ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

皆既日蝕に思ったこと

2024-04-11 | 自然の中で
Baily's Beads*
ベイリーのビーズは、1999年2月16日 の金環日蝕中にオーストラリアのグリノーでこのように複雑な現れ方をした。
© 1999 撮影:フレッド・エスペナク


皆既日蝕(食)が月曜日にあり、ここ加州の中央部では皆既ではなく、日蝕度40%台で、10時過ぎに起こり、陽が雲に隠れたような程度だった。7年前2017年8月の日蝕は食度が80%台で、割と薄暗くなった。

その以前の1994年5月の日蝕は金環日蝕で、金環蝕帯に近くあった場所だったので、幼い子供を抱きながら庭のコンクリート小道の水たまりにその欠けた太陽の姿を見た。あの時はかなり薄暗くなり、暗くなると、途端に野鳥が庭の木々に戻ってきて、ざわざわとした気配があったのを覚えている。

今回はネットワーク局の中継で観たが、驚いたのは、普段は悲惨な戦場報告や虐待事件などを平静且つ冷静に伝える、ほとんどがバイデンに投票したようなリベラルなリポーターたちが、この天体ショーのスケールの大きさ、美しさに、畏怖の念に駆られたかのように非常に圧倒されて、涙ぐんだり、言葉を失ってしまうほど感動していたことだった。それはまるで無神論者が目前に神の姿を見たような畏怖のようにも感じられた。


人間は偉大で、矮小で、好奇心や探究心が強く、無知で、謙遜を知りつつ、尊大である。太古には、自然への畏れが神の存在を感じさせ、頭を垂れさせたが、今は何をもって人々は神を知るのだろうか。

そんなことを思いつつも、私ごとき極小さな者とて、ベイリーのビーズ現象の圧倒される美しさに目を見張り、How Great Thou Art(わが主よ、わが神、あるいは輝く日を仰ぐとき)の一節が心に広がった。

月 星 を眺むるとき
雷(いかづち)鳴りわたるとき
まことの 御上(みかみ)を思う
わが魂(たま)いざ たたえよ
大いなる御神(みかみ)を
わが魂 (たま)いざたたえよ
大いなる御神(みかみ)を

*Francis Bailyフランシス・ベイリーは、19世紀の英国の天文学者であり、王立天文学協会 (RAS) の創設メンバーの 1人。 保険数理士として金融界で早くに大きな成功を収め、51歳で引退するほどの財産を築いた。この時代、裕福な紳士が真剣な娯楽として科学研究を追求するのは珍しいことではなく、 彼は天文学に完全に専念した結果1836年5月15日の金環日蝕をスコットランドの高台で観測し、日食の中心相の直前と直後に数秒間見られる、月の端の谷間を照らす太陽光の輝かしい点の列を発見した。よってその現象はベイリーのビーズと称される。



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それでも明けない夜はない

2024-04-08 | 不屈の精神



夜が更けてから受け取る電話は不安にさせるが、テキストにも同じ効果があると今晩わかった。ごく親しい人から、ご子息夫人がまだ40歳にもならないのに、悪性リンパ腫に罹患、化学療法を始めたが、それによってますます症状が悪化している、と。

息子たちの友人が30歳代で、同じ病気を罹患した。彼は即時に化学療法と放射線治療を受けた。美しかった波打つ頭髪を失い、同時に体力も衰え、失意のどん底にあり、彼も見守る者も祈りがすべてだった。しかし、その青年は、見事にその戦いに打ち勝ったように寛解して数年になる。そして苦しかった治療を乗り越えたご褒美のように、あの美しい頭髪も蘇ってきた。

"It is better in prayer to have a heart without words than words without heart." (祈りにおいては、心のない言葉よりも、言葉のない心を持つ方が良い。)と言われるように、発病を知った時から、皆願わくば、その友人の快復と健康を、あるいは痛みが少なく、心に安寧があることを、頻繁に心から祈ってきた。忘れてならないのは、祈りの答えは人が望む答えではなく、神の方法による答えであると知っていることである。

