goo blog サービス終了のお知らせ 

れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
☆は山川出版「詳細日本史研究」に対応しています。

平安前期 11章-5 「57代陽成、58代光孝と、藤原基経」

2013-11-05 | 平安時代
(1)藤原北家3番手、藤原基経
史上初の「関白」職をつくり、就いた人物

朝廷内での権力を一手に握った「藤原良房」だったが、跡をとる息子がなかった為、
兄「藤原長良」の四男「藤原基経(もとつね) 」を実質上の後継者とした。
良房の摂政路線を継ぎ、史上初の「関白」という役職を作り、就いた人物である。

858年・・・清和天皇即位(叔父藤原良房が摂政)
872年・・・藤原良房没、藤原基経が清和天皇の摂政を引き継ぐ
876年・・・孫の陽成天皇即位
884年・・・光孝天皇即位、事実上の関白となる
887年・・・宇多天皇即位、正式に関白の職を受ける
888年・・・[阿衡の紛議]
891年・・・藤原基経、没




(2)第57代 暴君 陽成天皇
平安時代のサイコパス

876年、清和天皇は27歳で突然「貞明親王」に譲位して仏門に入った為、
生後3か月で皇太子になった「貞明親王」は、9歳で「陽成天皇」として即位する。

陽成天皇は、清和天皇と、摂政「藤原基経」の妹「藤原高子」の子である。
高子は、在原業平との大恋愛があったが、離縁させて、清和天皇に嫁がせている。

清和天皇に続いての9歳での即位なので、引き続き「藤原基経」を摂政とした。

882年に、陽成天皇が元服すると、基経の摂政の役目が必要なくなった頃、
陽成と基経は仲たがいをし、基経は政治をボイコットして、邸から出て来なくなった。
生来やんちゃで乱暴者だった陽成天皇とは、気があわなかった説と、
陽成の母で、自身の妹である「高子」との確執説がある。

幼少期、三種の神器の剣を抜いて暴れる。
宮廷内で、30頭の馬を飼ってのりまわした。
小動物を殺す。などの寄行はあったが、決定的になったのは、
宮内で、乳母の子「源益(みなものとすすむ)」を撲殺した為、
翌年、17歳(満15歳)で、基経によって退位させられた。

『愚管抄』には、「物の怪による災いが酷く、狂気のふるまいは
言葉にできないほどだった」と記それており、
裸にした囚人を射殺したり、縄で縛った女官を溺死させたりという
サイコパスな逸話も残るが、どこまでが真実かはわからない。

即位から8年後の17歳で退位したが、上皇歴は65年と天皇史上最長で、
宇多天皇を「あれはかつて私の侍従だった」と言った、と残る。


【元慶(がんぎょう)の乱】
878年、全国を大規模な飢饉が襲った時、かねてからの秋田城司の悪性に
不満を抱えていた、出羽国(秋田県~山形県)の「俘囚(ふしゅう)」が、
秋田城を襲う反乱に出た。これを【元慶の乱(がんぎょうのらん)」と言う。
「藤原保則」が苦難のすえに、平定している。

※俘囚とは、朝廷の律令に服従している蝦夷の事。

(2)第58代光孝天皇
自炊する質素な天皇

2代続いての幼帝の後は、55歳の光孝天皇が即位する。
孝光天皇は、仁明天皇の子であるため、三代も前の天皇に遡ったことになり、異例の人事である。
それより、基経の娘の産んだ「貞辰親王」の方が自然であるが、基経は、わざと藤原氏の血縁で
ない天皇を立てることで、政治第一の立派な人物であることをアピールした、と考えられる。

数いる親王の中より、清貧、政治に興味のない文化人で、野心のない清楚な人柄を見込んで、
摂政であった藤原基経が抜擢した。

政治に興味のない、年老いた光孝天皇にかわって、
政治のいっさいを取り仕切っていたのは、もちろん摂政、藤原基経であり、
結果的に、基経は、天皇成人後も藤原家が政治を取り仕切る仕組みを完成させた。

『徒然草』によると、即位後も以前とかわらず、自炊していたので、戸が薪のススで
黒くすすけていた。光孝の御所が「黒戸」と呼ばれていたのは、その為である」とある。
即位後わずか4年で死亡する。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