の時間が110分を超えていること。
家人によると今まで見てきた映画の当たりはずれから推して、まともにストーリーを作ろうと思ったなら100分以下では難しいとのこと。
次いで大切なこと、セックスシーンがなく残虐なシーンもないものだ。
いわゆるハリウッド映画に付き物のこの2つ、これをはずすと格段に映画の選択肢は狭くなる。
パッケージの裏にあるあらすじといくつかのシーンの画像を入念にチェックして、今回はこれに落ち着いた。

”エンダーのゲーム”は、これこそ子供も観られる優等生。
設定もわかりやすく、順を追ってテンポよく展開されるストーリー、厳選された登場人物数、後は主人公が少年というところが感情移入しやすい。
もちろん、戦うべく宿命付けられたというよりはむしろ大人の大義に絡め捕られていく少年たちに危険を感じないでもないけれど、物語として楽しむには上出来だ。
久しぶりに繰り返してみたいと思える映画だと、家族で一致した。

”インセプション”も、安易な2つのオプションがない映画。
でも、多重世界の設定に子供は混乱したようだ。
たぶん、合わせ鏡で遊び夢想したことがあれば、またはそれこそ自分の見る夢の世界を楽しむことがあれば解りやすかったかもしれない。
自分としては、割りに気に入った映画だ。
あの都市空間の質感が、時々見る夢の世界に似ているからだろうか。
夢の中でこれは夢だと思うこともしばしば、あまりに夢を楽しみすぎてそれこそ主人公コブの妻のモルのように夢から出たくなくなるときもある。
調べると、この作品にある迷宮のような世界観は、なんとホルへ・ルイス・ボルヘスの作品に発想を得ているとのことで、なるほどこの作品に興味を持つのは納得できると思い当たる。
モロッコの迷宮のようなタンジェ、パリのビル・アケム橋、なかなかいい空間だ。
これはもう、ストーリーにというよりも世界観がよかった。
けれど、インセプションということに関しては、ただならぬ危惧を抱いている。
刷り込み、洗脳、知らずに自分の身にも降りかかっているこれらのものに不気味さと拒絶を感じている。
でも、それを見極めるのは到底できそうにもないのだ。

”エンダーのゲーム”を観てからの”インセプション”、なんともいえない気分になったのは否めない。

「宇宙兄弟」稀に見る爽やかな鑑賞後

2014-03-15 23:57:47 | 映画
星を見るのが好きだからというわけではないが、テレビで放映されていた実写版映画「宇宙兄弟」を観た。
コミックはまったく、アニメは数回見ていたくらいの、特別ファンということもない。
インフルエンザで寝ている小さな人の様子を気にかけながら、家人と何気なくという感じだ。
主人公たちが子供の頃に抱いたまっすぐな夢を追いかける姿は、とても輝き、こそばゆいくらいに憧れを刺激する。
誰しもシンプルに生きたいと願ってはいても、そうならないのは世の常、貫くことの難しさ。
フィクションだから夢物語と言い切ってしまっては身も蓋もない、フィクションだからこそ描かなくてはならないとはいえまいか。
夢、人との強い絆、共に立ち向かう仲間、分かち合い、他者を認める寛容な心、自尊心、報われる努力、自分の存在意義、多くのものが盛り込まれていて、それを叶えていく主人公は、人がなりたい理想像だろう。
ときには、そんな夢物語の世界に浸ってみて、無垢な幼心を思い出してみるのも良いではないか。
家人と映画を観終わったあとに、久々に爽やかな気持ちになれたと語り合った。
現実の重さを一時でも無重力にしてくれる、良い映画だったと思う。

残酷な世界に生きて、ジャン・レノ”レオン”

2013-12-10 22:11:18 | 映画

Sting- Shape Of My Heart

ジャン・レノ主演の”レオン”は、パリのいたるところにポスターが張られているのを見ていたが、映画自体は日本の小さな映画館で見た。
季節は確か冬、平日の昼下がりで館内にはほとんど客はいなく、私と友人の貸切といってよいほどの状態だった。
映画が始まった途端にもうすっかりと物語の中に引き込まれ、残酷な世界に絶望しながらも孤独な人間が生きようとするやりきれなさがいっぱいの展開に、胸が締め付けられていた。
どんな苦界に生きていようとも、人は希望を見出そうとするし、愛を求めている。
天涯孤独、幼い頃それを覚悟したこともあった自分は、その途方もない恐ろしさがフラッシュバックし、レオンとマチルダになおさら感情移入したのかもしれない。
そして、スティングの音楽は、とてもこの映画に合っていた。
エンディングロールのころには、涙が止め処なく溢れ出たのはいうまでもない。
だから、今もこの曲を聴くと、心がきりきりと締め付けられ目の奥が熱くなるのだ。

