烏鷺鳩(うろく)

切手・鉱物・文学。好きな事楽しい事についてのブログ

マルセル・プルースト:生誕147年

2018-07-10 | 文学


147年前、つまり1871年の7月10日、マルセル・プルーストが誕生した。
『失われた時を求めて』を代表作とするフランスの作家である。
「20世紀における重要な小説作品を1つ挙げよ」、と言われれば、私はこの『失われた時を求めて』か、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』のどちらかで迷うことだろう。
「意識の流れ」のままに過去の失われた瞬間を鮮やかに甦らせるような、そんな作品である。


私がこの作品を読み始めたのは、2011年の秋頃からだ。実際にはその7年くらい前に第1巻を読んでいるのだが、途中でそのままになってしまっていた。そして、改めて1巻から読んでは中断し、読んでは中断し・・・を繰り返して今ちょうど5巻(ちくま文庫・全10巻)の半分位までに到達したところである。
あの年、人生について思いを深める出来事があった。その時に、本が大好きなのだが「これだけは読んでおきたい」と、ふと思い、「第一篇 スワン家のほうへ」を読み始めたのである。


この作品で最も有名な箇所は、なんといっても「マドレーヌ」の件であろう。主人公が紅茶に浸した一かけのマドレーヌをきっかけに、コンブレーにおける過去の日々が突然甦る。その一さじを口にした瞬間のみが取り上げられることが多いのだが、私は、実はその後に続く主人公の考察こそがこの物語を動かし始める、いわば重要な「助走」のような機能を果たしているのではないかと思うのだ。そして、何よりこの箇所が、プルーストの文体の特徴を良く表しているようにも思えるのである。

私の就寝の舞台とドラマ、私にとってそれ以外の物が、コンブレーから、何一つ存在しなくなって以来、すでに多くの年月を経ていたが、そんなある冬の日、私が家に帰ってくると、母が、私のさむそうなのを見て、いつもの私の習慣に反して、少し紅茶を飲ませてもらうようにと言い出した。はじめはことわった、それから、なぜか私は思いなおした。彼女はお菓子をとりにやったが、それは帆立貝のほそいみぞのついた貝殻の型に入れられたように見える、あの小づくりでまるくふとった、プチット・マドレーヌと呼ばれるお菓子の一つだった。そしてまもなく私は、うっとうしかった1日とあすも陰気な日であろうという見通しとにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間に、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。素晴らしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁のものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせたのであった、あたかも恋のはたらきとおなじように、そして何か貴重な本質で私をみたしながら、というよりも、その本質は私のなかにあるのではなくて、私そのものであった。・・・一体どこから私にやってくることができたのか、この力強いよろこびは?それは紅茶とお菓子との味につながっている、しかしそんな味を無限に超えている、したがっておなじ性質のものであるはずがない、と私は感じるのであった。このよろこびはどこからきていたのか?それは何を意味していたのか?どこでそれを把握するのか?(『失われた時を求めて 1』p.74)

瞬間的に感じた「快感」がいかなるものであるのか、詳しく描写し、その感覚についての分析が続く。主人公はこのように、ある一つの感覚や感情を、それがどういうもので、どこからやってきて、どんな意味をもつのか、というように、まるでその感覚なり感情というものを手のひらの上にのせてじっくり眺め回すようなことを作品のなかでしばしば繰り返している。


マドレーヌの「最初の一口」がもたらした衝撃的なまでの快感、幸福感が一体何であったのか、なぜ感じたのか、彼は何度も繰り返し自身の感覚を甦らせて確認する。その過程を描写した箇所の中に、まさに『失われた時を求めて』がいかにして描かれているのか示唆するような部分がある

それから私はふたたび自分にたずねはじめる、一体あの未知の状態は何であったか、どんな論理的な証拠をもたらすこともなかったが、それがもたらした幸福感の明白性、実在感の明白性が、他の全ての状態を消し去っていた、あの未知の状態は何であったか、と。私はそんな状態をもう一度出現させることを試みようとする。思考の流をさかのぼって、紅茶の最初の一さじを飲んだ瞬間に私はもどる。ふたたび同一の状態を見出すが、新しい光明はない。もう一段の努力を、逃げ去る感覚をもう一度連れもどすことを、私は精神の要求する。そして、私の精神がその感覚をふたたびとらえようとして試みる飛躍にたいするあらゆる障害をしりぞけ、飛躍とは無縁のあらゆる観念をしりぞけて、その飛躍が何に会ってもくじけないようにするために、私は隣室の物音に耳をふさぎ、注意をそらさないようにする。(『失われた時を求めて 1』p.76)

過去に瞬いた時を、「逃げ去」ろうとする過去の一瞬を捕らえようとする。そして捕らえたその瞬間を永遠のものにするべく、彼は描写をするのである。あらゆる感覚を総動員するようにして。
主人公の手によってそっと捕らえられた過去の瞬きは、さらに生き生きと鮮やかな飛躍を遂げて、また別の瞬きへとつながり、そこから花が咲くように新たな物語がひもとかれていく。

ちなみに、プルーストのこうした文体というか、小説の書き方を、ロラン・バルトは「取り木法」と呼んでいる。

取り木法とは、園芸用語で、地上の茎を地中に埋めて他の場所に根付かせる植物の繁殖法を指す。ロラン・バルトは「小説の冒頭におかれた無意味な細部が最後には成長、発芽、開花する」ようにする「この飛び越えによる構成」をこう呼んでいる。(『小説の準備』p.180)

「紅茶に浸したマドレーヌ」の一口は、コンブレーでのレオニー叔母との思い出を突如彼に回想させる。今まで、他の記憶と結びついてしまっていたマドレーヌが、本来の結びつきの相手―コンブレーの思い出―と力強く結びつき直す。

・・・古い過去から、人々が死に、様々な物が崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。(『失われた時を求めて 1』p.78)

冬のある寒い日、母がすすめた紅茶から、感覚の描写と分析がはじまり、マドレーヌの味と強く結びついていたはずのコンブレーの思い出へと飛躍する。そして、さらにこの飛躍は次々と過去の瞬間を鮮やかに甦らせることとなるのである。


過去の瞬間が、「たちまち私に人生の転変を無縁のものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせた」(p.74)。プルーストの手の中にそっと捕らえられたそうした瞬間は、どれも美しく、永遠を感じさせる。最後に、薔薇の木々を熟視して、煌めく瞬間を捕らえようとしているプルーストを描写した文章を紹介したい。

頭を傾け、深刻な面持ちで、彼はまばたきしていた。軽く眉をひそめ、熱のこもった注意をかたむける努力をしているようだった。そして左手で、黒い小さな口髭の端を唇のあいだに押し込んで、じっと噛んでいた。(『事典 プルースト博物館』p.25)



【参考文献】
・『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家のほうへ』 マルセル・プルースト 著  井上究一郎 訳(ちくま文庫 1992年)
・『事典 プルースト博物館』 フィリップ・ミシェル・チリエ 著  保苅瑞穂 監修(筑摩書房 2002年)
・『小説の準備 ロラン・バルト講義集成3 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度』(筑摩書房 2006年)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。