久米宏ラジオなんですけど 小林彰太郎追悼特集
小林 彰太郎(こばやし しょうたろう、1929年 11月12日- 2013年10月28日)。自動車雑誌「カーグラフィック(CG)」(二玄社)の創設者。氏はライオン(株)の創業家一族として1929年に東京で誕生。幼少期より自動車を愛し、東京大学経済学部在学中に自動車ジャーナリストを生涯の職業と決めて自動車誌への執筆をスタート。
『CAR GRAPHIC』編集長(初代)を務めるかたわら、日本自動車ジャーナリスト協会副会長や、日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員会委員長などを歴任。
その活躍は国内にとどまらず、20世紀で最も影響力のあった車に与えられた自動車賞「CAR OF THE CENTURY」の名誉専門委員会副会長や、イタリアで開催されている世界でも有数のクラシックカーコンテスト「ヴィラ・デステ・コンクール・デレガン ス」の審査員としても活躍した。
クラシックカーを愛し、日本クラシックカークラブ(CCCJ)の会長も務めた。
2013年10月28日、肺性心で死去。享年83歳。
◆小林氏の足跡--
小林氏は,1954年に大学卒業後、第二次世界大戦後初の本格的な自動車雑誌であった『モーターマガジン』(日刊自動車新聞社)へ寄稿するようになり、『それでも車は動く』『ロードインプレッション』などの連載が人気となった。また、日本国産車の発展を考え、タクシー専用車や営業車の派生から決別した純オーナードライバー向けモデルの開発が必要であると主張した。
1961年『モーターマガジン』編集部員だった高島鎮雄、吉田次郎氏とともに、当時は書道専門出版社であった二玄社(東京都千代田区)から、写真集「スポーツカー」を出版した。
翌1962年4月、二玄社から『カーグラフィック』を創刊した。創刊号では在日アメリカ軍人から借用したメルセデス・ベンツ300SLロードスターで運輸省村山テストコースを180km/hで走行してのロードテストを敢行した。
1964年にはホンダのF1初参戦を取材するために、発売直後のホンダ・S600をパンアメリカン航空のボーイング707型機でヨーロッパに持ち出し、2ヶ月半で12,000kmを走破するなどした。
同誌では当初編集長を置かずに編集を行なっていたが、1966年、大病から復活した小林は二玄社社長渡邊隆夫に同社取締役・初代編集長への就任を要請され、これを受諾した。編集長となった小林のもと、同誌は日本を代表する自動車雑誌に発展した。
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