心のおもむくままの人生、”オール・ザット・ジャズ”

2013-10-21 23:00:13 | 映画
1979年のボブ・フォッシー監督”オール・ザット・ジャズ”は、先日読んでいた筒井康隆『敵』の主人公が落涙しながら見入る映画として取り上げられていた。
その主人公の愛視聴する映画のもう一つに『ダウンタウン物語』があり、自分のその映画がとても好きな縁つながりで”オール・ザット・ジャズ”を観てみる気になったのだ。

俳優・振り付けし・演出家と何でもござれの監督ボブ・フォッシーの自伝的映画ということもあって、ショービジネスの世界が舞台。
酒・女・ドラッグは当たり前のものとして表現の可能性を突き詰めていくギデオンの姿は、日本の芸事の世界でも通じてる。
表現に携わるものにとって常に恐れているのは”並””凡庸”で、非凡であろうとするには常に心を開放していなくてはならない。
だから善も悪もかまっていられず、良心など足かせ以外のものでないということにも一理ある。
その結果、周りにいる者たちは常に振り回され、傷つくのだ。
さしものギデオンも人の子、時には自分の行いを振り返り後悔することがあっても、最大の関心事である”表現”を萎縮させることを恐れる気持ちを凌駕しはしない。
死の間際まで、彼の心は表現することを欲している。
大なり小なり”表現”に携わる者にとって、ギデオンは理想だろう。

映画を見ているときは、家族も一緒にいたので集中の仕方、のめりこみが足りなく、いや心のどこかに感情のブレーキがかかっていたせいもあって、エンディングロールが流れても感動が薄かった。
加えて家人の『自分の力量をこれ見よがしにする演出が鼻につく』など曰ふ差し水も、感情を苛立たせて、映画の余韻を楽しむことができなかった。
その後、つらつらと映画を思い起こすうちに、表現者の業に素直に身をゆだねられる者の偏ってはいるがその幸せに羨望を覚えた。
表現の領域に羽ばたくには、決別しなくてはならない重力が存在するのをひしひしと感じるがゆえに、できない自分の矮小さを哀しく思うのでもある。

どうなのだろう、儀助もそう感じたから、涙を流したのであろうか。
シラノの「貴様達は俺のものを皆奪る気だな、桂の冠も、薔薇の花も! さあ奪れ! だがな、お気の毒だが、貴様達にゃどうしたって奪りきれなぬ佳いものを、俺ゃぁあの世に持って行くのだ。それも今夜だ、俺の永遠の幸福で蒼空の道、広々と掃き清め、神のふところに入る途すがら、はばかりながら皺一つ汚点一つ附けずに持って行くのだ、他でもない、そりゃあ、私の羽根飾(こころいき)だ。」に憧れるのも、同じような気持ちによるものなのかと、自分の心を覗いてみるのであった。

『モラン神父』と『トーマの心臓』

2013-10-15 23:28:29 | 映画
1961年のジャン=ピエール・メルヴィル監督で、ジャン=ポール・ベルモントとエマニュエル=リヴァ
主演『モラン神父』は、モノクロ作品で抑えられた演出が、哀しく切ない物語をいっそう深みのあるものにしている。
愛し合いながらもどうにも変えることのできない運命を覚悟を持って受け入れる人の孤独が、やりきれない。
萩尾望都原作のマンガ『トーマの心臓』は、潔癖ゆえに自らの罪深さを許せずに全てを拒み続ける少年ユリスモールは、彼の心の穴を埋めるために自らの命を差し出したトーマの愛を受けいれるまでにどれほど迷い苦しんだことだろう。
やがてユリスモールを取り巻く多くの優しき友人に支えられて心の鎧がはずれ、全てを包み込んでいる大きな愛の存在に気付いて神を感じ悔い改めることができるのだが、誰一人として心が満たされないという切なさを残す。
どちらも人とは心の充足を得られない欠けた存在であることを突きつけてくる。
それは、皮肉なことに”神”ですら埋め合わせはできない。
なんとも哀しく、心臓がキリキリと締め付けられることよ。
では、救いはあるのか。
「また、会おう。」
絶望にくれることなく”希望”を持って生きる、それが人に与えられた唯一の救済と、パンドラの箱に残っていたものだ。