れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
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飛鳥時代 8章-7 「白村江の戦い」

2013-08-07 | 飛鳥時代
(1)中大兄王の称制

・661年、生母「斉明天皇」の死後、中大兄皇子は即位せずに政治をする「称制しょうせい」をとった。
大王位不在の朝廷を取り仕切る側近には、内臣に「中臣鎌足なかとみのかまたり」、
右大臣に「蘇連子そがのむらじ」、そして弟の「大海人皇子おおあまのおうじ」がついていた。


(2)大陸での動き

・6世紀~7世紀の朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の3県が大きな力を持っていた。
その中で倭国は、朝鮮に「任那」という直轄地を持ち、ある程度の勢力を持っていたが、
562年に、新羅によって滅ぼされた。

・中国は、628年に唐が中国統一を果たした後、朝鮮半島に攻め入り、高句麗と百済が
唐に対抗し、新羅は積極的に唐の属国となった。

・660年、唐と新羅連合軍(新羅は属国として)が、百済に攻め入った。


(3)白村江はくすきえ、はくそんこうの戦い

・倭国は、親交のあった唐と、同じく古くなら親交のある百済との間で揺れるも、
百済からの救援要請に応じた。

662年、日本に人質として長く住んでいた「百済王子、余豊璋よほうしょう」を
百済に護送する為に、第一陣の兵を出す。

663年にも、さらに大援軍を、百済の周留城の近くの、船便の良い「白村江」へ
送っている。この時のことを、朝鮮の『三国史』は
「この時倭国の船兵来たり、百済を助ける。倭船千隻が白村江に停まる」と記す。


戦いは、百済・倭国連合軍対唐・新羅連合軍であったが、唐の戦略に倭国は大敗する。
『日本書記』によれば、「日本の多くの将と、百済の王は、先に争いをしかけるが、
彼等は自ずから退いてしまう。そうしている間に、唐の船が左右から挟み打ちし、
倭国の軍敗れる。
水に身を投げて死ぬ者多し、船を旋回させることも出来ず。」と記されている。





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