(1)荘園の発達
荘園とは、貴族や寺院が私有地として広げた土地。
8世紀(奈良時代)------貴族や大寺院が、自ら開墾した墾田地系荘園
10世紀(平安中期)-----国司が荘園を管理して、荘園主と対立し、武士が発生する
11世紀~(平安後期)---雑役免系荘園・寄進地系荘園・国免荘・官省符荘と
不輸不入の権
(2)8世紀、初期の荘園
【奈良時代の荘園】
8世紀の奈良時代では、口分田が不足した723年に、新しく開墾した土地は
三代だけ権利をもてる『三世一身法』が出された。
743年には、開墾した土地の所有を永年認める『墾田永年私財法』が出た
結果、貴族や寺院や豪族が、農民を使って開墾した私有地(荘園)を広げていった。
これら自ら開墾を指導した荘園を「墾田地系荘園」とよぷ。
開墾が金持ちに有利だったのは、開墾に必要な鉄製の農具が、官位を持つ貴族にのみ、
朝廷から半年ごとに支給されたためである。官位によって、鍬の本数がかわる。
(官位一位---140本/半年 官位二位---100本/半年 など。)
【平安中期の荘園】
10世紀の平安中期ごろには、金持ち同士で土地を奪い合った結果、
口分田の公地の農地や、共有の山川までも、荘園に組み込まれていくようになる。
次第に、皇室までも荘園を持つようになり、天皇の名のもとに開墾した地を
「勅旨田(ちょくしでん)」といい、役所が開墾した地を「公営田(くえいでん)」
とよぶ。
こうして荘園が増加すると、税収が入らず、国の財政が逼迫していく。
分け与えられた口分田は、公地に戻らず、農民の間で世襲されていった。
また、公地の土台であった戸籍制度は、国司の怠慢により、虚偽内容が横行し、
制度そのものが成り立たなくなっていた。
(2)国司と受領
【国司】
朝廷は、地方の班田収受や律令を維持する為に、朝廷から4~6年の任期で
国司を任命して、地方自治と律令の維持を任せた。
国司には「守もり」→「介すけ」→「掾じょう」→「目」の四等官の階級がある。
【遥任国司(ようにんこくし)】
国司の最高官位の「守」は高級貴族で、基本、都に居て現地には赴任せず、
代わりの者や、下の位の者が現地赴任した。
京に残って、赴任しない国司の事を、遥任国司(ようにんこくし)という。
【受領(ずりょう)】
現地赴任する国司の中の、現地最高責任者を受領ずりょう という。
国衙の実質的な最高権力者として、権力と財力を蓄えていった。
国司の最低位「目」の代わりに、現地赴任する者を「目代」という。
国に一定率の税を納めれば、あとは自分の私財とできたり、
班田収受がなりただず、徴収した税を、我が財産として蓄財するなどして、
国司、受領は、豊かになることができた。
【勘解由使(かげゆし)】
国司の不正をチェックする機関として設置されたのが、勘解由使(かげゆし)である。
国司交代の際に、厳しくチェックし、引継ぎを厳しくした。
【地方に居つく国司・受領】
地方に居ると、徴収した税を我が物にするなど、莫大な財産を得る事が出来るうえ、
京に戻っても、中央官僚は藤原氏が独占しており、中央に職を持てない貴族達は、
国司の任期が終わっても地方に留まって、地方豪族として棲みつく者がでてきた。
のちに武士として活躍する平家・源氏もこうして地方に定着した貴族である。
地方国司がいかに裕福であったかは、『今昔物語』の「いもがゆ」によく顕れている。
ある中央官僚が「いもがゆを腹いっぱい食べたい」ともらしたところ、たまたま
地方から上京していた、越前国司の藤原利仁が、官僚を田舎に招待し、
いもがゆを腹いっぱい御馳走した、という話である。
(3)不輸の権、不入の権
10世紀半、荘園の権力が増大していく。
【荘園の寄進】
権限を強くした国司に対抗して、税の免除する方法として編み出された策が、
有力寺社や、国司より位の高い貴族に、自分の荘園を寄贈し、
その貴族へ直接税を上納して、保護を受ける方法であった。
有力寺社へ荘園を寄贈-----------雑役免系荘園
有力権力者へ荘園を寄贈---------寄進地系荘園
国司によって免税をうけた荘園---国免荘(こくめんのしょう)
中央政府によって免税をうけた荘園---官省符荘(かんしょうふしょう)
【不輸の権】
