先日 納戸の整理をしていたら、昔のアルバムを発見した。
引越しのゴタゴタで行方不明になっていたもので、もしかしたら間違えて不用品
として捨ててしまったかもしれない・・・と諦めていたものだった。
あまりいい記憶のなかった子供時代だったけど、やっぱり懐かしい。
その中で特に釘付けになったのが2枚の写真。
私が4~5歳の頃の写真で、病院に入院していた頃のものだった。
私は腎臓病になった時のことを覚えていない。
話によると、3歳児検診の時にはどこも異常がない健康体だったらしく、なぜか
翌年の4歳の時に受けた尿検査で 尿たんぱくが出ていることが発覚して、以来
入退院を繰り返していた。
小学生の時は症状も落ち着いていたせいもあり、2週間に一度の通院と内服薬だけで
済み、入院もしなかったけど、保育園時代よりも、鮮明に記憶があるのは日赤の
子供病棟での生活がほとんどだったりする。
園児だったため、はっきりした具体的なことはわからないけど、かなり大きな病室で、
園児から小学校6年生くらいまでの子供たちが同じ部屋で入院生活を送っていた。
腎臓病の子たちばかりだったので、私も含め、長期入院の子たちばかりだった。
でも不思議と嫌な記憶などはほとんどなく、かえって家や保育園にいるよりも
格段に楽しかった。(笑)
小学生のお姉さんたちにはよく遊んでもらい、長女だった私には「お姉さん」や
「お兄さん」という存在がとても嬉しく、新鮮だった。
なぞなぞBOOKで遊んでもらったり、お絵かきや折り紙・ぬり絵に着せ替えなど、
今日は何して遊ぶ~??ってカンジで結構毎日楽しかった。
もちろん勉強の時間もあり、私たち園児組は病棟内の保母さんのもとで ひらがな
やカタカナなどの読み書きの勉強。
小学生のお兄さんお姉さんたちは、国語・算数・理科・社会などの勉強をしていた。
勉強が終わると昼寝の時間。
昼寝の後は早々と夕食。もちろん上げ膳据え膳。
何て優雅な生活。。(笑)
夕食が終わると自由時間。お気に入りのお姉さんのベッドへ入り浸り、よくきせかえ
人形などでままごと遊びをしてもらった。
特にお気に入りだったのが新生児室で、産まれたばかりの赤ちゃんがガラス越しに
ズラリとベッドに寝ていて、よく見に行ったりした。
でもそんな優雅な(?)生活にもやがて終わりがくる。
(来なきゃ困るけど。(; ̄ー ̄A アセ・・・)
学校のこともあるからかもしれないけど、小学生のお兄さんお姉さんたちだけが次々
と退院してしまい、気付けば自分も含め、園児たちばかり。
先日見つかった2枚の写真は、ちょうどその頃のものだった。
看護師さん7~8人・先生が2人・そして保母さんと入院していた子供たち全員で
屋上で撮った写真だった。
前列にイスがいくつか置かれ、学校の集合写真のように2列で並んで撮影されて
いたものだったので、結構本格的だなぁと今になると思う。
残った子供たちは4~5人だったので、ほとんど病院のスタッフばかり。
子供たちは前列の看護師さんや先生の膝に抱っこされている状態で、私も看護師さん
に抱っこされて映っている。
私は服用してなかったけど、映っている子供たちはみんなプレドニン
(だと思う。)らしき
ものを飲んでいたのか、顔が異様に丸く、いわゆる副作用独特のムーンフェイス。
プレドニンはその10年後、私も副作用に数年間悩まされることになるのだけど、
ふと、ここに映っている自分と同年代の子たちは、今も元気でいるだろか・・・、
それとも私のように透析を導入したり、透析までいかなくても保存期の状態で
厳しい食事制限などを行なっているのだろうか・・・と、色々考えてしまった。
そして大変だったのが退院後。
退院したらもちろん休んでいた保育園に通わなくてはならない。
行くのが嫌で嫌で、家の柱にしがみついて「行ぎだぐない~~!!」と、毎朝
泣きわめて祖母を困らせたという、痛い記憶がある。(; ̄ー ̄A アセアセ・・・
なぜ行きたくなかったかというと、同年代の子供たちとうまく接することが
できなかったから。
ずっと優しいお兄さんお姉さんと一緒に 子供病棟内で過ごしてきたせいか、同じ組
の野蛮な男子たちにマジ怯えていた。
←別に何をされたわけでもないんだけど。
休み時間になるとみんな外に出て、遊具などで遊んでいたけど、私は一人で教室に
残り、積木やお絵かきなどをして過ごしていた。
保母さんたちはそんな私を気遣って、「○○ちゃん、お外でみんなで遊ぼう!」と
手を引いてくれたけど、そのつど泣いて手を振り払い、教室のカーテンの裏に隠れる
という、手に負えない子供だった。
同級生に交わることができず、毎日子供病棟に帰りたくて仕方なかったけど、そんな
私を見捨てずかまってくれた一人の男の子(Mくん)がいて、その子のことだけは
大人になった今でも 素敵な思い出として心に残っている。
ハーフのような顔立ちの子で、他の男子と違って喋り方もすごく穏やかで、無理に
私を外に連れ出そうとする先生にたいして、「○○ちゃんはお部屋で遊ぶのが好き
なんだよ。」と、止めてくれたりした。
男の子なんだから自分も外で遊びたいだろうに、私に付き合って教室の中でお絵かき
などして一緒に遊んでくれたり、病気で入院していたことも、保母さんか誰かに
聞いて知っていたのか いつも、大丈夫?と声を掛けてくれる優しい男の子。
私は祖母に送り迎えしてもらっていたけど、祖母のお迎えが遅いと、自分はもう
お母さんが来ているのに、隣で一緒に外で待っていてくれたりと、もう容姿性格ともに
パーフェクトな男の子だった。
Mくんがいなかったら多分保育園には行けなかったと思う。
そんな甲斐あって、次第に保育園生活にも慣れた頃、卒園を迎えた。
一緒に卒園する子供たちはみんな同じ小学校に上がるのだけど、私が入学する
小学校は、当時一学年が10クラス(1クラス45人)もあるようなマンモス校で、
全校生徒が2500人を超えるという、今では考えられないような生徒数だった。
なのでその小学校から車で10分くらいの場所に もう一校小学校を設立し、私が
慕ってやまないMくんは、新しい学校の学区内になってしまい、一緒の小学校に
入学することができなくなってしまった。
6歳だった当時でも その時のショックは大きく、しばらくよく泣きながら学校に
通っていた。
思えばそのMくんが、自分にとっては初恋の相手で、以来小中学校では一切男子に
興味を持つことがなく過ごしてしまったという、自分の中では切ない思い出。
入院時代の写真とともに、保母さんに撮ってもらったMくんとのツーショット写真(笑)
が一緒に出てきて、つい思い出に浸ってしまい、すでに2時間が経過して 気付けば
もう夕方。(/||| ̄▽)/ゲッ!!!
(↑浸り過ぎだっつーの。)
あぁ・・・買い物行かなくちゃ。今日はマルちゃん3食焼きそばが特売だっけ。と思って
支度をしている途中、何だか主婦としての生活にどっぷり浸かり、オバサン化した
自分にガッカリし、余計切なくなった。
でもとりあえず、本日限りの特売のミニトマトと焼きそばはゲットしないわけには
いかないので、嘆くのはゲットしてからにしようと思い、速攻スーパーへ。
↑こういうところがもうオバサン。(笑)
思えば色々なことがあった子供時代で、小さいのに長期入院なんて可哀想に・・・と
よく周りの大人に言われたけど、私にとっては楽しい入院生活だった。
それにしても月日がたつのは本当に早い。
こんな身体で あとどのくらい元気に生きられるのかわからないけれど、悔いがない
ような生き方をしなければいけない・・と、改めて思った一日だった。