悪性リンパ腫を罹患したその女性についても、私たちは早速祈りに彼女の名前を入れた。切実にひたむきな祈りの後、ゆっくりと目を開くと、いつか耳にしたある高名なバスケットボール・コーチの1993年のESPY(Excellence in Sports Performance Yearly Award=スポーツ成績優秀者年間賞)受賞時の伝説化した名スピーチを思い出した。

ジム・ヴァルバーノは、ノースカロライナ州立大学男子バスケットボールチームが1983年シーズン後にNCAAナショナルタイトルを獲得した時のヘッドコーチだった。 その彼がどのように発生したか不明の線癌で末期を迎えていることがわかってから、行われた授賞式は、1993年3月4日で、その日のESPY受賞者、彼のスピーチは伝説となった。そして ESPN (Entertainment and Sports Programming Network=アメリカの国際的なスポーツ・ケーブル・テレビ局)は「V 財団」(ヴァルヴァーノ姓の頭文字V)を設立し、それ以来癌研究に数億ドルを生み出してきた。授賞式から2ヶ月も経ずに、1993年4月28日、ジム・ヴァルヴァーノは47歳で、ノースキャロライナ州ダーラム市のデューク大学病院で亡くなった。

夫と私はその授賞式スピーチをESPNで観ていた。スポーツにはちんぷんかんぷんの私は、取り立てて画面を観るつもりはなかったが、まだ幼かった子供たちを寝かしつけて、いつものように夫の隣に座って子供たちの繕い物をしていた。耳に入るその圧倒される上等なスピーチについ目を画面に向けた。彼の前向きな負けじ魂に、私たちはすぐ好感と尊敬の念を持ったので、それからたった55日後の訃報には涙を禁じ得なかった。

以下はそのスピーチの要約した一部である。


ジム・ヴァルヴァーノ著 ESPY受賞スピーチ

〜(略)皆さんも、自分の人生、貴重な時間を楽しんでください。 笑って、考えて、感情を動かしながら毎日を過ごすことです。ラルフ・ウォルド・エマーソンが言ったように、毎日熱意を持って「熱意がなければ偉大なことは何も成し遂げられない」ということは、どんな問題があっても夢を持ち続けることです。 夢の実現、現実化に向けて努力できる能力を培うことです。

今、私は自分がどこにいて、自分が何をしたいのかを知っています。 私ができるようになりたいのは、自分に残された時間を使って、他の人たちに希望を与えること、です。 アーサー・アッシュ財団は素晴らしいものであり、エイズのために注ぎ込まれた資金の量は十分ではありませんが、注目に値します。 しかし、私に言わせれば、それは癌研究に費やされる金額の10倍です。 

先に今年は50万人が癌で亡くなるだろうと私は述べました。 4人に1人がこの病気に悩まされることになるともお伝えしますが、どういうわけか私たちはこの病気を少し後ろへと押し込んでいるようです。 私は、それを目前のテーブルの上に戻したいのです。 皆様のお力が必要です。 あなたの助けが必要です。 研究にはお金が必要です。 

私の命は救われないかもしれません。 しかし、それは私の子供たちの命を救うかもしれません。 それはあなたの愛する人を救うかもしれません。 そして、ESPN はこの取り組みで私をサポートしてくださり、今夜これを発表することを許可してくださいました。

ESPN のサポートを得るとは、どう言う意味でしょうか? ESPNの財力、ダラーが私を助けてくれて、私たちはジミー(ジム) V (Valvano)癌研究財団を立ち上げているのです。 そしてそのモットーは「諦めない、絶対に諦めない」です。 それが私が残された全ての時間にやろうとしていることです。 

私はこの日とこの瞬間を神に感謝します。 私を見かけたら、微笑んで抱きしめてください。 私にはとても重要なことです。 しかし、エイズであれ、癌研究財団であれ、他の誰かが生き残り、繁栄し、実際にこの恐ろしい病気を治すことができるように、できることならサポートなさってみてください。

これを実現してくださったESPNには、いくら感謝してもしきれません。 私は癌の研究に全力で取り組むつもりです、そしておそらく、いくつかの治療法といくつかの画期的な進歩が得られることを願っています。 来年、アーサー・アッシュ賞を受賞するために再びここに戻ってくるために、知恵を絞って戦ってみようと思います。 来年もこうしたいです!