有力寺院、有力者の荘園、朝廷より正式に認められた荘園は、
租庸調の税を出さなくていい、という権利。経済的独立。
【官省符荘】
太政官、民部省の正式な許可を得て、免税の権利(不輸の権)を得た荘園。
この太政官が、藤原摂関家の事で、藤原家に荘園を寄進することで、不輸の権を
簡単に受けることができた。
【立券荘号】
不輸の権を受ける為の手続き。
領主の申請があれば、朝廷が現地に使者を派遣して、券文(証明書)を作成する。
この免税権利の為、藤原北家に荘園を寄贈するのが一番効果的であり、
藤原北家は、最大の荘園領主となっていく。
【不入の権】しかし、こうした有力貴族の荘園にも、「検田使」が調査に入るようになった為、
藤原北家に依頼して、検田使の荘園立ち入りを禁ずる権利を得た。
これを『不入の権』という。
『不輸・不入の権』を持つ荘園が、「完全荘園」で、藤原北家の荘園がそれであった。
(4)藤原北家の繁栄
朝廷で一人勝ち状態だった、摂関家である藤原北家は、国家の財政難の傍らで、
荘園制度によって、巨万の富を築き上げていく。
低級中央官僚でいるより、地方国司になった方が、富が手に入る為、
藤原北家に貢物を持って、国司に任命してもらえるよう頼みにいく。
↓
願い叶って国司になれば、税を免除してもらう為に、荘園を寄贈したうえで
上納税を藤原家に払う。
↓
何度も国司に任命してもらえるよう、藤原北家に依頼する
↓
中央官僚も、地方国司も、地方領主も、藤原北家に対して、
こぞって我先にと、贈物を届けに来るようになる。
↓
京に残った国司(遙任)は、藤原北家の経済的支援を主な仕事として働く。
↓
藤原北家は、地方からの賄賂の資金と、朝廷トップとしての資金の両方を握り、
また生活費などは国司からの貢物で賄い、巨万の富を築いていく。
国の財政が荘園によって圧迫され、官に禄(給与)を出せず、
貴族は、自分の荘園からの収入に頼らざるを得ないという悪循環。
しかし、荘園での私腹を肥や過ぎると、国の財政が傾く為、
藤原氏は難しいバランスでの政治が必要であった。
荘園とは、貴族や寺院が私有地として広げた土地。
8世紀(奈良時代)------貴族や大寺院が、自ら開墾した墾田地系荘園
10世紀(平安中期)-----国司が荘園を管理して、荘園主と対立し、武士が発生する
11世紀~(平安後期)---雑役免系荘園・寄進地系荘園・国免荘・官省符荘と
不輸不入の権
(2)8世紀、初期の荘園
【奈良時代の荘園】
8世紀の奈良時代では、口分田が不足した723年に、新しく開墾した土地は
三代だけ権利をもてる『三世一身法』が出された。
743年には、開墾した土地の所有を永年認める『墾田永年私財法』が出た
結果、貴族や寺院や豪族が、農民を使って開墾した私有地(荘園)を広げていった。
これら自ら開墾を指導した荘園を「墾田地系荘園」とよぷ。
開墾が金持ちに有利だったのは、開墾に必要な鉄製の農具が、官位を持つ貴族にのみ、
朝廷から半年ごとに支給されたためである。官位によって、鍬の本数がかわる。
(官位一位---140本/半年 官位二位---100本/半年 など。)
【平安中期の荘園】
10世紀の平安中期ごろには、金持ち同士で土地を奪い合った結果、
口分田の公地の農地や、共有の山川までも、荘園に組み込まれていくようになる。
次第に、皇室までも荘園を持つようになり、天皇の名のもとに開墾した地を
「勅旨田(ちょくしでん)」といい、役所が開墾した地を「公営田(くえいでん)」
とよぶ。
こうして荘園が増加すると、税収が入らず、国の財政が逼迫していく。
分け与えられた口分田は、公地に戻らず、農民の間で世襲されていった。
また、公地の土台であった戸籍制度は、国司の怠慢により、虚偽内容が横行し、
制度そのものが成り立たなくなっていた。
(2)国司と受領
【国司】
朝廷は、地方の班田収受や律令を維持する為に、朝廷から4~6年の任期で
国司を任命して、地方自治と律令の維持を任せた。
国司には「守もり」→「介すけ」→「掾じょう」→「目」の四等官の階級がある。
【遥任国司(ようにんこくし)】
国司の最高官位の「守」は高級貴族で、基本、都に居て現地には赴任せず、
代わりの者や、下の位の者が現地赴任した。
