れきしぱうち

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平安中期 12章-6 「延喜・天暦の治」☆

2013-12-06 | 平安時代
(1)延喜・天暦の治の流れ
900年代に行われた、醍醐、村上天皇による、最後の公地公民への政策である。

崩壊していく公地公民制度、律令制度を取り戻すべく、
合計3回の天皇親権による政治政策がとられている。

①【寛平の治】-----宇多天皇と菅原道真による、律令回帰への政策。
②【延喜の治】-----醍醐天皇と藤原時平による
③【天暦の治】-----村上天皇

と流れが続いており、ここでは900年代は②と③について。

902年----『延喜の荘園整理令』を出し、公地公民、班田収受の再建をはかる。

902年-----『延喜格式』の編纂、『日本三代実録』の再編

914年----12年に1度の班田収受が、天候不順、荘園の乱れの為行われず。
     醍醐天皇が『意見封事(いけんふうじ)』を提案する。
     国司の権限を強めて、私営田領主に対抗した。

988年-----尾張国「藤原元命」の悪性を訴える『解文』が出る。

天皇親政の理想的良政とうたわれた【延喜・天暦の治】であるが、
実際は、班田収受の本格的な崩壊による、古代律令政治の限界を
思い知った時期である。

(2)延喜の治
延喜の治とは、醍醐天皇による天皇親政の治世のこと。
延喜は、醍醐天皇時の元号。

【戸籍制度の崩れ】
調と庸は、男子にしか課せられない為、作為的に戸籍に男子を少なくし、
実態と戸籍がかけ離れたものになっていた。
その為、戸籍を基とする、班田制がなりたたなくなっていた。

【左大臣 藤原時平】
摂関をおかない天皇親権といわれているが、実際の政務は、
左大臣「藤原時平」が執っていた。
時平は、妹の隠子を醍醐天皇の中宮としており、天皇との親戚関係はあった。

基本的に、宇多天皇の「寛平の治」を引き継いだ、
公地公民、班田収受の律令回帰を目指している。
最期の律令制のあがき・・・でもある。

【延喜の荘園整理令】
902年に出された荘園の禁止令で、「院宮王臣家」と呼ばれる
天皇に非常に近い貴族の荘園を禁じた。

→しかし、朝廷トップの藤原家が最大の荘園主であるこの時代、
令には「諸国の妨げとならない荘園は認める」との例外規定があったため、
その例外を根拠として、むしろ堂々と荘園が拡大されていった。

【延喜格式の編纂】
格式とは、律令法の補助法令であり、醍醐天皇が、藤原時平に命じて編纂させた。
「三大格式」の最期の1つ。(弘仁格式・貞観格式・延喜格式)

【日本三代実録の再編】
宇多天皇が、編纂を命じた歴史書で、「六国史」の6番目。
宇多天皇、菅原道真不在となり、中断していた作業を、
醍醐天皇が藤原時平に命じて、作業再開させて完成させた。

【意見封事】
醍醐天皇が、部下の意見を直接聞く制度を発案した。
本人が手紙を密封して、太政官外記局に出すと、
そのまま天皇に届き、天皇自らが封を解く制度。

この制度をまともに使ったのは、914年、文章博士だった「三善清行」くらいであり、
12か条にも及ぶ手紙で、現行の政治の問題点を天皇につきつけている。


→この意見書には、三善清行が国司にっなった備中(岡山県)の
とある村の実態をあげて、この村は7世紀には2万人もの兵が集まる人口が
あったが、8世紀に税を支払っている者は1900人程、9世紀には70人ほど、
三善が赴任した9世紀末には、税を負担する者はわずか9人であったが、
その9人も次の国司のときには、とうとう0人となった。
村人がいなくなったのではなく、全て荘園の民として、荘園に税を払っている、
とのことであった。
この手紙は、いまだに宮内庁に保管されている。

(3)天暦の治
村上天皇らよる天皇親政で、父醍醐天皇の『延喜の治』を手本とした。
延喜の治で、権力強化した国司の横暴を取り締まる令が多い。

【天暦の治】
・950年、税(調庸雑物)の量に基づく、受領の功績評価

・963年、税の期限内納入を厳格化

・宣命、勅、叙位下名などの部類選集を「内記局」にさせる

・任期を過ぎても交代しない国司を罰する

・受領や郡司に、帯刀を許可する

・966年『新儀式』が出来る

(4)国司の権限強化
公地公民、班田収授が事実上立ち行かなくなっている事に対し、
朝廷は、方向転換せざるをえなかった。

醍醐天皇と藤原忠平は、地方での権力を強大にする私営田領主(荘園主)に対抗して、
国司の権限を強化させた。

それまでは、中央から派遣された国司が行政にあたり、
税の徴収は地元の郡司がしていたのだが、郡司が荘園主と手を組んでいった為、
中央から派遣した国司に、税の徴収と納入を請け負わせ、一国の統治を任せた。
朝廷は、儒教的、道徳的な考えを持つ官僚を選抜し、地方の立て直しを任せた。
こうした、素晴らしい人材を「良史」とよんだ。

これにより、国司の役所であ 国衙(こくが) が、地方拠点として、
重要な役割を持つようになる。

(4)国司の横暴
しかし、国司の権力を強化した事で、今度は国司が利益をむさぼっていくようになった。

【受領(ずりょう)】
任国に赴任した国司のうち、最上席の長を受領と呼ぶ。
中央では、五位か四位程度の身分の低い官僚であったが、
いったん地方ではトップに立ち、巨利をあげる事ができる立場となった。

【成功(じょうごう)】
国司に選任してもらえるよう、藤原摂関家など有力者に対して、
私財を出して、朝廷儀式や、藤原家邸、寺社の建築を助け、
その見返りとして、国司の地位を得ること。

【重任(ちょうにん)】
同じ国の国司に、何度も任命してもらうこと。

【遥任国司(ようにんこくし)】
国司に任命されたにもかかわらず、自分は中央にいて、かわりに
「目代(もくだい)」と呼ばれる使者を地方に派遣して、一定の収入をえる者。


(5)国司の悪政を訴える農民
『今昔物語集』や『小右記』には、国司の暴挙ぶりと、それを訴える農民の様子が
たびたび描かれている。

【解文(げぶみ)】
地方郡司や、百姓達が、無謀を働く国司の事を朝廷に訴えた文書の事。

①988年の『尾張国 郡司百姓等 解文』は、
尾張守であった藤原元命は、田の面積の何倍もの税を徴収する、
利息を追徴する、法外に安く買い叩く・・・
などなど暴挙を、農民達が31か条もの訴状にして、朝廷に訴えた。
元命は国司を解任されたものの、特にこれといったお咎めは受けてはいない。

②信濃守 藤原陳忠
受領の貪欲さを物語る話として、藤原陳忠が、事故で谷に落下したが、
はいあがる途中に、崖のはえていた平茸を採ることを忘れなかった。

③大宰府 藤原惟憲
持つ財宝は数わ数える事もできず、九州2島の物を底ざらいに剥奪していった。


(6)国司に対する法令
【国司への規制】
①遙任の禁止----------任地に赴任せず、代理の者を現地に派遣することを禁止。

②帰国を促す----------任期を過ぎても交代、帰京しない国司を罰する。

③税の納入期限の厳密化

④納税量による、国司の評価

【地方機関の整備】
税所(さいしょ)、調書(じょうしょ)、修理所、厩所などの機関が整備される。

【地方に対する役人の配備】
検田使(けんでんし) --------田の検査、測定をする役員。荘園の検査、測定もした。
検非違使(けびいし) --------違法を検察する天皇の使者の意味で、治安維持の役人。
追捕使(ついびし) ----------反乱鎮圧の為の、軍事的役割の役人。

押領使(おうりょうし) ------地方警察の役割。国司、郡司の中で武勇に秀でた者が兼任した。

収納使(しゅうのうし)

(7)破綻する延喜・天暦の治
しかし、朝廷の第一人者である藤原北家の荘園での権力が止まらぬことには、
荘園拡大を禁止する法も無力であった。

国司の権限強化は、受領を歴任する階層が固定化し、受領が豊かな私財築くという矛盾を生んでいき、
また豊かになり、武力を持った地方豪族の、朝廷に対する反発を招くことにも繋がっていった。

都での権力争いの影で、地方自治は確実に揺らいでいった。

藤原摂関をおかずに、天皇親政を執った「醍醐天皇」と「村上天皇」は
必死に律令制度へ戻す努力を続けたが、体制の崩れを戻すことはついに出来ず、
「律令国家」から、土地を有する者の支配階級で出来た「王朝国家」へと、
変換を遂げていくこととなる。

(8)11世紀の国司と荘園
その後、11世紀後半になると、受領は京に住み、藤原摂関家に使えて、経済的奉仕をすることが、
主な仕事となっていく。

管轄する現地には、受領が派遣した「目代」が「留守所(るすどころ)と呼ばれる機関を国衙につくり、
目代が、地方豪族から地方役人を選んで、地方自治にあたるようになる。

こうした地方役所を在庁(ざいちょう) といい、地方役人を在庁官人ちいい、世襲された。




山川出版「詳細 日本史研究」第3章-3「荘園と武士」P111~
中央公論社「マンガ 日本の歴史」9巻、10巻

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