...そして最後にもう一つ言います、前にも言いましたが、もう一度言いたいと思います。 癌は私の身体能力をすべて奪ってしまう可能性があります。 でも、それは私の意思に触れることはできません、私の心に触れることはできません、そして私の魂に触れることもできません。 そして、これら 3 つは永遠に続くのです

神に感謝致します、そして皆様に神のご加護がありますように。

 
”Cancer can take away all my physical abilities.  It cannot touch my mind, it cannot touch my heart and it cannot touch my soul.  And those three things are going to carry on forever."  ーJimmy V
「癌は私の身体能力をすべて奪ってしまう可能性があります。 でも、それは私の意思に触れることはできません、私の心に触れることはできません、そして私の魂に触れることもできません。 そして、これら 3 つは永遠に続くのです。」
ージミーV







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夢のいくつか

2024-04-05 | 私の好きなこと
イースターの日曜日は光り輝くような日:集う教会の駐車場で



二人の娘たちは、よく父親の夢を見る。特に末娘の夢は往々にして、胸に迫る思いを伴うことが多い。

日曜に集う教会の礼拝堂に隣接する板敷床の大きな部屋は、バスケットボールやバレーボールのできるコートにもなるし、クリスマスやイースターの季節の食事の機会には大きな丸いテーブルがいくつも置かれる。又カルチャーホールともなり、若い人々のダンスも行なわれる。ステージも併設されていることもあり、簡単な音楽コンサートや青少年や子供たちによるお芝居なども催す。緞帳を引くとそこはステージで、ステージの両端は裏方さんや出演者が出入りする狭い場所がある。

末娘の夢では、その小さな場所に父親が座っていた。娘はチェロ奏者として演奏することがあり、夢でもそんな設定らしい。ある時の夢では、ステージに行くほんの一瞬前に父親がステージ端のその狭い場所に折りたたみ椅子に座っているのを見たと言う。父親は蛍光的に光を放つような真っ白な衣服で、娘の大好きな笑顔の父親だと言う。

「最後の晩に、おやすみなさいとお父さんの目を見て話した時よりも、ずっとお元気そうで、私の知っている通りの穏やかで平和なおとうさんよ。」

「おとうさんは私に大きなハグをくれてどれだけみなを愛していることかと言ったの。でも『みなが、特にあなたのおかあさんが悲しみに暮れている時は、辛くて、胸が痛む。』と。それで、夢なのに、私は涙をこぼしながら起きたの。」

末娘にとってそして私や家族にとって、なんとProfound(深い意味)な夢だろうか。

。。。これから悲しくなったら、5分で泣き止み、気持ちを整えて笑みを浮かべるようにしましょう、と私が言うと、娘は、「私も。」と微笑んだ。

しばらく日が経ってから末娘は朝起きてきて、言った。
「おかあさん、また見たわ。今度は前よりも短くて、なんだかおとうさんはとても忙しそうだったの。でも目覚めた時、とてもとても嬉しい気持ちになっていた私なのよ。おとうさんは霊界にいても、私たちをとても愛していると言葉がなくとも、はっきりわかったの。」

クリスマスの頃の夢には、父親は好きだったプレイド(格子縞)のシャツを着て、家族がみな集まっていた居間の椅子に満面の笑みを湛えて静かに座っていた、と言う。娘はそんな父親にすぐ気がつき、逃したくないと、父親のすぐ傍の床に座り、腕を父親の膝に置いたと言う。それでもやがて父親は立ち上がり、壁を抜けて行ってしまった、まるで「ほら、今はこうすることもできるんだよ、」と言わんばかりに。

私は末娘の肩を抱いて、娘の耳元で囁いた。「お父さんが、いらしてくださり、私もとても嬉しいわ。でもおとうさんは、あちらの世界でも、どなたかをお助けするのにお忙しいのよ。そして貴女も十分知っているように、大丈夫よ、復活の朝に、私たちは皆また再会するし、そうすれば、もう時間がない、ということはなくて、永遠なのよ。」

「卒業・旅立ち」から9ヶ月にならんとするのに私たちは未だに夫の、父親のことを話す時、涙ぐんでしまう、5分間でそれは終えようと努力はしつつも。

同時期に長女の見た夢も、毎年繰り返されてきたクリスマスの朝の模様だった、と言う。
クリスマスの朝に、いつものように居間のクリスマスツリーの下で、皆が起き出してくると、最後に階段を父親が降りてくる、と言う。「おとうさんは集まっていた皆を、そりゃあ嬉しそうにニコニコ見ながら降りてきたのよ。それだけ、なんだけれど、起きた時とても幸せな気持ちだったわ。」

私はもちろん、子供たちの誰も創世記にあるヤコブの11番目の息子ジョセフのように、夢を解き明かすことはできないし、ジョセフのように「驚くべきテクニカラーの七色のコート」を持ってはいない。だが、娘たちのこうした夢は単純にそのまま受け止めて、夫が私たちと霊界においてもコンタクトをとっていると思っている。

心のうちにまるでアーリントン墓地のケネディ大統領のお墓にある「永遠の炎」のように愛や思い出や希望を燃やしつづけ、その炎や灯りを絶やさずにいる。

さらに、先日の北部州の姉を訪ねた折のこと。姉は私よりは一回り年上で、長年患っている背中の病気もあり、夫の葬儀には出席を見合わせた。そのしばらく後に私は葬儀のプログラムを郵送したが、姉は仏教徒でも神道でもなく、ましてどの教派のクリスチャンでもなく、そのプログラムにある葬儀の開会の讃美歌がどのような物なのか見当も付いてはいなかった。

その讃美歌は、All Creatures of Our God and King(日本語では、神は造り主、だと記憶する)で、これはアッシシのフランシスの作ったものである。そしてカトリック教徒間では、フランシス(セイント・フランシス)は動物を愛護するセイントとしても有名である。

夫の葬儀のあらましさえ知っていなかった姉は、葬儀の日の晩に、夢を見た。麗らかな春の日のようで、青い木々、そして大海のようにどこまでも美しい草地で、姉ともう一人の姉と私がピクニックをしていると、姉の7年前に亡くなった夫と私の夫が仲良く笑いながら一緒にピクニックに加わり、その二人の他にもう一人多少お年を召したようなヒゲを蓄えた男の方も微笑みながらやってきた。その方がやってくると、みなの周りには多くの動物たちがやってきた、と言う。

その夢の話をしてから、姉は「変な夢でしょう?」と言った。「それがね、私たち姉妹以外は、輝かんばかりの真っ白な服装で、お年を召したような方はローブのような衣を召していたわ。 それにしても、どなただったのかしら。」と言った。

家族で葬儀の準備の話し合いをしている時、次男が「お父さんの好きな讃美歌は、。。。」と言い出し、それを葬儀で歌ったら、と提案したのだった。それが、先述の讃美歌であった。はるかな昔、幼かった次男は父親にどの讃美歌が好きか尋ねたら、そう答えた、と言った。

姉の夢について私が、思うことを伝えると、姉はほぼ絶句したが、私とて、セイント・フランシスまで夢にご登場なったとは、と、とても驚いた。

その後私の滞在中に、再び義兄と私の夫が同じように姉の夢に現れ、ふたりとも、いそがしそうに立ち働いていた、と言う。先の夢と同じ服装で。面白かったのは多くの人々が必要としているモーターホームをもっと買わなければと話していたと言う。霊界でもモーターホーム?その意味はそれこそヤコブの11人目の息子ジョセフもお分かりにならないだろう。それにしても義兄と私の夫は、同じように、人をお助けするにいつでも躊躇なくいた人たちだった。

そんな姉の見た夢も、私たち姉妹の心を和ませ、幸せに感じられたのだから、私や姉は相当単純に作られているに違いない。


愛犬Boo(ブー)も藤の花びらに囲まれてイースターを骨型のスナックで楽しんだ。







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北の癒し

2024-03-30 | 私の好きなこと
これは加州のシェラネヴァダ山脈(アンドロイド使用ではないが、新画像はフォルダーに取り入れられず、とりあえず現在のシェラを)


北部州の長姉の元へこの2年来初めて訪問し、2週間ほどゆっくり過ごしてきた。お互い未亡人となってしまった今、時には涙をながしながら、積もる話は尽きなかった。木々に囲まれた家で、北国の遅い春を、スェーデン製の50年という年季の入ったストーブで頻繁に暖を取った。庭の林から切り出した薪は10年近く乾燥させてあり、気持ちが良いほど燃えてくれた。7年前に他界した義兄がそれまでに切り出した木々を薪にしたもので、いまだに薪は底を尽いていない。

春分の日を過ぎても、病後から手足が冷たくなりがちの私は、燃える薪を見ながら暖を取るのは、まるで世界一のカウンセラーやそれこそ主と話をするが如くに、心身共に癒されることだった。

北の島は寒いが、それでも木々には花々があふれ、水仙があちらこちらに背筋を伸ばしてその健気な律儀さを見せていた。パティオには牝鹿一家が始終訪問し、さまざまな大中小のキツツキは盛んに専用のワイヤー格子のフィーダーにいれた四角く固めた牛脂肪で穀物を混ぜたスエット・ケーキをついばみにやってくる。寒い朝からハチドリは用意した水蜜を吸いにせわしなくやってくる。森からはフクロウが頻繁にその相方への挨拶に忙しく、白頭ワシも通りを隔てた森から飛来してくる。

窓辺に座ってそうした「森の世間」の様子を目にしていると、心のシワがだんだんに伸ばされていく気もして、「帰ったらあれをしよう、これをしたい」という気持ちが湧いてくる。自然の為す技だろう。帰宅しての孫たち、4歳児と10ヶ月児との遊びが恋しくなり、里心がつき始めれば、滞在の目的は果たされていたと思う。10ヶ月児は私を忘れたろうかと思ったが、再会すれば、私に腕を大きく開き真っ直ぐにやってきた。

北へ飛び立った日、雲海の切れ間に見え隠れする緑の森や湖や白い山脈を目にしては、なんども「そうか、ここにもあそこにも、もういないんだ」と、頭では理解していることを、心がなかなか理解しない自分を持て余した。世界の果てまでずっと飛び続けても、もうこの地上には決して探し出せない人。本当はすぐ私のそばにいる気配を感じても、私のその「時」が来るまでは、目には見えず、その手や頬にも触れられない。

飛行機の窓外の輝く雲が、霞がかってしまいそうな途端、突然906年前に鳥羽天皇に誕生した悲劇の第一皇子・崇徳院 の詠んだ歌が脳裏を駆け巡った。

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

(現代訳:川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれるが、末にまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会したいと思っている)

確かに夫は大学時代古事記や源氏物語などの古典を読み、特に気に入っていたのは方丈記だったが、久安百首にある崇徳院 の詠んだ歌を記憶のどこからか引っ張り出してきて、それはまるで、私に伝えたかったかのように。亡くなる前に「なんとか私に連絡してちょうだい」という私のたわごとを覚えていてそれを私に伝達したとしたら、とても彼らしい。

「カサブランカ」の映画が好きで、主演のハンフリー・ボガートも気に入っていた人は、その映画でボガート(ボギーと呼ばれた)が口にした、
”Here's looking at you, kid."
 
和訳すると、「あなたを見ているよ。」は、単に彼は彼女がそこにいてくれてうれしい、彼女がきれいに見える、という意味のいわば戯言を、時折”Here's looking at you, XXX(私の呼び名).” と言ったことがあった。それを私の頭に送ってくれたら、「チャラい!!」と愉快になって私は、突如一人笑い出して、乗務員や乗客は驚かれたかもしれない。

されど地味でも崇徳院の歌は、私にはしっかり受け止められ、希望は捨てまいと再びこれからも邁進してまいろう(どうも古典的になってしまう)、と思ったのは確かである。そして私こそ、見えない貴方に向かって、”Here's looking at you, kid!"と言ってみよう。