京に残って、赴任しない国司の事を、遥任国司(ようにんこくし)という。
【受領(ずりょう)】
現地赴任する国司の中の、現地最高責任者を受領ずりょう という。
国衙の実質的な最高権力者として、権力と財力を蓄えていった。
国司の最低位「目」の代わりに、現地赴任する者を「目代」という。
国に一定率の税を納めれば、あとは自分の私財とできたり、
班田収受がなりただず、徴収した税を、我が財産として蓄財するなどして、
国司、受領は、豊かになることができた。
【勘解由使(かげゆし)】
国司の不正をチェックする機関として設置されたのが、勘解由使(かげゆし)である。
国司交代の際に、厳しくチェックし、引継ぎを厳しくした。
【地方に居つく国司・受領】
地方に居ると、徴収した税を我が物にするなど、莫大な財産を得る事が出来るうえ、
京に戻っても、中央官僚は藤原氏が独占しており、中央に職を持てない貴族達は、
国司の任期が終わっても地方に留まって、地方豪族として棲みつく者がでてきた。
のちに武士として活躍する平家・源氏もこうして地方に定着した貴族である。
地方国司がいかに裕福であったかは、『今昔物語』の「いもがゆ」によく顕れている。
ある中央官僚が「いもがゆを腹いっぱい食べたい」ともらしたところ、たまたま
地方から上京していた、越前国司の藤原利仁が、官僚を田舎に招待し、
いもがゆを腹いっぱい御馳走した、という話である。
(3)不輸の権、不入の権
10世紀半、荘園の権力が増大していく。
【荘園の寄進】
権限を強くした国司に対抗して、税の免除する方法として編み出された策が、
有力寺社や、国司より位の高い貴族に、自分の荘園を寄贈し、
その貴族へ直接税を上納して、保護を受ける方法であった。
有力寺社へ荘園を寄贈-----------雑役免系荘園
有力権力者へ荘園を寄贈---------寄進地系荘園
国司によって免税をうけた荘園---国免荘(こくめんのしょう)
中央政府によって免税をうけた荘園---官省符荘(かんしょうふしょう)
【不輸の権】
有力寺院、有力者の荘園、朝廷より正式に認められた荘園は、
租庸調の税を出さなくていい、という権利。経済的独立。
【官省符荘】
太政官、民部省の正式な許可を得て、免税の権利(不輸の権)を得た荘園。
この太政官が、藤原摂関家の事で、藤原家に荘園を寄進することで、不輸の権を
簡単に受けることができた。
【立券荘号】
不輸の権を受ける為の手続き。
領主の申請があれば、朝廷が現地に使者を派遣して、券文(証明書)を作成する。
この免税権利の為、藤原北家に荘園を寄贈するのが一番効果的であり、
藤原北家は、最大の荘園領主となっていく。
【不入の権】しかし、こうした有力貴族の荘園にも、「検田使」が調査に入るようになった為、
藤原北家に依頼して、検田使の荘園立ち入りを禁ずる権利を得た。
これを『不入の権』という。
『不輸・不入の権』を持つ荘園が、「完全荘園」で、藤原北家の荘園がそれであった。
(4)藤原北家の繁栄
朝廷で一人勝ち状態だった、摂関家である藤原北家は、国家の財政難の傍らで、
荘園制度によって、巨万の富を築き上げていく。
低級中央官僚でいるより、地方国司になった方が、富が手に入る為、
藤原北家に貢物を持って、国司に任命してもらえるよう頼みにいく。
↓
願い叶って国司になれば、税を免除してもらう為に、荘園を寄贈したうえで
上納税を藤原家に払う。
↓
何度も国司に任命してもらえるよう、藤原北家に依頼する
↓
中央官僚も、地方国司も、地方領主も、藤原北家に対して、
こぞって我先にと、贈物を届けに来るようになる。
↓
京に残った国司(遙任)は、藤原北家の経済的支援を主な仕事として働く。
↓
藤原北家は、地方からの賄賂の資金と、朝廷トップとしての資金の両方を握り、
また生活費などは国司からの貢物で賄い、巨万の富を築いていく。
国の財政が荘園によって圧迫され、官に禄(給与)を出せず、
貴族は、自分の荘園からの収入に頼らざるを得ないという悪循環。
しかし、荘園での私腹を肥や過ぎると、国の財政が傾く為、
藤原氏は難しいバランスでの政治が必要であった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます