れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
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平安中期 12章-4 「62代村上天皇と、天暦の治」

2013-12-04 | 平安時代
(1)第62代 村上天皇
醍醐天皇に続いて天皇親権『天暦の治』を執った天皇

【即位】
第60代醍醐天皇の14番目の子で、61代朱雀天皇の同母弟。

944年、兄・朱雀天皇からの譲位で、21歳で即位し、
醍醐-朱雀に続いて叔父「藤原忠平」が摂関を勤める。

949年、古くからの摂関「藤原忠平」死去後は、摂関をおかず、天皇親権に戻した

【藤原4兄弟と、藤原師輔】
天皇親政に戻ったように見えて、実際は「藤原忠平」の息子達4人が
政治の実権を握り、外戚政治を強固をしている。
左大臣:長男「藤原実頼」
右大臣:次男「藤原師輔」
参 議:三男「藤原師氏」
参 議:四男「藤原師伊」


【外戚政治と、藤原師輔】
藤原4兄弟や、他藤原一族は、こぞって娘を村上天皇の妻に入内させるが、
次男「藤原師輔(ふじわらもろすけ)」の娘「藤原安子」が、
のちの冷泉天皇と、円融天皇を産み、皇后となった為、「藤原師輔」の地位
が高まったが、960年ごろ、師輔は病死している。

【荒れる治安】
村上天皇が積極的に政治(天暦の治)をし、藤原摂関家が派閥争いをし、宮廷内で華やかな平安文化が
花開く一方で、地方は依然として、不穏な情勢が続き、悪化していく一方だった。

・受領が税の取立てに武力を使い、税の拒否にも武力が使われる

・地方に居ついた元国司達の、武装化

・寺院の僧達の武装化

・960年、凶作と飢饉、火災の頻発、郡盗の多発と、内裏の火事による消失

・奇病(おたふくかぜ)の流行

・961年、天暦から「応和」に元号を変更

・967年、在位中に41歳で崩御

【天平文化の開花】
政治にも積極的であった村上天皇は、同時に文人でもあった。

・951年、『後撰和歌集』の勅旨-------平安御所内の七殿五舎の一つである「昭陽舎」という建物に、
               和歌所がおかれ、和歌の撰者5人が集められた。
               この昭陽舎の庭に梨が植えられていた為、「梨壺」とよばれ、
               選者5人を『梨壺の5人』と呼ばれた。
               大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文

・955年、『詩合うたあわせ』--------内裏内で行われた、左右に分かれて漢詩を詠みあい、優越をつけて
              戦う遊びである。闘詩とも言う。

・『清涼記』-------------村上天皇が著者だといわれる







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