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赤い狐と共に

2024-03-30 | わたしの好きなもの


仕事を退いてから、皮のハンドバッグやショルダーバッグは、あまり使用しなくなった。教会やあらたまった会食などには、それなりの小さめの皮のバッグを用いるが、普段の買い物や図書館あるいは本屋でのひやかし、孫たちのスカウト関係の集まり、スポーツ観戦、学校での表彰会、そして自身の検診などに、バックパックを利用することがはるかに増えた。これにはラップトップ(ノートブック型パソコンやマック)を入れるパッド付きポケットが背中側にあり、普段使いに、ちょっとした旅行に便利だ。

このバッグはかなり容量があり、私が化学療法をしていた時は、膝掛けや肩掛け(療法は8月1日からの酷暑下でも常に私には寒気があった)、64オンスのキャンティーン(療法中は特に、頻繁な水分補給が必要)、軽いスナック、本、アイパッド、エアポッズ、騒音を消し、音楽やポッドキャストやオーディオブックスに使うエアポッドマックスさえ入れていた。もちろんアイフォンやお財布、クリネックス、ハンドローション、リップクリーム、そして今は多くの人がその名前さえ忘れている白い木綿のハンカチも。メリーポピンズのカーペットバッグのようにコート掛けさえ入れられたかもしれない(まさか)。

普通化学療法には伴侶や成人した子供なり家族や友人が付き添うが、夫を埋葬したばかりの私は、療法中はひとり。子供がまだ幼い娘たちには4時間も付き添わせたくはなく、送迎だけを依頼していた。

特に帰りは大量の化学薬品を投入後だから、めまいや立ちくらみ、時には気絶までする患者があると聞き、自分では大丈夫と思っていても、人様に迷惑をおかけするのは忍びないために、患者自身の運転は禁物だ。幸い私は悪寒があった以外、概して具合が悪くはならず、化学療法、キモセラピーという名に慄きもせず、淡々と受けられた。ただし帰宅時は疲労と眠気があった。

治療中このバックパックは良き「付き添い」「相棒」であった。本も読まず、音楽も聴いていないと、どうしても思いは卒業した夫がいないことばかりに集中し、切なくなるので、しっかりしなきゃとひっそり自分を叱咤激励しながら、バッグからあれこれ取り出して気を紛らわせていた。

Fjällräven Kanken

それがこのバックパック。スェーデン製品で素朴かつ自然にやさしい丈夫さがある。特にG-1000という素材を使用したものには、石鹸のような固形のグリーンランド・ワックスを必要に応じて自分で塗布することができる。ウォータープルーフではなく、軽い雨などの水滴を弾くためである。

この製品を最初に使い出したのは、ハワイで大学生活を送っていた次男がキャンパスで出会い、妻となったスェーデン人に教えて貰って以来。その半年後、夏休みに帰国していた彼女と彼女の両親に挨拶と結婚の申し込みを決意した。長男は、付き添い・サポートとして次男に付随し、弟と共にこの製品を購入した。やがて娘たちにも広がり、ついに私もひとつ持つことになった。孫たちも子供用のバックパックを持っている。

私のバックパックは、「キモセラピーバッグ」と呼びもして、通常ならば感じないであろう特別の愛着を感じている。物質的なわけではなく、こんなバッグにも頼りたかった私だったのを覚えておくために。点滴の名のごとく点々と用薬をゆっくりと血流に流していくキモセラピー中、時折読書に飽いて窓外を眺めながら、涙を流したのを知っているのもこのバッグだった。そして心を落ち着けて、自己憐憫に陥らないように、このバッグに夫の霊が入っているかもしれない、と他愛もなくそう思った。

なんでも入れられるドラえもんのポケットのように、あるいは本当に夫の霊もバッグに入って私の心の声を聞いていたかもしれない。何故ならば、セラピーを終えて娘の運転で帰宅する時、明日から頑張れるという明るい気持ちになっていたから。生前、夫はいつでもなんでも私の話に耳を貸し、気持ちを鎮めてくれたり、別の考え方を教えてくれたものだった。そして話した後はいつもどんな雲にも銀色の裏がある、と思い起せたのだから。

このようなガミー(グミ)もバッグには入れていた。
今は愛用のデスクトップ・マックの傍に常在でブログのお供。
Skalle(頭蓋骨)という名前のガミー(グミ)。なんて名前で形だろう!






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